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孔子

〔こ〕の著名人 小泉八雲 小池邦夫
孔子    

プロフィールバー ◆〔孔子〕のプロフィール。
俗称・筆名 孔子字名(あざな)仲尼
本名 孔子
生誕 紀元前552年中国・魯国(ろこく)に生まれる。 父は孔紇(こうこつ)  
死没 紀元前479年 魯国で逝去、73歳
出身地 中国・魯国昌平郷辺境の陬村(現在の山東省 曲阜)
職業 思想家、教育家、政治家
ジャンル 思想家
活動 紀元前500年前後の春秋戦国時代に生き、 魯、周、斉、衛、楚、蔡、鄭、陳等を放浪しな がら、弟子を育て、各国の重要ポストに就任さ せる。
自らも祖国・魯の首相につき政治家として活躍するも、50代後半に失脚。晩年は弟子を 連れ各国を遊説、自らの教えを説いて廻る。 73歳魯国で死去、弟子が教えを論語等に纏 め、中国、韓国、日本等の《生きるための哲 学》として2500年間生き続けている。
記念館 中国・山東省曲阜に孔子廟がある。日本、中 国、韓国には多くの孔子廟や、孔子像、公園 がある。

 

 

 

 

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小池邦夫の写真
孔子  出典:先師孔子行教図拓本

◆ 孔子が生きた時代背景
 孔子が生きた紀元前500年前後は、日本は弥生時代、中国では周の国力が落ち春秋戦国時代で世は大乱、下克上の時代でした。このような混乱期にいくら理想論を振り廻しても、人々は耳を傾けない。そんな時代に孔子は仁を説き、理想の国を造ろうとする。この辺の様子を作家・井上靖は小説1990の頃《孔子》を書いた。1990年の頃、人間・孔子を架空の弟子篶薑(せんきょう)に思い出風に語らせている。

 

◆ 井上靖の《孔子》を読む
  この小説は『新潮』に連載され、1989年新潮社から発刊された。当時ベストセラーになり、当時私も読んでみたが若さゆえか、何か歯ごたえが無く面白くなかった。今回読み直してみるとよく理解できる。普通の書き方と違い井上靖は孔子の人となり、出来事を架空弟子篶薑に語らせている。
  この小説を書くにあたり井上靖は6回、7年にわたり孔子生地やその周辺を訪ねている。氏は中国好きで日中文化交流協会の会長もつとめ、中国の専門家がアテンドしている。 なにせ2500年前の話ゆえ何が正しいのかもよくわからないが、中国には生涯で25回も訪問し『天平の甍』『楼蘭』『敦煌』『蒼き狼』などを書いている。『孔子』は、人生最後の小説となり、刊行後しばらくして1991年83歳でなくなっている。
 
孔子の時代は紙も書もなく、竹簡に残し、皮紐で束ね保存されていたが、革紐が腐れば竹簡はばらばらになってしまう代物だ。秦時代には焚書坑儒もあり、厳しい環境下で論語20巻が2000年以上後に残されたことは奇跡だ。


小説「孔子

 

井上靖氏
 
◆ 孔子の生涯
  孔子は偉すぎるので、その父母がどんな人かほとんど知られていない。父は孔紇(こうこつ)と言い、魯国重臣の孟孫氏に使える力自慢の武人で、足軽隊長程度であったという。9人の女の子の後、跡継ぎの健康な男子が欲しくて、正式の結婚でない女性(巫女)に産ませた男子が孔子である。

幼少時代
  孔子は紀元前552年魯国昌平郷に生まれた。姓名は孔丘、あざなは仲尼(ちゅうじ)という。裕福でない家庭に育ち、その上、父を3歳の時亡くし、実母も少年時代に亡くした。孔子は義母と9人の姉と足の不自由な兄を養う為に懸命に働き家計を助けた。

