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坂本龍馬

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プロフィールバー ◆〔坂本龍馬〕のプロフィール。
俗称・筆名 坂本直陰(なおかげ)直柔 <変名>才谷梅太郎
本名 坂本龍馬
生誕 1835年1月3日(天保6年11月15日)
死没 1867年12月10日(慶応3年11月15日)
出身地 高知県高知市
最終学歴 小栗流目録受ける。北辰一刀流剣術千葉道場塾頭、川田小龍より西洋事情学ぶ、佐久間象山の私塾通う
職業 幕末の志士、神戸海軍操練所、海援隊隊長
ジャンル 日本初の商社といわれる亀山社中を創立
活動 土佐藩を脱藩し勝海舟に弟子入り、神戸の海軍操練所設立に尽力、塾頭となる。操練所閉鎖後に日本最初の商社・亀山社中を設立、海援隊等を組織化する一方、犬猿の中であった薩摩藩・長州藩の関係を修復し薩長同盟をなしとげ、大政奉還を実現する。明治維新の魁となる活動をし、日本の夜明けに貢献した。
著作作 藩論、船中八策
言葉 日本国を洗濯申し候
その償いは金を取らずに国を獲る
世に生を得るは事を成すにあり(竜馬がゆくより)


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長崎の港を見下ろす坂本龍馬像   坂本龍馬写真:出典亀山社中図録
 

坂本龍馬の人となり

 坂本龍馬は1835年(天保6年)土佐藩郷士株をもつ裕福な商家の坂本家・二男として高知城下に生まれる。1848年小栗流の日根野弁治道場に入門、5年の修行を経て目録を取得。1853年(嘉永6年)剣術修行のため江戸へでて、北辰一刀流の千葉周作の弟、千葉定吉の道場に入門した。
  千葉道場には一度帰国後、1858年再度入門し北辰一刀流長刀兵法目録を伝授される。

 1861年(文久元年)武市半平太の土佐勤王党結成にともない入党、半平太の密使として長州に向かい,久坂玄瑞等と会う。1862年(文久2年)には土佐藩を脱藩、九州を放浪後、幕臣勝海舟を斬りに訪問するが、逆に世界情勢や海軍の必要性を説かれ、勝海舟に心服、海舟の私塾に入門する。

 1863年勝海舟の取り成しで土佐藩主山内容堂から龍馬の脱藩の罪は許された。1863年龍馬は幕府の神戸海軍操練所開設に協力・奔走し、10月神戸海軍塾塾長に任じられた。1964年帰国命令を無視、再び脱藩、勝海舟の長崎出張に同行し長期滞在する。

 11月に勝海舟の軍艦奉行罷免に伴ない、龍馬ら塾生は薩摩藩に保護され、1965年(慶応元年)には薩摩藩の援助を受け長崎に日本最初の商社・亀山社中を結成した。この前後に池田屋事件、天誅組の変、下関戦争や第一次長州征伐、武市半平太の切腹による土佐勤王党の壊滅など世の中は激動する。

 1866年(慶応2年)龍馬の斡旋により薩長同盟締結される、寺田屋で坂本龍馬は幕吏に襲撃されるが、九死に一生をえて助かる。龍馬は負傷治療のため、西郷隆盛の厚意で妻お龍を伴い鹿児島、霧島温泉で療養、霧島山登山を挙行する。この年6月第2次長州戦争で亀山社中のユニオン号で長州藩を支援し勝利する。7月将軍徳川家茂死去、12月には孝明天皇崩御する。

 1867年(慶応3年)龍馬は土佐藩参政・後藤象二郎と会談、亀山社中を土佐藩の外郭組織とし《海援隊》と改称する。4月末、海援隊運用船「いろは丸」での処女航海で紀州藩船と衝突、いろは丸は沈没する。

 紀州藩との損害賠償において、万国公法を楯に世論を味方につける広報活動も展開し、徳川御三家を相手に龍馬は8万3526両(最終額は7万両、現在の価格で21億強か)の獲得に成功する。

 また6月神戸への航海途中で後藤象二郎と《船中八策》を立案、大政奉還に成功する。 大政奉還達成の直後の11月15日、 京都近江屋で中岡慎太郎と会談中、京都見廻り組の刺客に襲われ暗殺される。

 

龍馬の師:勝海舟像
出典:ウィキペディア
 
 
 
 
京都丸山公園にある
坂本龍馬(左)と中岡慎太郎(右)像

長崎・亀山社中記念館の近くに、坂本龍馬の銅像を訪ねる

 長崎駅から亀山社中跡に行くバスもあるが、時間が合わないのでタクシーで向かう。車は曲がりくねった坂道を10分ほど登り、山の中腹でおりる。  まず坂本龍馬像が近くにあるというので、行くことにする。紫陽花の美しい公園を通りぬけると、見晴らしの良い高台に龍馬の銅像が立っている、龍馬像はより凛々しくイケメンである。
龍馬像へゆく紫陽花咲く公園

