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佐藤次郎

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プロフィールバー 〔佐藤次郎〕のプロフィール。
俗称・筆名 佐藤次郎
本名 佐藤次郎
生誕 1908年(明治41年)1月5日
死没 1934年(昭和9年)4月5日
出身地 群馬県北群馬郡子持村夏保(現渋川市横堀)
最終学歴 早稲田大学経済学部
職業 テニスプレイヤー
ジャンル スポーツ
活動 早稲田大学在学中に全日本選手権で優勝、世界テニス界・四大大会でベスト4に5回進出し、世界ランクでも3位まで達し活躍した。ダブルスでは四大大会で準優勝を2回達成し、2015年現在この記録は破られていない
代表試合 1933年世界1位のクロフォードを破り脚光を浴びる。当時世界のトッププレイヤーであったフレッド・ペリーやヘンリー・オースチンなども破り、1933年世界ランク3位となる。全英大会ダブルスでは布井良助選手と組み準優勝をはたす。
戦績 全豪 ベスト4 1932年
全仏 ベスト4 1931年.1933年
全英 ベスト4 1932年.1933年
全米 4回戦   1932年,1933年
ダブルス 全英準優勝 1933年
参考書籍 栄光なき天才たち17「佐藤次郎」
1993年1月集英社刊  森田信吾著
さらば麗しきウィンブルドン 
1985年11月文藝春秋刊 深田祐介著

  佐藤次郎は1908年(明治21年)1月5日群馬県北群馬郡子持村夏保(現渋川市横堀)に、父市郎兵衛、母よしの次男として生まれる。尋常小学校4年の頃から兄・太郎と軟式テニスを自宅の庭で楽しむ。
1922年(大正11年)長尾小学校をへて、県立渋川中学(現渋川高校)に入学、軟式テニスで兄太郎と組み、県下の庭球大会で優勝、活躍する。1926年(大正15年)早稲田大学第一高等学院
(旧制)に入学硬式テニスを始める。1929年(昭和4年)同大学政治経済学部に進学する。1930年(昭和5年)日本選手権で初優勝し、日本ランキング1位となる。初めて国際大会にも出場しフィリッピンナショナル選手権大会で優勝、この時の優勝カップが寄贈され、佐藤次郎杯として使用された。1931年(昭和6年)〜1933年(昭和8年)は国際大会を転戦し、シングルスでは全仏ベスト4、全英(ウインブルドン)ベスト4、全豪ベスト4、ダブルスでは布井良助選手とくみ決勝まで進出(昭和8年)、デビスカップでは昭和6年から3年間準決勝まで勝ち進む。

昭和8年には世界ランキング3位までのぼりつめた。この間世界ランキング1位のクロフォードを破ったり、有名なフレッド・ペリーを破ったりして話題を呼んだ。1934年4度目のデビスカップ戦の主将として遠征途中の4月5日、インド洋のマラッカ海峡に身を投じ生涯を終える。自らの病気と国・国民からの期待に応えられないプレッシャーからと遺書より推測される。

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佐藤次郎:出典:上毛新聞2015.6.28


佐藤次郎 :出典日本テニス協会HP

 
テニスの神様・佐藤次郎
 テニスプレイヤー錦織圭選手が世界で活躍すればするほど脚光を浴びる人がいる。その人の名は佐藤次郎、今から82年以上前の1933年(昭和8年)に世界のテニス界で世界第3位にランクされた。佐藤次郎の出身地に近くに住む友人から佐藤次郎を《ゆい人物館で》紹介して欲しいと言われ、地方の隠れた偉人を紹介するのもゆい人物館の趣旨でもあり今回紹介します。
 佐藤次郎の銅像が県立渋川高校の校庭に昔から立っているのは知っていた。でも、世界3位にランクされ、1世紀近く過ぎた今でもこの記録は破られていないのは驚きである。今や、佐藤次郎は《テニスの神様》として、テニス愛好者がその墓をお参りし、又地元の子供達の徳育教育にも役立っていると聞く。ここに《佐藤次郎の生い立ちとその強さの秘密》に追ってみました。