十有五にして学に志しー青年時代―
  母親の顔氏は祈祷葬儀に関わる卑賤民で、孔子は子供の頃より儀式遊びを好み世俗儀式を学んだ。魯の国は周王朝の衛生国家、周は没落、十五までは雑事に追われていたが、実力次第で出世できる時代の機運もあり、十五の時に野望と義憤に燃えて勉学を決意、父から屈強な体格を受け、 身長は2mを超える頑健さあったが、道具に使われることを嫌い、武より文の道を選んだ。
  機会を見つけては村の古老より賢人達の伝承を学び、さらに当時の教養と言われた『詩や書』を学んだ、書物は当時貴重品で拝読もできない、孔子は歌謡として口伝されている歌謡を暗唱している。
 
孔子が流浪した地図

 

官吏時代
  20歳になる頃には孔子の名は地元では知られる様になっていた。父が仕えた魯国重臣の人材登用の宴会に赴くも、生意気な小僧と追い返されてしまう。ようやく得た地位は村役人で、穀物の会計係りや家畜の飼育係りとなり、結婚もし、鯉という長男も生まれた。後にこの妻とは離別した。身分も財産もない孔子は多くの人から教養だけは学び続けた。この頃すでに数人の弟子を持っている。

遊学時代 ―30にして立つー
  官吏時代に多くの壁につき当る、顔氏に学んだ儀礼は公式儀礼では通用しない、そこで起死回生を期し魯の本国 《周)》へ、伝統の本物を学ぼうと数人の弟子と共に遊学する。南宮敬叔を通じ魯公の援助もうける。政治的権勢は衰えても、都城・周の歴史、文化、文物、建物を見聞し、古老、管理、文人、楽人、他国人などから詩書礼楽を学び、交流、30歳の頃には意気揚々と祖国・魯に戻る。この頃が《30にして立つ》と言わしめたのではないか。
  魯に帰国すると孔子の名声は高まり、勇猛な弟子・子路をはじめ、詩書礼楽の教養を身につけ、世の乱れを正さんとする野望、義憤の弟子が孔子の元に集うようになった。

 
別冊宝島論語

 

40才にして惑わず
  40代は仕事でも、家庭的にも迷うことの多い年齢です。孔子の40代は故郷魯国の王家につかえるも、内部抗争に明けくれる日々で迷いも多かった。そんな孔子の人生経験から、40才になったら惑わず自分流を通せと言っているように思う。

 

50才にして 天命を知る頃の孔子
  51才魯国にいて、教育家としての声望高まる、52歳で司空(土木工事省の長官), 魯・斉の平和会議に魯公の補佐として出席、大国の斉の国力に押されることなく、魯国に有利に導き孔子の堂々たる外交手腕は高く評価された。魯の政治状況は王家一族の三幹氏が私兵を持ち権力を握っていたのを、孔子は全面否定、王室の政治復活を意図し 新鮮な革新策を強行したが、旧勢力の巻き返しに会い、政治家として、官吏として失脚に至る。55歳で魯を追われ衛を目指す。高弟の子路、子貢、顔回、篶薦などが従い14年の長き遊説放浪の旅に出る。

 

著者井上靖が一番重要な孔子の言葉は 天命を知るである
  『天からの使命感を帯びている自分の仕事、しかし天から支援がないかも知れないと肝に銘じておく必要ある。天はどこかで嘉(よみ)してくださっているが、声、姿は見えない。天には上から見ていてもらうだけでいい。人間は自分が正しいと思うことのできるものを、自分の仕事とすればいい。天命などというから難しくなる、自分が心を素直にして、その素直な心で、正しいと思う内で、できることを、自分の仕事とすれば良い。失敗しようとそのために苦労すれば救いはある。それは正しいことをしているからである』と井上靖は書いている。
孔子の55~69歳の14年間、中原の遊説・放浪の旅では、天からの聖なる使命を感じ、その仕事を政治上に活かそうと本気で努力した、しかし事 志と違い失敗、追われるように放浪の旅にでた。14年の長き旅は天命と自分との死闘の廻り舞台であった。 その旅を終え、50台を省みて天命を知ると述懐した。孔子の怒り、悦び、天への挑戦、悲しみも全て、この言葉に含まれている。

 

60歳で耳順う
  55歳で魯を追われ、衛、宗などを流浪、遊説しながら、時には泥棒や、刺客に狙われることもあり、また弟子が各国の要職を得ていることもあり客分として遇されたこともあった。60にして耳順うとういう言葉は《60になったら人の言葉が素直に耳に入ってくる》という意味で、孔子は流浪の中でも、もはや仕官することもなく、周りの意見を聞く、悟りの境地に入っていた

