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〔偉人〕

葛飾北斎(かつしか ほくさい)

 
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川合玉堂 川端康成 加藤まさを
葛飾北斎 河合継之助 上総介広常

プロフィールバー 〔葛飾北斎〕のプロフィール
俗称・筆名 葛飾北斎
本名 中島時太郎、後に鉄蔵に改名
生誕 宝暦10年(1760年) 江戸本所割下水に生まれる。父は河村清七 河村家は武士で代々御庭番の可能性が高い。母は御用鏡師・中島伊勢の姉である
死没 嘉永2年(1849年)4月18日 死去 享年90歳
出身地 江戸本所割下水(現東京都墨田区亀沢町)
最終学齢 師は勝川春章
職業 画家、イラストレータ、浮世絵師
ジャンル 芸術
活動
代表作 『富嶽三十六景』
『北斎漫画』
『東海道五十三次』
『諸国瀧巡り』
『富嶽百景』
『諸国名橋奇覧』
『椿説弓張月』の挿絵
記念館 〔すみだ葛飾北斎記念館〕
 東京都墨田区亀澤2-7-2
 TEL:03-5777-8600
 http://hokusai-museum.jp

〔信州小布施・北斎館〕
 長野県上高井群小布施町大字485
 TEL:026-247-5206
 http://hokusai-kan.com/

〔墓〕
 誓教寺
 台東区元浅草4-6-9
言葉・信条 ◯死を前にして「天我をして十年の命を長ふせしめハと言い、天我をして五年の命を保たしめハ、真正の画工となるを得へしと、言どもりて死す」と記されている。

辞世の句: 飛(ひ)と魂(だま)でゆくきさんじや夏の原  墓碑にあり

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川端康成の写真
渓斎英泉画の葛飾北斎

川端康成の写真
菩提寺聖教寺の葛飾北斎像


人生履歴 〔葛飾北斎〕の人生(履歴・活動)
葛飾北斎 略歴
1765年

6歳から好んで絵を描く

1778年(安永7年)

19歳 勝川春章に弟子入り、 雅号春朗を名乗る

1792年(寛政4年)

33歳、この頃勝川派を破門される。生活は困窮

1793年(寛政5年)

34歳、叔父鏡師・中島伊勢に入り、狩野派の絵を学ぶ

1804年(文化元年)

45歳 東海道53次シリーズを発表

1806年(文化3年)

47歳 読本挿絵で圧倒的人気を博す

1808年(文化5年)

49歳 墨田区亀沢町に一度だけ家を新築、

1812年(文化9年)

53歳 名古屋を中心に大阪・和歌山・三重に滞在、北斎漫画を発刊始める、55歳の時北斎の号を弟子に譲る

1827年(文政10年)

68歳 富嶽三十六景発刊 中風患うが自ら薬を調合し治す

1834年(天保5年)

75歳 画狂老人卍号使い始める、浦賀に潜居

1844年(弘化元年)

85歳 信州小布施に滞在、天井画を描く、

1849年(嘉永2年)

90歳 4月18日 永眠



〔葛飾北斎〕

 葛飾北斎は江戸後期に活躍した日本を代表する画家である。北斎は幅広い分野の絵を描いている。役者絵に始り、流行小説の挿絵、美人画、風景画、漫画、天井画等真に多彩である。名前を変えること30回、転居回数93回と謎が多く、日本より海外で知られ、御用画家になるより、庶民の中で生きた画家・葛飾北斎を紹介する。  

〔世界の有名人・葛飾北斎〕

  西暦2000年を迎えるに当たり、アメリカのグラフ誌ライフが『この千年間で世界において大きな業績を残した人物100人』を選ぶアンケートを有識者に対し実施。日本人としてはただ1人・葛飾北斎が86位に選ばれた。北斎は日本以上に海外で知られ評価されている。
 
ちなみに上位国は米国17人(エジソンが等、イギリス12人(ダーウイン等) イタリア15人(コロンブス等) フランス9人(パスツール等) ドイツ6人(ベートーベン等)である。芸術分野では14人、北斎は世界でベスト10に入る芸術家である

 



〔すみだ北斎美術館を訪ねる〕

  葛飾北斎の出身は東京都墨田区である。《すみだ北斎美術館》はその生地に 2016年(平成28年)に開館した。記念館は北斎通りに面し、江戸時代の地図を見ると、本所割下水と言われる。下水の呼称は江戸初期1650年頃、開鑿され名づけられた、今は暗渠でその上が北斎通り、北斎はこの近くに住んでいた。

北斎記念館は4階建てのモダンな建物である。すみだ北斎美術館に入ると1階フロアには北斎関係の本、絵葉書、手拭い等沢山の土産品が販売されている。
1階にはこの記念館開設にあたり支援した企業、個人の名前が石に刻まれている。多くの方の支援により記念館が開設されたことがわかる

