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相田みつを

〔あ〕の著名人 青山剛昌 青木周蔵
相田みつを 浅井慎平

プロフィールバー ◆〔相田みつを〕のプロフィール。
俗称・筆名  相田 みつを
本名  相田 光男
生誕  1924年(大正13年)5月20日
死没  1991年(平成3年) 享年67歳
出身地  栃木県足利市
最終学歴  旧制栃木県立足利中学校、関東短期大学夜間部国文科卒(1953年) 
職業  書道家、詩人、イラストレーター
ジャンル  文筆家
活動
 1942年
(昭和17年)
18歳高校卒業後、歌人・山下陸奥に師事、歌詩「一路」に参加、禅僧・武井哲応老師と出会い禅を学びはじめる。書は書家・岩澤渓石に師事する。
 1945年
(昭和20年6月)
21歳 召集され宇都宮連隊で通信兵として終戦を迎える。
 1954年
(昭和29年)
30歳 第6回毎日書道展初入選、以後連続7回入選、初個展を足利市で開催、以後20回個展を開催する。
 1955年
(昭和30年)
ろうけつ染めの技術を習得、暖簾、風呂敷等の制作をはじめる。包装紙やしおりのデザインも手がけはじめる。
 1966年
(昭和41年)
 足利市八幡町にアトリエをつくり、終生ここで制作活動を行なう。
 1974年
(昭和49年)
 在家の仏教活動として「円融会」結成《円融便り》を1990年まで発刊する。
 1984年
(昭和59年)
 初めての著書《にんげんだもの》を発刊ミリオンセールとなる。
 1991年
(平成3年)
 12月17日 
足利市で永眠67歳
代表作 〔作品〕
 『にんげんだもの』(1984年)
 『おかげさん』(1987年)
 『ひとりしずか』(2001年)

〔関連図書〕
 『相田みつを肩書きのない人生』 相田一人著

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相田みつをの写真 
(出典:CREATIVEな人たち!)
 
 相田みつをは1924年(大正13年)足利市の名刹・鑁阿寺(ばんなじ)の近くで生まれる。日本最古の学校・足利学校も近くにある。足利市は足利幕府を築いた足利尊氏の育った町ゆえ、伝統と知的レベルの高さを感じる。

 相田みつをは旧制足利中学校在学中から書や和歌、絵に親しみ、卒業すると、書家をこころざし、岩沢渓石に師事、書の基本を習得する。23歳の時、「鄭文公碑」を臨書し全国コンクールに応募し一席になる。その後書の最高峰の一つとされる毎日書道展に1954年(昭和9年)から7年連続入選し、プロの書道家を目指していた。また旧制中学卒業後、和歌を歌人・山下陸奥に、禅を曹洞宗高福寺の武井哲応に学ぶ、1953年には関東短期大学夜間部国文科を卒業する。
最初のアトリエの相田みつを<BR>出展:相田みつを肩書きのない人生p48
〔最初のアトリエの相田みつを
出展:相田みつを肩書きのない人生p48〕
にんげんだもの 相田みつを著
〔にんげんだもの 相田みつを著〕

 1954年(昭和29年)、第一回書道の個展を足利市で開催。この年商家の娘・平賀千江と歌会で知り合い結婚する。一男一女をもうける、相田美術館館長の一人氏は長男。昭和34年以降毎年のように個展を開催した。

 専門家でなければ理解できない書道界のあり方に疑問を持ち、30歳の頃から、他の人の字は書かず、自分の詩・ことばを書くことに徹し、みじかく平易な独特の作風を確立した。昭和41年足利市八幡町にアトリエをつくり終世この地で創作活動を行なう。1955年(昭和30年)ろうけつ染めを学び、ろうけつ染めや地元商店街のデザインを請け負うなどで生計をたてていた。
日めくりカレンダー類
〔日めくりカレンダー類〕
(逢う)の暖簾
〔(逢う)の暖簾〕

日めくりカレンダー類
〔@@@〕
 1954年(昭和29年)、第一回書道の個展を足利市で開催。この年商家の娘・平賀千江と歌会で知り合い結婚する。一男一女をもうける、相田美術館館長の一人氏は長男。昭和34年以降毎年のように個展を開催した。

 専門家でなければ理解できない書道界のあり方に疑問を持ち、30歳の頃から、他の人の字は書かず、自分の詩・ことばを書くことに徹し、みじかく平易な独特の作風を確立した。昭和41年足利市八幡町にアトリエをつくり終世この地で創作活動を行なう。1955年(昭和30年)ろうけつ染めを学び、ろうけつ染めや地元商店街のデザインを請け負うなどで生計をたてていた。