渋川高校の階段に飾られている
肖像画

《栄光なき天才》といわれる佐藤次郎の漫画読本
 《栄光なき天才たち》という佐藤次郎の生涯を描いた漫画本があることを友人より教えて頂き、まず図書館にあたったが、図書館には漫画本は無いという。国会図書館でも無いですかと聞くとそうだという。日本は漫画の先進国という印象を持っていたが、例えば手塚治の漫画も図書館には無いのだろうか?
 《 栄光なき天才たちという》漫画は天才と言われているが栄光がなかった人を取り上げている、例えば野口英世、円谷栄吉、佐藤次郎などで、栄光を得る前に亡くなっている人が多い、死後有名になった天才と言えるかもしれない。
 佐藤次郎はそのシリーズの最後に掲載されている。1990年代に発刊され集英社と解りネットで探し、なんとか1冊入手した、当時450円だったが本が、3200円ほどの貴重本だ。作者は 森田信吾で佐藤次郎の生涯(150ページ)を解りやすく描いている。


栄光なき天才たち17 佐藤次郎

佐藤次郎の母校・渋川高校を訪ねる
 渋川高校は上越線渋川駅から歩いて20ー30分、街の上の方にある、タクシーだと5分で着く、校門を入ると右手に佐藤次郎の銅像が建っている、背広服姿のキリッと締まったいい男である。受付でこの学校の卒業生で『ゆい人物館』の画像をiPADで見せ、大先輩の佐藤次郎を紹介したい旨を告げると、同窓会担当の藤川先生を紹介頂きご案内いただいた。
渋川高校は今でも男子高校だが、校舎は新しくなり昔の面影はない、校舎の階段の壁に佐藤次郎の肖像油絵が飾られている。佐藤次郎の直筆の書も掲げられている。掛け軸の真ん中には《遊雅》というタイトルとテニスラケットの絵が書かれている。佐藤次郎の直筆だ。現役の生徒は階段を昇るたびに佐藤次郎に接し、80年以上前の世界的テニスプレイヤーがここに学んでいた事実は、後輩にとっても大きな誇りになるだろう

現在の渋川高校

佐藤次郎の資料館を見る

 別棟に佐藤次郎資料館がある。通常は公開されていないが特別に見せて頂いた。
校門横にある銅像とほぼ同じ佐藤次郎の胸像が室内の目立つ位置にある、銅像でなく、陶器で出来ているようだが、最初の試作品かもしれない。この部屋には佐藤次郎が使ったラケットが数本ある。昔なつかしい木製で今の進歩したラケットと違い、スピードも出ず、スピンをかけるのも難しかったろう。優勝杯も大きく黒光りのするものがあり、実際に佐藤次郎が国際大会で優勝し受贈されたものだ。



佐藤次郎の胸像レプリカ


佐藤次郎の直筆


優勝カップ&ラケット等

 


愛用のテニスラケット

 佐藤次郎杯という軟式テニス大会が毎年開催されている。この優勝杯は佐藤次郎が国際大会で受贈された杯が使用されていた。優勝者の名前と年月日が優勝杯の台座の廻りに彫られている。佐藤次郎杯は昭和10年から開催され、昭和20年から今の形で年9月伊香保温泉下の渋川公園テニス場で開催されている。

 大正9年の渋川中学テニス部時代の佐藤次郎は、放課後遅くまで練習とコート整備に汗を流し、学業成績も優秀、剣道は大将格、陸上短距離は全校一位と、まさに文武両道
に優れていたという。


佐藤次郎杯優勝者一覧


國際試合での優勝カップ

 昭和の初めの小型ムービーが並んでいる。佐藤次郎が愛用し試合風景等撮影していたものだ。戦前にムービーを持っていた人は少なく貴重なものだ。最近新しい試合風景などが発見され、現在某新聞社が再現できるよう挑戦中で、近い将来発表されるかもしれない。    
この資料館には佐藤次郎以外でも、画家になった卒業生の絵や、美術の先生の作品等も飾られている。