この北斎美術館は、墨田区が収集してきた作品と北斎研究家・ピーター・モース氏のコレクション、浮世絵研究家・楢崎宗重氏のコレクションを収蔵し、2016年葛飾北斎の生地にオープンした。
 
 3階が入場階で特別展示会場となっている、4階の一部が常設展示場である。訪ねた時の特別展は「大江戸グルメと北斎」と言うタイトル、和食がユネスコ無形遺産に登録されたのを記念し、北斎の食に関係する作品が展示されていた。 

 「北斎漫画」に描かれている食に関係する作品、例えば、農業、漁業、調味料、食材(魚、野菜、果物、)料理人、レシピ、江戸のグルメ、各地のスイーツなどのジャンルごとに北斎画が紹介され、北斎の多才ぶりがわかる。
 常設館は黒を基調にした落ち着いた雰囲気で3階が展示場になっている。入ると東海道五十三次の作品が出迎える、北斎の画号はしばしば変わり、その年代毎に代表作が展示されている。説明板をタップすると代表作と解説があらわれる。北斎のデビュー作は岩井半四郎の役者絵、有名な「神奈川沖波裏」の木版刷りの工程を含み細かく解説されている




すみだ北斎美術館全景

すみだ北斎美術館の夜景


美術館前の北斎通り

北斎グルメ展のポスター

北斎の通称・赤富士の敷石
 
〔北斎の年表〕
  死去 出生

                                     日本の美をめぐる北斎より

〔北斎の子供時代〕
  北斎が晩年に語った言葉として《6歳頃より物の形を写す癖があり、作画への興味は強かった》と述懐している。川村家という御家人の家に生まれているが、貸本屋の小僧や、木版の文字彫を経験し、浮世絵や彫師の基礎知識、技能を培ったという。
おそらく彫師の修行終えた20歳頃に中島家に養子として迎えられ、長男がある程度成長してから自分の代わりに相続させたらしい。滝沢馬琴が北斎の養子問題についてこう書いている。
『居を転ずること、名を変えることは、この男ほどしばしばなるはなし、壮年その叔父御鏡師中島伊勢が養子となりしが、鏡造りの技をせず、その子をもって職を継がせしが、そは先立ちてみまかれりーーー』と、寛政10年に中島家を出ている。

〔北斎の画号、絵の変遷〕

 春朗 20~35歳 1779年~1794年 この時代の美人画浮世絵師の第一人者である勝川春章より、春朗という師匠の名前をもらい役者絵・岩井半四郎でデビューし黄表紙の挿絵も描いている。最古参の兄弟子との折り合いが悪かったこと、隠れて狩野派の絵を学んでいた等、何れかの理由で師・春章の亡き後、破門された。
宗理 36~39歳 1794年~1798年宗理は光琳派に属する画号で、北斎はこの時期光琳風の肉筆画を描くようになった。また狂歌の擦物や狂歌絵本の挿絵等を描いている。

  北斎 39~56歳 1794~1811年 宗理の号は返却し北斎を名乗り独立する。 読本の挿絵、特に滝沢馬琴と組んだ『椿説弓張月』の挿絵は人気を呼び大ヒット作品となった。他に北斎辰政、可候、画狂人等も使う。戴斗(たいと)51~60歳 この時代全国に点在する弟子のために北斎漫画の出版を初めベストセラーとなる。この時期、江戸名古屋等で大ダルマを描く、大イベントを開催した為一(いいつ)61歳~75歳 富嶽三十六景等の代表作を描く、中風を患うが自分で薬を調合し克服する。69歳の頃シーボルト事件に遭遇。画狂老人卍 75歳から90歳  この頃は錦絵から遠ざかり、肉筆画に傾注し,落款に年齢を書きいれるようになる。最晩年信州小布施に出掛け寺や山車の天井画を描いている。



北斎辰政の亀図

 

読本・椿説弓張月の挿絵

〔葛飾北斎の容貌〕

  作家・藤沢周平が北斎について書いた「溟い海」という小説がある。その中で北斎をこんな風に紹介している。《北斎の大きな躯が目立った。手織りの粗い紺縞の木綿着、その上から柿色の袖無袢纏の色あせたものを羽織り、肩は広く、胸も厚い。人なみすぐれて大きい耳と鼻、顎ががっしりとはって、細い眼に、刺すような光がある 見るからに一癖ありげな老人》と。北斎は人並以上に大男だったと紹介している。

  菩提寺のある上野・聖教寺にある銅像は晩年の自画像を基に制作したと言う像ですが、温和で目鼻立ちも良くいこじさは感じられない。北斎の自画像は自分で描いたものは丸顔で、他人が描いたものは角ばっているという論文もある。
 


 


菩提寺・聖教寺の北斎像


〔信州小布施の北斎館〕

  北斎館は信州小布施の真中にある。館内には北斎の代表作がジャンル別に見やすく展示されている。館内は撮影禁止だが途中、赤富士の凱風快晴と神奈川沖浪裏の富士をバックに記念写真が撮れるコーナーがある。多くの来館者はここで記念写真を撮っている。

