ゆい偉人館 カラオケ愛唱館おすすめ今日の運勢館

〔偉人〕

加藤まさを(かとう まさを)

 
〔か〕の偉人 河鍋暁斎 蟹江一太郎
川合玉堂 川端康成 加藤まさを
葛飾北斎 河合継之助 上総介広常

プロフィールバー 〔加藤まさを〕のプロフィール。
俗称・筆名 加藤まさを
本名 加藤正男
生誕 1898年(明治31年)
死没 1977年(昭和52年)11月1日御宿にて没、享年80歳
出身地 静岡県藤枝市に生まれる
最終学齢 立教大学英文学科中退
職業 画家、詩人、小説家、イラストレーター
ジャンル 抒情画家、挿絵画家、童謡詩人
活動 ・立教大学在学中から文芸誌「塔」の創刊
 装幀を担当,詩や童謡も発表
・大正10年童謡集「合歓の揺籃」を出す
・大正11年処女詩集「涙壺」を出す
・大正12年《月の沙漠》を少女倶楽部に発表
 その後も多くの童謡、小説、抒情詩を発表
・昭和44年 御宿に月の沙漠の記念碑建立
代表作 童謡「月の沙漠」の作詞
記念館 〔月の沙漠記念館〕
 千葉県夷隅郡御宿町六軒町 505-1
 TEL:0470-68-6389
言葉・信条

人生履歴 〔加藤まさを〕の人生(履歴・活動)

 加藤まさをは大正中期から昭和前期にかけて、一世を風靡した抒情画を数多く表したが、その画風は竹久夢二をほうふつさせる。

 大正12年に発表した《月の沙漠》は御宿海岸を舞台にしたと言われ、多くの人々に愛され、唄われ、童謡というより抒情歌として、今もなお人々の心を魅了している。

月の沙漠像と後方に記念館

 《加藤まさをの略歴》を月の沙漠記念館で掲示されているままに下記に表にして紹介します。


HOME偉人記念館現在:PC版スマホ版へ移動
地域の達人分野別偉人ゆいの言葉偉人ランキングサイト情報
 
あいうえお
かきくけこ
さしすせそ
たちつてと
なにぬねの
はひふへほ
まみむめも
やゆよ
らりるれろ
わをん  
川端康成の写真
月の沙漠イラスト

月の沙漠記念館の加藤まさを

人生履歴 〔加藤まさを〕の人生(履歴・活動)(続き)
加藤まさを 略歴
1898年(明治31年)

静岡県藤枝市に生まれる。

1916年(大正5年)

立教大学に入学

1920年(大正9年)

立教大学の文芸誌「塔」創刊・装幀など担当詩や童謡も発表、童謡画集「カナリヤの墓」を出版する。

1921年(大正10年)

童謡集「合歓の揺籃」を出す

1922年(大正11年)

処女詩集「涙壺」

1923年(大正12年)

童謡集「人形の墓」を出版
  《 月の沙漠》を「少女倶楽部」に発表

1926年(昭和1年)

小説集「遠い薔薇」,「まさを抒情詩集」を出版

1927年(昭和2年)

小説集「愛の哀しみ」出版

1929年(昭和4年)

「抒情小曲集」長編小説「消えゆく虹」出版

1947年(昭和22年)

「おんがくのほん」に童謡13編を収録

1953年(昭和28年)

この頃から、講談社の絵本で活躍

1969年(昭和44年)

《月の沙漠の記念碑》御宿に建てられる

1976年(昭和51年)

月の沙漠のふるさと御宿に定住する

1977年11月1日
(昭和52年11月1日)

御宿にて没、享年80歳


〔御宿に《月の沙漠の王子・王女様像》がある〕

千葉県房総半島・御宿海岸の砂浜に《月の沙漠像》がある。海岸線からみると《ラクダに乗った王子様と王女様の像》が広い沙漠をとぼとぼと歩んでいるように見える。唄の文句にあるように『ふたりはどこにゆくのでしょう』というイメージだ。近くにゆくと三日月の石碑があり、《月の沙漠をはるばると旅のらくだはゆきました》と彫ってあり、遠景に対のらくだを配置している。

佐藤まさをのCD(詩と楽譜含む)