 
長崎の坂本龍馬像
   

眼下に長崎の町を見下ろせる、像のすぐ下に日本で最初に長崎で写真館を開いた写真家・上野彦馬の墓がある。上野彦馬は亀山社中メンバーの多くを撮影し、江戸末期としては珍しい、貴重な写真資料を残している。

 

 

上野彦馬:出典ウィッキペディア  

銅像の近くには《龍馬がゆく》の著者・司馬遼太郎の文学碑がある。碑文には

船が長崎の港内に入ったとき、龍馬は胸のおどるような思いをおさえかね

「長崎はわしの希望じゃ」と陸奥陽之助にいった。

「やがては日本回天の足場になる」ともいった

 

龍馬像の近くにある司馬遼太郎文学碑
坂本龍馬は写真でも当時では珍しい革靴を履いている。銅像の近くに大きなブーツが設置されており、この靴を履き、長崎港を眺めると龍馬になった気分になれる。

 

龍馬像の近くにある大きな靴

 

 

亀山社中記念館は山の中腹 にある。

 像より5分ほど戻り細い龍馬通りを下ると亀山社中の跡と書かれた石の標識がある、木戸をくぐると、若い女性がいらっしゃいと声をかける、木造1階建ての中に入ると坂本龍馬の使った羽織、ピストル、刀、肖像画などが展示されている

 

亀山社中記念館の入り口             亀山社中記念館より長崎市内を望 龍馬通りの入り口
珍しくこの部屋は写真を撮っても良いというのでシャターを切
る、興味深く眺めていると『お時間あればご案内しますよ』と説明員の杉山成弘(しげひろ)さんに声をかけられる。渡りに船でお願いする。
 

龍馬の持ち物が並ぶ亀山社中

まず龍馬の持ち物の説明を聞く、龍馬が実際に着た家紋入りの羽織が展示されている、この羽織から推定すると身長は170cm以上あり、当時としては大男だった。ピストルは寺田屋事件でこれを使用し命拾いしたものだ。
愛刀は珍しく直刀で土佐脱藩の折、姉乙女が兄・権平の秘蔵の刀「肥前忠広」を内緒で蔵より持ち出し、龍馬に門出のはなむけとして授けたというものだろう。

     

龍馬の着た着物、170p以上あった        龍馬の使用した刀とピストル

明治帝・皇后の夢枕に立ったという坂本龍

 亀山社中記念館を入ると最初の部屋に記念館館長の武田鉄也氏が寄贈した坂本龍馬の肖像画が掲げられている。この龍馬像の頭上にある詩は、坂本龍馬が明治帝の昭憲皇太后の夢枕に現れたシーンを詠んだもの。

 この話は司馬遼太郎・《竜馬がゆく》の後書きにも出てくる逸話ですが、坂本龍馬は明治になると忘れられ、復活したのは明治37年日露戦争で世界最強のバルチック艦隊来航で日本が勝てるわけがないという観測が流れ、宮中にも憂色が立ち込め、2月皇后の夢に白装束の武士が現れ 《維新前、国事のために身を挺したる南海の坂本龍馬と申すものに候、この度の露国とのこと、身は亡き数に入り候えども、魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽くすべく候、勝敗のこと御安堵あらまほしく》 と言いかき消えた 

 皇后は坂本龍馬を知らず御付きの侍従に尋ねられ、説明を受ける。侍従は土佐出身で龍馬と懇意だったので、この話が《皇后の奇夢》として新聞各紙により報道され、龍馬の名は有名になったという。

 しかし、《竜馬がゆく》が発刊される前は、桂小五郎や鞍馬天狗が志士として有名で、坂本龍馬が脚光を浴びたのは、《竜馬がゆく》が発刊され、多くの人に読まれた始めた昭和40年代以降で、司馬遼太郎が坂本竜馬を有名にしたと言える。

 坂本龍馬の肖像
夢枕に立つ龍馬を詠んだ詩
  昭和47年刊の龍馬がゆく三巻
 (一巻566pの大作)
   

お龍さんの月

 坂本龍馬の妻・お龍さんが使用した月琴も並んでいる、月琴は中国の明朝末期に発明された楽器で、1尺1寸5分、胴が丸く、糸は4筋、ギターのように弾く、胴が丸く満月に似ているので月琴という名前がつく、琴というより琵琶に似ている。
龍馬と新婚旅行で長崎に来たお龍さんは熱心にこれを習い、月琴は上手だった。後年横須賀に住むが、外国人相手に英語と、月琴が得意で人気があったという。
 