  館内最後に2台の祭り屋台が展示され、その天井画には「鳳凰と龍」と「男波女波の怒涛図」が描かれている。170年の時を経てもその濃密な彩色はあざやかで力強い構図は80歳代後半の作品とは思えない迫力があり魅入った。

 お土産コーナーが一室用意され多くの土産が販売されている。ここで北斎生誕250年記念の『現代に生きる北斎』という講演録を買い求めた。その内容は今は亡き北斎研究の第一人者永田正慈氏の「北斎・風景画の本質」、「北斎殺人事件」を書いた作家高橋克彦の講演録、小布施生まれでこの地に記念館がある中島千波氏の講演録である。


 




小布施北斎館
入り口

神奈川沖波裏の記念写真コーナ

〔北斎80歳代後半に小布施を訪ねる!〕

  芸術と文化が花開く街、栗で有名な小布施、江戸時代より、せきと呼れる用水路があり、助け合いの思想で100件軒以上の家で庭を解放、ビールを振る舞う家もあるという。一期一会の街・小布施は観光で成功した街と言われている。

  幕末の豪商・高井鴻山の商家の土蔵を訪ねた。北斎が小布施を訪れた回数と歳が掲示されている書を見つけた。その書によると初めて北斎が小布施を訪れたのは1842年(天保13年)で北斎83歳とある。高井鴻山は36歳、高井鴻山は喜んで北斎を迎え、アトリエを建てて厚遇し、鴻山は先生と呼び、北斎は旦那さまと呼び長く滞在した。

 2回目は1844年来訪し東町屋台の天井画・鳳竜を描く、三度目は1845年に来たり天井画怒涛図を描き、翌年完成させた。1846年88歳で四度目の来訪で岩松院の大きな天井画・鳳凰図を描いている。まさに死の直前に、北斎は89歳で江戸に帰り、翌年1849年4月18日90歳で浅草に没している。


 




北斎館の撮影可能な装置



北斎館の山車の天井画


〔高井鴻山記念館を訪ねる〕

  北斎の晩年、友好関係を深めていた信州小布施の豪商・高井鴻山の記念館は、北斎記念館からも近く、高井鴻山の屋敷跡に記念館が建てられ、幾つかの土蔵には文庫、書、絵の掛軸、などが展示されている。高井鴻山は京都、江戸に遊学し、国学、漢学をはじめ、歴史、地理、化学、本草学、生理学、天文学、数学などあらゆる分野に通じ、極めている。漢学は当時最高の学者梁川星厳を師としていた

 絵は葛飾北斎を師とし、その技量も高く、館内には高井鴻山の 書や絵が沢山展示されている。中でも北斎が原画を描き鴻山が完成させたとい言われる《象と唐人画》という絵が面白い。江戸時代としては珍しい象の絵だ。

 象が海外から江戸に送られて来たのは珍しく。象の背では唐人三人が煙草を吸っている。また鴻山の妖怪画や豪胆な字が幟に書かれている。鴻山の日記には北斎は前触れもなくふらりと訪れ、またふらりと帰っていったと書かれている。。


 




高井鴻山記念館の入口
  高井鴻山像



北斎が下図を書き、高井鴻山が完成させたという象の図

     


〔北斎の風景画、美人画等を楽しむ〕

  葛飾北斎は風景画、美人画の名人でもある、いずれも他の画家とは一味違い独創的だ。そこが西洋で評価された理由ではなかろうか!
北斎の楽しみ方を以下に紹介しよう

1.富嶽三十六景 楽しむ
 大手出版社・西村屋与八と組み、富嶽三十六景を発刊し、大ヒットさせた。 北斎のこの作品は見る場所、季節、天候、時刻によって変わる富士山を絵に取入れ、46枚現存する。神奈川沖浪裏,凱風快晴がその中での代表作である。
同じジャンルで安藤広重の東海道五拾三次 とよく比較されるが、北斎の東海道は人物中心であり、、広重は宿場の景観を描写している。人により好きづきがある、私は北斎の独創的な構図が好きだ。

2.諸国滝巡りを楽しむ
 いずれもその独創力、見方に驚く。例えば木曽路の阿弥陀ケ滝は瀧の上に湖を書き、滝の途中の崖で酒を酌み交わしている。その構成力に引き込まれる。

3.諸国の橋の絵を楽しむ
 北斎の百橋一覧図は1枚の絵の中に100の橋を描いている。後年この橋を「諸国名橋貴覧」(1834年)11枚に纏めている。奇覧というように北斎の空想力で洋風の遠近法と和漢の画法をマッチさせた作品となっている。

4.美人画を楽しむ
 北斎は風景画だけでなく、若い頃、美人画を描いている。濃密な彩色と、二人の美人の姿態も素晴らしい。師の勝川春章の美人画は値千金と言われ、北斎はその高弟である。