月の沙漠記念碑と王子・王女像
〔《月の沙漠》は日本のうたベスト100に入る名曲〕

  NHKが1997年におこなった《BS20世紀日本の歌》(1775万人が投票。あらゆるジャンルを含む)の調査で、月の沙漠は84位に入り、童謡では《赤とんぼ》についで2番目である。心に残る日本の歌としていかに多くの国民に愛されているかが伺える。この歌が生まれたのは大正12年(1923年)、100年近く前の歌とは思えない、新しさと、ロマンを感じ、つい口ずさんでしまう。 ここで《月の沙漠》の歌詞を紹介しよう。

  月の沙漠絵葉書より


1 月の沙漠を、はるばると
  旅の駱駝は行きました。
  金と銀との鞍置いて
  二つならんでゆきました。

2 金の鞍には銀の甕
  銀の鞍には金の甕。
  二つの甕は、それぞれに
  紐で結んでありました。

3 さきの鞍には王子様
    あとの鞍にはお姫様。
  乗った二人は、おそろいの
  白い上着を着てました。

4 広い沙漠をひとすじに、
  二人はどこへゆくのでしょう
  朧にけぶる月の夜を
  対の駱駝はとぼとぼと、
  沙丘を越えて行きました
  黙って、越えて行きました。

 

 

 



YouTubeにて月の沙漠を視聴できます上記矢印をクリックして下さい




月の沙漠記念館2階にある王子・王女像の模型


〔《月の沙漠》の記念像はどうして生まれたのでしょう〕

  月の沙漠の作者・加藤まさをは静岡県藤枝市の出身ですが、若い頃は病弱で静養のため、毎年御宿を訪れ、絵を描くなどして過ごしていました。その当時の様子を加藤まさをは次のように書いている。

【その頃―ざっと半世紀前―の御宿は、今よりもずっと寂かな美しい漁村だった。2キロもある弧状の海岸に白い波が微笑み、小麦色の廣い柔らかい砂浜には、砂丘が幾重にも起伏して、その背中には牛が繋がれて寝そべったり、草を食ったりしていた。

ある夏の初め、この御宿へ、スケッチ函を担いだ青年が病気の静養にやってきた。夜になると月見草の一杯咲く砂山に、昼間はピンクの浜昼顔が咲き,渚にはコスモスのはなびらのような桜貝がこぼれていた】    
                 
『加藤まさを抒情詩画集より』


加藤まさをご夫妻


御宿にある月の沙漠像


  ある夏、まさをはひとりの少年内山保と知り合いになり、よく遊んだが、関東大震災後は仕事も忙しく、
まさをも御宿を訪ねなくなり交流も途絶えた。月日は流れ、昭和40年加藤まさをの元に1通の手紙が届いた。
御宿町商工会長になっていた内山保からのもので、御宿町に月の沙漠の記念碑を建てたいという文面でした。
抒情味あふれる月の沙漠の歌による子供たちの情操教育と町の観光開発を考えての提案でした。
加藤まさをは喜んで協力し昭和44年に「月の沙漠記念碑」が完成したのです。
そして昭和51年加藤まさをは御宿町に居を移しここに永住、この地で没しました

ゆかりの地 〔加藤まさを〕ゆかりの地など
〔月の沙漠記念館を訪ねる〕

 月の沙漠記念館は王子、王女像の砂浜入口にある。2階建ての立派な建物で、外側は石の階段になっており、階段を上ると作詞家・加藤まさをの胸像がある、眼鏡をかけた柔和な目が、遥か先のラクダにのった王子・王女像を見つめている。

月の沙漠記念館


  記念館に入ると月の砂漠の関連商品が販売されている、加藤まさを自身が描いた絵葉書は大正ロマンを代表する竹久夢二、蕗谷紅児に共通する抒情性があり、かわいい美人画だ。また藤城清治が描いた《幻想的な月の沙漠》もあり、思わず買ってしまった。

  加藤まさをのCDには月の沙漠をはじめ、オリジナルの童謡に詩・絵・楽譜が添えられ、地元の子供が歌う、曲によりプロ歌手が歌っている。月の沙漠以外にも沢山の良い詩がありますが、ヒットするのは難しいことなのだと実感する。