 

70にしてのり矩(のり)を踰(こ)えず
  魯国に残した息子・孔鯉は孔子に変わり、孔子塾で後進の弟子を育てていた。しかし50歳で亡くなってしまう。また、孔子に従い流浪の旅にでた顔回は41歳で、勇武にも優れた子路は63歳で仕える主君の為に死す、孔子より若い弟子が次々となくなる悲運に遭遇する。そのような中で孔子塾をたて直す必要もあり、69歳で故郷の魯都に帰る。このような悲運にあっても従心の心《70になったら、自分の心の欲するように振舞っても、道を踏み外すような事はなくなる》でいたのだろうか。

 

孔子の故郷・曲阜を訪ねる
  孔子は魯国で生まれ諸国流浪の末、魯国で亡くなっている。昔の魯国は現在の済寧市・曲阜であり、ビールで有名な青島駅か ら新幹線を使うと3時間半程で着く、中国も便利になっている。曲阜の人口は64万人、孔子の子孫は10万人以上とも言われ、この町はまさに孔子の街である。曲阜には魯都がおかれ、34代900年以上存続したという。現在の曲阜は城壁(明代の)で囲まれ、孔廟,孔府もこの中にあり訪ねてみた。

 

  曲阜城  

曲阜城壁

孔子の原点・三孔を訪ねる
  日本で廟というと高級な墓のイメージがありますが、ガ イドに聞くと「廟は墓でなく記念だ」という。墓は陵、林、 ぼう、墳等、位により呼び方が違う。孔子の場合、孔廟は孔子の神霊を祭り、孔府は歴代孔家の住居、そして孔林は孔家の墓苑でこれをあわせ三孔といい、何れも曲阜市内にあり世界遺産になっている。かっては日本人観光客も多く、日本人ガイドも10人いたが、現在は私たちのガイド1人になってしまったという。今は中国への関心が薄れ観光客も激減している。今回、青島・曲阜・上海と廻ったが日本人観光客には会わなかった。

 

  曲阜市内図、廟は漢字で書かれている
孔子廟を見る
  孔子廟の前には日本でいう門前町があり、多種の土産物を売っている。土地の民芸品店、硯石屋さん 孔子像の彫刻を売る店等が並ぶ、印鑑は3分で彫るというがどう彫るのだろうか? 廟の入口では、手荷物を機械に通しチェックされる。最初の大きな門は檽星門(檽星は孔子を意味する)、孔子廟の本殿に行くまでには10以上の門や建物を通リ抜け大成殿に至る。
 大政殿の中にはお土産コーナーもあり、孔子像も本物の木像で、仲間も何人か買った。 
他に各種の書物が並ぶが、中国語のみで読めない、中でも唐詩選は300詩が漫画入りで掲載されている、知っている詩は30詩程度、
この絵入り唐詩選で勉強しようと思い購入した。中国では龍は王様の聖獣、大政殿に立つ10龍柱には圧倒される。
 
孔廟のレイアウト図

 

参道の土産店
 
檽星門
  十龍柱
   

大政殿
奎文閣
孔子廟前で古式豊かな舞を見る
  大政殿前で赤い服を着た大勢の人が、演舞し祈祷をしている。古式豊かな儀式である。聞くところによると、オーストリアからの里帰りした華僑の人に、廟側が敬意を表し音楽を奏で踊っているという、映画のラストエンペラーのシーンを思い出す。気になったのはカメラマンが儀式の中に入り写真を撮っていることだ。神聖な儀式の雰囲気を壊す行為であり、望遠レンズをつかえば踊りの中に入り撮る必要もない。日本では考えられない光景である。
  古式豊かな踊り
 
   

魯壁を見る
  秦の始皇帝の時代、《焚書坑儒》という政策がとられ、孔子の教えを説く四書五経が焼かれ、儒者も生き埋めにされた。孔家の当主は悩んだ末、孔子の経典類を壁の中に隠し災難から逃れた。秦が滅亡し前漢の時代になって、学問の復興が叫ばれ、孔子宅を宮殿にしようと壁が壊された時、隠されていた古書類が発見された。その経典類が隠された壁が《魯壁》と言われている。2500年の歴史がある孔子の教えは焚書坑儒の他に、異民族・蒙古の来襲や、毛沢東の文化革命・紅衛兵旋風などで大きな被害を受けながらも現代に引き継がれている。