佐藤次郎愛用のムービーカメラ

華麗なテニスのスイング写真
 数枚のテニススイング写真が掲示されている、新しい写真が見つかったとA全ほどの大きくプリントされた写真が訪問時に持ち込まれ拝見した。力強いスイングは世界に通用する剛球で、強烈なサーブの持主だったようだ。そうでなければ世界の4強を長く維持できなかっただろう。


渋川高校に掲示されている
佐藤次郎の雄姿

 
佐藤次郎の生家を訪ねる

 関越高速道・渋川インターから草津温泉方向に向かい、昔の三国街道・横堀宿の高台に佐藤次郎の生家がある。佐藤次郎の甥・忍さんの奥様節子さんとお会いしお話を聞くことができた。佐藤家は この地方では夏保の大尽と言われ、村一番の豪農である。万葉集にも詠われる子持山、小野子山の麓にあり、養蚕や蒟蒻作りが盛ん な処だ。佐藤家はさらに林業も営んでいたから、佐藤次郎も、家の手伝いをしただろう。 ニックネームの《ブルドック》にふさわしい体はこの頃にできたのだろうと想像できる。節子さんの話では太郎・次 郎兄弟は《板でテニスラケット》を作り、兄弟で打ち合い、1人の時は家の土蔵壁を相手にテニスに興じたという。板ラケットは卓球ラケットのようなものだろうか。今のようなラケット、ボールもなく、指導者もいない時代に、太郎・次郎兄弟はダブルスを組み 群馬県大会で優勝もしている。

  佐藤家屋敷は昔県道沿いにあったが、天明3年の浅間山爆発により熔岩が押し出し、高台に屋敷を移したという。今でも屋敷は広く、建物は今風に建替えられているが、佐藤次郎の生家は群馬県川場村移築されている。山あいの畑の中にその生家はあり、茅葺の家が5棟から並び、その中の一部が佐藤家生家であると職員が教えてくれた、中を見せてほしいとお願いしたが、その日は団体客が食事処として使用しており、見せることはできないと断られる。節子さんに生家の写真を見せ、感想を聞くと面影は残っているという。また《栄光なき天才たち》のマンガ本を見せお話しすると、コピーで読んでますが、今では5万円するそうですよ と言われその人気ぶりに驚かされた。


佐藤次郎の旧生家

佐藤次郎生家が移築された悠湯里庵

日本一の《川場村道の駅》

《道の駅》は日本全国に1059箇所ある(2015年4月現在)
 川場村道の駅は、村民3700人に対 し年間観光客120万人が押し寄せる日本一の道の駅で、成功例として全国から訪れる人も多いと聞く。佐藤節子さんのお弟さんが村長をしていた頃、その基礎を作り、地元の野菜や果物、地元酒「水芭蕉」等を直売し、蕎麦屋をはじめ、食事処も多い。
この村は、りんご、ブルーベリー、さくらんぼの観光農園も多く、区民健康村として世田谷区と連携、都会の顧客を呼び込み、SL列車の運行もあり、駐車場は満車である。道の駅の成功により村として自立できる財政の基礎がつくられた。沼田市とも合併せず独立を保っている。茅葺のそば処で昼食にそばを食べて見たが、及第点をあげられる出来栄えだ。

 
  川場道の駅・川場田園プラザ

佐藤節子さんの佐藤次郎

 佐藤次郎の甥・忍さんの奥様節子さんは、気さくでいろいろお話しくださった、甥・忍さんは次郎さんの戦績を石の碑文 に刻み墓の横に建立している。 最近は《テニスの神様》としてお参りするテニス愛好家が増えているという。また地元の学校では徳育教育の一環として佐藤次郎の墓にお参りし、《故郷の偉人から生き方を学ぶ》ケースが増えているという。《ゆい人物館》も先人からその生き様を学び、生きる糧にすることは同じであり、意を強くした。