5. 北斎の空想力、怪奇を楽しむ
葛飾北斎の空想力は抜きんでている。下記の作品を鑑賞しよう。

1)唐土名所の絵
  北斎は空から全体を眺める鳥瞰図に秀でている。東海道名所一覧や木曽名所一覧等日本の名所図だけでなく、中国全土を俯瞰した「唐土名所図」は凄い。三国志等をよむ場合中国の地図が解らない時、この様な概略図があると理解するのに大変参考になる。

2)小布施・岩松寺の鳳凰図
 小布施・岩松寺の鳳凰図は床に寝て見上げると何処からも睨まれているように見える図で有名、山車の天井画は迫力のある怒涛図で絵に若さを感じるが北斎85歳以後の作品だ。

3)怪奇な幽霊や、春画
 江戸時代の有名な怪談四谷怪談や番町皿屋敷のお岩さんを等を描いた図や弘法大師と鬼の対決を描いた「弘法大師修法図」等 空想力、迫力は素晴らしい。たこを相手にした春画も名作と聞く。


 




神奈川沖波裏
 
諸国瀧巡り 木曽阿弥陀ケ滝



富嶽三十六景

 

諸国名橋奇覧の一つ、飛騨のつりはし
 

北斎の美人画・二美人図
 

唐土名所図
 

岩松寺の鳳凰図
 
怪奇図
さらやしき

〔ヒット商品・北斎漫画〕

  北斎漫画は今でいうマンガとは意味がちがい『よろずの絵』と言う意味で、庶民の日常風俗から、植物、動物,故事歴史、人物等世の中の森羅万象を約4000カットに描いている。これがプロの絵描きの教本として、また絵を学ぼうとする人々の手本になっていった。

  北斎55歳の文化11年(1814年)から明治11年(1878 年)までに全15巻が発刊された。当初10巻で完了する予定が好評で、北斎亡き後も販売されていた。現在でも北斎漫画は文庫本、一般物として販売されている。

 海外では陶磁器を送る際の緩衝材としてたまたま使用されたものが、あまりに出来ばえが良いので評判となり、印象派の画家・モネ、ドガ、ルノワールやゴッホ等に影響与え、欧州全域に広がり、後に熱狂的ジャポニズムのキッカケとなり、葛飾北斎は超有名人になった。


 




和綴じ本の北斎漫画

北斎漫画の相撲、俵担ぎのイラスト

北斎漫画の一コマ

〔北斎めぐる5つの謎〕

1. なぜ北斎は33回も名前(画号)を変えたのだろうか?
画家にとって画号はブランドであり、芸術家の名前を知らしめるのは大変な時代であったのに、なぜ自己ブランドが有名になると弟子に譲ってしまたのだろうか? お金のために売ったと言う説もあるが、新しいブランド確立するにはもっとお金がかかるのにと思う。

2. なぜ93回も引越しをしたのか?
北斎は1度自宅を新築したことがあるが、生涯のほとんどが借家住まいであった。引越しもお金がかかるものだが?

3. なぜ江戸時代に90才まで生きられたのか? 
北斎長寿の秘密参照


4. 北斎は貧乏であったというが?
北斎を描いた小説や映像では死ぬまで貧乏に追われているイメージがある。しかし北斎はベストセラー作家であり、今でいう高額所得者であった、酒は飲まず食も質素であり、貧乏のはずがないと言う説もうなずける。
5.北斎は日本より海外で有名なのはなぜ? 
北斎の美人画、錦絵、風景画、北斎漫画等は人気があり、海外にも多く流れ、欧州の印象派の画家に愛され、ジャポニズムブームを引き起こした。輸出禁止の時代に!

 

〔北斎・70才の誓い・言葉〕

 葛飾北斎が70才の頃、富嶽百景の中で述べている言葉は、人生百年時代の現代、《シニアを元気にする言葉》としてここに紹介しょう。

『私は6才頃から物の形を写生する癖があり、半百(50才)の頃から作品を発表してきたものの。75才より前のものは取るに足るものはなかった。73才で禽獣虫魚の骨格や草木の出生の理をいくらか悟ることができた。であるから(努力を続けることによって)80才になればますます進み、90才ではさらに奥意を極め、百歳になってまさに神妙の域になるのではないか。百何十歳では、描く物の一点一格が生きているようになるだろう。願わくば長寿を司る聖人(神)よ、私のこの努力への言葉が偽りでないことを見ていてください』  画狂老人卍述

葛飾北斎は70代半ばに達してもたゆまぬ作画への努力を誓い、百何十歳で達する画技の向上を予見した心意気を示している。これ以降の最晩年期は浮世絵版画を減らし肉筆画に力を注いだ。


   
 

