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〔偉人〕

真田幸村(さなだ ゆきむら)

 
〔さ〕の偉人 サトウハチロウ 西郷南州
斉藤茂吉 坂口謹一郎 坂本龍馬
佐藤春夫 佐藤次郎 真田幸村
坂村真民

プロフィールバー 〔真田幸村〕のプロフィール
俗称・筆名 真田幸村
本名 真田信繁
生誕 1567年(永禄10年)真田昌幸の次男として生まれる
死没 1615年(慶長20年)5月7日大阪夏の陣で戦死
出身地 甲府(山梨県)で生まれ信濃真田(現上田市)で育つ
経歴 甲州生まれの信濃育ち、豊臣秀吉の馬廻衆として重用される。関ヶ原の戦いでは徳川軍の足止めに成功、九度山で蟄居生活14年、大阪夏の陣冬の陣では徳川軍を悩ませ奮闘したが、夏の陣で戦死。
職業 武将、戦略家
ジャンル 戦国時代の武将
活動
代表作
記念館 〔真田宝物館〕
 長野市松代町松代4-1
 TEL:026-278-2801

〔真田氏歴史館〕
 上田市真田町本原2984番地1
 TEL:0268-72-4344

〔池波正太郎真田太平記館〕
 上田市中央3丁目7番3号
 TEL:0268-28-7100

〔真田庵(善名称院)〕
 和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
 TEL:0736-54-2218

〔蓮華定院〕
 和歌山県伊都郡高野山町高野山700番地
 TEL:0736-54-2019
言葉・信条

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真田幸村
(出典:Wikipedia)


真田幸村像
(出典:上田駅前)


真田幸村像
(出典:上田駅前)


人生履歴 〔真田幸村〕の人生(履歴・活動)
真田幸村 略歴
1567年(永禄10年)

真田昌幸の次男として甲府でまれる 本名信繁。別名幸村で知られる。幼名源二郎

1585年

18歳 越後上杉景勝の人質として赴く

1586年

19歳 大阪の豊臣秀吉のもとへ人質として赴く豊臣秀吉の馬廻衆として重用される。

1590年

秀吉の小田原攻めに父・昌幸と共に加わる。上野松井田城攻め、武蔵国忍城攻めに参戦。

1600年

33歳 関ヶ原に向う秀忠軍を上田で迎え撃ち、足止めに成功、しかし関ヶ原の戦は徳川軍が勝利、12月高野山に父・昌幸と共に配流される。

1614年

長男・大助と共に大阪城に参陣 大阪夏の陣では真田丸で家康を悩まし、徳川家康本陣に突撃敢行し奮戦するも討ち死にする。兄信之は上田城主となり、後に松代に加増され移封、真田家は幕末まで続く。


〔人生真田幸村の人気〕
 真田幸村の本名は信繁である。武田信玄の弟・武田信繁は武勇人望ともに優れて武田陣営のNO2だったが、第4次川中島の戦いで戦死、父真田昌幸はこの武田信繁を尊敬しておりわが子を信繁と命名した。武田も真田も信繁が重きをなしていたことになる。徳川時代になってから、難波戦記、真田三代記や講談、明治大正時代の立川文庫の真田十勇士、映画、池波正太郎の真田太平記等で《真田幸村》で親しまれてきた。従ってこの「ゆい偉人館」では真田幸村で紹介する。

  家康を追う幸村
  日本の武将列伝(桑田忠親著1~6巻)には 100人以上の武将の名が連なるが、真田幸村の人気はこの中でトップクラスだろう。真田幸村は真田十勇士を使いこなし強い徳川家康をやっつける。池波正太郎の「真田太平記」では女忍者・お江との濡れ場や猿飛佐助はじめ多くの真田忍者が関東から関西を縦横に駆け抜け活躍するので、面白くついのめり込んでしまう。
 太閤秀吉は大阪の街を築き大阪人に愛され、昔から贔屓ひいき の人だ。その豊臣秀吉に最後まで忠義を尽くし殉じた真田幸村を,判官びいきの感覚で日本人は愛したのではなかろうか。

ゆかりの地 〔真田幸村〕ゆかりの地など

〔真田家三代の先祖が眠る真田町を訪ねる〕
 真田町に車で行くには信越高速道の上田・菅平インターで降り、菅平・長野原方面に向かうこと10分、最初の大きな交差点に『真田発祥の郷』という大きな石碑が立っている。ここが真田氏記念公園、碑は立派で2m以上あるだろう、真田太平記の著者・池波正太郎氏の揮毫によるものと聞き納得。公園には大きな石塊が3つ並んでいる。そばに行くと1m四方ほどの人物のレリーフだとわかる。一番左が真田幸村で真中が父・真田昌幸、右が祖父・真田幸隆である。    
幸村が父と祖父と一緒で、なぜか長男の信之でなく次男の幸村が加わっている。石碑のバックには大きな桜の木が植えられ、春は見事な花で覆われることだろう。



真田氏発祥の碑
 
真田幸村のレリーフ
 

真田三代のイラスト
 
〔真田家始祖と変遷〕
  真田家の祖先は清和天皇の皇子貞保親王を始祖とする、皇子は眼病にかかり浅間温泉に湯治に来て住み着き、土地の娘と一子をもうけた。 親王は滋野姓を賜っていたので、その子は長じて海野小太郎常恒と名乗った。海野庄は今の上田市である。戦国時代に海野城が村上義清に奪い取られたので真田庄に隠れ住み、真田氏と称した。さらに幸隆は箕輪城主長野業正をたより上州に逃れ再起を伺っていた。
1545年には信玄の誘いに応じ、村上義清を追い海野城と、旧領を回復し、以後武田氏につかえた。真田家を築いた真田幸隆、昌幸の親子の墓は真田町の高地にある 長谷ちょうこく寺の裏にある、周囲の塔には旗印の六文銭をデザインしたコインが至る所に置かれている。真田を愛する人が並べているのだろう。六文銭は三途の河を渡る通行料と言われている。
 