亀山社中の結

 勝海舟の肝いりで幕府は日本の将来を考え、1863年神戸海軍操練所、神戸海軍塾を創設、龍馬は海軍塾塾頭となり航海術の習得、海軍の創設に努力したが、 1864年池田屋事件に塾生が加わっていたことから、勝海舟は幕府軍艦奉行を罷免され、神戸海軍塾は閉鎖された。

 坂本龍馬たち塾生は1865年薩摩藩の援助をえて、長崎に亀山社中を結成した。薩摩藩は航海技術の専門知識をもつ彼らを重視し亀山社中に出資したのだ。亀山社中は日本最初の株式会社といわれ、長崎の大商人小曾根英四郎家を根拠地として、下関、京都にも事務所を設置している。亀山社中は商業活動の儲けによって利益を上げ、当時犬猿の仲であった薩長を和解させ、江戸幕府を倒す目的も隠されていた。

 亀山社中記念館の壁には亀山社中メンバー21名の名札がかかっている、質問をするとその人の出身、人となりを説明してくれる。亀山社中代表は坂本龍馬、陸奥陽之助は和歌山藩出身で、後に外務大臣等要職を歴任した陸奥宗光、近藤長次郎は土佐藩出身で龍馬の片腕、海援隊は異能集団、今でいうスペシャリストが多い、これらの代表的隊員を後欄で紹介したい。

亀山社中の初仕事は薩長同盟のきっかけをつくる。

 幕末の1865-67年頃、長州は四か国外国船艦隊の襲撃を受け、蛤御門の変でも敗れ、第一次長州出兵にも敗れ、幕府から武器弾薬の購入は禁止されていた。そこで龍馬の亀山社中は薩摩藩に購入させ長州に転売する。代わりに薩摩の不足する米を長州から薩摩に搬送する策を提案する。その搬送は亀山社中が担当する。両藩ともこれによって少々こだわりが解けていった。これまで長州藩では「薩賊会奸」と下駄底に書き、踏みつけて鬱憤をはらすほど、薩摩と会津を憎んでいた。

 1865年、亀山社中は長崎のグラバー商会からミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺、さらに英国製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩では桜島丸、長州では乙丑丸と呼ぶ)の売買を薩長に斡旋し、この運航は亀山社中がするというもの。現在の商社機能を果たしている。第二次長州戦争では亀山社中のユニオン号で長州藩を支援、長州藩の勝利に貢献した(1886年6月)。龍馬はこの戦いについて戦況図付きの長文の手紙を兄・権平に書き送っている。

龍馬は新婚旅行第一号といわれる

 1866年坂本龍馬は京都伏見の寺田屋で長州藩士三吉慎蔵と話し中、伏見奉行所の幕史30名以上に囲まれた。お龍は風呂場から大勢の捕手に気付き、素っ裸のまま2階の龍馬に危険を知らせる、龍馬は免許皆伝の腕をもつ使い手ながら刀は抜かず、ピストルで脅し相手を気迫、胆力で圧倒、三吉慎蔵は槍の名手、この2人で何10倍の敵を相手に立ち回りつ、裏階段から隣家に逃げ、材木置き場に避難、薩摩藩の応援で九死に一生をえて助かる。この辺の描写は《竜馬がゆく》を読むと、息をつかせず引きまれ一気に読んでしまう。

 寺田屋事件とお龍、坂本龍馬をテーマにした短編小説があることを知り読む。それは織田作之助の《蛍》という作品で、お龍が寺田屋の娘という設定で描かれ、裸で龍馬を救い一緒に巣立ってゆくラストシーン、前半は女将お登勢が寺田屋に嫁いでくるところから蛍をからませ見事に描いている。青空文庫で簡単に読めるからお奨めしたい。

 西郷隆盛は負傷した龍馬をいたわり、薩摩の温泉で療養することを勧める。
坂本龍馬はこの時、妻・お龍を伴い霧島山登山もし、頂上にある《天の逆矛》を抜いて楽しんでいる。

 この薩摩から長崎への旅が日本最初の新婚旅行と言われている。霧島神宮の境内には《龍馬とお龍をイメージした木造板像》があり、観光客が一緒に記念写真を撮っている。

お龍さん愛用の月琴
 
亀山社中のメンバー名札
 
坂本龍馬が書き、長兄に送った関門海峡での長幕海戦図  出典:亀山社中図録
 
龍馬とお龍の記念写真用 像
お龍さん 出典:ウィッキペディア

海援隊発足

 1867年4月(慶応3年) 亀山社中は財政難から土佐藩と提携し、土佐藩を海から援ける《海援隊》と改称した。一方、土佐藩参政・後藤象二郎は《陸援隊》を創設し、中岡慎太郎が隊長を務めた。

