〔海援隊発足〕
1867年4月(慶応3年) 亀山社中は財政難から土佐藩と提携し、土佐藩を海から援ける《海援隊》と改称した。一方、土佐藩参政・後藤象二郎は《陸援隊》を創設し、中岡慎太郎が隊長を務めた。
〔海援隊旗は赤、白、赤の三色旗、土佐藩の舟じるしが元〕
亀山社中は亀山の仲間という意味、これを改称し海援隊とする。海援隊は海のビジネスを助ける隊という意味。具体的には土佐藩を助ける仕事する。
土佐藩出身が多いが、いろんな藩の出身者がいる。赤白赤の3色旗は土佐藩の船印であり、龍馬はこれを海援隊のロゴマークにした。出島にこの旗が展示されていた。 また海援隊商事という印鑑や、海援隊の航海日記も残されている。
〔海援隊には海援隊規約があった、新選組と違うところだ〕
その骨子は次の通りです。
1、脱藩者で海外に志あるものを資格とする、目的は運輸、射利、開拓、 投
機、本藩の応援を主とする。
2、隊中のことは隊長にまかす。
3、修行することは政法、火技、航海、汽機、語学など、互いに勉励するこ
と。
4、隊は独立採算、収益は互いに分配、私腹を肥やさない。
5、土佐藩は応援をするが、藩には属さない。船の代金1200両は土佐藩が肩代
わりする。
〔海援隊は7つの性格を持っていた〕
1、討幕結社、土佐藩を海から支援する海援隊と、陸から支援する陸援隊があ
った。
2、私設海軍、いろは丸を持っていた
3、航海学校、航海技術を習得する
4、海運業務、物資を廻送する
5、内外業務、
6、諸藩の武家商法斡旋所というのも面白い。 地方藩の殖産貿易を手伝う
7、さらに出版業務も持っていた。和英辞典を出版している
海援隊の一人一人が特異な才能をもつ知識集団、情報集団であった、いまでいうベンチャー企業の先駆けのようで興味深い、海援隊の階級は無く皆同列で、俸給も3両2分で一律平等であったという。
長崎の有名料亭花月で、海援隊員はここで遊び、多くの文人墨客も、例えば、頼山陽、梁川星巌、田能村竹田、松本良順なども遊んだという。
長崎の大商人小曾根英四郎や茶貿易で大をなした大浦慶などの商人も支援を惜しまなかった。土佐藩を動かす後藤象二郎に《船中八策》を提案呑ませ、後藤象二郎は藩主山内容堂を説き、維新回転の事業の路線を引いた。封建制から脱却、新しい共和国構想さえもつ、龍馬の卓越した能力がこの海援隊で花開いた。海援隊の主な活動、出来事を紹介しよう。
〔大政奉還から明治政府に影響を与えた 《船中八策》を立案〕
《船中八策》は後の、五か条の御誓文の原案になっている。この策は慶応3年1867年長崎から兵庫に向かう3泊4日の船中で、龍馬が船倉から外を眺めながらその構想をいう、これを海援隊の長岡謙吉が整理、文章化し毛筆筆記する、後藤象二郎がこれに賛成する、そんな情景が目に浮かぶ。この《船中八策》には、海援隊のブレーン(頭脳)が生きている。幕府側で大政奉還を受け入れたのは徳川慶喜であり、老中板倉勝静である。勝静の重臣山田方谷がその原文を毛筆で書いていることは《ゆい偉人館山田方谷》で紹介している。
後に龍馬は暗殺される直前、福井藩の由利公正を訪ね、この《船中八策》を説いている。そして由利公正が提案し五か条の御誓文となり、明治政府の方針に大きな影響を与えた。
そして《万機公論に決すべし》の精神は板垣退助、後藤象二郎の民選議員設立運動の請願につながり、明治憲法発布や帝国議会開設につながった。また、戦後、昭和憲法の民主主義につながっているという、昭和天皇や吉田首相の表現の中にもある。その根本に繋がる《船中八策》は龍馬及び海援隊の仲間が立案したもので封建国家の中にあって、画期的な提案だった。
〔船中八策を下記に紹介しよう。 右の五箇条ご誓文と比較ください〕
第1策 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべきこと。
第2策 上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく
公職に決すべき事 。( 日本をデモクラシーにすることを規定し、明治
23年に2院制の帝国議会が開かれた)
第3策 有材の公卿・諸侯、及び天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、よ
ろしく従来有名無実の官を除くべき事
第4策 外国の交際、広く公儀を採り新たに至当の規約(新条約)をたつべき事
第5策 古来の律令令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事
第6策 海軍よろしく拡張すべき事
第7策 御親兵を置き、帝都を守衛せしムる事
第8策 金銀物貨、よろしく外国と平均の法を設くべき事 《天皇をいただいた民主政体に変えてゆく》ことが船中八策の基本の考えであり、後藤象二郎は驚き攘夷論者の中でも、幕府を倒したあとの政体をどうするかを考えている人は無かったので、龍馬の《船中八策》に共鳴した。 |