北斎の団扇に描かれた群鶏図

〔葛飾北斎・長寿の秘密〕

 今から260年も前に生まれ、90歳まで生きた北斎、その長寿の秘密は何であろうか、今の我々にも参考になることがありそうだ!!!
「北斎の娘」というテレビ映画を見たことがある。この中で北斎が脳梗塞で倒れ、看病疲れで奥さんが先に亡くなる。北斎の方は回復し、その後は自分で薬も調合し、90歳まで元気に過ごした。長寿の秘密を書物や菩提寺の和尚さんのお話しなどから推察すると次の3つになる。

1. 好奇心旺盛で新しいことに生涯挑戦した

同時代で有名な画家.写楽、安藤広重、北川歌麿など分野が固定しているのに、葛飾北斎の場合、彫師、肉筆画、錦絵、美人画、狂歌・読物の挿絵、漫画、天井画等時代に応じ新しいジャンルに挑戦している。

2. 日頃から良く歩き、足腰が強健だった
もともと6尺近い大男だったようですが、関東にとどまらず関西、名古屋等を歩き廻り84歳~88歳の間に信州・小布施を4回も往復している。信州に行くには碓井峠を越え片道270km歩かねばならない、この距離を7日間で踏破している。今の84歳の人では平らな道でも1日10km歩ければ良い方ではなかろうか!

3. 健康管理に努めた 
若い頃から酒、たばこはたしなまず、中風で倒れた後は自分で薬を調合し、健康管理に注意を払っている。 近くに整骨やヨガをよくするお医者がおられ、よく聞き、日頃から体調管理には努めていた。


   
老年の葛飾北斎像
 

 

〔葛飾北斎の謎をとく鍵として
  『小説・北斎殺人事件』がある〕


 2011年に北斎誕生250年記念して小布施北斎記念館で「北斎殺人事件」の著者・高橋克彦氏が面白い講演をしている。 北斎が幕府のスパイであったという説を展開し、《北斎の謎》を解明してゆく、この展開が面白く引き込まれた。その幾つかを以下に紹介しよう。

北斎が隠密だったという根拠

1.父親の家系・川村家はお庭番の武士であった、母は忠臣蔵で有名な吉良家の剣客・小林平八郎の孫娘であったという。菩提寺の北斎の墓には川村と彫られている。

2.絵師は今のカメラマンのようだった、砲台設置の候補地を廻り絵を描く、北斎は遠近法をマスターし俯瞰図を得意とした。神奈川沖波裏は1/4000秒で波を描いている。

3.北斎の旅した場所は、浦賀、房総、三重 等海に近い国防の重要拠点に出掛け海に関係する絵を多く描いている。

4. 北斎は30数回にわたり引越しを繰り返し、1箇所に定住していない。

5. 間宮林蔵と葛飾北斎は隠密同士、シーボルトとは絵の販売で交流があり、欧米に北斎作品は多く輸出されている。

6. 最晩年に小布施の高井鴻山との交流が深い。鴻山は開国派の人と親交があり、北斎は鴻山の行動を監察する任務を帯びていた。
高橋克彦氏は推理作家として北斎の謎をスパイ説で解明している。一読を奨めたい



   

北斎殺人
事件 表紙
 

シーボルト 北斎作品を世界に紹介

 

〔大イベント、21畳の大達磨描き、
    また米粒への雀描きのパフォーマンスを演出〕


 葛飾北斎は1804年の江戸護国寺の観世音開帳で120畳敷きの達磨絵を大衆の面前で披露した。当時の文化人太田南畝は次のように紹介している。
 《北斎初めて大画の達磨を描けり、まづ庭上一面に麦わらを敷き畳数120畳の大厚紙を、その上に置き墨汁を酒樽(4斗入り)に充て、藁箒をもて、筆に代え、あたかも落葉を払うかのごとく、紙上を馳せ廻りて、異形の山水の如きものを作る。暫時にしてなると言えども、見るもの、その何たるを弁ぜず、さて本堂の上にのぼりて、これを見れば、即ち半身の大達磨なり、全図の広大なる、口に馬を通すべく、眼に人を坐せしめて余りあり、衆其腕力の奇巧に驚かさるはなし》と作画の様子を記している。

 両国・回向院では大達磨を描いた後《米一粒へ雀2羽を描く、人みな肉眼をもてこれを見るに苦しむ》 と紹介されている。

 1817年(文化14年)名古屋に滞在の折、大達磨を描くパフォーマンスを実施した。尾張藩主徳川宗治は徳川吉宗の享保改革の緊縮を旨とする政策に真っ向から挑戦し派手なパフォーマンスで町を活性化させようとした。このような文化壌土がある名古屋では北斎の大達磨イベントは大きな反響を呼んだという。






   

北斎のダルマ描きを紹介する新聞記事
 

北斎のダルマ描きの描写図

 

〔北斎・ネーミングの由来〕

 生活にも窮していた若い頃、柳島の妙見山法性寺に21日間お参りし満願の日の帰り道で落雷に会い失神、その後、絵も売れ出し《柳島の妙見さま》のお蔭と妙見様を信仰をするようになった。

