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〔偉人〕

伊能忠敬(いのう ただたか)

 
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伊能忠敬

プロフィールバー ●〔伊能忠敬〕のプロフィール
俗称・筆名 伊能忠敬(いのう ただたか)
本名 伊能忠敬
生誕 1745年(延享2年)1月上総国山辺郡小関村神保貞恒の二男として誕生
死没 1818年(文政元年)亀島町の自宅で逝去、遺言より師・高橋至時の墓(浅草源空寺)近くに埋葬される
出身地 千葉県九十九里町(現)
最終学齢
職業 商人、測量家
ジャンル 測量家、天文学者
活動
代表作
記念館 〔伊能忠敬記念館〕
 〒287-0003
  千葉県香取市佐原イ1722番地1
 TEL:048-541-1118
言葉・信条  伊能家の家訓を作る(1791年)
第一 仮にも偽りをせず、孝弟忠信にして正直たるべし

第二 身の上の人は勿論、身下の人にても教訓異見あらば急度相用堅く守るべし

第三 徳敬謙譲として言語進退を寛裕に諸事謙り敬み、少なしも人と争論など成すべからず。

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伊能忠敬の写真
(出典:冨岡八幡宮を出発する伊能忠敬)

人生履歴 〔伊能忠敬〕の人生(履歴・活動)
伊能忠敬 略歴
1751年
(宝暦元年)

6歳:母と死別

1762年
(宝暦12年)

17歳:佐原村の伊能家の娘ミチの婿養子となる

1778年
(安永7年)

33歳:妻ミチと松島に旅行、

1781年
(天明元年)

36歳:佐原村本宿組の名主となる。

1783年
(天明3年)

38歳:浅間山大爆発、利根川氾濫の対応に奔走、天明の大飢饉の始まり。苗字帯刀を津田氏より許される。

1784年
(天明4年)

  村方後見となる

1795年
(寛政7年)

50歳:江戸に出て高橋至時の弟子になる。

1800年
(寛政12年)

55才:第一次測量・蝦夷までを実施

1803年
(享和3年)

  第4次測量実施、高橋至時「ラランデ歴書管見」を翻訳完成

1816年
(文化13年)

71才:第9次測量終了、「大日本沿海與地全図」作成

1818年
(文政元年)

 亀島町(現八丁堀)自宅で死去、

1821年
(文政4年)

 「大日本沿海與地全図」完成し幕府に提出

1828年
(文政11年)

 シーボルト事件発生


〔人生を2度生きた伊能忠敬〕
1. 佐原の商人として生きたビジネスマン時代

2.4500万歩の男と言われ日本全国の地図を作成した時代

〔伊能忠敬の略歴〕
  伊能忠敬は1745年に今の九十九里町に生まれ、17歳で佐原の商家伊能家に婿養子として迎えられる。
小さい時から計算能力は優れ、数学、囲碁などにもたけていた。伊能家は佐原では2番目に
大きな商家で酒造業、運輸業、金融業を営んでいた。忠敬の代になり発展し苗字帯刀を許され佐原の一番店になった。

 忠敬は36歳で名主、39才で村方後見となり地域に貢献している。佐原は利根川に隣接し良く洪水に見舞われ、修復工事や、稲の水回りなど測量、地図の実務知識が要求され、若い時から測量、暦学等に興味を持っていた。

 学問的素養をもった先祖もおり、残された書籍、文書をよみ、隠居後は天文学のような学問
を極めたいと密かに思い、50歳を機に実業を引退し、19歳年下の天文学者高橋至時につき、天文学、暦学の勉強をはじめる。《地球の大きさを知りたい」》という動機から日本全国を測量することになり、自分の財産を国のために注ぎ、「大日本図沿海與地全図」を完成させる。

 作家・井上ひさし氏の言葉をかりれば《一身にして二生を経る》愚直な生き方をした、即ち実業で成功し、引退後に《地球を一周する4000万歩を歩き》日本全土の地図を作成した、まさにシニアの鑑である。


   
伊能忠敬象 佐原公園
 

〔伊能忠敬・生涯を語る〕

文化0年4月27日 第八次測量隊・九州の旅から娘に宛て た手紙で次のように書いている。

 私は幼いころから高名出世を望んでいたが、親の命令で佐原へ養子に出されたので、好きだった学問も止めて商売第一にやってきた。そして伊能家の先祖からの教えを守り困窮している人たちを助けることができたので、十分な功績を挙げたら引退するのが自然な道だと思って江戸に隠居した。

