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〔偉人〕

池波正太郎(いけなみ しょうたろう)

 
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プロフィールバー 〔池波正太郎〕のプロフィール
俗称・筆名 池波正太郎
本名 池波正太郎
生誕 1923年(大正12年)1月25日
死没 1990年(平成2年)5月3日
出身地 東京都台東区浅草七丁目
最終学齢 国民勤労訓練所
職業 劇作家、時代小説家、エッセイスト、映画評論家
ジャンル 文学者
活動 鬼平犯科帳、剣客商売、仕掛人・藤枝梅安、真田太平記などの時代小説シリーズで人気を博す。
食・旅・絵等のエッセイまで幅広く活動した。
受賞歴 新国劇の劇作家から「錯乱」で直木賞受賞
紫綬褒章受賞(昭和61年)
代表作 『鬼平犯科帳』
『剣客商売』
『仕掛人藤枝梅安』
『真田太平記』
『雲霧仁左衛門』
『剣の天地』
『江戸古地図散歩』
記念館
言葉・信条

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池波正太郎の写真
(出典:池波正太郎記念文庫)

人生履歴 〔池波正太郎〕の人生(履歴・活動)

 池波正太郎は大正12年1月現在の台東区浅草で生まれ、9月1日に関東大震災に遭遇、やむなく埼玉県浦和の母の実家で過す。6歳で東京下谷の上根岸に戻る。両親の離婚により母の実家に引き取られ、元浅草で祖父と一緒に過す。

 祖父は錺職人で芝居好き、絵画好きで院展は必ず見にゆき、正太郎少年をいつも連れ歩き、芝居と絵画の基礎教育を祖父より受けた。

 昭和10年(1935年)浅草の西町小学校を卒業、12歳から19歳までで日本橋兜町の株式仲買店に勤める。この時期、株も好調で、給料もよく、洋画、芝居、食事等の人生経験をつむ。

 昭和17年(2942年)19歳で国民勤労訓練所を経て旋盤機械工となり、短時間で熟練工の域に達し、人に教えるまでになる。19才で婦人画報に休日を発表、佳作で20円の賞金を得ている。

 昭和19年(1944年)横須賀海兵団に入団、上官の非人間性に抗議し乱打される経験をする。

 昭和20年(1945年)3月東京空襲で自宅を消失、 8月復員、 毛筆で俳句短歌随想を文集として纏める。


〔生活難の戯曲時代〕

昭和21年(1946年) 東京都職員として DDT散布に従事 役所に泊まり、夜は戯曲の執筆をする。「南風のふく風」 で賞金1万円得る、選者は後の師匠長谷川伸であった。

池波正太郎記念文庫入場パンフレットより
〔池波正太郎記念文庫入場パンフレットより〕

昭和23年(1948年) 長谷川伸を訪ね戯作の指導をうける、その後師事。

昭和25年(1950年)27歳で片岡豊子と結婚、駒込に住む、

昭和27年(1952年) 新国劇 「鈍牛」を新橋演舞場で初めて上演される。目黒税務署に転勤、荏原に新居をかまえる。長谷川伸の朗読会に参加する


〔開花期〕

 昭和30年(1955年) 目黒税務署を辞め戯曲、小説の執筆に専念する。
 昭和31年(1956年) 時代小説の第一作 「恩田木工」 直木賞の候補になる。 司馬遼太郎、黒岩重吾とも交流。
 昭和32年(1957年) 「錯乱」で直木賞受賞、38年師長谷川伸逝去 、30年代は短編を多く書く


正太郎の生地に立つスカイツリー
〔正太郎の生地に立つスカイツリー〕
〔流行作家時代〕

 昭和42年(1967年)鬼平犯科帳連載始まる
 昭和47年(1968年)剣客商売、仕掛人・藤枝梅安 連載始まる
 昭和52年(1978年)時代劇作品シリーズで吉川英治文学賞受賞
 昭和54年(1979年)この頃から、欧州特にフランス旅行にでかけ、見て食べて、描いて、旅行もし、「エッセイ」の 連載も始まる。
 昭和61年(1986年) 紫綬褒章受賞
 平成2年(1990年) 急性白血病で急死する。