 北斎の菩提寺聖教寺を訪ねた際に和尚さんが言ってことを思い出す。《北斎の北は北極星を意味し、北極星はご存知の通り動かない星、北斎は「不動心」を生涯追求し画号も「北斎」とし柳島の妙見様を信仰した。

 柳島の妙見様は観光名所・スカイツリー近くの十間橋の脇にあり、妙見山法性寺という。本尊の妙見菩薩は北極星を神格化した菩薩である。石碑には北斎の代表作の絵が描かれ北斎の資料、作品展示室も寺内にある(入場は午後3時まで)、北斎の画号には辰政、辰斎、雷辰など北極星・北斗七星を意味するものが多い。






   

 

 

〔岩松寺の天井画 80代後半に描く〕

 小布施の町はずれに岩松院がる。この寺の天井画は北斎最晩年89歳の作と言われる21畳敷きの大きな極彩色の鳳凰図だ。170年たっても全く退色はない。説明員は床に、寝そべって天井を見て下さいと言う。どこから見ても自分を見ているように見えると言う。
別名「八方睨みの鳳凰図」とも呼ばれる。
89歳の絵には見えず迫力がある



   


岩松院の鳳凰図

岩松院の入場券


岩松院本堂
 

 

〔小布施ミュージアム中島千波館〕

 小布施の町中に広い敷地と日本建築の立派な中島千波館がある。
なぜ小布施にあるのだろうと疑問をもった。中島千波のお父さんは画家で戦時中小布施に疎開をした。

 中島千波は終戦の年1945年にこの地で生まれ、その後この地と関係ができ、横浜に帰ったあとも、スキーなどにもよく来られ第二の故郷のような関係にあり、この地に記念館ができたと聞く。お父さんと千波作品が別々のコーナーで展示されている。

 北斎の250年記念講演録を見ると、北斎の絵についていろいろ述べられている。《出る杭はうたれるが、北斎は40才位で杭が出すぎて打たれなくなった》という表現を使っているのが印象的だ。鎖国の時代に輸入物のベルリンブルー(通称ベロ藍)をふんだんに使い、多くの昨品を描いていること等も紹介している。

小布施を訪ねた折には中島千波美術館も是非立ちよって欲しい。



   

中島千波館の全景
 

中島千波館の代表作 淡墨桜

〔北斎は川柳の名手だ〕

 渋温泉は信州中野市から車で30分、猿が温泉につかっているので有名な奥信濃の温泉だ。温泉街の道は狭い、旅館の入口や至る所に北斎の句碑が187ある。玄関を掃く女将さんに”この碑はなんですか?“と声をかけてみた。即座に北斎の句碑ですよという、その旅館の前にも3つの句碑がある。《北斎の句はひねって有るのでちょっとむずかしいですよ》という、句碑は30年前から設置され始めたと言う。

 「ひしや寅蔵」という宿の主人ならなんでも知ってますよ と言われる。この温泉街の一番館・金具屋さんの相向かいにある旅館を訪ねてみた。声をかけるも朝早いせいか玄関には人の気配も無い。この旅館の前にも3~4句碑が並び、斜め前には句碑全体のいわれが石碑に書かれている。


   

川にかかる渋温泉の橋
   
 



渋温泉川柳句碑

 
渋温泉の古い旅館

 

〔北斎は川柳も詠んでいた〕

 北斎の句碑の意味がわからないので、観光協会より解説書「北斎は川柳も詠んでいた」を取り寄せた。この本では句を易しく解説している。

 葛飾北斎は若い頃から川柳をよく読み、「誹風柳多留」の中に700句が掲載されている。その中から187句を選ばれ街中の石碑となっている。江戸の中頃、76年間の長きに亘る川柳を纏める時、葛飾北斎が選者に推され、その序文を書く羽目となった。北斎は再々辞退したが、やむなく書くので咎め立てをしないで欲しいとお願いして書いている。

 この碑文の最後は文政八年夏、「前北斎葛飾為一述卍 」となっている。この碑序文では『和歌の道は人の道の真実を正面から詠っているが、川柳は人生の裏側から心理を追求したもの』と言っている。 おもてを読むより、裏から見て、真実を面白おかしく批判する方が難しい。芸術美術全般に精通してる北斎故にこんな川柳を読めたのだと思う。

北斎が卍の号を川柳で使い始めたのは北斎66歳の時から90歳までの24年間、画の方で卍を使い始めたのは10年後の76歳から、川柳の方が元祖である。参考までに北斎の川柳を数句下記に掲載して見ましょう

    ・弱よく強を制しマア寝なんしょ  no44
    ・性は為名は荘字ハ郎としゃれ    no46
    ・古事記いせやハ浦安の島を看せ  no47
    ・女夫石割かれぬ先きハ転び合い  no 65
    ・泥水でお玉いけなく成っている  no66
    ・悲と魂でゆく気散んじや夏の原 no187   辞世の句



   

渋温泉の北斎川柳の解説書
 

渋温泉の川柳石碑の序文

 