  ところが未だかって無い日本国中の測量御用を命ぜられて、諸大名の協力を得て諸国を廻ることになったのは実にありがたいことである。これは天命というべきか、ご先祖さまのおかげというべきか、言葉には表せないことである。

 

佐原の位置確認と日本遍歴のポスター

〔ビジネスで成功 4000万歩の男!〕
  伊能忠敬が婿入りした頃の資産は3億円、隠居した時は70億円、 約20数倍にした(井上ひさし著)、天明3年の浅間爆発に伴う飢饉には伊能家の蓄えを吐き出し、1人の飢死者を出さなかった。又利根川が氾濫した時もお金を出している。
 佐原の領主である津田家からは苗字帯刀を許された。又町の後見人に任命された。名主は村長、名主を監督するのが後見人


 4000万歩とは、1日1万歩あるいて1年で365万歩、10年で3650万歩 休みなしに毎日歩いて11年かかる。井上ひさしは1歩90cmと計算、伊能忠敬記念館では69cmとしている。距離にして3万6千km、地球1周が4万kmだからほぼ1周している。当時の平均寿命が63才、今が79才、今でいえば70才以降で4000万歩あるいたことになる。最長距離を歩いた旅行家とといえる。


苗字帯刀を許された伊能忠敬像

〔伊能忠敬の生い立ち〕

  伊藤左千夫の生家を訪ね、その隣町、九十九里町を通リかかった際に、伊能忠敬記念公園の看板を見つけた。公園は広く、奥に左手を挙げ天を指差すポーズの伊能忠敬の銅像が立つ。その背後には象限儀という天体機器がある。この公園は市制40周年記念、伊能忠敬生誕250年記念公園として建設されたもの。 伊能忠敬はこの地で少年時代を過ごしたのだ。
  
 童門冬二氏の著書によると少年時代に苦労を舐め尽くしたと書かれている。忠敬は1745年1月この地・山辺郡小関村(現在の九十九里町)に生まれる。名主を努める家に生まれるが、母を7歳の時、亡くし、入り婿の父は当主として認められず、ゴタゴタもあり、実家に帰ってしまう。その際2人の兄は父親と一緒に帰り、忠敬だけが残された。忠敬は家業の漁業の手伝いをさせられていた。11歳の時父の元に連れ戻されたが、父は再婚し後妻はいい顔をしない。忠敬は我慢できずに家を飛び出し親戚の家を渡り歩く、根無し草の生活をした
 
  父の実家も庄屋で年貢の徴収をするので算盤を使う、忠敬は算盤はもとより、計算の才能があった。ある時は常陸・土浦の数学の得意なお坊さんを紹介され訪ねた。問題を出されるとすぐに解くので半年で教えることはないと言われ戻る。また、父はこの地方で碁が一番強かったので、教えて欲しいと頼む、教えてみると上達ぶりがすさまじい。父はびっくり忠敬を見直した。
(童門冬二・伊能忠敬に書かれたエピソードである)

九十九里町の伊能忠敬像   伊能忠敬生誕の地碑
 

伊能忠敬測量の図

〔伊能忠敬はビジネスマンとして優秀であった〕
 
伊能忠敬は17歳で伊能家に婿入りした。花嫁は主人を亡くし子供もいる21歳の姉さん女房で、仕事も解らず最初は大変だった。当時の佐原は商都として銚子に次ぐ町で、現在の船橋、市川より大きく商都として栄えていたと観光会館で聞いた。

 伊能家に婿入りした頃の伊能家の力は他家に比べ劣っていたが伊能忠敬の努力貢献により、名主、後見人にもなり、苗字帯刀を許されるまでになった。 忠敬のビジネス時代は田沼意次の時代、農業中心の重農主義から商売を重視する重商主義への転換点であった。   伊能家は酒、醤油、米、薪、金融業等を商い、高瀬舟を4隻も持っていた。佐原は今でも祭り・山車の豪壮さは川越と並び有名である。水害に見舞われたとき、山車を出すかどうかで町が割れ揉めこれを治め、また天明3年の浅間の大爆発では各地に飢饉が発生、忠敬は貯蔵する米を掃き出し、また利根川の洪水にも適切に援助し、領主、町民からも信頼が篤かった。

 また村にとって大切なことは新田の開発、その水管理であった。伊能忠敬は測量にも通暁していたので、高い所から低い所に水を流す事にも明るかった。だから、50歳になるとき隠居願いを出しても、あとが困るのでなかなか許可されなかった