 佐藤次郎の活躍した昭和初期の頃、遠征費用は誰が負担をしていたのだろうという疑問が湧く。深田祐介氏の《さらば麗しきウィンブルドン》を読むと、費用は当時所属する会社が持つケース、テニス協会が負担するケース、選手個人が負担するケース等がある。
 佐藤次郎の場合、個人の負担部分が多く、当時。大卒初任給が50円の中、実家では200円仕送りしていたという。次郎の父市郎兵衛は18代目、杉の山林を所有、大正14年全国森林大会(前橋で開催)の折は、会員たちが佐藤家の視察に来たという 。市郎兵衛は事業家肌で、蒟蒻栽培を下仁田で学び、村内に広め、養蚕にも力入れた。市郎兵衛自身も海外に目を向ける事業家でもあり、次郎が海外で活躍することに理解をしめし、多額の送金をしていた。余裕と理解がないとテニスもできなかった時代である。

 
次郎の甥・奥さん、気さくな節子さん

佐藤次郎全国テニス大会で優勝、世界へ
 
 渋川中学(現渋川高校)時代は軟式でしたが、早稲田大学に入り、硬式テニスに転向、昭和3年の全日本大会で優勝候補を破り決勝に進むも軟式流バックハンドの弱さをつかれ完敗、この敗戦を機に硬式流に改め、昭和5年には全日本チャンピオンとなる。その後もグリップに工夫を加え自分のグリップを生み出した。この年、マニラでの国際大会に出場し優勝、この時の優勝カップが寄贈され佐藤次郎杯として使用されていたものである。

 

ブルドック佐藤の誕生

 昭和7年オーストラリアより招待を受け布井良助、原田武一と共に各地で親善試合を行い、豪州選手権にも参加しベスト4に進出した。この旅でクロフォード(1933年には全英、全豪、全仏を制覇) を破る、この時の次郎の獲物にくらいついて離れない闘いぶりから《ブルドック佐藤》と呼ばれ、各地で熱狂的歓迎を受ける。
試合後のパーティーでは英語で挨拶し、《自分は映画スター以上の美男と自負しているのに、ブルドッグ呼ばわりされるのは遺憾である》とユーモアまじりでスピーチし爆笑、喝采を博したという。

オーストラリアの新聞に掲載された
ブルドック佐藤のイラスト

 この年(昭和6年)テニスシーズン終了後、佐藤次郎は友人の通う英国・バーミング大学の聴講生となり、半年間、英語の習得や、友人との談笑、夜の社交ダンス等を謳歌した。携帯用英語辞書を片手に、英国社会に溶け込み、国際人としての教養を身につけようと努力している。また 英国各地を転戦、シングルスで11連勝を記録し、ダブルスでは三木龍喜と組み3回優勝している。
 日本の協会幹部への手紙で、《少しでも早く多く日本の為に尽くさんと欲すれば、1日も早く言葉を学んだ方が、テニスことに試合に強くなることを悟ったからです》 と記している。
  昭和6年当時のエピソードとして、欧州に渡航中の靖国丸で戦後首相になる吉田茂がイタリア大使として赴任途中で同乗していた、佐藤のことを、《ああいうサウンドな頭の人間が外務省に欲しい》と漏らしたという。
 サウンドは健全、強靭を意味し《A sound mind in a sound body. 健全な精神は健全な肉体に宿る》は格言になっている。
 北関東育ちの佐藤次郎は、内村鑑三が上州人を《上州人無知無才、剛毅木訥》と詠み喝破しているように、生真面目、約束は守る性格であったようだ。


生家の庭にある石碑  

 