 

 
儒教経典を隠した魯壁

 

孔府を見る
  孔廟の隣にある孔府は孔家の生活の場であった。敷地は孔廟ほど広くないが16000平方メートルもあり、9つの院落、463の部屋があるという。府内は3路に別れ、東路は祖廟、西路は当主が詩や礼を学び、寛ぐ場所、応接室もある。中路は表側が役所で奥が住宅、奥には花園もある。
孔家の当主は衍聖(えんせい)候と言われ歴代皇帝より優遇されていたが、国民党が台湾に移動したとき衍聖候も一緒に台湾に移り、今は当主が不在である。

 

 

 
孔府の内部

  孔府のレイアウト図
孔林を訪ねる
  孔林は孔家代々の墓所で曲阜市街地から1.5kmの北にある。歴代皇帝が土地を下賜し今や20万平方になり、墳墓数は16万,孔林内は樹木でいっぱい10万本とも、これは孔子の弟子たちが故郷の樹木を取り寄せた結果とか。赤い門を抜けると川が流れこの橋を渡ると墓苑の森林に入る。林内には土葬と思われる小さな丸い墳が多く見られる。孔子の墓は比較的正門から近いところにある、白い大きな石碑には《大政至聖文宣王墓》と金文字で彫られている。文化革命の時にはこの墓碑も紅衛兵に叩き割られ、心ある市民が破片を隠し革命の嵐がすぎさった後、石片を接合し復元したという。その痛々しさが墓碑から伺える。墓碑の前には花が山と添えられ、その痛々しさをカバーしている。
  孔子の墓の隣に四水候墓がある、四水候とは孔子の息子・鯉の事である。この曲阜周辺では鯉を食べることは古くから禁じられているという。


 
孔林の門
   
墓苑の森   孔子の墓は花いっぱい   息子鯉・四水候の墓 孔林の参道
弟子の墓、廟も苑内にある
  孔子の墓の近くには弟子・子貢の墓もある。子貢は孔子
の高弟であり、紀元前479年に孔子が亡くなった時、他の弟子は3年喪に服したが、子貢は師への思慕つき難く、師墓の傍らに粗末な小屋を建て倍の6年喪に服している。
 
 孔林内には「十哲」の1人で孔子の覚え目出たかった顔回を祀る顔廟がある。なぜ顔廟があるのだろうか?、漢の初代皇帝劉邦が顔回の勤勉さを称え創建したという。顔回は武勇にも優れ、恩義ある主人の危機に馳せ参じ闘死している。この忠義に劉邦も感じいったのだろうか。
孔林の参道にも土産店が並び書を実演し売っている人もある、中国らしい風景だ。孔子の「公廟成化碑」の楷書は素晴らしく成化碑帖を購入し、帰国後ときどき習字をしている。


 
高弟・顔回
 
高弟・子貢の墓       手書きの書を売る人
孟子廟もみる
  孟子は孔子より200年後の人、孟廟・孟府は曲阜から30kmの雛城市にある。この市の博物館には考古学関係の収集品が充実していると案内書に書かれている。孟子は孔子の孫・子思の弟子とされ戦国期の思想家で、雄弁家でもあり全国を遊説し孔子の学問を広めた。長い参道を抜けると亜聖正門がある。孟子は亜聖公といわれ正殿は亜聖殿と呼ばれる。


 
孟子廟の門に通じる道
   
孟子廟の門       亜聖殿 孟子廟孟府の碑
中華料理を楽しむ
  孔廟、孔府に近く、中国の伝統的な宿.闕里賓舎で中華料理をご馳走になる。青島ビール、紹興酒を楽し む。中国料理の素材は地域 によって異なり、味付けも違う。 毎日毎日中華料理で、テーブルを回し食事と歓談を楽しむ。このスタイルは孔子の時代から変わらないのであろうか?
 