佐原の伊能家の屋敷跡
 

佐原の祭り山車は関東を代表する祭り

〔伊能家には学問的素養深い先祖がいた〕
 
伊能忠敬は祭礼事件から伊能家の古文書を読みあさり、3代前の伊能景利は慶長年間に国絵作成の触れが出た時、佐原の地図を描いていることを知り感動する。若い頃から晩年はそんな学問をしたいという願望を持っていた。  記念館には忠敬の蔵書がいっぱい展示されていた。恐らく数百冊に及ぶだろう。この時代商人には学問は不要とほんを読むことを禁止した家も多い中、そういう中でこれだけの蔵書を持つ人は珍しい。

 佐原で3つの伊能忠敬の銅像を見ましたが、いずれも片手に書を持っている。商人が書をもつ珍しい像だ。伊能忠敬には「自分よりすぐれた人からは謙虚に学ぼう」という姿勢がある。3代前の伊能景利に学び、19歳も年下の高橋至時を師匠とし学んでいる。


記念館の近くにある像
  忠敬の銅像   左は伊能家屋敷内に
右は佐原の諏訪公園

ゆかりの地 〔伊能忠敬〕ゆかりの地など
〔佐原の伊能忠敬記念館を訪ねる〕

 千葉県佐原市に伊能忠敬記念館がある佐原市の真中を流れる小野川の畔に商売をしていた伊能家屋敷跡があり、その近くに記念館はある。

 小野川は利根川に通じている、昔、佐原から船に乗って香取神宮や鹿島神宮に参拝したことを思い出す。今でも伊能忠敬記念館の近くから観光船が定期的に出ている。



伊能忠敬記念館

佐原の街は古い商家が並び、小野川の周辺を散策する観光客も多い。伊能忠敬の商家跡は土間があり、3月なので座敷に雛段が飾られ、部屋は何部屋もある。外に出ると庭は広く土蔵もある。

 伊能忠敬記念館に入ると正面にかみしもに刀を差した忠敬像が飾られている。内部は広く、2m以上の大きな伊能図が並び、資料や書籍なども並ぶ。


伊能家商家

 佐原の街の真中に観光センターがあり、ここで食事もでき、街の祭りの山車の小型模型も展示されている。伊能忠敬に関する質問も受けられる専門家が対応する。街の郊外にある諏訪公園には10メートルくらいある高い台の上に伊能忠敬の銅像が街を見下ろしている。

伊能忠敬記念館

〔自分の財産を国家のために使った男〕

 
商人として成功し、晩年にその資産を惜しげもなく国家事業に使った人は少ない。今なら紺綬褒賞の対象者になる。その事業は《全国測量と日本地図制作》という公共性の高いものである。
 
 伊能忠敬の晩年の寛政年間(1795~1800年)江戸深川で忠敬の身の回りを世話した女性がいた。井上やすしの「四千万歩の男」ではこのお栄さんなる女性(深川芸者出身で数理に明るく地図まで描いた)とインタビューし色々と聞くという設定でこの辺の内幕を紹介していて面白い。
 
忠敬が婿入りした頃の伊能家の資産は今のお金に換算して3億円、隠居するときの全資産は70億円20倍以上にした今の企業でも収益を上げても国のため、民衆のためにお金を出す企業は少ない。伊能家の家訓にはそういう思想があったので、忠敬がお金を測量に使っても文句を言わず、子供達も協力している。


測量に出発する伊能忠敬像、颯爽としている

 

〔伊能忠敬はなぜ日本地図を測ろうとしたのか?〕

 
伊能忠敬は地球の大きさを知りたいと思った。200年前地球が丸い事は解っていたが地球の大きさは誰もわかっていなかった。子午線その1度の大きさが解ればこれに360を掛ければ良いと忠敬は考えた。
それから毎日深川黒江町から浅草の天文台まで声を出し、歩測で距離を測った。
師匠・致時(よしとき)は天文台では近すぎ誤差がでて駄目だ、江戸から蝦夷まで測れば良いとアドバイスする。蝦夷まで行くには幕府の許可が必要になる。

 当時の蝦夷にはロシア船等が出没し、蝦夷の大きさの詳細を知る必要があった。測量への熱意とお金がある忠敬を師・高橋至時は幕府に推薦、蝦夷行きが決まり、現在の北海道厚岸の先、別海町まで測量した。

 どう測るかという問題が生じた。方角と距離、象限儀で天体観測をし、北極星を目安にする。
子午線1度の長さは28.2里と算出した。師高橋至時が訳したオランダの「ラランデ歴書管見」(2000頁)の1度の長さと一致、師弟で喜びあったという記録がある。 この後翻訳の疲労も出て、師は41歳という若さで亡くなってしまう。