弱きを助け、強気を敬う  佐藤次郎言の葉

世界3位にランクされた佐藤次郎
 昭和8年は佐藤次郎のテニス人生にとって絶頂期を迎えた。大阪豪商の末裔布井良助が加わり、伊藤忠兵衛の甥にあたる伊藤英吉、英国に駐在する三木龍喜など世界に通用する仲間がそろった。
ウィンブルドン・ダブルスでは布井良助と組み決勝へ進出、全仏では前年ナンバーワンのフレッド・ペリー(イギリスの)を破る。エコード・パリ紙は「佐藤次郎対ぺリーの大試合は、2つの文明の対戦であった。東洋が鋭敏な理知と強烈な意思の力によって西洋を打ち破ったのである」と紹介する。

 パリ・ソワール紙も《佐藤は相当な腕力を持つと同時に、素晴らしい頭脳の働きを持っている。それでこそ大選手である。彼は余計なポイントなど取ろうとせず、惜しげもなく敵に献上する。しかし、いざという時、このポイントは絶対必要だという時、佐藤は猛烈にペリーを走らせ、混乱させ、完全にポイントを収めたのである、頭の良さと立派な技巧によって《佐藤を日本のコシェ1920年代の(フランスの名選手)》というのは当たっている。今年の佐藤は去年の佐藤ではない。》と紹介する。

 ウインブルドンでは昨年雨中の戦いに破れたオースチンを7-5,6ー3,3-6,2ー6,6ー2のスコアで破る。イギリスの夕刊では《佐藤、オースチンを破る》と報道され、ロンドンの在留邦人は肩で風を切って歩いたという。しかし準決勝ではオーストラリアのNO1.クロフォードに破れる。

  昭和8年9月21日佐藤の世界順位は3位にランクされる。@クロフォードAペリーB佐藤の順である

32年ウインブルドン3位の次郎試合写真.:渋川高校資料室

ウインブルドンダブルス準優勝佐藤・布井組の
活躍を報ずる新聞記事。

ウィンブルドン・ダブルス で決勝に進む(布井良助とペアで)


 昭和8年のウインブルドンダブルでは佐藤次郎・布井良助のペア-は決勝戦まで勝ち進んだ。日本の大新聞も《破天荒の快事、ウインブルドンの争覇、庭球界はじまって以来の事、殊勲佐藤・布井》という大見出しの記事が朝日毎日等に掲載された。その後布井良助はテニスをやめ平洋戦争に従軍し、昭和20年ビルマでピストル自殺をしている。佐藤次郎の死が布井の自殺にも影響を与えたのではないかと臆測するする記事もある。


ウインブルドン決勝で組んだ布井

深田裕介氏の《さらば麗しきウインブルドン》を読む

 昭和60年発刊された《さらば麗しきウインブルドン》(文芸春秋刊)という佐藤次郎の生涯を紹介した本がある。この本を読むと日本及び先進欧州のテニス界の状況がよくわかる。佐藤次郎の出現はテニス協会に夢を与えたという。フランスはアメリカからデビスカップ杯を獲得すると、そのデ杯獲得の収益金で、パリ・ブローニュの森にローラン・ギャロスというテニススタジアムを完成させた(現在全仏戦が開催されている)

 
日本のテニス協会も フランスをまね明治神宮外苑に大テニスコートを作ろうと夢をみた。事実協会のデ杯分与金は昭和3年ゼロが、昭和6,7,8年の分与金合計は21、873円と2万倍となる貢献を佐藤次郎はしている。 協会ではデ杯歓迎試合、地方のエキビジョン試合を開催し、財界からの寄付を募集する。その際「日本には佐藤次郎という世界的プレイヤーがいるので協力を」と説き支援者廻りに佐藤次郎を駆り出す。1年のうち半年に及ぶ海外遠征、興行試合への出場、企業への挨拶回りと、国家を代表するデ杯選手としての試合に勝たねばという期待で、次郎の精神的疲労は極限に達成していた。

 

さらば麗しきウインブルドンの表紙・佐藤次郎

 