長谷寺外観   真田三代の石碑   真田幸隆・昌幸の墓碑   至る所に六文銭並んでいる
〔武田24将・真田信綱(幸村の伯父)は信綱寺に眠る〕

真田家中興の祖・真田幸隆は山本勘助の仲介で武田信玄に仕え、武勇に優れ信玄に重用された。その子供3人信綱,昌輝、昌幸も武田24将に数えられている。父と子3兄弟の4人が24将に属するのは唯一真田家だけで、それだけ武勇に優れ武田信玄の信任が厚かったのだ。
 
 しかし二人の兄信綱・昌輝は長篠の戦いで織田徳川軍の鉄砲隊の餌食になり戦死してしまう。幸村の父昌幸は信玄生母の武藤家の養子になっていたが、兄2人が戦死したので真田家に戻り当主になった。昌幸は幼少の頃から信玄の近習として重用されその薫陶をうけた。滅亡した家の24将図が残っているのは稀ですが、江戸時代に武田流軍学・甲陽軍鑑の流行や諏訪法性の兜、軍配をもつ軍服姿の武田信玄図などは江戸時代になっても人気があり、特別の存在として受け継がれ、数種類の24将図が各地に残されている。

 
 

   
武田24将図
出典ウイッキペディア

信綱寺
 真田町から長野松代に抜ける道の近くに信綱寺がある、真田信綱夫妻・昌輝の墓は信綱寺の横を上った、真田の町を見下ろす処にある。長篠の戦いで戦死した2人の首(信綱、昌輝)は血染めの陣羽織に包まれ家臣・白川兄弟によりこの地に運ばれ、この信綱寺に葬られた。陣羽織はこの寺の寺宝となっている。
信綱寺は立派な山門がある曹洞宗の寺で、山門の下には古城緑
地公園がある。六文銭をデザインした石柱が何本も立ち珍しい光景を醸しだしている。
  古城緑地公園の石柱   真田信綱・昌輝兄弟の墓

 

〔真田家と世の中の変遷図〕
 ここで真田家と戦国時代の出来事を記し主要武将の生死を併せ、戦国の世の変遷を一覧表にし真田幸村の生きた時代を理解する一助としたい。

 


  真田家   出来事   戦国武将
1513年   真田幸隆誕生        
1521年           武田信玄誕生
1530年           上杉謙信誕生
1534年           織田信長誕生
1537年            
1541年   海野平の戦いに敗れ真田幸隆 上野へ逃亡        
1543年           徳川家康誕生
1546年       川越の夜戦上杉憲正大敗    
1547年   真田昌幸誕生        
1550年   砥石崩れ 1551年砥石城攻略        
1553年       1553-1564年川中島の戦い    
1560年       桶狭間の戦い    
1566年   真田信之誕生        
1567年   真田幸村誕生        
1573年           武田信玄死去
1575年   真田信綱・昌輝長篠の戦いで戦死   長篠の戦い    
1582年       本能寺の変   武田勝頼死去
織田信長死去
1584年   幸村人質で越後へ赴く        
1585年   第一次上田城攻撃 8000の徳川軍破る        
1593年           豊臣秀頼誕生
1597年       慶長の役(朝鮮出兵)    
1598年           豊臣秀吉死去
1600年   第二次上田城攻撃
真田昌幸・幸村高野山九度山に配流

  関ヶ原の戦い    
1611年   真田昌幸死去        
1614年       大阪冬の陣    
1615年   真田幸村大阪夏の陣で戦死   大阪夏の陣    
1616年           徳川家康死去
1622年   真田信之松代へ転封        
1658年   真田信之(93歳)死去        
 
〔真田の出発点・砥石城に登る〕
  真田記念公園から砥石城の登り口は近い。映画のセットのような門をくぐり、松林を抜けると米山城と砥石城の分岐点がある。左に行くと20分ほどで米山城の頂に着く。頂上から上田城下が見下ろせる、村上義清と彫られた大きな石碑がある。
  米山城址村上義清の碑
砥石城跡
米山城を下り急な道を鎖伝いに登ること20分強で砥石城本丸跡に着く。昔この城を落とすのに武田信玄も苦労したというが鎖がないと滑り、登るのに苦労する。この奥に更に舛形城があり、米山・砥石・桝形を併せ砥石城という。本丸跡からは天気が良ければ富士山も見えるらしく看板も立っている。    

砥石城から富士山臨む

〔砥石崩れと白米伝説〕
  砥石城は上州、甲斐、北信濃の重要拠点であり、真田氏の属する海野氏が築いたと言われているが村上義清に奪われ、真田幸隆は上州に落ち延びた。その後真田幸隆は武田信玄の力を借りて砥石城を攻めた。信玄は水が不足していると見たが村上義清は米で馬を洗っているように見せかけ、信玄はまだ水があると誤認し引き上げた。これに追い打ちをかけ村上義清は勝利した。これを《砥石崩れ》という。その後、真田幸隆は調略により砥石城を取り返し、以後真田氏の居城となっていた。《馬に米をかけ水を流しているように見せかけるイベント》は11月3日に現在も実施されている。

  砥石城入口の門

砥石城、米を流し水に見せるイベント
 


〔真田町の歴史記念館、真田本城跡を訪ねる〕
 
真田氏記念公園から3kmの所に真田氏の屋敷があった所にお屋敷公園と真田氏歴史館がある。和風の建物を入ると馬上に槍を持つ真田幸村の像が出迎える。中に入ると真田丸放映もあり入場者も多い、内部には真田家の資料が展示されている。  
 特に注目したのは真田三代記の古書が高く積まれ、真田家の歴史の重さを感じる。また大阪冬・夏の陣の大屏風絵は圧巻だ、真田幸村が何処にいるのかよくわからないが、この様な大きく、繊細な戦場図は日本の貴重な美術品だ。