 



測量に出発する伊能忠敬像、颯爽としている

〔幕府の後ろ盾無くして測量はできなかった〕

 
最初の測量は江戸から本州を北上し、今の北海道まで探索し地図を制作している。 関東の支配は細かく分かれ、德川の親藩によって治められていた。親藩の土地を勝手に測量していたら怪しいやつとして、すぐに御用となる。幕府より錦の許可証を貰いこれを見せながらの実地測量であったことは想像がつく。
 
 それでも幕府からの連絡が徹底されず、聞いてないというようなトラブルはよく起きている。 新潟県の糸魚川や、他の地域でも揉め事が起きその都度、幕府との調停に伊能忠敬は神経を使った。


 

 

 

〔測量は第一次隊~第十次隊まで実施(1800~1816年)〕

  第一次測量は東京から北海道の別海まで歩く。富岡八幡宮にお参りし根室の先別海(ニシベツ)までグーグルマップで調べると1480km、車で20時間、歩いて12日間と表示された。忠敬は往復180日かけ、歩数を数え歩き、夜は象限儀を使い恒星の高度を測る、天体観測は一晩で20個位はかり、180日の内、81日は測定した。結果は小図1枚,大図21枚提出した。 測量日記も残している。かかった費用は99両3分幕府からの補助金は22両2分補助率20%であった。他に測量機器70両(1400万ン~2000万)を購入、現在のお金に換算して、忠敬の持ち出し分は3000万~5000万円相当になる。
第二次測量は伊豆半島から本州の海岸線、帰りに内陸を測る。230日、措定誤差は現在比較0.2%、千メートル測り2m、三陸海岸線は複雑で「船上引き縄」を使用,緯度の長さ28.2里と算定
第三次測量は東北の裏日本と関東を計測し132日要す。この頃から費用100%が幕府から支給された
第四次測量隊
関東の半分、中部、北陸を測量1803年 第一~第四次測量まとめ将軍・幕閣に見せ好評、

第五次測量隊 関西、中国地方を測量1805年 640日
第六次測量隊 近畿と四国を測量 1808年 377日
第七次測量隊 中国と九州を測量1809年 631日
第八次測量隊 中国と九州北部 1812年 五島列島66日、対馬53日種子島、屋久島 坂部副隊長チフスで死亡、914日
第九次測量隊 関東と伊豆七島 1815年6月4日~翌年5月8日 約1年要す(下田風待ち10日八丈島半月風待ち 漂流3日)
第十次測量隊 江戸府内測量 1816年 74日


〔伊能忠敬 足跡図〕

 
第1次測量 蝦夷まで    

第8次測量 九州島々



第9次測量 伊豆七島
 
富士山周辺図


〔どのような器具を使い、どう測ったか〕


   
   

〔日本の天文学は進んでいた?〕

• 麻田剛立
 豊後国(大分県)の杵築藩(杵築市)の出身の医師でしたが、天文学に興味を持ち脱藩、大阪で医者のかたわら天文学を研究、ケプラーの第3法則と同じ事を発見している。ケプラーは惑星の軌道を真円でなく楕円形である事を発見した物理学者である。麻田剛立は宝暦13年(1963年)の日食を予言し名声を高めた。オランダから初の高倍率グレゴリ式望遠鏡を輸入し使い、日本最古の月面観測図を記す。月のえくぼ(クレーター)を見た男として知られている。杵築藩主は脱藩者の麻田剛立の潜伏先を突き止めるが、連れ戻すのでなく、人づてにこっそり金を渡すという粋な計らいをした。

• 伊能忠敬の師・高橋至時 
  時を支配し 暦を作るのは統治者.幕府の務めですが、日食や月食が当たらず、民間の学者が当てるので、権威も失墜する。そこで江戸の天文気象台の長官に麻田剛立を招聘しようとしたが、高齢を理由に断られ、代わりに弟子の高橋至時を推薦、採用されたとき高橋は29歳の若さであった伊能忠敬は19歳も若い師・高橋至時を尊敬し、隠居後天文学を必死に勉強した。

• 兄弟子・間重富
  大阪の大商人、隠居して天文学を勉強、高橋至時と共に伊能忠敬の師匠となる。 このように忠敬の周りには当代の優秀な学者が助けている。

 