右の本:佐藤次郎記念本 ;早大庭球部刊
日本チームは3年連続デビスカップ準決勝に進出
 現在のデビスカップ戦では日本チームは予選で敗退し本戦に出場していませんが、昭和6年〜8年では3年連続準決勝まで進んでいる。当時の選手は三木龍喜、佐藤次郎、桑原孝夫、布井良助、伊藤英吉等で世界のトップクラスの選手が揃っており、現代より層が厚かったといえよう
個人戦・ウインブルドンには強いが、団体戦・デビスカップに弱い佐藤次郎
佐藤次郎は国別対抗戦のデ杯になると、国を背負う責任感ゆえか、下痢が続き、食欲を失い、胃腸障害に陥る。個人戦のウィンブルドンでは3年連続準決勝まで活躍するのに、国別対抗戦のデビスカップでは、負けるので、手を抜いていると中傷され、悩み、体調を崩していった。
 太平洋戦争前の昭和6ー9年の頃は、テニスも個人戦であるウインブルドンより、国別団体戦の方が重視され、 ヒトッラーのドイツでは選手をウインブルドンに出場させず、デビスカップのみに出場させるという方針が出された。日本選手はドイツを意識し戦い昭和8年では4勝1敗で圧勝している。ドイツチームはユダヤ人選手を排除したので戦力が低下してしまったのだ。

 ウインブルドンで活躍する佐藤次郎のフォーム

佐藤次郎・岡田早苗嬢と婚約
1934年(昭和9年)2月9日佐藤次郎と女子テニス界の名花・岡田早苗嬢との婚約が発表され新聞紙上をにぎわした。岡田早苗嬢はテニスの実力も全日本2位の実力者でもあり、夏目漱石の女婿である松岡譲氏が主宰するテニス専門誌「テニスファン」の女性記者でもあり、才気あふれる文章を書き人気があった。
 佐藤次郎は茶会やパーティで知り合った後岡田嬢に接近し、前年の全日本大会での岡田嬢の試合では審判台の下に立ってボール・ボーイの役をつとめたというエピソードがある。
世界的プレイヤーの佐藤次郎がボール拾いとは信じられないが、「さらば麗しきウインブルドン」によれば、背広にソフトをかぶり、胸に花を挿して、ステッキを携えた佐藤次郎がボールを拾うので、「あんなえらい人が私のボールを拾ってくれる」と驚いた、その後岡田早苗は「テニスファン」の仕事で渋川の次郎の生家をたずね、「村の次郎さん」という記事をかいた、と紹介されている。この年3月20日にはデビスカップ戦参加のため出発しているので、わずか2か月弱の婚約期間であった。

 
岡田早苗嬢 出典:さらば麗しきウインブルドンより

昭和9年4月佐藤次郎マラッカ海峡に沈む
 佐藤次郎は健康問題(慢性胃病病)、徴兵検査、学業への復帰などを理由に昭和9年のデビスカップ杯代表選手の辞退を申し出た。稲門会は辞退を了承,親族会議も辞退を決定するも、庭球協会から執拗に説得された。
 曲折を経て、 昭和9年4度目のデビスカップ日本チームの主将に選ばれ3月神戸港を出発した。しかし、佐藤次郎はこの年のデ杯の勝算はなかった。最初の相手はオーストラリアで昨年も敗れている強豪である。日本チームにはダブルスの好パートナー布井良助も辞退で不参加。自分の体調は優れず、過去3年準決勝まで勝ち進んだのに1回戦敗退では歴史を汚すと悩み、シンガポールでは下船すると決断し、日本にその旨を打電する、テニス協会からは《デ杯選手のために内地にても基金募集に苦心中、無理してもマルセイユまで遠征されたし》という返電があり、下船した佐藤次郎は再乗船した。そして死を覚悟して遺書を数通したため4月5日インド洋マラッカ海峡に身を投じ、27年の生涯を終えた。

上毛新聞の遺書発見記事 2015.6.28

佐藤次郎の遺書見つかる
 《佐藤次郎の遺書発見の》の記事が2015年6月28日の上毛新聞に掲載された。《進退窮まったエース》の見出しで始まるこの文には、自らの命を絶たずに済む道が一つあった。それはシンガポール到着直前、下船して帰国し療養すること。しかしテニス協会ではデ杯優勝で『東京に大テニスコート実現構想と協会の財政改善』をもくろみ、次郎の申し出を拒否した。