孔子廟近くの闕里賓舎

中国の聖山・泰山では皇帝の就任式を行なった
  泰山と聞くと《泰山鳴動して鼠一匹》を思い出す。この言葉は大山が正しく、ローマが語源と知った。泰山は中国皇帝の就任式(封禅の儀式)を行った所、封禅の意味は天を祭る封の儀、と地を祭る禅の儀を合わせたもので、為政者が自らの権威を天下に示す重要な儀式でした。 秦の始皇帝に始り漢の武帝など72人の皇帝が泰山で封禅の儀式を行っている。
  始皇帝が泰山の石階段7300段を造ったというがあの急峻な、膨大な石をどう調達し積み上げたのか驚く、今でも石階段を登ったら6時間以上はかかるだろう。大変故に意味があり神の山に登った気になるのかも知れない。
 


山の真中に石階段がみえる

泰山に登る
  泰山に登るには石階段を昇る方法と、時間や体力がない人は、途中・中天門まで登山バスにのり、南天門まではロープウエイで行くのが一般的のようだ。頂上駅を降りチョット歩くと、天街という広場に出る。この周辺は土産店や宿が並び賑わっている。ここから頂上まで石階段が続く、ここで休憩し帰る人もいる。ここから1時間ほど石の階段を登ると広い平地に出る。
 
山の真中に石階段がみえる
 

急な階段
唐の玄宗皇帝の碑文を見る
  平地には大きな碑文石が林立している。その中で金色の文字で彫られた一際大きな石碑がある。これが天下の名妃楊貴妃とのラブロマンスで有名な唐の玄宗皇帝の『紀泰山銘碑』である。この碑は玄宗皇帝が自らの封禅の記念に刻ませたもので、高さ13m横5mの巨大な岩盤に金箔を施した996文字の隷書である。この時の封禅儀式には日本をはじめインド、ペルシャなどからも使節が参列したという。
  頂上付近には大きな中華料理店があり、ここで昼食をとる。かなり格式の高いレストランで、以前は政府の高官などが利用したホテルだったという。頂上にある寺院は道教だろうか、何百という鉄の鍵が数珠のように束になっている。何か意味がありそうだ。頂上からの眺めは良い、ここではスモッグもなく遥か下界には街が見える。


 
右端が玄宗皇帝の碑文   頂上付近にあるホテル   頂上より眼下を見下ろす   鍵が数珠のように束に!

 

詩人・杜甫、李白も泰山を愛し詠っている
  唐時代の詩人杜甫、李白は日本でも知られた大詩人、8世紀頃 、李白は泰山にのぼり『遊泰山』の五言古詩を詠んでいる
 
天門にて一たび長蕭すれば
万里清風来る
玉女四五人 
飄飄 びょうびょう として九 がい より下る
笑みを含んで素手を引べ
我に流霞の盃を遣る


杜甫・李白は仲がよく、山東省には何度か訪れ酒を飲みかわしている、杜甫の「望嶽」にも泰山が詠まれている。い。



中国の三大廟・岱廟を訪ねる
  中国の三大廟とは、泰山の岱廟・天貺殿、孔子廟の大成殿、故宮の太和殿をいい、中国の三大建築といわれる。泰廟の面積は96500㎡、亀の上に大きな石碑が乗った石物が幾つもある。杉の木に覆われた参道を進み、門を幾つか通ると岱廟の前に立つ。ここで封禅の儀式を行ったのではと思いたくなる。
 


大病の門

孔子の尊敬した周公旦とはどんな人
  孔子は周王朝を創建に尽力した周公旦を終生尊敬したという。孔子ほどの人が終生尊敬した人に興味を魅かれた。曲阜市内には周公旦廟がある。
周公旦は殷を滅ぼし、周王朝を創建した王の弟ですが、初代王は若くして亡くなり、周公旦が摂政として周国の創建に尽力した。 自分が王にもなれたが、兄の子供・伯禽が成長したとき王位につかせた。 周公旦は衛星国・魯国の初代王になっているが、魯国は自分の子供に任せ周王朝の政務に奔走していた。このような私信のなさに魅かれたのだろうか?
 