 
測量風景

〔伊能忠敬にインタビュー!〕

•  4000万歩の男を書いた井上ひさし氏は伊能忠敬にインタビューしている記事がある。その中で視点が面白いところを紹介しよう。
 
・ 忠敬先生曰く  「だいたい君は天文学に暗いね」と言う。「文化系の人間なものですから」と答える「君は天文学に愛情を持ってない、天文学者 の伝記を書く資格はない、一体君はわしの学問上の  功績をどう考えているのか」と問い詰める。

 実測による日本地図の完成ですと答える。「その他には」 緯度一度の長さを実測により測り28里2分(110.75km)と言う答えをお出しになった と 
 答える。ところが君はその≪測定値が君たちの時代の測定値と1000分の1の誤差しかない≫事を小説の中で書いていない。
 そうしてこそわしの仕事の値打ちがわかる分けだからね、こう言う不手際が出るのも、君が天文学に、そしてこの私を愛していないからなのさ。ああわしはひどい作家に見込まれてしまった。死にたいくらいだ、主役は降りた。
 4千万歩の男は発売禁止する。

 
•  こんな文調で女性関係に及ぶ。
  だいたいだがね、君はこのわしが女性をどれだけ愛したか知らんようだ。取材不徹底だよ、わしは妻に先立たれ再婚した。
 二度目の妻にも死なれ、お栄という女を内縁の妻にした。 わかるかな、3人も妻がいたんだよ。たいていの男なら三度も結婚しないよ、よほどの女好きでも二度で懲りるさ。ところがわしは三度も妻を娶った。これは女性という存在を心から愛しておった証拠さ。それに、わしは何人か庶子がおる、つまり妻以外にも子を儲けるほどの仲だった女性が相当おったということさ。そのわしに禁欲生活をひいるとは言語同断だね。わしは断然主役の座を降りる。
 
• こんな調子で面白おかしく伊能忠敬を紹介している。



〔伊能忠敬は人に恵まれていた〕

・良い師に巡り会えた。
 師・高橋至時は忠敬より19歳も若く、忠敬49歳、至時29歳の時あっている。至時は大阪に住み欧米の医学書をよく読み、若くして幕府天文台の長になっている。又 西洋の暦学の書・ラランデ歴を読み翻訳している。外国の本を読む事は禁止と認識してますが、幕府は必ずしも読む事を禁止していない。
・幕閣にも理解者がいた。
 伊能忠敬の 2人目の妻は仙台藩の江戸藩医桑原隆朝の娘であったので幕府とのパイプがあり、若年寄堀田摂津守は測量への援助をしている。第4次測量のあと纏めた日本地図は将軍家斉の上覧をえて、以後測量への支援が増している。
・同僚 先輩、測量隊に恵まれて
師・高橋至時の弟子・間重富は大阪の大店の主で商売より天文学をやりたいという 人。この人も人並み外れた器量を持ち伊能忠敬を助けている測量隊も最初は親族の10人程度だが、後半は30人になると纏めるのも難しい、昼歩いて夜は星の観察と大変だ。途中で帰る人、病人、死者もでる。
・家族
普通引退後に家の財産を湯水のごとく使ったら、店を潰す気かと不平が出て何もできなくなるのが普通である。伊能忠敬の場合、師・至時も安月給取で、外国の書物や天文の器械を買えない、忠敬は本は必ず2冊買い1冊は師匠の机上に置いた、職人に造らせた測量器械、天門器材なども師に提供している。子供達も測量隊の一員として参加協力している。


大日本実測録
 
忠敬を大河ドラマにのPRポスター
 

〔シーボルト事件と伊能地図!〕

  シーボルトは日本に近代西洋医学を伝えた医師である、27歳で来日し長崎で鳴滝塾を開き、高野長英、二宮敬作など多くの医師を育てた。シーボルトは日本に興味を示し、滞在中から欧州に「日本博物館構想」をもち日本の美術、漆器、家具、植物,などを収集、その中に伊能地図が入っているのを発見され、国内退去処分となった。

  伊能忠敬の師・高橋至時の子、景保は欧州の進んだ天文学等の書物と伊能・日本地図の一部を交換し渡し、それが発覚した。結果捉えられ発狂し牢死した。伊能地図は没収されたが、シーボルトは模写したしていたので伊能日本地図は欧州で発刊され普及した。ペリーが来日の折も伊能地図を持参していたと聞く。