海援隊旗は赤、白、赤の三色旗、 土佐藩の舟じるしが元、

亀山社中は亀山の仲間という意味、これを改称し海援隊とする。海援隊は海のビジネスを助ける隊という意味。具体的には土佐藩を助ける仕事する。
土佐藩出身が多いが、いろんな藩の出身者がいる。赤白赤の3色旗は土佐藩の船印であり、龍馬はこれを海援隊のロゴマークにした。出島にこの旗が展示されていた。 また海援隊商事という印鑑や、海援隊の航海日記も残されている。

海援隊には海援隊規約があった、新選組と違うところだ。
その骨子は次の通りです。

1、脱藩者で海外に志あるものを資格とする、目的は運輸、射利、開拓、 投
  機、本藩の応援を主とする。
2、隊中のことは隊長にまかす。
3、修行することは政法、火技、航海、汽機、語学など、互いに勉励するこ
  と。
4、隊は独立採算、収益は互いに分配、私腹を肥やさない。
5、土佐藩は応援をするが、藩には属さない。船の代金1200両は土佐藩が肩代
  わりする。

海援隊は7つの性格を持っていた。

1、討幕結社、土佐藩を海から支援する海援隊と、陸から支援する陸援隊があ
  った。
2、私設海軍、いろは丸を持っていた
3、航海学校、航海技術を習得する
4、海運業務、物資を廻送する
5、内外業務、
6、諸藩の武家商法斡旋所というのも面白い。 地方藩の殖産貿易を手伝う
7、さらに出版業務も持っていた。和英辞典を出版している

 海援隊の一人一人が特異な才能をもつ知識集団、情報集団であった、いまでいうベンチャー企業の先駆けのようで興味深い、海援隊の階級は無く皆同列で、俸給も3両2分で一律平等であったという。

 長崎の有名料亭花月で、海援隊員はここで遊び、多くの文人墨客も、例えば、頼山陽、梁川星巌、田能村竹田、松本良順なども遊んだという。

 長崎の大商人小曾根英四郎や茶貿易で大をなした大浦慶などの商人も支援を惜しまなかった。土佐藩を動かす後藤象二郎に《船中八策》を提案呑ませ、後藤象二郎は藩主山内容堂を説き、維新回転の事業の路線を引いた。封建制から脱却、新しい共和国構想さえもつ、龍馬の卓越した能力がこの海援隊で花開いた。海援隊の主な活動、出来事を紹介しよう。

大政奉還から明治政府に影響を与えた 《船中八策》を立案

 《船中八策》は後の、五か条の御誓文の原案になっている。この策は慶応3年1867年長崎から兵庫に向かう3泊4日の船中で、龍馬が船倉から外を眺めながらその構想をいう、これを海援隊の長岡謙吉が整理、文章化し毛筆筆記する、後藤象二郎がこれに賛成する、そんな情景が目に浮かぶ。この《船中八策》には、海援隊のブレーン(頭脳)が生きている。幕府側で大政奉還を受け入れたのは徳川慶喜であり、老中板倉勝静である。勝静の重臣山田方谷がその原文を毛筆で書いていることは《ゆい人物館山田方谷》で紹介している。

 後に龍馬は暗殺される直前、福井藩の由利公正を訪ね、この《船中八策》を説いている。そして由利公正が提案し五か条の御誓文となり、明治政府の方針に大きな影響を与えた。

 そして《万機公論に決すべし》の精神は板垣退助、後藤象二郎の民選議員設立運動の請願につながり、明治憲法発布や帝国議会開設につながった。また、戦後、昭和憲法の民主主義につながっているという、昭和天皇や吉田首相の表現の中にもある。その根本に繋がる《船中八策》は龍馬及び海援隊の仲間が立案したもので封建国家の中にあって、画期的な提案だった。

船中八策を下記に紹介しよう。 右の五箇条ご誓文と比較ください

第1策 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべきこと。

第2策 上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく
     公職に決すべき事 。( 日本をデモクラシーにすることを規定し、明治
     23年に2院制の帝国議会が開かれた)

第3策 有材の公卿・諸侯、及び天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、よ
     ろしく従来有名無実の官を除くべき事

第4策 外国の交際、広く公儀を採り新たに至当の規約(新条約)をたつべき事

第5策 古来の律令令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事

第6策 海軍よろしく拡張すべき事

第7策 御親兵を置き、帝都を守衛せしムる事

第8策 金銀物貨、よろしく外国と平均の法を設くべき事

《天皇をいただいた民主政体に変えてゆく》ことが船中八策の基本の考えであり、後藤象二郎は驚き攘夷論者の中でも、幕府を倒したあとの政体をどうするかを考えている人は無かったので、龍馬の《船中八策》に共鳴した。