 昭和7-8年の情勢は満州事変が発生、国際連盟脱退、5.15事件の犬飼首相暗殺など発生で、個人の人権より国家の権威が優先された時代でもあり、佐藤次郎のテニス協会長に宛てた遺書には《私は病気によりテニスができない、来るべきデ杯を予想して、私のこの醜態さ、何と日本帝国に対して謝ってよいか分りません。その罪、死以上だと思いますが私には死以上の事はできません。》と結ばれている、遺書原文を下記に記します。

上毛新聞の遺書発見記事 2015.6.28

 《永々色々とお世話になりました。私は慢性胃腸病を病む結果色々考えます。そして今回もその為、遂に集中して物事をする事のできないある考えを頭の中に持つ様になりました。その考えを持つ様になってからその強さ、その思が頭の中を去来してゐて去りません。そうなったら恐らくテニスも百パーセントの力を出して行ふことが出来ません。

 実際参りました。一寸した何でも無い事なのですが、もう私の頭の中から離れません。話をするにも何をするにも、そう考え出したら続いて話をする事はできません。至って断片的な話になって仕舞ひます。そうなると総てが能率があがりませんから面白くありません。厭なものに取りつかれたものです。神経質な私がテニスコートの上でそれを思い出したら、とてもテニスができません。若人三人を伴れて来た私のこの醜態さ、何と日本帝国に対して謝ってよいか分りません。その罪、死以上だと思いますが私には死以上の事はできません。 生前お世話になった同胞各位に礼を述べ、卑怯の罪を許されん事を請ふ。 ではさよなら。》
遺書は婚約者や兄太郎にも書かれている
佐藤次郎亡き後のデビスカップ、ウインブルドン
 佐藤次郎亡き後の昭和9年デビスカップ(開催地英国)は三木龍喜を中心に若手3人西村、山岸、藤倉組で6月、オーストリアを相手に対戦、佐藤、布井を欠いた日本チームはストレート負けを喫した。しかしウインブルドンでは三木龍喜はミックスダブルスで弟子のドロシー・ラウンドと組み破竹の勢いで勝ち進み優勝、英国国王ジョージ5世の前で優勝の祝いの言葉をうけた。この年のシングルス優勝は英国のフレッド・ペリーであった、ウインブルドンに強い佐藤次郎がもし参加していれば優勝していたかもしれない、なぜなら前年の全仏大会では次郎は優勝者フレッド・ペリーを破っていたからである。
佐藤次郎の死後日本のテニス界は深い闇に没し、80数年後錦織圭が世界4位まで登り、活躍すればするほど佐藤次郎にスポットがあたる。昭和初期には3人の世界トップクラスの選手(佐藤、布井、三木)がいた。さらにその前の大正時代には清水善蔵、熊谷一弥がいた。願わくは錦織圭たちが大正・昭和の先輩たちを追い抜いて欲しい。
 


ブルドンミックスで優勝した三木・ドロシー組み

テニスの神様・佐藤次郎の墓参りが増えている

 佐藤次郎の実家を守る佐藤節子さんのお話しでは、佐藤次郎の墓には多くのテニスファンが《テニスの神様》として墓参に訪れ るという。佐藤次郎の墓は国道358号線(渋川から中之条町に向かう途中)の横堀地区にある。 国道脇に設置されている太陽光パネルを目安にし、国道より50mほど中に入ると佐藤家の墓がある。
  次郎の戒名は正にテニスの神様と言える『早庭院神治獨郎居士』と墓に大きく掘られている。実家では漆塗りの位牌を見せていただいた。『早稲田出身のテニスの神様・次郎、ひとりここに眠る』 と解釈した。次郎の甥・忍さんが建立した戦績碑には佐藤次郎の輝かしい国際試合に勝利した記録が、大きな石に彫られている。その周りには立葵が次郎の活躍を励ますかのように咲き誇っていた。