ゆかりの地 〔池波正太郎〕ゆかりの地など
〔池波正太郎の世界・《鬼平江戸処》が羽生サービスエリアに出現〕

 池波正太郎・《鬼平犯科帳》の江戸情景を再現した《鬼平江戸処》が 2014年の暮れに東北自動車道・羽生サービスエリアの中にオープンした。

 《江戸の街並み》を彷彿させる異次元の世界だ。中に入ると江戸の老舗風食堂とみやげ物屋が軒を連ねている。

江戸情緒ただよう鬼平江戸処
〔江戸情緒ただよう鬼平江戸処〕

 店の名前も鬼平犯科帳に出てくる軍鶏(しゃも)鍋家《五鉄》という懐かしい店もある。
 みやげ物屋も江戸風のものが多く種類も多い。トイレの外観も江戸風、中は綺麗で女性に人気がある。


鬼平江戸処の土産店
〔鬼平江戸処の土産店〕

 この《鬼平江戸処》には池波正太郎ファンは是非立ち寄って欲しいスポットだ。

 新聞情報では、今までの羽生SAより大幅にお客が増えたというデータが発表されているが、高速道路のサービスエリアも各々特長をもったものが、増えつつあり、旅も楽しくなる。

鬼平江戸処の五鉄
〔鬼平江戸処の五鉄〕

記念館タイトル表示 ◆〔池波正太郎記念文庫〕
池波正太郎記念文庫は一階にある
〔池波正太郎記念文庫は一階にある〕
 〔池波正太郎記念文庫を訪ねる〕

 池波正太郎記念文庫は台東区西浅草3丁目にある《台東区生涯学習センター》の1階にある。

池波正太郎記念文庫の入り口
〔池波正太郎記念文庫の入り口〕

 朝顔市で有名な「鬼子母神」の《地下鉄入谷駅》で降り。言問通り沿いを浅草方面に歩いて600m、金竜小学校前交差点角にある。障害学習センターの1階には《池波正太郎記念文庫》と区立図書館が隣接されている。記念文庫には池波正太郎が生前使用していた、大きな机や椅子、蔵書、万年筆や筆、パイプ,帽子、水彩絵の具などの愛用品が並んでいる。

 池波正太郎記念文庫には、代表作 『剣客商売』 『鬼平犯科帳』 『藤枝梅安』 は独立したコーナーが設けられ、ブース中には直筆原稿、や自筆挿絵などが展示されている。


〔池波正太郎記念文庫を訪ねて知ったこと〕

 池波正太郎の作品は今でも毎日のように、TV放映され、本も全集から、漫画、大活字本、映画等で紹介されている。私もこのところ池波正太郎にはまり、毎日1本《鬼平》や《剣客商売》を「時代劇専門チャンネル」でみている。しかし記念文庫を訪ねて知ったことをここに紹介しよう。

その1:フランスの哲学者アランによって目覚めた。

 池波正太郎の使用した書斎の前に正太郎が影響を受けた本として、フランスの哲学者アラン(本名:エミール-オーギュスト・シャルティエ)の書 「精神と情熱に関する八十一章」が展示されている。正太郎は若いとき株屋に勤め、かなり儲けた。金と時間があり随分と遊び映画、芝居を見、これが後に小説の材料になったのだが、正太郎はアランのこの書によって生きかえたったと書いている。

 アランはどんな人だったのか興味を覚え調べた。アランは1866年生まれ、第一次大戦で負傷し入院した際にこの作品を書いたという。現代のソクラテスといわれ《幸福論》とこの《精神と情熱に関する八十一章》が代表作。池波正太郎はこの本をこう紹介している。

 『それまでの私の生活というものはあまり褒められたものではない。分不相応の金が入ってきて、しかも暇がたっぷりあるというのだから、若い身が軟弱になるのは当然のこと。---------人間の心と体のつながりを、これほど楽しく興味深くわかりやすく書いた本を私はしらない』 この本によって正太郎は脱皮したのだ。アランの幸福論ではこんな興味深い言葉に出会あった。