  真田幸村像  
真田歴史記念館

大阪夏の陣、屏風絵 出典:ウィッキペディア
 
  真田本城跡は歴史資料館から車で数分の処にある。この本城からの見晴らしは良く、眼下に上州街道(国道144号線)が走り、上田市街も見下ろせる、本郭、二の郭、三の郭とつながり、上州、小県郡の要で上田城が出来るまではここが真田家の本城であったと言われている。 
  真田氏本城跡
 
   
真田の六文銭瓦

真田氏本城跡 頂上

〔真田の本拠地・上田城を訪ねる〕
  新幹線上田駅を降りると、駅前広場に馬にまたがる勇壮な真田幸村像が迎える。上田城は上田駅から歩いても近い崖の上に立つ、下に千曲川が流れ絶壁、昔は川側からは攻められなかっただろう。駐車場は広く車でも大丈夫だ。春には堀に沿い、また城内も桜が爛漫に咲き石垣、櫓との調和も美しい、昔の堀には電車が通っていた時期もあるが今は散歩もできる。
城内の中ほどに真田井戸があり、この井戸から太郎山山頂に抜けられると昔から言い伝えられている。真田十勇士の猿飛佐助が井戸を使い往来することを想像するだけで楽しくなる。真田町の角間渓谷は猿飛佐助の修行の場であり、太郎山から尾根づたいに霧がよく発生するので霧隠才蔵の名前がついた等十勇士にちなむ土地が、上田真田周辺にはいっぱいあると土地の方から聞いた。 上田城内の散歩を楽しむと1~2時間はかかる

  上田城大手門

上田城の櫓と桜

〔真田太平記館を訪ねる〕
  上田の商店街の真ん中に『真田太平記館』がある、隣に市駐車場があり車でも大丈夫、真田大平館は土蔵の様な立派な建物だ。入り口には猿飛佐助の像がある。1階は真田太平記の著者・池波正太郎の年表、作品、遺品、自作の絵などが展示されている。2階に《真田物と呼ばれる池波作品約30冊》が展示され解説されている。真田藩250年の中で起きた事を素材にして、小説に仕上げたものだ。真田藩の財政を立て直した主人公・恩田木工の《真田騒動》は特に有名だ。93歳まで生きた真田信之が徳川幕府幕閣と争う物語など、真田家にまつわる作品がこんなに沢山あるとは池波正太郎の凄さを改めて知った。
《ゆい偉人館の池波正太郎》を見ると池波正太郎の生涯や代表作(剣客商売・鬼平犯科帳等)の舞台を歩き紹介しているので参照ください。

 真田太平記館裏には新しい土蔵があり、ここで真田物等の関連映像を上映紹介している、時間があればじっくり勉強できる。

 
真田太平記館

太平記館前の猿飛佐助
 

映像館の内部
 
真田太平館の映像館氏

〔上田城攻めの根拠地・小諸城を訪ねる〕
千曲川河畔に立つ小諸城は、懐古園と呼ばれ島崎藤村ゆかりの地として訪れる人が多い、入場門近くに資料館がある。立派な石垣を見ると「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ」の詩の一編が出てくる。小諸城の大手門は立派だ、城内に入ると秋は紅葉が陽に映え眩しい、城の反対側の千曲川を見下ろすと絶壁、この城も川からは攻められなかっただろう。
 今から400年以上前、徳川秀忠軍38000人がこの地に滞陣し上田城を攻めた。しかし真田昌幸・幸村親子の術中にはまり、時を費やし関ヶ原の戦いに遅れ、汚名を喫した。秀忠にとって恨めしい城だ。城内の大広場には島崎藤村記念館があり、この地を多くの人が訪れるが、真田一族と徳川軍の第2次上田戦争の本拠地であったことは知らない。

 
小諸城の大手門

小諸城の石垣と紅葉

〔長野市松代の真田記念館、松代城址を訪ねる〕
高速道長野インターから10分程で松代城の城下町に着く、徳川の天下になってから幸村の兄・真田信之は加増され上田からこの松代に移り、江戸末期まで続いた。どの藩も取り潰しや、移封等で城主は目まぐるしく変わる徳川の代に真田氏は250年以上も存続できたのは奇跡的で真田信之の功績だ。

  真田幸村の兄・信之は体調悪く大阪冬、夏の陣とも参戦していないが、その後は元気で2代将軍秀忠には疎まれたが、家光以降の将軍に信頼され92歳まで隠棲できなかったという。

  松代の街は歩くと楽しい松代城はその昔は海津城といわれ川中島の戦いで有名だ。松代城は周囲堀に囲まれ古城の趣がある。橋を渡り、大手門をくぐると広場になっている。霙まじりの日に訪ねたので侘しさを感じた 。



 
真田邸の門

恩田木工の銅像
真田邸の図

松代城の太鼓門
真田宝物館
 

武家屋敷通り
 
 
真田屋敷に並ぶ兜

真田藩出身で有名な佐久間象山、恩田木工もこの松代の出身、宝物館入口近くに恩田木工の銅像がある、佐久間象山の記念館も町内にある。
昔の城下町を歩くと道は広く、武家屋敷も何軒か残され中も見学できる、又学問所、武道場、藩校跡、殿様屋敷などを見学できる。真田丸をNHKで放映中なので、紙で造った鎧が大広間に並び壮観だ。紙ゆえにデザインも自由、色も豊富で、女性用の鎧は艶やかだ。

 真田宝物館の中に入ると長い廊下の片側一面写真の木々が茂り、具足をつけた兵士が見張りに立っている。城内に入ると真田家の鎧や兜、古文書などが並ぶ、上田から松代に移封した時、上田城の宝物類は松代に持ち去ったので上田には何もないと、上田在住の人から聞かされた事を思い出す。松代町は現在長野市に属し善光寺や東山魁夷記念館、川中島古戦場、戸隠神社などの観光地も多い。

 