 幾多の挫折を乗り越えての《いのちの叫び》を作品につづり、読む人見る人に感銘をあたえるのが、相田みつをの特長となっている。

〔錦織圭は《相田みつをの言葉》が好きだ〕
 
 錦織圭が全米オープンテニスで96年ぶりに決勝に進出し、話題をよんでいる。テニスは心の持ちかたが勝負を左右する。 錦織圭は相田みつをの《一生燃焼、一生感動》という言葉に感銘を受け、《生涯をかけて燃焼させるものをテニスと決めた》、そして13歳で渡米、言葉がわからなくていじめにもあう、そのような時に《みつをの言葉》に救われたのだろう。

 先般、相田みつを美術館館長の相田一人氏の講演会を聞くチャンスをえた。一人氏はテニス歴40年で評論家になれるくらい多くのテニス試合を見ているという。講演会でも錦織圭の試合風景やことばをまじえ、映像をみせながら、面白おかしくテニスの話をされた。錦織フィーバーにより「みつを作品集」も受注が急増しているという。
錦織圭
〔錦織圭〕出典:ウイキペディア
出展:相田みつをポストカード
出典:ウイキペディア

〔相田みつを美術館は東京のど真ん中にある。〕
 
 《相田みつを美術館》は東京駅の京葉線(東京ディズニーランドに行く線)の丸の内口を出て、東京国際フォーラムのエスカレーターを上ると1分で美術館第一会場正面に着く。便利なので私も良く立ちよる、入場者数が一番多く、リピート客も多い美術館と聞く。

 興味ある企画展も良くやっている、最近は《坂村真民と相田みつを》の合同企画展が開催された。2人は共通点も多く、この企画展は興味をもって見た。
相田みつを美術館第一ホール
〔相田みつを美術館第一ホール〕
相田みつを(左)と坂村真民
〔相田みつを(左)と坂村真民〕

 2人とも仏教哲学にもとづいた自分の言葉を詩で表現し、オリジナルな書を書いている。そして2人とも地方で生涯を過した。みつをは栃木県足利で、真民は愛媛県砥部で生涯を送る。生きた時代も比較的近い。坂村真民の記念館は砥部にある、ぜひ訪ねたいところである。

 東京駅の《相田みつを美術館》の客数が多いのは、それなりに工夫をこらしている。ネットでクーポン券を求めてゆくと300円引きの500円で見られる、70歳以上も500円、入り口はいると黒い井戸があり、中を覗くと“じわーと夢”という文字が出てくる。展覧会場の入り口には、メモ用紙と下敷き、鉛筆が用意され、 好きな言葉のメモが取れるようになっている。
美術館の通路
出典:美術館の通路
美術館の喫茶コーナー
〔美術館の喫茶コーナー〕

 美術館を見終わると喫茶コーナーがある。ただ作品を見るだけでなく寛ぎの喫茶店で、余韻を楽しむ要素が必要という館長の考えがある。

 ショップコーナーでは《相田みつを作品》が展示、販売されている。 日めくりカレンダー、書籍、一筆箋、スタンプ、ポストカードなどアイディア商品がいっぱい並んでいる。入場料収入より、オリジナルグッヅ収入の方が多いという。 相田みつをの言葉を名詞にいれるサービスもしている。

 講演会も定期的に実施し美術館の会員3500が支えている。接客教育にも力を入れている。館長のマーケティング力に感心する。
美術館のオリジナルショップ
〔美術館のオリジナルショップ〕

〔相田みつをの故郷は足利〕
 
 相田みつをは大正13年(1924年》鑁阿寺((ばんなじ)の近くに生まれ育つ。この本堂は資金国宝に認定された。この寺には何度か参拝しているが、広大の境内は古刹の雰囲気があり、足利氏の歴史をひしひしと感じる。近くにある足利学校は茅葺の建物で儒教を教えていたので、今でもやさしく筆でかかれた《小冊子・論語》を販売している。以前これを求め、今でも愛用している。

 この寺の大木の根が詩になっている。相田みつをの育った環境は古刹や足利学校に囲まれた地ゆえに、仏教に深く帰依する事になったのかもしれない。
足利氏の氏寺・鑁阿寺本堂は国宝
〔足利氏の氏寺・鑁阿寺本堂は国宝〕
足利学校の門
〔足利学校の門〕

〔《相田みつを肩書のない人生》  という本〕
 
《相田美術館の館長》である。相田一人氏の著書「相田みつを肩書きのない人生」では相田みつをの書を解かりやすく紹介している。書かれた時の状況やその思想もわかる。この書を参考にして《相田みつをの書》を 鑑賞してみたい。
肩書きのない人生
〔肩書きのない人生〕