 
海援隊の三色旗
 
海援隊士集合写真1867年1月撮影 出典:ウィッキペディア
 
龍馬が活躍した出島(現在)
 
五箇条4御誓文;左の船中八策とご誓文を比較してほしい

海援隊所有の《いろは丸》のこ

 初めての蒸気船を《いろは丸》と名ずける、「いろは」とは手習いの初歩のことをいい、龍馬は貿易事業の礎を築こうとした。船を見に来た土佐藩の岩崎弥太郎は海賊船かと言った、龍馬のメモには「海賊は船軍(海軍)の手習いなり、よく心を用いてかりそめにすごすなかれ」とかいた。

 龍馬はいろは丸の船長代行をし、蒸気船の操作もでき、船の運行に必要な国際公法も理解していた。海援隊には階級制をとっておらず、航海ごとに人事を決めた、事務長には長崎の豪商小曽根英四郎にお願いし、英語に堪能な長岡謙吉が実務を担当した。
《いろは丸》の初航海は長崎港から大阪への銃器弾薬の運搬と操船の訓練を目的としていた。

坂本龍馬は西郷隆盛を説得 海援隊の支援を約束する

 戦争状態にある薩長を龍馬はどうして同盟させ、討幕に向かわせたのだろうか? 幕末に熱血の志士は多いいがビジネスの話しをするのは龍馬だけだ。

 龍馬は説く、まず船を持ち日本の特産物・海産物、米、シュロ皮、椎茸等を上海で売りさばき、その利益でもって武器を買い、維新をする。薩摩70万石がアジアの富国となる、富国強兵策を説き、薩摩に船を買わせ

 これを海援隊が使う。 現状だと幕府は鎖国し、開港、貿易をし、利益を独り占めにし、軍備を持ち、他藩は手が出せない。海援隊は金や軍艦を諸藩から出させ、平時は通商をして利潤を分配し、いざ外国が攻めて来た時は艦隊として活躍する  戦争と通商の浪人会社・海援隊をつくり 大株主は薩摩藩とする、と 京都で掛け合い西郷隆盛、小松帯刀に了解させる、まさに坂竜飛騰(ばんりゅうひとう)である。 

いろは丸の遭難、日本最初の海難事故

 1867年4月坂本龍馬が実際の船長として長崎から瀬戸内海を航行中の《いろは丸》は、5倍の大きな紀州船・明光丸(887トン,15万5千ドルで購入したもの)に衝突した。日本の海運史上最初の海難事故であった。

 日本人は万国公法など知らない、龍馬は衝突後沈没前に紀州船に飛び乗り、最初に紀州丸の航海日誌を押さえた、 紀州藩船長は高柳楠之助、衝突場所は讃岐箱崎の岬   近くの鞆の浦に寄航させる。龍馬はいろは丸事件では千里を駆け廻る超人的活動をする、大阪の西郷隆盛へ手紙を、長州下関で桂小五郎の支援確約をとり、長崎にゆく、一介の素浪人が御三家の紀州藩を相手に大喧嘩を仕掛ける紀州藩の刺客が差し向けられるだろと予測して行動をしている。

 第一回の談判は 海援隊8人、紀州藩から9人である。紀州藩は衝突時甲板に士官いなかった、2度に渡り右舷をついたことを認める。土佐藩の代表は岩崎弥太郎、海援隊の長岡謙吉は理づめで隙がない、長崎奉行も紀州が悪いという印象をもつ、坂本龍馬は自作の歌を作り《ぶらぶら節》で丸山の芸者に歌わせ爆発的にはやらせた。

 今でいう広報宣伝活動で世論を味方につけたのだ。《 船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る 》という表現でPRする。 金を取らずに紀州55万5千石を取るというもの、町人は龍馬達に同情する。300年威張っていた紀州徳川家を一介の浪人が取るという気宇の大きさに判官びいきの市民感情が海援隊を応援した。

 前将軍家茂は紀州出身、龍馬は長州、薩摩を巻き込み幕府と戦争するという覚悟で交渉する。紀州藩は逃げに出て応じない。土佐の後藤象二郎が仲介にたち、英国の東洋艦隊の司令官に仲裁を頼む紀州藩は薩摩の五代友厚に頼む、五代と後藤の間では8万3千両で話をまとめ、最終的には7万両で決着する。 龍馬たちは予想を上回る賠償金を獲得したと喜ぶ。