〔春日山城訪ねる〕
真田幸村は18歳で人質として上杉景勝の春日山城に赴く。武田信玄と上杉謙信といえば戦国の両雄、川中島の戦いで有名だ。    
上杉景勝は謙信の養子で有力戦国大名の1人。その家老直江兼継は徳川家康に『直江状』を送り家康を怒らせ、関ヶ原の戦いの前哨戦を招いた。上杉家景勝、直江兼継の2人は若き真田幸村に好感を持ち、影響を与えた人だ。


  謙信の本拠地・春日山城は長年訪ねたいと思っていたが、糸魚川での同窓会の帰りに訪ねた。春日山城は高速信越道高田でおり10分程で着く、山城で麓に上杉神社がある上杉謙信の銅像が神社脇の高台に立ち、参拝者を見下ろしている。まず神社にお参りし春日山に登る。坂を登ること20分、頂上付近には直江兼続の屋敷跡や上杉景勝城主の屋敷跡もある。頂上の下に大きな井戸がある。水がないと城は持たないが、この山には水が出たのだと知る。頂上からは360度越後平野が見下ろせる。500年以上前に謙信が眺めていた景色と同じだ。この山のどこかで真田幸村も住み、兼続や景勝から武将としての指導を受けていたのだろう。山の上から見ると高田城も遥か下に見下ろせる。桜で有名な高田城は徳川の世になって、越後平野を治める重要拠点で、初代城主は家康の六男忠輝がすえられた。

 
春日山城神社

上杉謙信公像
春日山城址山頂

 

高田城櫓
     
小林古径邸

高田城の脇には、この地出身で日本画の大家・小林古径邸がある。この記念館は庭も広く建物は東京大田区の自宅を移築したもの。「私が好きになるような家を建ててください」といっただけと言うが、その出来栄えは国の「登録有形文化財」になっているほどの素晴らしい出来映えだ。広い部屋から小林古径の名画を脇に日本庭園を眺めるのも一興で、お奨めのポイントだ。


〔真田一族の城・上州の主な城を訪ねる〕
①沼田城
沼田は赤城山の北麓にあり、利根、片品、薄根の三川が合流する河岸丘陵に広がる街だ、沼田城はその中心にあり現在は城址公園になっている。この城は北條、真田、上杉、武田等の戦国大名が割拠する中で、真田一族が支配した時期は長い。沼田城にはかって五重の天守閣があったが、今は大きな建物はないが、春に訪ねると城址公園は桜でいっぱい。背後には谷川連峰等の雪山連なる。幸村の兄・信之が沼田城主を務めていた関ヶ原の戦い前夜、真田親子は犬伏(佐野市)で話し合い、昌幸・幸村は三成の西軍に、兄・信之は徳川の東軍につくことを決めた。この決断の背景には真田家存続の他に、幸村は三成の参謀大谷吉継の娘が奥方であること、一方兄・信之は家康の養女が小松姫が奥方である事も起因する。

上田への帰り孫の顔が見たいと真田昌幸は沼田城に立寄るが、嫁・小松姫は《敵は入れない》と拒否するシーンは胸に残る。この城の案内を事前に予約しておいたところ、親切にボランティアガイドが案内をしてくれた。

 
桜咲く沼田城址公園

沼田城の桜の古木

②岩櫃城
上田から沼田までの街道を真田街道といい、真田丸放映により《真田街道》の赤い幟が街道の至る所に林立している。この街道沿いの郷原、中の条町に岩櫃いわびつ城がある。NHK大河ドラマ《真田丸のオープニング映像》はこの岩櫃城をバックに戸隠の鏡池や須坂の大瀑布を配した迫力ある映像になっているので、岩櫃いわびつ山の切立った光景は頭に浮かぶだろう。実際この岩櫃に登ると頂上付近は鎖なしには登れない。
 岩櫃いわびつ 城は斉藤氏の城だったが、武田信玄の上州進出の先兵として真田昌幸が攻めとった。武田勝頼が織田軍に追われ再起する場所として 岩櫃いわびつ 城へ真田昌幸は誘ったが、秀頼は親族の小山田信茂を信頼し岩殿に向かったが裏切りにあい天目山で自決する。若しも勝頼が岩櫃城に入場していたら、山城でもあり真田の忍者戦法もあり、長期の籠城戦になっていただろう。武田軍を掃討できないと、中国地方への明智光秀派遣は難しく、本能寺の変も無かっただろう。そう考えると以後の日本史が変わったかも知れない。岩櫃城温泉というお城を模した日帰り温泉がある。自然豊か岩櫃山に登り、温泉に浸かり帰るのもお奨めだ。

 


岩櫃城全景
岩櫃城本丸跡
岩櫃城日帰り温泉


③北条氏滅亡のきっかけとなった名胡桃城
上田から沼田までの街道を真田街道といい、真田丸放映により《真田街道》の赤い幟が街道の至る所に林立している。この街道沿いの郷原、中の条町に岩櫃城がある。NHK大河ドラマ《真田丸のオープニング映像》はこの岩櫃城をバックに戸隠の鏡池や須坂の大瀑布を配した迫力ある映像になっているので、岩櫃山の切立った光景は頭に浮かぶだろう。実際この岩櫃に登ると頂上付近は鎖なしには登れない。

 岩櫃城は斉藤氏の城だったが、武田信玄の上州進出の先兵として真田昌幸が攻めとった。武田勝頼が織田軍に追われ再起する場所として岩櫃城へ真田昌幸は誘ったが、秀頼は親族の小山田信茂を信頼し岩殿に向かったが裏切りにあい天目山で自決する。若しも勝頼が岩櫃城に入場していたら、山城でもあり真田の忍者戦法もあり、長期の籠城戦になっていただろう。武田軍を掃討できないと、中国地方への明智光秀派遣は難しく、本能寺の変も無かっただろう。そう考えると以後の日本史が変わったかも知れない。岩櫃城温泉というお城を模した日帰り温泉がある。自然豊か岩櫃山に登り、温泉に浸かり帰るのもお奨めだ。