  《立葵マラッカの人しのびけり 》  青眠


佐藤次郎の戒名

佐藤次郎の墓

佐藤家の墓

 佐藤次郎の戦績碑

◆ 新聞紙上をにぎわす佐藤次郎

  2015年も佐藤次郎の新聞特集記事が目につく。先に紹介した上毛新聞の遺書発見の記事や、スポーツニッポンでは錦織圭が全仏で8強に入ったのと合わせ、《佐藤次郎以来82ぶり快進撃》のタイトルで紹介されている。
 80年前の時事新報では佐藤次郎は《庭球は戦争なり》の文章を寄せ《ラケットは銃であり、ボールは弾丸であります、庭球とは人を生かす戦争なり、自分を鼓舞するために描いたもの》と言っている。まだ日本がよく知られてない時代、次郎の活躍は日本の評価を高め、日本人には勇気を与えた。

 スポーツニッポン2015.6.2の
佐藤次郎の記事

◆ テニスの先駆者・清水善造ウインブルドン決勝に進出、世界4位

群馬には佐藤次郎の前に世界のトップグループで活躍した清水善造がいる。清水善造は群馬県箕輪町(現高崎市)の出身、高崎高校、一橋大学から三井物産に入り海外駐在も多く、欧米のテニス事情にも通じ、日本に硬式テニスを導入した先駆者である。。
1920年(大正9年)清水善造はインドカルカッタの三井物産勤務中に、長期休暇を利用してウインブルドンに参加、いきなり「チャレンジ・ラウンド」(前年度優勝者への挑戦権決定戦)の決勝まで進み、世界ナンバーワンのビル・チルデン(アメリカ)に4-6,4-6,11-13で惜敗した、チルデンは前年覇者を破り初優勝した。当時のウインブルドンは現在のトーナメント方式と異なり、勝ち残った者が前年覇者に挑戦するオールカマーズ方式だった、囲碁の棋聖戦や名人戦などと同じ方式だ。

  1921年にはデビスカップに初出場した清水善造はいきなり準優勝した。そして1921年の世界ランクは4位にランクされた、佐藤次郎の同郷の先輩でもあり、その後の日本テニス界に大きな影響を与えた。善造は関東大震災復興支援のため、アメリカ各地で義援金募集のチャリティ試合に出場、にこやかな笑顔から「スマイリー・シミー」と呼ばれ親しまれ、1954年のデビスカップ監督、宮城淳、加茂公成などを育てた。
  清水善造は「やわらかなボール」で有名である。1919年ウィンブルドン選手権のオールカマーズ決勝(現在の準決勝)で、対戦相手のチルデンが足を滑らせて転倒、その時にゆっくりとしたボールを返し、チルデンが態勢を立て直し、返球がエースに。「ヘイユー!ルック!!」とチルデンがラケットで指した所、観客がスタンディング・オベーションで清水に向かって拍手をしていた。結果としてチルデンが勝ち、二人が会場を後にしたものの、その後しばらく拍手が続いたという。(ウイキぺディアより)

 
清水善造:出典ウイッキペディア
◆ 佐藤次郎の言葉、好きな言葉

・弱きを助け、強きを敬う

・勝利は技術だけではとれない、全人格で取るのだ

・約束というのは、何人かの人の間で成立するもので、一人の身勝手な判断から 遅刻したり、休んだりはできない

・《庭球は戦争なり》  ラケットは銃であり、ボールは弾丸であります、庭球とは人を生かす戦争なり、


◆佐藤次郎の参考資料

★さらば麗しきウインブルドン  深田祐介  文藝春秋

★栄光なき天才たち、17巻 佐藤次郎、森田信吾著、集英社

★渋川高校 佐藤次郎の銅像、資料館がある

★佐藤次郎の墓、戦績碑  渋川市横堀の県道沿いにある

★佐藤次郎生家の移築先  川場村悠湯里庵

 
記:Y.青木


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