周公廟

 

黄河は泰山にさえぎられ流れがかわる
  泰山は花崗岩の岩山、黄河はこの泰山で遮られ、古代は北へ流れ、中世の宗、明、清の時代は南に流れ、そして現代は北に流れる。黄河を制する者天下を制すると言われた。黄河は氾濫し北や南に流れが変わる。大河ゆえに生活、農業も変わリ、政治まで変わる、今は灌漑技術も進歩し氾濫もないだろうが、これをコントロールすることは容易ではなかったことを知る。


斉の国王・桓公は《黄河の堤防を切り、戦に利用しない》ことを黄河流域の5人の王に呼びかけ、 葵丘 ききゅう に集い《黄河の堤防を曲ぐるなかれ》と取り決めた。この契約は春秋戦国の500年間守られたというる
 
◆ 孔子一門が残した書物
  1. 論語 孔子,高弟の言行録 20編ある
  2. 大学 礼記の中の一篇 
  3. 中庸 礼記の中の一篇 道徳の原理
  4. 孟子 孔子に私淑する戦国時代の孟子の言行録
  5. 詩経 古代・周代の歌謡集
  6. 書経 古代・周代の政令集 尚書とも言われる
  7. 易経 古代の占巫理論6. 周易ともいう
  8. 礼記 戦国以前の制度・習慣の説明
  9. 春秋 魯国の歴史書
  10. 孝経 孔子と曾子の孝行に関する問答。
 

 

◆ 日本の指導者層は孔子の教えを体得している人が多い
 歴史上私たちが良く知っている人を下記に列記してみよう。この他にも多数います。江戸時代は各藩が藩校を持ち、そこで「四書五経」や儒教の経典や書道、武道を教え、村や町では寺子屋があり、ここで論語の基礎や読み書きを教えている。これ等が世界で一番文盲率が低く、教育レベルの高い日本を造り、近代日本の基礎的パワーになったことは多くの識者が認めることだろう。


以下に代表的儒学体得者を列記しよう。
★平安時代 菅原道真
★江戸時代 徳川光圀、藤原惺窩、山崎闇斎、横井小楠、貝原益軒、新井白石、林羅山、中江藤樹、
熊沢蕃山、山田方谷、石田梅岩、二宮尊徳、山鹿素行、荻生徂徠,佐藤一斎
★近代 渋沢栄一、安岡正篤

日本の社会に与えた孔子の教え
論語や儒教を奉じて日本をリードした3人をここに紹介しよう、 江戸後期に昌平坂学問所の塾頭であった佐藤一斎、明治維新を断行した西郷隆盛、近代日本を築いた渋沢栄一です。


江戸末期の昌平坂学問所塾長・佐藤一斎
  佐藤一斎は江戸末期の儒学者で昌平坂学問所の塾頭(今の東大総長のような存在)で全国の藩校に影響をあたえ、明治から昭和にかけて実業界のトップに影響を与えて人でもあります。
 著書・言志四録は西郷隆盛の愛読書でもありました。私は昨年美濃にある岩村城を訪ね,その城下町の古い街並みを散歩し驚いた。店の入口脇に50cmほどの拍子木があり、ここに佐藤一斎の言葉が掲げられ、町並全体に掲示されているのです。

 佐藤一斎は岩村藩の家老の家で、岩村藩は教育熱心の藩、一斎の祖父は藩校の初代校長でした。150年以上たっても家々の軒先に箴言が掲げられている事に感激しました。 

一斎の言葉を一つ紹介しましょう

”少なくして学べば、即ち壮にして為すことあり
 壮にして学べば、即ち老いて衰えず
 老いて学べば、即ち朽ちず ”

  この言葉は2001年小泉純一郎総理が衆議院で教育法案審議中に述べ有名になった言葉です。壮年に学べば老いても衰えない、是非実践したい言葉です。

 


佐藤一斎像 渡辺崋山筆

  佐藤一斎著4冊有

◆ 論語と算盤を著した渋沢栄一の教え
  渋沢栄一は江戸時代末期、埼玉の藍・養蚕農家に育ち、尊王攘夷に共感、近くの高崎城焼き討ち計画を立て事前に発覚、故郷にいられず、水戸徳川家に拾われ、徳川慶喜の弟・昭武のお供をしパリ万博に参加、ヨーロッパ各地を見て、進んだ産業、経済、文化、歴史を知り、維新後500社の企業、団体を立ち上げ、《日本資本主義の父》と言われた。その根本思想は《孔子の論語》においた。
 