 


名胡桃城祉のガイド風景

徳富蘇峰揮毫の城碑
岩櫃名胡桃城の茶屋


〔真田街道は日本のロマンチック街道の一部〕
上田(または草津)から日光までの道は《日本のロマンチック街道》と呼ばれている。自然豊かな山中の道で、この街道が『真田街道』と一部重なり、上田から鳥居峠を越え岩櫃城、沼田城への道は真田幸村の青春の天駆ける道でした。
今は更に吹割の滝、丸沼、菅沼から湯本、戦場が原、日光までロマンチック街道という名で続く。このロマンチック街道を若山牧水は今から約100年前(1922年)24日間かけて草津から日光まで歩き、歌を詠み「水上紀行」を書いた。
 この自然豊かな真田街道を、若山牧水の歌碑を訪ね、ロマンチック街道をドライブすれば、きっと感激するでしょう。
夏の丸沼スキー場ではグラススキーが楽しめます。


 

吹割の滝(日本のナイアガラと言われる)
 
菅沼の湖畔
 
丸沼グラススキー場

〔伊達藩白石城に幸村の子孫が住む〕
東日本大震災の福島県冨岡町を訪ねる途中、白石市近くの街道脇に『仙台藩片倉家の墓所』という看板が目に入り訪ねてみた。また白石城も訪ねた、この城は片倉小十郎の居城である。城の庭には伊達政宗の腹心片倉小十郎の大きな石碑が立ち10m以上あるだろう。
 

 真田幸村の子孫はどうしたのかと疑問を持ち、調べたところ幸村の長男大介は大阪城で秀頼と共に殉死、次男大八は片倉を名乗り後に仙台真田家を創設、娘阿梅は板倉重綱の妻になっている。夏の陣でも敵同士なのになぜ真田幸村の遺児を預かり保護したのだろうか? 真田太平記では徳川家康が遺児を助けることを認めていたようだが興味ある話だ! いずれにしろ私が見た板倉家の墓所には真田幸村の遺児(娘)も祀られている可能性は高い。

  白石城の片倉小十郎石碑
   

白石城
 
板倉家の墓所
 

〔真田幸村のゆかりの地を訪ねての印象!〕
1.真田家三代の使命は 「真田の家名の存続」であった。真田家中興の祖は祖父・真田幸隆で、子供を含め4人が武田24将であったが、長篠の戦いで伯父2人を亡くした。父昌幸、兄信之、幸村の3人で犬伏の話し合いで、真田家を残し、徳川幕府が大政奉還するまでの250年間維持、存続した事は奇跡に近い。

2. 真田幸村は人に愛される性格があったのではないか。先輩武将に愛され猿飛佐助など真田十勇士を使いこなす人間力や、また情報網を使いこなす分析力等があった。

 
真田幸村と父の昌幸4の似顔絵

3. 真田幸村は18歳で越後上杉家の人質となり、その後は秀吉の人質から馬廻衆に抜擢され、最後は秀頼を助ける。その間、戦国時代の第1級人物、上杉景勝、直江兼続、豊臣秀吉、石田三成、大谷吉継等の知遇をえて信頼されている。若い時から人質として苦労し、人間を磨き、父からは武田流軍学を学び、後世「日本一の兵〔つわもの〕」と言われるようになり真田家存続に貢献した。 

4. 敵にあたる伊達家の片倉小十郎などとも交流があり、危険を犯し遺児を守ってくれる関係があったのではないか、また石田三成の参謀・知将であった大谷吉嗣の娘を嫁に貰ったこと等を見ると、幸村は嘱望されていた。兄信之は九度山幽閉時代に父弟を援助をし、死後、遺児たちの面倒も見、兄弟仲も良かった。

ここまでの〔参考文献〕 
★ 真田太平記  池波正太郎著 新潮文庫(全12巻)
★ 真田六大決戦の全て  時空&旅人2016年1月号
★ 真田3代に出会うMAP 4コース有上田市真田地域自治センター産業観光課
★ 真田昌幸・信繁の城&温泉めぐり マコト出版刊
★ 時代小説シリーズ 池波正太郎 真田太平記 人文社刊
★ 真田一族のふるさと 信濃毎日新聞社刊
                    
     ここまでの関東編は 青木青眠 が担当しました。

 
池波正太郎の真田太平記
ぶらり真田昌幸・信繁城&温泉

〔真田丸 九度山編〕 (記:木津川市 岡本崇)
関ケ原の戦い
1582年6月2日、「本能寺の変」で織田信長は明智光秀に殺されたが、豊臣秀吉は、6月13日の「山崎の合戦」で光秀を倒し、1590年に天下統一を果たした。1598年 9月 18日、秀吉が62歳で病死すると豊臣家内部は分裂。1600年9月15日、徳川家康が率いる東軍と、石田三成の西軍が戦った。西軍の小早川秀秋の大軍(1万5千人)の裏切りなどがあり、1日で東軍の勝利に終わった。

 これを「関ヶ原の戦い」と云うが、この時、中山道を関ヶ原に向かう徳川秀忠(家康の三男・二代将軍)軍、3万8千を上田城に引き止め戦ったのが真田昌幸・幸村父子である。西軍の敗戦で処刑される所だったが、東軍にいた真田信之(昌幸の長男で幸村の兄)のお陰で、彼らは高野山(九度山)に配流された。

 また、西軍の副将、宇喜多秀家は縁戚の前田利長や島津忠恒の嘆願で、八丈島に配流された。宇喜多秀家のイトコで東軍に付いた坂崎(宇喜多)直盛の末裔が私の曾祖母であり、光秀の家臣で、「愛宕百韻」で執筆を勤め「山崎の合戦」で戦死した東六郎兵衛行澄(美濃篠脇城主の東常緑は曽祖父)が私の14代前の祖に当たるので、大河ドラマ「真田丸」は大変興味深く拝見した。

 