 ☆幸福になろうとする努力は決して無駄にならない。

 ☆幸せだから笑っているのではない、むしろ僕は笑うから幸せなのだ。

 ☆幸福になろうと欲しなければ、絶対に幸福になれない。

 ☆誰だって強いられた仕事は好きでない、好きでやっている仕事は楽しみであり、もっと言えば幸福である。  《仕事は好きでやることが大切》

 ☆力いっぱい戦ったあとでなければ負けたと言ってはなりません。それはおそらく至上命令です。


その2:《鬼平》は自分の文体が熟すまで書くのを待っていた。

 年譜を見ると鬼平犯科帳、剣客商売、必殺仕掛人藤枝梅安、雲切仁左衛門 ほとんど同じ時期に連載を開始している。

 池波正太郎は『昭和35年に直木賞を受賞した頃から長谷川平蔵には目をつけていた。鬼平を小説にしたいけれどすぐには書かなかった。その理由は文体が硬すぎるので、江戸時代の世話物は書けないと思った。そこで自分の思うような文体が出てくるまで温めておいた』と書いている。

 自分の文体が江戸の世話物に合うまで、平蔵の年齢になるまで、待っていたというのだ。

鬼平犯科帳の大文字版
〔鬼平犯科帳の大文字版〕

その3:池波正太郎の通信簿は抜群の成績だ!

 記念文庫には池波正太郎の尋常小学校の本物・通信簿が展示されている。 これを見ると《行操》以外は総て甲である。今で言えばオール5で抜群の成績だったことが解かる。

 唯一乙の《行操》には裏話がある。 池波正太郎は鏑木清方の弟子になり、絵描きになろうとしていたくらい 書画が好きで、この時間を待ち望んでいた、それなのに先生は《書画はやめて地理にする》と変更してしまう。面白くない正太郎少年は一人クレヨンで絵を書いている。先生は怒り、先生の言うことを聞かないから、行儀は乙になったのだと述懐している。


その4:手描き絵賀状を、毎年1000通だしていた。

 記念文庫内に池波正太郎の直筆年賀状が展示されている。毎年の干支を、たとえば《猿年なら孫悟空》で滑稽味のある工夫をこらしている。今の年賀状はパソコンで印刷し、内容も平凡、その人らしさも感じられない無味乾燥な賀状が多い。

 池波正太郎の賀状は誰も欲しいと思う。春までに図案は完成し、夏から秋にかけて1000名の人に、手書きで宛名を書くことを行事としていた。

僕は《人付き合いが良い方で無いからせめて、賀状くらいはと書く、私の年賀状だけは欲しいという人は多かった》という 。私たちもこの心根を大切にしたいものだ。

鬼平犯科帳の大文字版
〔出典:文春文庫「池波正太郎の春夏秋冬」p90より〕

その5:時代小説コーナーには250人8000冊の時代小説が並ぶ。

 池波正太郎の奥さんの意向で、日本の時代小説を一同に集めたコーナーがある。戦前の貴重本から現代の人気作品まで、下記のような分類で保存されている。

 ・さまざまなヒーローたち
 ・仇討ち、騒動もの
 ・講談から大衆文学へ
 ・市井股旅
 ・伝記忍者等

 池波正太郎作品以外の時代小説8000冊、現代までの人気作家250人の作品や資料、研究書が展示されている、もともと時代小説愛好家や研究者に役たてて欲しいと言う池波家の意向から寄贈されスタートし、台東区でも収集したものを加え、時代小説ファンにとっては素晴しい施設だ。


〔池波正太郎の生地浅草寺・雷門〕

 雷門は江戸時代の慶応元年の火災で消失したものを95年ぶりに松下幸之助が昭和35年に再建した。門の裏側には金龍、天龍の立派な仏像がある、この作者は《ゆい偉人館でも紹介している岡倉天心の弟子・平櫛田中》の作であることを最近知る。

浅草寺の雷門
〔浅草寺の雷門〕

 浅草の雷門には懐かしい思い出がある。現役時代にイタリア代理店のお客様一行30人を案内した、その折この門の前でイタリア民謡《オオソレミヨ》の大合唱が始まった。みな美声でその合唱は大きく美しく、通りの日本人も聞き惚れていた。イタリア人の陽気さ、音楽好きを実感した場でもある。

〔剣客商売の世界を歩く〕

 池波正太郎の時代の小説の中でも剣客商売のファンは多い、主人公・秋山小兵衛は飄々として人生を達観しつつも、いざという時は腕が立つ、人情味がある。奥さんをなくしたが、40歳もちがう若い妻を娶り江戸の田舎(今の鐘淵周辺)の一軒家で暮らす。