 
発見されたいろは丸と見られる絵図
 

海援隊は書物の出版をしている    
  海援隊はいろいろの機能をもっているが、思想の研究所でもあり、坂本龍馬は《藩論》を書き、戊辰戦争が続く明治元年12月に海援隊蔵版として発刊された。その内容は新国家構想 について書かれ、藩にあって領民はすべて平等で、町人や農民まで選挙権を与え、議会制度で政治を行うべきと書かかれていたという。これが実現するのは戦後のことだから、龍馬の先見性が伺われる。
 
 龍馬の秘書長岡謙吉も「閑愁録」という宗教問題を扱う本を海援隊で出版している。その中でキリスト教を禁じてはいけないことと、同時に《日本人が古来から信じてきた仏教を捨ててはいけない》という要旨ですが、明治政府は廃仏毀釈を行っている。
 
海援隊は150年前に和英辞典を発刊している。
 亀山社中記念館を訪ねた際に《150年前の和英辞書》を紹介され、興味をもち購入した、32pの薄い本ですがタイトルは「和英通韻以呂波便覧」といい、冒頭には次のような紹介がある。

「開港して多くの国が我が国を目指すようになったが、外国人と接する時、言葉が通じないと貨物運輸(貿易)のとき誤解が生ずる、そうなると我が国にとって損害が生ずる、そこで先ず英語知って貰おうとこの辞書を作った」と。英語の文字は簡単で40個しかないが、学識の浅いものもすぐに理解できる。

 この辞書が貿易交渉の役に立つことを願う。という趣旨のことを慶応4年3月に書いている。出版は土佐海援隊蔵板となっている。毛筆で書かれアルファベットや時間、方向、ローマ字など簡単な言葉が解説されてわかりやすい。 土佐出身のジョンマンジロウが指導し元版作成をしたのだろうかと想像してしまう。

 
 
 
海援隊発刊の和英辞典

諸藩の武家商法斡旋

 幕末の志士は何千人もいたと思われるが、ビジネスと結びつけた志士はいない、龍馬は小藩も相手にしている、例えば丹後(京都)の3万5千石の田辺藩や、愛媛の大洲藩(愛媛) に貿易をするよう働きかけ、山国の田辺藩に船を買わせる契約をしている。

 海援隊は外国に売れる物産を外国商人に斡旋し、その物産を海援隊の船で長崎まで運搬して上げる。そしてその藩が欲しい西洋の機械を買い付けてやるというもの。まさに今の商社の機能である。

 坂本龍馬は大洲藩に160トンの蒸気船購入すすめた、が担当の大洲藩家老が詰め腹を切らされてしまい土佐藩が肩代わりし、海援隊が船の操船を引き受ける。瀬戸内海には多くの回船問屋があり、和船を持つが、民間で西洋船を2隻も持つのは海援隊だけでした。

 
坂本龍馬 出典:亀山社中図録
 

海援隊の主要メンバーを紹介しよう

近藤長次郎 龍馬の片腕で薩長同盟に尽力(1838-66)

 高知城下の 餅菓子屋に1838年(天保9年)に生まれる、 小さい頃から行商もし、まんじゅう屋と呼ばれたが、 読書好きだったので 学問好きの叔父の推薦で 河田小龍の塾に入る。後に勝海舟門下に入り、航海術を学び亀山社中結成に参加、龍馬の片腕と呼ばれ、長州藩の軍艦、武器購入等に奔走尽力した。

 英国留学の経験のある伊藤博文、井上薫に信頼され、長州の援助でイギリス留学を秘密裏に図ったが、海援隊規に触れると咎められ 自刃した29歳だった。龍馬留守中のことであり、龍馬がいれば死なせなかったと悔やんだという惜しい人材だ。
 
近藤長次郎 出典:亀山社中図録
 

長岡謙 龍馬の秘書役(1834-1872)

 船中八策をまとめ上げた人、龍馬とは姻戚関係にあり、子供の頃から付き合いがあった。 和漢の学に通じ、英語、蘭語もでき、医師でシーボルトの弟子でもあり、息子に日本語を教える。公法学も学び、いろは丸衝突事故では役立つ。

 入獄半年の経験もあり、脱藩は2度経験、2度目は妻子を残し脱藩、海援隊に入隊。夕顔丸での航海中に龍馬、後藤象二郎と《船中八策》をまとめ、明文化した。鹿児島にもゆき 小松帯刀、西郷と知り合う。海援隊日誌をかき、大政奉還建白書の原稿作成にも携わる。龍馬の亡きあと、海援隊隊長となる。慶応3年「閑愁録」をしゅを出版、漢詩を良くし龍馬暗殺の場を詠んでいる。維新後三河県判事等を務める。

 
  長岡謙吉 出典;海援隊隊士列伝
   

陸奥陽之助 後の外務大臣陸奥宗光(1844-1897)