  伊能忠敬が作成した日本地図は精細で評価されたが、徳川幕府の紅葉山文庫(図書館)に秘蔵され、江戸時代は利用されなかった。明治維新を迎えイギリスの測量隊がきて、測量を初めようとし、日本で作った地図はないかと問われ伊能地図を出したところ、その精度の高さに驚き、測量をする必要はないとなった。その後伊能地図は日清、日露の戦争など多いに利用された。



シーボルトの肖像画
 


シーボルトの手書きメモが書かれた日本地図

 

〔伊能忠敬の墓は浅草・源空寺にある〕

  伊能忠敬が亡くなったのが1818年5月17日、今年(2018年)が丁度、没後200年となる。忠敬が亡くなるとき師・高橋至時の傍らに葬って欲しいと遺言した。住職は旗本と商人の身分差から難色を示したが、師の息子景保は忠敬を慕っていたので、父より立派な墓を作り費用も景保が払ったという。

 浅草・稲荷町から10分位の源空寺を訪ねてみた。確かに伊能忠敬の墓の方が大きく立派である。墓石の字は当時最高の儒者・佐藤一斎である。景保の墓もあるがシーボルト事件で罪人になったので墓も小さい。すぐ近くに江戸の町奴・任侠・幡随員長兵衛、文人画家谷文兆の墓もある。




江戸の天文台  葛飾北斎画

 


 


伊能忠敬の墓

〔伊能地図、とその活用〕

 伊能地図は大図,中図,小図とあり各々大きさも違う。
今年は没後200年に当り、佐原、浦安など各地でその地図が床に張られ、その上を歩くことができる展示がなされた。その大きさは大きな体育館でないと大図は並ばない。伊能図全体では385枚+αもある。

江戸城の奥に眠っていたままと言われていた伊能図は、その副版は各藩に出回っていたようだ。また明治になってからは20万分の一の地図に置き換えられ帝国図として利用されている。右図は明治、大正、昭和と順次伊能図が書き換えられ利用されている変遷図である。

 地図のまとめにあたってはその正確さと共にその美しさにある。大図では景観を絵師に依頼し、山岳、森林、田畑、町家、村の風景、城郭など四色に彩色し美しい。十一代将軍も完成図をみて「見事だ!」といい、その後の地図作製に?がったという。



出典: 新版 伊能忠敬の全国測量
 


将軍から見事だ! と言われた

 

〔伊能忠敬のモットー〕

☆ 目の前のことに集中せよ
   ? 目の前の問題をその日のうちにやっておく、しかも遠くから大きくとらえる目を持つ。

   ?小さなことを十数年積み重ねると地球を一周できる、4千万歩も歩けるということ。私達に勇気を与えてくれる。

☆ 伊能家の家訓を作る(1791年)

 第一 仮にも偽りをせず、孝弟忠信にして正直たるべし

        少しも嘘をつかず、正直にしなさい
 
 第二 身の上の人は勿論、身下の人にても教訓異見あらば急度相用堅く守るべし
        どんな人のいうことでも役にたつことや、正しい意見であったら必ず用いて守りなさい
 
 第三 徳敬謙譲として言語進退を寛裕に諸事謙り敬み少なしも人と争論など成すべからず。
        言葉と行動を緩やかにして,万事へりくだって、謹んで、少しの争論もしてはならない


〔伊能忠敬の生き方に学ぶ〕

★老後に好きな事、やりたい事をやるためには、若い時から毎日その準備を積み重ねる、 
 根気強い努力が必要だ。ローマは一日にして成らずである。

 晩年にやりたいことをやる準備とは三つのKだ。三つのKとは《カネ(経済)・健康・こころ 
 (精神力》のことである。

  童門冬二 伊能忠敬より
足かけ17年にわたる全国測量をおこなった愚直な精神は、現代人には失われているのではないか!
効率化、省力化、成果主義が標榜され、短時間で利益をえたいという風潮に
対するアンチテーゼの生き方である。また私財を投じて後世に残る事業をやりぬいた人物
は、企業家にとっても《世のため人のため》を実践した忠敬は目標にすべき人ではないか。
  星埜由尚 伊能忠敬より
★NHK大河ドラマは戦国物、幕末物、忠臣蔵の3つを盥廻しにしている。伊能忠敬は全国に
 足跡があるから取り上げる価値がある 
  井上ひさし談

〔参考文献〕

・新版 伊能忠敬の全国測量  渡辺一郎著

・四千万歩の男 忠敬の生き方 井上ひさし著

・伊能忠敬 日本を測量した男  童門冬二著

・伊能忠敬 日本をはじめて測った愚直な人 星埜由尚 

 


 
 
   

青木青眠 記
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