秋山小兵衛の隠宅があった付近の公園
〔秋山小兵衛の隠宅があった付近の公園〕

 若い女房は舟を自由に操り小兵衛を送り迎えする。今で言えば自動車で送り迎えするようなものだが、舟だと風情がある。

 二人の隠れ家は大川( 隅田川)と綾瀬川、荒川のまじりあう地点、今の鐘ヶ淵中学校の近くと聞き、東武線堀切駅で降り、綾瀬川を渡り歩き出す。浅草までが《剣客商売》の舞台だ。この辺り上を高速向島線が架かり、川は緩やかに流れる。その愛の巣はどこだろうと想像しながら歩くのも楽しい。東白髭公園から木母寺、梅若塚、墨田川神社、石浜真崎神社、今戸八幡宮、待乳山聖天宮、浅草まで3~5時間楽しめる。

 剣客商売のTVシリーズは今でも新作が作られている人気時代劇だ、過去の作品は以下の役者が演じている。誰でも数作は見ているだろう。

 1. 主役 山形勲、息子加藤剛 1973年 4月~9月

 2. 中村又五郎、加藤剛 1982年12月~1983年3月

 3. 藤田まこと、渡辺篤郎 & 山口馬木也 1988年10月 ~2010年2月

 4. 北大路欣也 斎藤工 2012年8月~ 2014年秋新作予定

池波正太郎が描いた秋山小兵衛
〔池波正太郎が描いた秋山小兵衛〕

 秋山小兵衛の風貌は旧知の歌舞伎役者・中村又五郎をイメージし、正太郎自身がモデルの絵を書いている 。すっきりとした顔立ちと、小柄で細身のこきみがよい体を思い出しているうち、ようやく小兵衛と言う名がついたと「日曜日の万年筆」に書いている。


★昔は難所だった鐘ヶ淵

 鐘ヶ淵の言われは、昔、寺の鐘を運搬中、瀬が速く鐘を川の淵に落としたので鐘ヶ淵と 言われるようになった。 明治時代に鐘紡という紡績工場ができた、今はカネボウ化粧品の看板が建っている。この辺りに“藤田まことの小兵衛”が出てくるような感じがする。

真崎神社の近くに秋山大二郎道場があった
〔真崎神社の近くに秋山大二郎道場があった〕

 白鬚公園を通り、白鬚橋を渡ると石浜神社、真崎神社に出る、剣客商売の描写では、この真崎神社の森近くに、小兵衛の息子・大二郎の道場があったが今は東京ガスの敷地内だ。


★三冬という女剣客

 主人公の小兵衛の息子秋山大二郎は、親父に似て剣の腕は確かだ。大二郎は真崎神社の境内近くに道場を開く、この大二郎を女剣客三冬が恋し剣客商売は展開する。


剣客商売の原稿 ハガキ
〔剣客商売の原稿 ハガキ〕

三冬の想像図
〔三冬の想像図〕

 三冬は時の老中・田沼意次の妾腹の娘である。三冬の剣の腕は滅法強く、こんな風に紹介をされている 『髪は若衆髷にぬれぬれとゆいあげ、すらりと引きしまった肉体を薄むらさきの小袖と袴につつみ、黑縮緬の羽織へ四つ目結納の紋をつけ、細身の大小を腰に横たえ、素足に絹緒の草履といういでたち』、男装の美剣士、この三冬を通じ田沼意次と縁を結びたいと思う男は多い。

 ところが三冬は自分を妻に迎える人は《自分より強い人でなければ、いや》という設定でいろんな思惑と事件がおきる。最後は秋山大二郎が嫁にするのだが、この親主人公の秋山小兵衛は剣客として修羅場を潜り抜けているから強く、老獪、かつ好色で、読んでも面白く、テレビでは藤田まことのおとぼけと飄飄さがたまらない。 三冬は寺島しのぶが演じている。

 田沼意次は剣客商売では好意的に描かれている。印旛沼を開拓し殖産興業の立役者と描かれ、山本周五郎の「栄華物語」などと共通する視点で、剣客商売でも大物役者が演じている。

★鬼平と呼ばれた長谷川平蔵の屋敷跡を歩く

 鬼平・長谷川平蔵は実在の人物だ。池波正太郎は《大江戸絵図》を見て、2 00年以上前の江戸の街を想像し鬼平犯科帳を書いている。 鬼平こと長谷川平蔵はどんな町、屋敷に住んでいたのだろうという興味から、都営地下鉄菊川駅の近くの屋敷跡をたずねてみた。