〔葛飾北斎の娘・お栄のテレビドラマを見た〕

 葛飾応為(お栄) は 美人画を良くし、夜の美人画が有名だ。「北斎の娘お栄」というNHKのテレビドラマをみた。娘お栄は離縁され実家に帰り、北斎の絵描きを手伝っている設定だ。北斎の職場には5-6人いて、北斎も熱心に絵を描いている。北斎は日頃から娘をオ-イと呼んでいたので応為というが画号になったという逸話もある。


  北斎が脳梗塞で倒れ10日以上も意識が無く寝込むシーンがある。超高齢の90才まで生きた北斎が途中で倒れたことは初めて知った。

  お栄は北斎最後の小布施行きにも同行し、岩松寺の天井画も手伝っていたが、北斎亡き後の消息は良くわからない。

  すみだ北斎記念館には北斎人形が炬燵に入ったまま、一心に絵を描いているコーナーがある。北斎が持つ絵筆が動くのでリアル感がある、そばでお栄がラフな格好で北斎を見ている、部屋の中は描いた紙が散らかっている。北斎84歳頃の設定とある。




   

絵を描く北斎とそれを見ている娘・お栄
 

娘応為(お栄)の美人画

 

〔北斎画は外国人に人気があった〕

 寛政10年頃北斎はオランダのキャップテン・医師に300両で絵を売っている。日本の男女の誕生から死まで、2本の絵巻物に纏める作品で1セット150両、2組で300両、仕上げて滞在中の宿泊先に届ける。

 キャップテンはすぐに払うが、医師は半分にまけろという。北斎は憤慨し怒り持ち帰る。妻は75両でも売れば良いといったが、売れば損はしないが、日本の恥になるし、キャップテンに申し訳無いという。キャプテンは北斎の潔よい言動に打たれ、残りの2本も買い求めたという。

  300両は今に換算すると5000万円になる 北斎も遠近法、陰影法など洋風版画の吸収に興味を持っていた時期、オランダ商館のオランダ人は2年に一度江戸に参府し、定宿・長崎屋は日本橋にあった。北斎の作品は外国人に喜ばれ、北斎は積極的に交流をしていた。商人も両方からマージンが取れるので、良い商売になっていた。
 




   

人気の北斎美人画
 

西欧銅版画の技法を取り入れた作品

 

〔英国博物館で開催された葛飾北斎展〕

 葛飾北斎はシーボルト事件の際にも疑われたが、弟子が身代わりになり、免れたという。北斎は海外の絵の具材を求め、欧州の画法も習得し活用していた。

  後にシーボルト等が購入した北斎作品が欧州で出版され、印象派の画家やゴッホ等に絶賛されジャポニズムのキッカケとなった。

  2017年大英博物館で開催された《北斎-富士を越えて》(Hokusai beyond theGreat wave》は今までにないほどの入場者を集め大人気だったと報じられた。斬新な構図、人体表現の巧みさ、遠近法を大胆に使った神奈川沖波裏の展示等が評価された。代表作「神奈川沖波裏」の作品は世界に100枚しかなく、大英博物館が3枚所有しているという。
 




   

ロンドンでの北斎展ポスター
 

海外でも人気の神奈川沖波裏

 

〔ますむらひろしの北斎画展〕

 ますむらひろし氏は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」・の作者で
太った猫・ヒデヨシがユーモア感あふれる姿でアタゴールの住人達と北斎の富嶽三十六景の中に入り込むファンタスティックな漫画にしてしまうものです。
 
この作品展が2016年八王子市の夢美術館で開催され、偶然これを見る機会に恵まれた。北斎の絵と横にアタゴールの北斎画が並び展示され、思わず吹き出してしまう、アレンジされた富嶽が展示され楽しく拝見したことを覚えている。

アレンジされた葛飾北斎のこのような作品が生まれることは
北斎の偉大さに依るのだ。この時購入したB4版
《ATAGOAL HOKUSAI》をみると心が楽しくなる


   


アタゴⅠルの北斎富嶽三十六景
   

北斎の駿洲江尻図


 
アタゴールの駿洲江尻図
 

 

〔北斎は滝沢馬琴とは親しかった〕

 江戸時代の人気作家滝沢馬琴とは葛飾北斎は一緒に住んで仕事をしていた時代がある

  滝沢馬琴の代表作・鎮西八郎為朝を描いた弓張月、長編時代小説・南総里見八犬伝はベストセラー作品だが、この小説の挿絵を北斎が描いている、挿絵が良かったのでヒットしたとも言われる。

  文化5年(1808年)  春から夏にかけ馬琴宅に寄宿し弓張月初め7種の著作の挿絵を担当、馬琴の主旨を理解し臨場感のある挿絵を提供、2人三脚で作品を上梓した。 2人は親しかったが、北斎が馬琴の言うことを聞かずよく衝突していたという話もある。
 




   

弓張月の挿絵
 

南総里見八犬伝の挿絵

 