高野山の蓮華定院

   1600年の関ケ原の戦いで最初に配流され秋から冬にかけて半年ほど居たと思われる所が和歌山県の高野山の蓮華定院(れんげじょういん)。ここは1523年に長野県の豪族が宿坊契約を結んでいたという記録がある。女人禁制であるから妻子は細川集落に残していたが、寒いし不便なので、蓮華定院の領地の九度山へ妻子と共に降りることが許されたと聞く。蓮華定院は、五條市西吉野町西新子の私の先祖たちをお祀り頂いている西禅院(根本大塔の前)から500m程北方向にあり、丘越えの近道を歩けば10分圏内にある。

 

高野山の真田家墓所

   蓮華定院の裏手に、松代藩藩祖真田信之公と松代藩二代真田信政公の大きな石碑がある。もちろん幸村の石碑は無い。
写真に向かって100mほど右手には徳川家霊台(重要文化財)がある。家康霊屋と秀忠霊屋を10年かけて三代将軍家光が創建した。当時、大徳院があったのだが、明治になり、総本山金剛峯寺の東隣に移転し、1183年建立時の「蓮花院(れんげいん)」と云う名前に戻したので立派な徳川家霊台だけがそこに残っている。

 

九度山町の真田庵

   2016年7月、真田幸村が14年近く過ごしたと聞く九度山町の真田庵を見学。
私は橋本市にも数年住んでいた事があるが、真田庵は同行した橋本市高野口町に住む学友の井関秀真(直心影流剣士)宅とは紀の川を隔てて目と鼻の先。

1600年の関ケ原の戦いに西軍として参戦して敗れ、高野山配流の身となったが、後に九度山の地で閑居生活をした。昌幸は65歳(1611年)で没したが、幸村、大助親子は大坂冬の陣(1614年)と夏の陣(1615年)で奮戦して戦死している。幸村の生涯で一番長い時間を過ごしたのがこの辺り。1741年善名称院(真田庵)
(和歌山県指定史跡真田庵)が創建され現在に至っている。

 

九度山町の真田ミュージアム


真田ミュージアム入口
   九度山での生活をパネル展示とドラマ仕立ての映像で紹介する真田ミュージアムは3月にオープンしたばかりであるが、予想外に大変見応えがあった。
入口で料金を払うと、入場する前に真田親子3代の像の前で   写真のようなアングルの記念写真を撮影してくれる。

 

九度山町の語源と慈尊院


高野山真言宗派の慈尊院
   真田庵から1km程離れた所に慈尊院(世界遺産の一部)があるが、ここに滞在した母に会う為、弘法大師(空海)が月に9度訪問したから九度山と云うらしい。その昔は、鉄の生成が行われていたのであろうと思う。京都では竈(かまど)の事を「おくどさん」と呼ぶから九度山になったという説もある。近くに住んでいた真田一家も慈尊院をよく訪問したのであろう。慈尊院は有吉佐和子の小説や映画などの舞台にもなっている名所でもある。

 

丹生川沿いにある真田庵


真田一家が遊んだであろう丹生川の朝
   紀の川に注ぐ丹生川沿いにある近くの町営駐車場に車をとめたが、川の向こうには、「道の駅柿の郷 くどやま」があり、そちらの駐車場は広い。九度山町の耕作地に占める柿畑の面積割合は64%で日本一。隣の五條市は市町村単位で生産量が日本一。お互いに日本一とPRしている。
五條市と云えば銀峰鉱山を経営していた我が祖の住んだ西吉野町は今や柿の産地として有名。銀峰山(白銀岳)から流れ来る川を古田川(精錬のフル)と云うが、丹生川と合流し吉野川に合流する。  
この吉野川は紀の川の上流で、正式名は紀の川。「丹生川」と言う川は、1~2級河川だけでも全国に9本もあるが、紀和の県境を挟んだここにも2本の丹生川がある。
丹(に・たん)のつく地名は丹砂(タンシャ=硫化水銀)の産地であることを示していると云われる。

 

豊臣側からの誘い


宇喜多本家四代・分家三代・坂崎出羽の守直盛之霊碑
   NHK大河ドラマでは、宇喜多秀家(57万石の岡山城主だったが八丈島配流の身)の元家臣(明石全登)が、豊臣VS徳川の戦いに豊臣方の将として参戦してほしいとやってくる場面があった。
私の曾祖母「三並家」のルーツが宇喜多直盛(徳川側・家康が坂崎を名乗らせた・千姫事件で自刃)なので、両陣営に分かれて身内が戦う真田家と重なって、戦国時代の武将の生き様が興味深かった。宇喜多直盛の子孫は、「宇陀屋」と称して「樫の勢」という銘酒を造っていた。宇と陀の間に、家紋の「木」を入れると、「宇木陀」「宇喜多」に通じる。
写真の墓石は奈良県吉野郡下市町善城にある。
戦国時代の武将には子供も多くいたが、宇喜多直盛の子孫で加賀藩に450石で仕えた「三宅氏」なる人物もいたらしい。三宅家は8代目(明治11年死亡)で明治を迎え、その子孫は消息不明と聞く。「三並家」「三宅家」に共通する「三」は縁起の良い数字だが、宇喜多家は「三条家」の支流でもあるし、宇喜多家の出身地、備前国児島郡には三家郷と云う所があった御縁だろうか。

 

真田紐(さなだひも)


   豊臣方からの誘いがあった頃は、真田紐という伸びにくく丈夫な織物の紐を作って生計を立てていたと云われる。真田氏の発祥地上田付近も上田縞などで知られる織物の産地であり、九度山も織物の産地であることからこのような逸話が誕生したとも考えられる。チベット周辺の言語で「紐」を意味する言葉が「サナール」であるとか、「さのはた(狭織)」から転じたという説もある。

 