 父は和歌山藩の重臣だったが陽之助8歳の時政争に敗れ困窮生活を送る、
1858年江戸に出て勝海舟の弟子になり坂本龍馬と知り合い、以後亀山社中、海援隊と行動を共にし、龍馬はその才を愛した。龍馬暗殺直後、犯人を紀州藩と思い込み、同志15人で天満屋を襲撃する。

 維新後、薩長藩閥政治に反発、西南戦争の際、政府転覆に加担で投獄5年、その後ヨーロッパに留学、民主政治を学び1886年帰国後、駐米公使や農商務大臣を歴任。1890年第1回衆議院選挙で和歌山より当選、伊藤博文とは志士時代から親しく、日清戦争後の下関条約で外務大臣として陸奥外交を展開した。妻・陸奥亮子は美貌と聡明さで《鹿鳴館の華》とよばれた。

  海援隊の陸奥陽之助 
出典:亀山社中図録
   

中島作太郎 後の初代衆議院議長(1846-1899) 

 土佐藩・豪農の出身、19歳で脱藩、長州へ身を投じ、亀山社中、海援隊に参加、陸奥陽之助をたすけ、いろは丸事故の賠償問題の実務を担当した。
維新後は欧州視察、神奈川県令、自由民権運動を支え自由党副総理を歴任、明治23年の衆議院選挙に当選、初代の衆議員議長に就任した。
奥さんは陸奥宗光の妹、坂本龍馬の夢、船中八策の2条《議政局を設け万機公論に決する》を実現した。

 
  中島作太郎
出典;海援隊隊士列伝
   

沢村惣之丞   龍馬と一緒に脱藩、 長崎で切腹する(1843-1868)

 土佐藩の地下浪人の出身、坂本龍馬と一緒に脱藩、土佐勤王党に入党、勝海舟塾に入り英語と数学が得意だった、以後坂本龍馬と行動を共にする。 長崎で警備中、酒に酔った武士を小銃で射殺、これが薩摩藩士だったので責任をとり切腹した。この事件は相手に非があるのに自刃した、武士の責任の取り方、潔さに感心するが、惜しい人材を喪失している。

 
  沢村惣之丞 出典;亀山社中図録
   

高松太郎 龍馬の甥で坂本龍馬家跡をつぐ(1842-1898)

 土佐藩郷士の出身、父は文武に秀でた順蔵(多くの勤王志士の育て親)。
太郎は19歳で武者修行に出て九州で武市半平太に会い同行、帰国後土佐勤王党に入党、その後龍馬のいる勝塾に入塾、亀山社中、海援隊と行動を共にする。薩長・グラバーとの武器取引の斡旋をし、馬関海峡戦ではユニオン号で参戦している。

 龍馬亡きあと函館戦に参戦、函館府に勤務、明治4年政府は子供のいなかった坂本龍馬家を憐み、甥の高松太郎(坂本直と改め)を龍馬家の跡をつがせた。龍馬は北海道開拓を夢見ていたが、太郎の実弟・直寛は坂本・本家の養子となり明治30年一家をあげて、北海道石狩川のほとりの樺戸郡浦臼村に入植し、龍馬の夢をかなえた。

 

高松太郎・後の坂本直
出典;海援隊隊士列伝
 

池内蔵太 幕末九度の戦いに参戦、最後は難破死する(1841-1866)

 土佐藩郷士の出身、海援隊の制服白袴をはき、龍馬の革靴をはいている姿を、上野彦馬が撮影。21歳で江戸に出て、昌平黌教授の安井息軒の元で朱子学を学ぶ。土佐勤王党の結成に尽力、勤務途上で1863年妻、嫁を残し脱藩したので、先祖伝来の家は断絶の処置を受ける。

 内蔵太は長州に身を投じ、吉村寅次郎の天誅組挙兵には洋銃隊長として参加、その後禁門の変にも参戦、長州に逃れ,下関で龍馬と再会する。龍馬に誘われ亀山社中に参加、初めて海援隊が薩摩藩の援助で求めた帆船ワイルウェフ号に乗り鹿児島へ向かう途中で難破、遭難死する。 九度の戦いに参加生き延びているのに、海で遭難死とは残念、竜馬も内蔵太の死を悼み、長崎県新上五島町に碑を建立している。

  池内蔵太 出典;海援隊隊士列伝
 

菅野覚兵衛 航海術に長じユニオン号の艦長、龍馬の義弟(1842-1893)

 土佐藩の庄屋出身、土佐勤王党、勝海舟の弟子、神戸海軍操練所、亀山社中、海援隊と龍馬と一緒に行動、下関海戦でユニオン号の戦将として長州軍海軍を支援し勝利する。維新後6年間アメリカへ留学、海軍に奉職、明治18年福島県の安積開拓に従事、龍馬の妻お龍の妹と結婚、お龍の面倒もみたという。