〔葛飾北斎作品の値段〕

 値上がり率第一の北斎作品
  江戸後期の大判錦絵は1枚20文で売られていたという 、当時屋台蕎麦は1杯16文で、現代の価格にすると600円程度、安い価格だ。富嶽百景の代表作なら今5000万円を下らないという。普通の三十六景でも100万以上というから、200年たって北斎の人気作品は蕎麦1杯から蕎麦屋1件が買える値段となり、値上率は世界でもトップクラスではなかろうか。

 




   

三河の八つ橋古図
 

凱風快晴

 

〔小布施には福島正則の墓がある〕

 葛飾北斎の天井画・鳳凰で有名な岩松寺内には戦国大名の福島正則の墓がある。正則は関ヶ原の戦いで家康に味方し德川軍の勝利に貢献している。広島城の城主(49万8千石)であったが、許可なく城を改築したことを咎められ、信州小布施に左遷され4万.5千石におとされた。死後、領地没収に会う。不運な武将福島正則の墓は何となく寂しく感じられる。


   

福島正則公廟の説明文
   

  俳人小林一茶がこの寺にお参りした時、池の蛙がうるさく鳴いているので

 痩せガエル負けるな一茶ここにあり  

と呼んだという。その池がこの寺にあり《やせガエルの句碑》がたっている。

 
小林一茶の句碑

福島正則公廟

 

〔新北斎展 -永田生慈コレクション-〕

 葛飾北斎の参考書を探すと永田正慈氏の著書が圧倒的に多い。正慈氏は若い頃より北斎作品を収集し故郷・島根県・津和野に1990年に葛飾北斎美術館を開設した。しかし惜しくも2018年2月66歳の若さで死去された。

その北斎作品1000点を島根県に寄贈し、新しい島根県立美術館で公開される予定である。その前に永田生慈氏のコレクションを公開展示しているのが『新北斎展』(森アートセンターギャラリー)です。東京でこれらの北斎作品を見られる最後の機会かも知れない。


   

新北斎展の著書・葛飾北斎                 新北斎展のポスター
   
  展覧会は北斎の代表的画号ごとに代表作を展示している。最後には最晩年の肉筆画・弘法大師修法図が展示されている。3畳からの大作で大師が流行する疫病を鎮めんと病魔と闘う迫力に打たれた。  
新北斎展の世界

新北斎展の弘法大師修法図

 

〔葛飾北斎の墓を訪ねるか〕

 誓教寺 上野駅から20分 稲荷町駅から5分

上野から浅草にかけてお寺さんが多い。北斎の菩提寺・聖教寺の参道に入り、掃除をされている方に声をかけたら和尚さんであった。北斎の事をいろいろ話して下さった。本堂横に北斎像がある、生誕250年?を記念して制作したもの、晩年の北斎の自画像から制作したと言うが、とても良いお顔だ。
  隣に北斎生誕200年の碑がある。北斎の画号に富士山をデザインしている。和尚さんも話し好きで、葛飾北斎の墓地まで案内して下さり、逸話も色々話してくださった。この辺り今でも寺は多いが、関東大震災、空襲で多くの寺が被災し他に移転していったと言う。

  風景画で北斎と共に有名な安藤広重や、美人浮世絵画家の歌麿の墓もこの地域にあったが、2度の震災で移転していったという。そういえば伊能忠敬も近くの現空寺に眠っている。

  本堂の横の墓地に珍しい小さな祠がある。これが北斎の墓である。石の高さは1m程だが石の表面は黒ずんでいる。和尚さんの話では2度の大災で焼け黒ずんだのだという。墓碑銘には晩年の《画号・画狂人葛飾卍》と大きく書かれている。                                    

一般の院号付きの墓ではなく味のある墓碑は親しみやすく北斎らしい。




   

 

聖教寺にある北斎の墓

 和尚さんに葛飾北斎が90歳までも生きられたのはなんでしょうか?と聞いてみたら、 下記の様な答えが返ってきた。

①  健康管理に常日頃心がけていた、酒・煙草はやらなかった。

② 近くに整骨やヨガをよくするお医者がおられ、よく聞き日頃から体調管理に努めていた。

③自分で薬も調合し服薬していた

④80代後半でも信州小布施に3回も出かけるほど足を鍛えていた  

北斎の辞世 人魂で行く気散じや夏の原、
     芭蕉の辞世  旅に病んで夢は枯れ野を駆けめぐる    どこかにている




   

菩提寺・聖教寺の和尚さん
 

菩提寺にある記念碑


〔参考資料〕


現代に生きる北斎
北斎館発行
  日本の美 北斎
小学館刊
  葛飾北斎 永田生慈著
吉川弘文館
  北斎殺人事件 高橋克彦著
講談社
 
葛北斎は川柳も詠んでいた
渋温泉旅館組合刊

  葛ATAGOAL HOKUSAI
ますむらひろし著
有限会社風呂猫刊
 

   
青木青眠 記
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