鬼平・長谷川平蔵のハガキ
〔鬼平・長谷川平蔵のハガキ〕
長谷川平蔵と遠山金四郎の屋敷跡
〔長谷川平蔵と遠山金四郎の屋敷跡〕

 駅から近いはずなのになかなか解らない。表示板は古風な案内板と思っていたのがまちがい、最新のデザインで金属製の白いものだ。 長谷川平蔵邸跡、並んで遠山金四郎邸跡とある。交差点の角であり、すぐ後は歯医者さんである。

 この土地に800坪位の屋敷を構えていた、屋敷内には牢屋もあり、かなり広い屋敷である。火盗改めというのはお金のかかる仕事で、通常2年で交代を、長谷川平蔵は8年も在職している、密偵など個人で雇っていたのだろうか? 平蔵の孫の代になると、この屋敷をこれまた有名な遠山金四郎にゆずっている。 看板も2人の記念碑となっている。


 菊川駅から錦糸町方面に歩くと報徳寺という大田道灌が開いた寺がある、この寺内にあったのが」長谷川平蔵が通った若杉道場がある、また報徳寺は鬼平の舞台として何度か登城している。

 また大田道灌が少女から山吹を受けとる絵が描かれた3m位の大きな石碑がある。この辺りで狩をし「七重八重花は咲けども山吹の…」の有名な故事の舞台なのだろうか? いずれにしろ鬼平・長谷川平蔵の活躍の場は江戸全域に広がる。

鬼平犯科帳の説明
〔鬼平犯科帳の説明〕
大田道灌の石碑
〔大田道灌の石碑〕

〔鬼平・長谷川平蔵は職業訓練所をつくった。〕

 鬼平・長谷川平蔵の裁きは、罪の重いものは遠島へ、軽いものは石川島の人足寄場で手に職・技術をつけ、社会復帰への手助けをした。

昔の石川島人足寄場、富士山も見える
〔昔の石川島人足寄場、富士山も見える〕
今の石川島からみた墨田川
〔今の石川島からみた墨田川〕

 長谷川平蔵が火付盗賊改めに着任したのは天明7年(1787年)9月19日42歳の設定である。平蔵の時代、浅間の大爆発や天候不順による飢饉で、江戸には無宿人の流れ込みが多かった。

 石川島の人足寄場は長谷川平蔵が起案し、老中松平定信の許可をえて、石川島に築いたといわれる。現在の月島、佃島にその面影がないかと訪ねてみた。石川島公園は隅田川に面し観光船が行きかい、灯台、フランス・パリセーヌ川との友好モニュメントや日本庭園などもあり、スカイツリーも見える絶好の散歩コースだ。

 周りには高層ビルだが、水辺は青く広々として都会のオアシスだ。江戸時代の壁画をみると富士山が遠望できる。現在の写真と比較してみて欲しい。鬼平は人足寄席場の建設・運営するという《人助け業績》をみると、ますます鬼平が好きになってしまう。

〔池波正太郎の生地を訪ねる〕

 池波正太郎の生地は浅草・待乳山聖天宮(まっちやましょうてんぐう)の近くであり、境内の入り口に池波正太郎の記念碑がある。江戸時代の安藤広重の絵では、大川か海に面した小高い丘の上に待乳山雪景が描かれている。

安藤広重の待乳山聖天宮図
〔安藤広重の待乳山聖天宮図〕
池波正太郎の生地碑
〔池波正太郎の生地碑〕

 今でも階段の上にお宮があり、参拝すると大根が沢山備えてある。聖天宮の方に聞くと。《大根は真っ白、心が素直になれるから、参拝者は大根をお供えする》という。大根は大きいから山盛りになると引っ込め、また大根をお供えする。


 池波正太郎は生地についてこう書いている。《 私は、この浅草・待乳山聖天宮の山裾に生まれた。聖天は、インド古代神話にあらわれるガネシアという神が仏教に帰依し、密教の列に加えられたのだそうで、象頭人身の二体が抱き合う形になっている。つまり富貴福徳、男女和合の本尊というわけだ。

浅草・待乳山聖天宮
〔浅草・待乳山聖天宮〕

 浅草の地は、往古、海港であったそうな。してみると、いまの私どもには想像がつかぬほど、大陸の文化にも触れることがあったらしい。私の生家はむろんのことに跡形もないが、大川の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだ。》「東京の情景」より。