〔若いときに、相田みつをは伝統的な書をマスターしている〕
 
 ここに掲載している若きみつをの楷書を見てほしい。相田みつをは18歳で書家・岩澤渓石に師事し、軍隊に行く前に楷書でしっかりとした字を書いている。小さい時から字を書くのが好きで、無我夢中で勉強し、2〜3年でこの書をかいたというから、人並み優れた才能があったといえよう。 この書の署名は光男となっている。戦後世の中が一変したのをみて、「これからは、漢字の時代は終り、平仮名の時代がくると予感し《光男をみつを》に改めたという。

 昭和23年の全国コンクールに応募し一席に入選した作品が《鄭文公碑》の臨書で、1260字に及ぶこの碑文臨書をみると、精神をこめて書く相田みつをの姿が目に浮かぶ。
全国コンクール一席受賞の鄭文公碑臨書
〔全国コンクール一席受賞の鄭文公碑臨書〕
20歳頃のみつをの楷書
〔20歳頃のみつをの楷書〕

みつをのオリジナル書
〔みつをのオリジナル書〕
〔自分の詩を自分の書体で 独自のアートをつくる〕
 
 人の詩や言葉を書くのは30歳までで、それ以降は自分の書、自分の詩を書く《 音楽で言えばシングソングライターになった》と一人氏は解説している。   《自分の詩にふさわしい字とは何かを追求する》、ここから相田みつをの試行錯誤が始まる。同じ字を書いても年代に応じ変化している、ここで四弘誓願文 の楷書、行書、みつをの書を比較し鑑賞してみよう。
みつをの草書     みつをの楷書
〔みつをの草書     みつをの楷書〕

 右の楷書はきれいな字だ、真中の草書について“みつを”は《自分はプロの書家だから書こうと思えばこういう字もかける》、ただ、うまいなあと感心してくれても、《素晴しいなあ!》と感動してくれない。相田みつをは書の伝統を踏まえ独自の書は追及した。左の書が技術を越えた《相田みつをの書》なのだ。 相田みつをは若い頃剣道が強かったという。剣道や芸の教えに「守・破・離」ということばがある。守は伝統的な型を修行する段階、破は伝統を破る段階・離は自分の世界をつくる悟りの段階と教えられた。相田みつをの書は《離》に到達したもので、見ればみるほど味があり深い。

 《自分の書に求めるものが深くなればなるほど迷いも深くなる、これでいいなんて書は1点もない》がみつをの口癖だったという。

〔二人の兄の戦死、残された家族は戦争の犠牲者〕
 
 相田みつをには2人の兄がいて、とても仲がよく渡瀬川で魚を捕り、水遊びをした。その2人の兄は若くして戦死した。母の悲しみは《ひぐらしの声》やいろいろの詩に現れる、2人の兄を失った母の愛はみつをに注がれ、それが嫁との確執をよび、みつをもそのあいだにたち悩む。そのような葛藤が相田みつをを苦しめ、その中から沢山の詩が生まれている。

相田みつを肩書きのない人生より、挽歌の業
〔相田みつを肩書きのない人生より、挽歌の業〕
〔相田みつを肩書きのない人生より、ひぐらしの声〕

〔常に書の工夫をし、真剣勝負〕
 
 相田みつをの字は誰でも読め、やさしく書いているから、《こどものような字》とよくいわれる。 しかし、そうでなくは綿密な計算をしている、どこを漢字にしてどこを平仮名やカタカナにするかシュミレーションを何度もなんども試みている。

 相田みつをは書をかく場合、練習用の紙を使わなかったという、生活が苦しい中でも本番の紙をつかい,失敗した紙が山となっていたと、一人氏はいう「何枚も何枚も書いていく中で、どの時点でいい書がかけるかはわからない、もしうまくいったとき、練習用の悪い紙だったら、作品として仕立てることができない。だから、自分は常に本番用の紙しか使わない」
〔失敗した紙の山〕出展:相田みつを肩書きのない人生より、
〔〔失敗した紙の山〕
出展:相田みつを肩書きのない人生より、〕

〔一生感動一生青春の原点〕
 
 今秋の美術館展示テーマは《一生感動一生青春》である、この言葉の原点はワーズワースの詩「虹」にあると解説している。

  My heart leaps up when I behold a rainbow. In the Sky
So was it when my life began. So it now I am a man
so be it. When I shall grow old.   ウイリアムワーズワースの詩「虹」

訳:空にかかった虹をみると私の心は高鳴る 幼い頃も
   今もそうだ、年老いてからもそうありたい

 一生感動一生青春の言葉の原点がここにある。旧制中学の英語で習ったこの詩を暗唱していた、父が恐れていたのは感動がなくなると「馴れ」になる。馴れることで感動が抜け落ちるのを危惧していた。感動のない商店の看板などは書かなかった。
〔渡良瀬川の相田みつを〕出展:肩書きのない人生 より
〔渡良瀬川の相田みつを〕
出展:肩書きのない人生 より