千姫事件とは


   NHK大河ドラマ最終編では、「良く帰ってきた」と家康が千姫を出迎える場面が見られた。家康の孫、秀忠の長女千姫は豊臣秀頼の妻であった。
家康は坂崎(宇喜多)直盛に命じ戦乱のなか千姫を救出させる。家康は成功したら千姫と結婚させると口約束までしたが反故になる。怒った直盛を彼の友人の柳生宗矩に説得させ、直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府はその後、坂崎家を取り潰した。何も知らない二代目将軍秀忠の「リストラ政策」の犠牲になったのだろうか。千姫との結婚は無理としても、助けてくれた恩人の家を取り潰すだろうか。夏の陣で家康が戦死していたのではないか。「家康影武者説」が本当であれば頷ける事件ではある。

 

徳川家康の影武者説


大阪府堺市の南宗寺にある徳川家康の墓
   NHK大河ドラマ最終編では、真田幸村に撃ち殺されそうな家康の哀れな姿が放映されていた。家康は大坂夏の陣の翌年(1616年)75歳で亡くなったとされるが本当だろうか。大阪夏の陣の折、真田幸村に追われた徳川家康は大聖観音寺(あびこ観音:大阪市住吉区我孫子)に逃げ込み、本堂の須弥壇に隠れ、難を逃れたとのことで、その後家康の寄進により再建されたという話がある。
また家康は、幸村に深手を負わされ脱出する途中、後藤又兵衛に槍で突かれ南宗寺(なんしゅうじ)まで運ばれそこで死亡したという説がある。この時は混乱を避ける為に小笠原秀政が影武者を勤めたという説である。堺市のその南宗寺には家康の墓とされるものがあり、南宗寺には家光・秀忠が参詣して将軍任官を報告している。

 

家康の鎧がある奈良市の漢國神社


   夏の陣に先立つ、大坂冬の陣では家康は木津の戦いで真田幸村に大敗を喫し奈良まで逃げ込み、漢國神社(かんごうじんじゃ・奈良市漢国町)の前の桶屋にかくまってもらい、命を助けてくれた桶屋に沢山の褒美を与え、漢國神社に自らの鎧と兜を奉納したという伝承もありレプリカの鎧は今でも飾られている。本物は県指定有形文化財に指定され、奈良国立博物館に保管されている。
その他、京都府木津川市には、徳川家康が兜を脱いだ谷を埋め立てた所と伝わる「兜谷公園」が現存し、周辺には三つ葉谷(徳川の家紋)・上張り道・下張り道(見張り番がいた場所)などの名前が少し前まで残っていた。

 

筒井順昭と真田幸村の影武者説


 1550年、筒井順昭が病死した時、死を隠すために、その子順慶(豊臣の家臣・光秀の親戚1584年寂)が成人するまで、声の似ていた木阿弥という男を寝所に寝かせて外来者を欺き、順慶が成人するや順昭の喪を公表したために、木阿弥は再びもとの身分にもどったという故事から「もとのもくあみ」という言葉が生まれた。これは越智家の宿敵であった筒井家(大和郡山市)の話であるが、家康が木津川市に来た時も、宿舎の旗は木津川河畔の豪族の家に立てて、本人は奈良市内の中坊に宿泊したと云われる。
真田幸村にも、影武者が数名いたと云われる。1615年、大坂夏の陣の時、安居神社で打ち取られたのは「望月宗右衛門」もしくは、「穴山小助」だと云う説もある。多い時には6人の幸村が飛び出して行くという戦法も取った。
影武者を置くのは戦国時代の常識だったのだろう。

 

〔真田丸 大阪編〕 (記:木津川市 岡本崇)
2016年12月29日、大阪の「真田丸跡」見学の為、高の原駅を7時頃の電車に乗ろうと家を出た。写真は大坂冬の陣で徳川家康が兜を脱いだと云われる、木津川市の「兜谷公園」からの夜明け風景。

  奈良春日原始林から太陽が出る寸前だが、奈良市のごみ焼却炉の煙が北に棚引く。写真の右後ろには、スクモ谷(家康がすくんでしまった所)・三つ葉谷(徳川の家紋)と云う地名があった。後方には、徳川の張り番が居たという「上張り道」「下張り道」という地名もあった。
大和西大寺駅と鶴橋駅で乗り換え、真田幸村が築いた大坂城の出城があったと云われる「真田丸跡」のある、JR玉造駅には8時前に到着した。古墳時代に勾玉などを製作する玉造部がこの地に置かれていたことが地名の由来とか。因みに、餌差町(えさしまち)は、殿様の鷹匠へ餌(小鳥など)を差し出す餌差(えさし)を置いたことから付けられた地名らしい。

 

あべのハルカスから大阪城を望む 大阪市阿倍野区阿倍野筋(城は中央区)




2014年11月10日、日本一高いビル(60階・300m)と云われる「あべのハルカス」最上階のヘリポートに上った。
NHK大河ドラマ「真田丸」ゆかりの地が見下ろせる絶景の場所であったが、この時点では「真田丸」の認識が無かった。
 明治時代に私の一族が谷町筋で洋服製造販売業等を経営していた。そのご縁で、薄恕一(すすきじょいち・タニマチ筋と云われた相撲好き)が仲介して、直木賞でお馴染みの直木三十五が西吉野の私の母校(白銀尋常小学校)へ代用教員で来た(明治43年)事などを考えていた。大坂城は、上町台地の北端に位置する。
この地のすぐ北の、台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、この淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝であった。1582年の本能寺の変後、5年かけて豊臣秀吉が築いた大坂城の遺構は全て埋没。現在見える遺構は1620年から9年にかけて徳川氏が修築した大坂城の遺構。元は古墳時代の古墳があった所で、戦国時代には石山本願寺があった。 

 1576年4月、信長に命じられた明智光秀らが石山本願寺を三方から包囲したので、光秀の家臣であった我が祖(東六郎兵衛行澄)達はどの辺りに居たのだろうか等と思いをめぐらせていた。
関ケ原の合戦が始まる前に、行澄の子(東治左衛門實勝)は小出秀政から、ナスビをあげた礼に夏の麻の着物を貰っている。ナスビが当時は貴重な贈り物であったという事は吃驚だが、山崎の合戦で父が秀吉軍に殺されているのに秀吉の叔父さんと付き合いがあったという事に驚く。もっとも秀政も関ケ原の合戦の時、長男を西軍に次男を東軍に付かせていたので所領を安堵されている。