さいとうたかおの漫画本
〔さいとうたかおの漫画本〕
     〔池波正太郎の代表作3作〕

 鬼平は盗人取締りの物語。剣客商売は秋山親子の剣で江戸市井におきる諸問題を解決してゆく物語、梅安は悪を懲らす殺し屋の物語。池波正太郎はほとんど同じ時期にこの代表作を連載している。そのほかにもエッセイ集も多く執筆している。

梅安の漫画本
〔梅安の漫画本〕
池波正太郎の自筆画梅安
〔池波正太郎の自筆画梅安〕

●鬼平犯科帳は1968~1990年の間に135話+番外1話 、文春文庫で24巻発刊、亡くなる平成2年まで連載された。テレビドラマも時代劇専門チャンネルで毎日放映されている。 主演は時代により 松本白鸚、松本幸四郎。 漫画本・さいとうたかお版もある。

●剣客商売 1972~1990年の間に16シリーズ110作品がある。テレビドラマでは主役秋山小兵衛役を山形勲、中村又五郎(原作のモデル)、藤田まこと、北大路欣也(現在)が演じている。文庫本では新潮文庫16巻が発刊され、目の悪い方向けの本・大活字判もある。それだけの人気作品である。

●必殺仕掛人・藤枝梅安 1972~1990年の間連載、小林桂樹主演のテレビドラマ、その後渡辺謙が演じている。講談社文庫は7巻がある。梅安は藤枝市の出身という設定、金で殺人を請け負うという闇の世界の物語。殺し屋が日頃は鍼の名医で人々に慕われている。殺されるのは大悪人であり、勧善懲悪の趣があり、痛快感がのこる設定になっている。後の食卓の光景も殺伐とした情景をやわらげている。


〔池波正太郎のこと〕

●池波正太郎のことば

 人はいいことをしながら、悪いこともする。作者当人の生き方・考え方は色濃く投影される。

 悪を知らずして、悪を取り締まれるか。

 

 正太郎の言葉に《男の磨き砂》という言葉がある。

 男にとって人生のあらゆる経験が磨き砂だという、池波正太郎の家には居間がない、書斎にすべてがそろっている。記者や仲間に迷惑をかけない、原稿は遅らせ無い、そのため思いついたらすぐにかけるようにしている。

 疲れたら気分転換をする、そのために音楽や絵があり、観劇や映画があった。これらは総てが《男の磨き砂》なのだ。

 

 池波正太郎の人間観は 《世の中がいかに変わろうと、人間のあり方に変わりはない》 人の体のしくみが変わらない限り、世の中のうつりかわりなぞつまらぬものさーーーーと喝破している。

 

 発想と着想というのは不思議なもので、散歩をしているとか、音楽を聴いているような時に生まれてくるもので、小説とはまったく無関係のようなものから刺激されて出てくるようである。

 

 師・長谷川伸は《 仕事の半分は神に助けられる 》 と言った 悩みスランプの中からアイディアが生まれる。

 

 昭和47年数え50歳 老境にいる時、老剣客秋山子兵衛を主人公にして、自分を等身大にして剣客商売を執筆始める。三代人気シリーズの中で最も池波正太郎が投影されている。

 

 大学へ行かなかったお蔭で いろんな人に会った、小説上の人物もその原型は今の世の中で会った人である。13歳から5ー6年で いろいろの世界を知る、泥棒とも付き合いがあった そういう人が江戸時代に生きていると信じて書くか ら、人物が生き生きしてくる その信念のもとは東京を愛しているから。

 

 中村吉右衛門が語る 長谷川平蔵の魅力

 優しさ、奥さんにも誰に対しても優しい、女心もわかる、おまさも惚れる。優しいだけでは駄目で、その裏に強さがある。その強さと優しさの交錯、若い頃の無頼放蕩とが重なり 味がある。

 

●鬼平の言葉

 《人間というやつ、遊びながら働くものさ、善事を行いつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事を働きつつ、知らず識らず善事を楽しむ、これが人間だわさ》 鬼平が悪人を追いつめるとき、その中に共感する善事がある、だから後味が悪くなく鬼平の温かみを感ずる。

 