夢二の絵に似たロマンがある



加藤まさをのCD
 


月の沙漠楽譜、自筆画


加藤まさをの抒情画

記念館の2階は加藤まさをの記念館になっている

加藤まさをの抒情画作品、居住していた部屋や愛用のバイオリンなどが展示され、DVD映像も見られる。またラクダにのった王子・王女像の模型が展示されている。

加藤まさをの居室、ピアノがある

 

著作集

抒情画


〔月の砂漠でなく沙漠である理由〕

  さばくは普通砂漠と書くので、月の沙漠は間違いでないかと思ってしまう。加藤まさをがわざわざ《沙》を使っているのにはいろいろの説がある。ラクダが渡っていくのは砂浜でなく、月の光に照らされて金色に輝きながら、次々にうち寄せる波の連なりを意味し、月の明るい夜、御宿海岸の砂丘に座って海を眺め、詩人・加藤まさをは海水に濡れたみずみずしい浜をわたり、波に重なる海の沙漠に向かって歩む対のラクダを見ている。そんな解釈をすると《月の沙漠》にますますロマンを感じる。

  記念館を訪問してからユーチューブで月の沙漠をよく聞く、沢山の人が歌っている、中でも井上陽水や山崎ハコ、森繁久弥などの味がある歌い方に接すると童謡とは思えない世界がある。



 

加藤まさをの直筆画


〔御宿にメキシコ船救助の記念塔がある〕

  月の沙漠記念館から車で5分ほどの崖の上に《日西墨記念塔》がある。今から約400年まえの1609年(慶長14年)関ヶ原の戦い後まもなく、スペイン領フィリピンからメキシコに戻る途中のロン・ロドリゴ総督一行が嵐で難破・漂流し、御宿海岸に打ち寄せられた。御宿の漁師たちは総出で遭難者317人を救出し、海女達は温かい肌で暖め、蘇生させたという。1か月滞在の後、当時の領主大多喜氏は遭難者を徳川家康と謁見させた。

  江戸時代徳川幕府は海外に行けるような大きな船の建造は禁止していたが、江戸初頭の家康はウイリアム・アダムス(三浦按針)に新船を建造させ、漂流者一行を1年後メキシコまで送り届けている。

  その後鎖国政策がとられたので、この事は忘れさられたが、明治になって岩倉具視察団が欧米視察中にこの事実を知らされ史実に再登場した。そして1928年(昭和3年)ロン・ロドリゲスが漂白した御宿海岸の高台に日本・スペイン・メキシコ交流を記念して塔(17.5m)が建てられた。
  1978年11月には、ホセ・ロペス・ポルティーリョメキシコ大統領が御宿町を訪れ、若者が担ぐ神輿に乗って《エルマーノ!》(兄弟)と声をかけながら、日の丸の扇子で音頭をとったという。

  その後も大多喜・御宿とアカプリコは親しく交流を続けているという。メキシコと仲が良いのもこんな史実が影響しているのかもしれない。この公園は月の沙漠記念館から近いので是非立ち寄ってほしい。崖の上には、漂流者と海女が抱き合うモチーフの像もあり、心が和む。この高台から眺める太平洋も素晴らしい光景だ。


 



 

日西墨記念塔


遭難者と抱き合う海女の像

〔御宿は雛ざかり〕


御宿も2月下旬から3月初旬は町の幾つかの施設でつるし雛が飾られている。聞くと奥さん連中が手造りで制作しているという。ご当地らしく月の沙漠の可愛らしいひな人形も展示されている。



           
      御宿の吊るし雛
 
                御宿・月の沙漠の雛人形

〔日本一の雛の町・勝浦〕

  御宿町の隣町勝浦は日本一の雛祭りの街だ。今年は大きな体育館のような文化センターが建設され5000体の雛を数十段に飾り見る人を圧倒する。

また1m近い大きな享保雛を並べたり、街中どの店も雛が並び、市民がみな協力している姿が目に映る。遠見岬神社の階段の雛祭りは有名ですがわずか40分で並べてしまうというのも驚きだ。

この雛祭りと月の沙漠記念館をあわせ訪問することをお勧めしたい。


勝浦・5000体の雛段風景



 

勝浦の遠見岬神社の雛祭り風景

青木青眠 記
inserted by FC2 system