帰国後明治初年には官界に身を投じたが、明治6年実業界に転じるに当たり考えた。
当時、金銭を扱う商人は賤しいものと言う風潮があったが、金銭をいやしむ様では国家が成り立たぬと自覚し、論語の教訓を元に、一生商売をしようと決心した。論語は難しいものではなく、解りやすいものを学者が難しくしてしまった。孔子は商人でも農民でも誰でもわかる様に「論語と算盤」を書いて孔子の教えを広めた。昭和6年に初版がでているが、今は現代語訳されたものも出版されている。

  論語と算盤 左は現代訳、右は原本  

 

論語と算盤』の一部を紹介しよう
武士道すなわち実業道なり
  私利私欲で権勢に媚びても、武士道の真髄(正義、廉直、義侠、礼讓等)がなければ、その地位を維持することはできない。商売にも武士道は必要である。
孔子は宗教を持って世に臨んだ人ではない
  渋沢栄一は孔子を下記の様に言っている《キリストや釈迦は宗教家として世に立った人であるに反し、孔子は宗教を持って世に臨んだ人でない》と、論語は己を律する教えであって、《人はかくあれ、かくありたいという様に消極的に人道を説いている》 又キリストや釈迦には奇跡が沢山あるが孔子の教えには奇跡はない。この辺が日本人に受け入れられた様に思える。

青い目の人形の写真は日米関係の融和のために渋沢は『日本の市松人形』を送り、米国からは「青い目の人形」が送られて来た時のものです。渋沢栄一は民間で日米交流に尽力している。

  渋沢栄一と青い目の人形

 

明治維新の立役者 西郷隆盛
 『
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業を成し得られぬなり、されどもこのような人は、凡俗の眼には見えられぬぞと申される』
南洲翁遺訓より

西郷南洲の《敬天愛人》は有名です。京セラ(株)の社是にもなっている。
天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。

西郷が天命を知ったのは僧月照と一緒に錦江湾で入水自殺をはかり、自分だけ生き残った時 残された自分が何をすべきかと、天命を知ったというのです。師である月照が死に自分が生き残った、そこで自分の天命は「月照を死に追いやった《大政の大獄》を行った徳川幕府を倒そう」と決心したのではと推察する

 
 

孔子の天命論に5つの解釈がある。

いかに人事を尽くしても不可知の理由、原因があり思うように行かない。これは天の作用、天命というものである。この天命と闘って生きねばならない。

⑵人間の生死、貧富、栄達は共に天命の致すところ尽力を持ってしても如何ともしがたい。 勝手に向こうからくるもの、いつ来るか解らない。

⑶人間己の信ずることを奉持して、努力、奮闘せよ、成功不成功は外して一切を天に任せよ。

⑷人間道にかなった事をしていれば、どこかで天は嘉(よみ)してくれる。天はどこかで見ていてくれる。それだけで寂しく  なくなる。


⑸天は高いところいつも見ている。天はいつも大きな仕事しても黙っている。これでいいではないか。孔子の言葉に《天何  をかいうや、四時行われ、百物生ず、天何をかいうや》(訳:天は何も語らない、しかし四季は巡り,生命は誕生する、天は    何も語らない) 言葉以上に我々に語りかける

孔子讃 没後30年、孔子の魅力を弟子に語って頂いた。小説・孔子よ

*他人の悲しさ、苦しさがわかる人
*いつも感ずる無比の優しさ
*常に正しく、真剣に生きようとしていたその凄さ
*世を救い、人を救うという一番立派な事を考えていた人、最後の息をひきとるまで考えていた人
*年齢を感じさせない、年齢とは無関係な若さ
*何と言っても、2人とない明晰な頭脳、大きい教養
*いつ、いかなる時でも、隙のない生きる姿勢
*妥協というものの、全くない立派さ
*正しく生きることを、己に課した人