 「人間という生きものは、悪いことをしながら良いことをするし、人に嫌われることをしながら、いつもいつも人に好かれたいと思っている------」

 

 「それにしても、女という生きものは、まったくもって、しぶとく生きるものよ。 女は強い。女は男に無いものを持っているゆえな」  「乳房」の最後に漏らす言葉

 

●男の生き方を教える

 池波正太郎は多くの随筆や食べ歩きのエッセイを書いている。テレビでも国松隼が語っている。その中で池波正太郎は絵が上手い、小さい時絵かきになろうと思っていた、記念館には秋山小兵衛や梅安の絵葉書を売っている。小兵衛のモデルは三井老人で実在の人、三井老人は正太郎にいった。《切羽詰まった生き方をしてはいけませんよ》 正太郎は切羽詰まった生き方をしていない。

 

●鬼平は池波正太郎でもある

 正太郎はこう書いている「若き日の鬼平は何やら私の若き日に似ているし、俳優、松本幸四郎の若き日にも似ているような気がする。私が鬼平を書いていることは自分を書いていることになるのかもしれない」 。お前は、時世の流れが、いかに激しく変わろうとも、なおさらに変わらぬ人として生きてもらいたい。これが、わしの、のぞみなのだ。

 

●鬼平の部下操縦法

 管理者が鬼平を読めば、部下の操縦法、人の心の掴み方、人をやる気にさせる方法など参考になる。正太郎は戦後10年東京都庁の保健所で勤務し、毎日学生アルバイトを使っていたから、《一人一人は千差万別で、その経験が役立ち、芝居の演出もしているのでこれも役立った 》 と言っている。鬼平のTVドラマを毎日みていると、部下に対する指示、指導、盗賊に対してもどこか暖かい処置をしているので、見終わった後味がよく、共感を感ずる。

 

●フランス旅行に晩年出かけた

 ヨーロッパ特にフランス旅行は6回もいっている、昭和56年頃から団体旅行ではなく、奥さんと運転手と秘書の4人の旅行で、さぞや楽しかったろうと思う、そして時々その国の風景や風俗を絵に描いている。  欧州旅行はスケッチブック1冊、簡単に書き、白黒フィルムで写真を撮り日本に帰ってから自分の好きな色で描く、カラーだとかえって邪魔になるという。

 
〔池波正太郎の欧州での絵〕
〔池波正太郎の欧州での絵〕

 

●池波正太郎の映画評論

 正太郎本人は映画評論家でないというが 『キネマ旬報』で19年間(1970~1988年) その年の《わたしの選んだベストテン》という映画評論を掲載している。

 幼少の頃から映画に親しみ、映画ファンとしての感性により選んだ190作品には邦画は入っていない。時代小説家が洋画を毎年何十本もみており、その年の作品のできばえと上位作品にはコメントをしている。例えばNO1作品であるゴッドファ ザー(1972), ゴッドファーザーⅡ(1975)は知っているが、その他は見ている作品は少ない。邦画も見ているはずだから、忙しい中おびただしい本数の映画を池波正太郎は見ていることになる。 その情熱に驚かされる。

 

●剣の天地を読みかえす

 1967年の作品に《剣の天地》と言う上泉伊勢守の物語がある。戦国時代の上州箕輪城を中心に武田,北条、上杉の戦国大名に囲まれ生きる、箕輪城主長野業正、と日本一の剣聖とうたわれる上泉伊勢守の物語だ。直心影流創始者である上泉伊勢守に改めて興味を感じた。

 

●池波正太郎 真田記念館は上田市にある。

 立派な記念館が上田市の真ん中にある。 真田太平記は信州、上州北部を主舞台に全国に展開する、池波正太郎のもう一つのテーマ《忍び者》の記念館である。長年の誘致活動の結果真田太平記がNHK大河ドラマへの登場が決まったという。この真田記念館訪問記は別に地元の方に書いて貰おうと思っている。

 
〔池波正太郎太平記オフィシャルページ〕
〔池波正太郎太平記オフィシャルページ〕
 

 池波正太郎の作品は今でもよく見かける、全集、文庫本TVドラマ、映画、漫画など、また池波正太郎記念文庫の時代小説コーナーでは過去の時代小説がほとんど見られる。江戸古地図をみながら《江戸と現代の世界》を歩くのも楽しい。池波正太郎の創造力に驚くことだろう。

 

青木青眠 記
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