〔自分の体験から自分の言葉を書いている〕
 
 相田みつをは息子・相田一人氏に語る《誰かが作った詩や短歌に感動したとして、それを書にしても、作者の思いと自分の感動は一致しない、だから、お父さんは自分の言葉しか書かない。たとえどんなに拙いものであっても、そこに嘘がないから》。

 書家は様々な字を書くが、自分で詩を作るひとは少ない、詩人は詩を創るが自分で書く人は少な い、相田みつをは《書という造形の世界と、詩という言葉の世界》をマッチングさせ、生涯その道を歩き通した。私たちは詩人でないから自分の言葉で感動を表現できない、それゆえに、みつをの言葉はすごいと思う。
相田みつをのオリジナル書
〔相田みつをのオリジナル書〕

〔相田みつをのプロの定義〕
 
 プロと名乗る以上は3回以上個展を開いていないといけない。 3回以上個展を開いている人間をプロという。

 第一回目は皆が祝ってくれ、お祝い代わりに作品を買ってくれる、義理買いだ、二回目は一回目に買わなかった人たちが、今度はお付き合いをするかと買う、これも義理買いだ、3回目は作品に力がないと見向きもされない、厳しいがそれが現実だ。 確かにどの分野でも当てはまることだ。

〔麗老は みつをのオリジナル造語〕
 
 麗老 は相田みつをが晩年愛した言葉だ。麗老を徹底的に調べたが字引になかった。一人氏は“みつを”の造語といっている。確かに麗人、麗妹はあるが麗老は広辞苑にも、新字源にもない。

 相田みつをは《人間の後ろ姿はごまかせない 後ろ姿は無意識だからその人の全部が出てしまう》といい、N先生の思い出を次のように書いている

 『N先生の後ろ姿の気高いこと、N先生のうしろ姿を見ているうちに、私の心の中に麗老…!! という言葉が浮かんで来た、字引きにもないだろう、なくてもいい、自然に出てきたことだから、戸籍上のお年はもう70をすぎているかと思うが、N先生のうしろ姿には少しも老いを感じない、ハツラツとして充実したうしろ姿 これこそ玲瓏だ、年を取るならN先生のようでありたい、秋の渓谷の彩る絢爛たる紅葉のように、夕焼け空を背景に白銀に輝く藻のように枯れてもなお美しくありたい、そしていつまでもどこでも感動を忘れぬ人間でありたい。 麗老!! 麗老! 麗老もN先生のように』。

 麗老は今の高齢化社会にあっているし、麗老を目標にしたいものだ。
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〔@@@〕

〔道元の正法眼蔵はボロボロ、〕
 
 相田美術館には岩波文庫の『正法眼蔵』(道元著)が展示されている。ボロボロで線がいっぱい引いてあり、座右の書としていつも持ち歩いていたのだろう。相田みつをは在家ながら曹洞宗・道元禅師の教えを生涯学んだ。 『ひとりしずか』の冒頭に「自分をならう」があるので紹介する。

《自分をならう》

 他人から悪口を言われればおもしろくない自分だが

他人の悪口を言う時は案外平気な自分です

12月の初めの朝の寺にきて、 冷える畳に座ったら、

見えた自分の心です

 ああ恥ずかしいことですが、これがほんとうの自分です

ふだんは見えない自分のことが 、座ってみるとよく見える

『仏様の道をならうということはひとごとじゃない

要するに自分をならうことですよ 』  道元さまの教えです。

 相田みつを の詩には 仏教の教えが根底にある。
トイレ用の日めくり作品集:ひとりしずか
〔トイレ用の日めくり作品集:ひとりしずか〕

〔私の好きな相田みつをの言葉〕
 
☆ 道 《歩くから道になる あるかなければ草が生える》

☆ 金あれば便利、無いと不便 便利の方がいいなあ

☆ 夢はでっかく根はふかく

☆ 肩書のない人生
 自分には自慢できる肩書きは一切ない、名刺には相田みつを だけ、父は肩書のない生き方を敢えて選択した、それを捨てる覚悟があった。これを知り 《自分が自分にならないで だれが自分になる》が味わえる、

☆ アノネって入ると、こころの中に入っていける。例 《アノネ がんばらなくてもいいからさ 具体的に動くことだね》

☆ もたない夢は実現しない。だから,まず夢を持つことが大事だ

☆ 生きていく上で、本当に必要なものなら必ず与えられるはずだ

☆ いのちいっぱいじぶんの花を

☆ 自分の番 いのちのバトン  (右写真) 

出展:相田みつを肩書きのない人生より
出展:相田みつを肩書きのない人生より
   ◇相田みつを美術館 の所在地
    東京都千代田区丸ノ内3-5-1
    東京国際フォーラム地下1階
     TEL/03-6212-3200 http://www.mitsuo.co.jp/
                              記:Y. 青木

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