*努力、努力、努力の人
*古今無双の道徳家
*過失を再びしない立派さ
*人に優しく、自分自身に対しては厳正峻烈
*他人を許す大海のような大きさ
*生涯燃え続けた人間愛
*威あって猛からず
*心にないことは、一切口から出さなかった人

 

孔子のもっとも大きな教えは仁だ
  仁とは二人の人と書く、 孔子にとって自己完成の到達点が仁でした。乱世を生きるのに必要欠くべからざる心の姿勢、それが仁。仁には人の上に立つ人の持つべき大きい仁と 庶民の持つ小さい仁がある。

  全ての人間が幸せに生きてゆくための人間の人間に対する考え方です。人間はお互いに相手を労わる優しい心を持ち、お互いに助け合って、この世に生れてきてよかったと思うように生きようではないか。そういう考えが仁です。

  仁は人の立場によって違う、女将さんの浮浪者に対する同情、村役場の仁、政治家の仁、孔子には絶
望はなく、 聖天子出現 という言い方で平和な時代がくるという信念を持っていた。

 

論語に出てくる仁の言葉をここに紹介しよう―参照は「論語一日一言」の日を示すー 
 

☆己に ちて礼に かえ るを仁となす 克己心の元(7月21日参照)

☆己の欲せざるところは、人に施すことなかれ(7月23日参照)

☆巧言令色、 すく なし仁(1月4日参照)

☆仁者は仁に安んじ、知者は仁に利す(2月13日参照)

☆ただ仁者の く人を好み、能く人を悪む(2月14日参照)

☆仁を求めて仁を得たり、また何をか恨みん(4月23日参照)

☆子、怪、力、乱、神を語らず(4月28日参照)

☆仁遠からんや、われ仁を欲すれば、ここ仁にいたる(5月5日参照)

☆仁をなすは己による、而して人によらんや(7月22日参照)

☆剛毅朴訥、仁に近し(9月1日参照)

☆身を殺してもって仁となす(9月30日参照)

かた を先にして るを後にす、仁と うべし(4月1日参照)

☆知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ、知者は動、仁者は静なり。(4月2日参照)

☆道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ(4月16日参照)

☆知はこれに及ぶも、仁これを守る能わざれば、これを得るといえども 必ずこれを失う。(10月17日参照)

☆よく五つのものを天下に行うを仁となす(11月11日参照)

☆仁に当たりては,師にも譲らず(10月19日) ☆葉公,政に問う、子曰く、近き者 よろこ び、遠き者来る(8月23日参照)

小説孔子が語る孔子の 魅力
1.人間への愛情、正しいことへの情熱、不幸な人間を1人でも少なくしようと言う執念、意志

2.魯都を離れ14年も浮遊、この世に生まれてきて良かった と思うような社会作るために、真剣に努力する人間の養成が孔子教団の旗印だった これ以上贅沢な放浪はない。

3.どんな為政者、権力者であれ、孔子の前に座ると、座っただけで自分の方が悪いと思う、それだけの人間力があった と篶薑はいう。

4.明日に道あるを聞かば、夕べに死すとも可なり、陳蔡の頃子路54歳、子貢32歳、顔回33歳、筆者篶薑28歳この頃本気にそう考えていた。明日に道徳の支配する理想社会が生まれたら夕べに死んでもいい、 弟子もそう思う、1人の人間において精神も肉体も共に若々しくなければならない。

5.その人となりや、憤りを発して色を忘れ、楽しんで以って憂いを忘れ、老いのまさに至らんとするを知らず孔子63歳の時、

日本最大の学校・足利学校
  室町時代の足利学校は主として儒学を教え、医学や兵学、易学も教え3000人の学生がいたという。フランシスコザビエルは最大の学校で坂東のアカデミー(大学〕と紹介している。足利学校で販売している論語抄は毛筆で書かれ読みやすく人気がある。

 
 

考文献
・ 「孔子」 井上 靖著、新潮社刊
・ 「論語 一日一言 村山 孚 PHP文庫刊
・ 「言志四録」 佐藤一斎著  講談社学術文庫刊
・ 「論語と算盤」 渋沢栄一 ちくま新書
・ 「論語」  宝島刊
・ 「泰山・曲阜と山東省内陸部」 旅名人ブックス

 



 

Y.青木 記

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