 

 山崎城に住んでいた秀吉が、「本能寺の変」の3年後に大坂城の天守閣を完成させたので、8kmしか離れていない所に隠棲していた「實勝」も驚いたであろうが、彼の13代後の私にも驚く出来事があった。私が小学生の夏休みにこの家の前の川で遊んでいたら、年の離れたイトコ(医師)の助手が、ランニングとパンツ姿の私をラビットスクーターの後ろに乗せてくれて、大阪城を何周かしてくれた。



 

西吉野の山育ちで牛車しか乗った事が無いので、振り落とされそうな死ぬ思いをした。スクーターが発売されたばかりの時代だから乗用車も無く、道路は空いていたので余計にスピードが出せた。大阪城を見るたびに思い出す怖い思い出である。

(写真は野崎参りの舟が行きかう寝屋川沿いに帰農した東治左衛門實勝の家)

 

三光神社 大阪市天王寺区玉造本町



    
 三光神社は大坂城の南東1km位にある丘陵、真田山(宰相山)に佇む古社。真田幸村は、この丘陵に大坂城の出城「真田丸」を構築。ここを戦闘の拠点とし、大坂冬の陣では徳川軍を散々に打ち破ったと伝わる。
真田幸村像の写真向かって左下の穴が、「真田の抜け穴」の跡。大坂冬の陣の頃、幸村が大坂城まで穴を掘らせたらしい。

 

真田丸跡 顕彰碑 大阪市天王寺区餌差町(えさしまち)



   町名は違うが三光神社から600m程の所に「真田丸跡顕彰碑」がある。
大坂の陣で真田幸村が築いた「真田丸」があったとされる場所は、大阪明星学園あたりと云われ顕彰碑がある。この学校は1904年に当地へ移転して来たカトリックのミッションスクールで、高校野球で優勝した事もあるが今は進学校である。
写真左の学校と右の興徳寺の間の坂道を降りて直線で1km向こうが大阪城だが標高が15m位なので、今は高層ビルが林立して天守閣も見えない。

 

興徳寺 大阪市天王寺区餌差町(えさしまち)



   興徳寺(こうとくじ)は 天平年間(729年~749年)行基開創の高野山真言宗の寺。
興徳寺内部から門の外に、真田丸があったと云われる「真田丸跡顕彰碑」が見える。
たびたびの兵火で焼かれ古記が無いが、幸村がここに真田丸を設けたのも高野山の蓮華定院並びにその管轄下の九度山町に住まいしていたご縁からでは無かろうか。

 

心願寺 大阪市天王寺区餌差町(えさしまち)



   興徳寺の隣下の「心願寺」(浄土宗)は、1622年、真田幸村と息子(大助)の供養の為に、真田丸の跡地に創建された寺。門扉には真田家の家紋である六文銭が飾られている。2014年10月、境内に真田幸村のお墓が建立された。

 

志紀長吉神社 大阪市平野区長吉長原

 志紀長吉神社は、平安初期創建の古い神社。1615年5月6日、豊臣方であった真田幸村は、大坂夏の陣、道明寺・八尾・若江の戦いで苦戦を強いられた。7日、大坂城に退却する途中に戦勝祈願をして六連銭の軍旗と刀を奉納。刀は進駐軍に没収され残されていないが、軍旗は現在でも社宝として保管されている。    

 

茶臼山 大阪市天王寺区茶臼山町(天王寺公園内)大阪府指定史跡

 大坂冬の陣で家康の本陣となり、夏の陣では幸村が布陣し激戦地となった。
幸村率いる兵と松平忠直率いる兵が激戦を繰り広げた、夏の陣最大の激戦の舞台。数では劣る幸村勢だが、捨て身の攻撃で敵勢を圧倒したといわれる。
昭和61年の発掘調査で家康本陣跡の建物や地面を掘ってつくった水路が確認された。平成26年には、一心寺の寄贈により「大坂の陣茶臼山史跡碑」が建立された。
   

 

真田幸村終焉の地安居神社 大阪市天王寺区逢阪

 菅原道真が九州の大宰府に左遷される時に船を待ちながら「安らいで居た」とされる場所。安居神社に撤退した真田幸村は神社の近くで傷の手当てを受けていたが、敵に見つかって槍で刺され死亡。享年48歳。翌日(1615年5月8日)、秀頼と淀殿は自害して大坂夏の陣は終わったと云われる。
 地下鉄谷町線の「谷町九丁目」から「四天王寺前夕陽ヶ丘」までの間は、豊臣~徳川時代に多くの寺院が集められ、「寺町」と呼ばれていた。聖徳太子が建てた四天王寺をはじめ、約200もの寺社が南北に建ち並んでいた。
安居神社は聖徳太子により四天王寺が建立された頃に創建したと伝わる古社。
 
 
真田幸村生存説

真田幸村時代のおもしろばなし百話」青木繁男著 ㈱ユニプラン発行によると、幸村は落城の際、秀頼と共に脱出、肥後迄下り、島津家を頼って薩摩に入ったと云われている。幸村は山伏に変身して谷山村に身を置き、真江田と姓を変え、身を置いていたとか。秋田県大館市の「一心院過去帳」には、幸村は秀頼と薩摩で別れた後、秋田の大館に逃れて、天寿を全うしたと記されている。嫡子大助も生き延びて、堺に身を潜め、堺の「八木家系図」によると、幕府の旗本八木家の先祖になったという。家康は幸村の猛攻で戦死。影武者が家康となり、1年後に家康らしからぬ食中毒が原因で死んだ。本人なら食中毒にならないと云われている。


青木青眠 記
岡本崇 記
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