 
菅野覚兵衛、亀山社中図録
 

白峰駿馬 アメリカに留学、日本初の民間造船所を開設(1847-1909)

 海援隊には珍しく、長岡藩の出身、江戸に出て勝海舟の門人として、軍艦操練を学ぶ、脱藩して神戸海軍操練所に入所、閉鎖後龍馬の亀山社中、海援隊に参加、維新後は菅野覚兵衛と共にアメリカに6年間留学し造船術を学ぶ、帰国後海軍省に入省白峰丸を建造、その後、官を辞し1878年(明治11年)横浜に日本最初の白峰造船所を設立、経営した。

 
白峰駿馬、亀山社中図録
   

小曾根英四郎 長崎の豪商、龍馬の海援隊を助ける(1841-1880)

 長崎の豪商小曾根六左衛門の4男、龍馬の良き理解者、支援者であり、海援隊設置の際には小曾根宅に本部をおいた。
龍馬の妻お龍が長崎に逗留した際は小曾根邸に滞在した。1867年海援隊が発足すると会計官として参加、いろは丸沈没の際は鞆での宿舎手配や紀州との賠償交渉にも尽力した。

 
海援隊のあった小曾根邸
   

坂本龍馬の感想・評価

武市半平太評 龍馬の盟友

 土佐の田舎にあだたぬもの(間尺にあわぬ者)の詩をおくっている肝胆元より雄大 、 奇機おのずから湧出す、飛潜す、たれか識るあら ん、ひとえに龍の名に恥じず。

西郷隆盛評 龍馬の同志

 「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかって之をみず。龍馬の度量や到底測るべからず」「直柔(龍馬)は真に天下の英傑なり」

勝海舟評 龍馬の師

 「聞く薩,長と結びたりと云、又聞く坂本龍馬,長に行きて是等の扱を成す と、左も可有と思わる」 (薩長同盟後の海舟日記)

陸奥宗光評 後の外相

 「龍馬あらば、今の薩長人など青菜に塩、維新前、新政府の役割を決めたる際、龍馬は世界の海援隊云々といえり,この時、龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める。その識見、議論の高さ、その他人を誘説、感得するの能の富める。

同時の人、よく彼の右にでるものあらざりき。彼、もとより土佐藩の一浪士のみ。(中略)坂本に至りては、一方に於いては薩長土の間にはびこりたる怨念を融解せしめて幕府に対抗する一大勢力とすると同時に、直ちに幕府の内閣につき、平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸侯を率いて朝廷に朝し、事実に於いて太政大臣たらしめ、名に於いて諸侯を平等の臣属たらしめ,以って無血の革命を遂げんと企てぬ」

大久保一翁評 江戸幕府・幕末の重鎮

 「龍馬は土佐随一の英雄、いわば大西郷の抜け目なき男なり」

伊藤博文評 後の首相

 「坂本龍馬は勝安房(海舟)の門人で、壮年有志の一個の傑出物で、彼方へ説き、こなたへ説きして、何処へいっても,居れられる方の人間であった。」

板垣退助評 土佐の志士仲間、後の自由民権運動の党首

 「豪放磊落、到底史人たるべからず、龍馬もし不惑の時を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」と、その早死を惜しんだ。桂浜の龍馬像の碑文は板垣の揮毫。
 「板垣の今日あるは偏に坂本先生お蔭様でございます」

吉三慎蔵評 寺田屋事件では龍馬と一緒に遭難

 「過激なることは毫もなし、かつ声高に事を論ずる様な事もなく、至極おとなしき人なり、容貌を一見す
れば豪気に見受けられるも、万事穏和に事を処する人なり」但し胆力が極めて大なり。

お龍さん 龍馬の奥さん

「坂本はハキハキしたことが好きで。私がどんなことをしたって、決して叱るようなことはなかったのです」。

  
 今回は長崎の亀山社中を中心に 坂本龍馬とその周辺の人々を紹介してみました。
坂本龍馬の記念館は生まれ故郷の高知市にありますし、東京の品川・入会川の銅像、京都の暗殺現場など、沢山の龍馬史跡があります。

歴史上人物の人気度調査を見ると、どのアンケートでも坂本龍馬は常にトップランクにあります。その人気の秘密は何か、育った環境など興味あるテーマを今後追及してみたい。

また多くの人のご意見も聞きたいところです。今後にご期待ください。

 
参考図書:海援隊隊士列伝 亀山社中図録
 
志士出典:亀山社中図録
 
記:Y.青木


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