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坂村真民

〔さ〕の著名人 サトウハチロウ 西郷南州
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佐藤春夫 佐藤次郎 真田幸村
坂村真民    

�v���t�B�[���o�[ 〔坂村真民〕のプロフィール
俗称·筆名 坂村真民
本名 坂村昴(たかし)
生誕 1909年(明治42年) 1月6日熊本県玉名郡本村(現荒尾市)で出生、父·子司(たねじ)母·夕子(たね)
死没 2006年(平成18年)12月11日砥部町にて永眠(97才)
出身地 熊本県玉名郡府本村(現荒尾市)
最終学歴 神宮皇學館本科国語漢文科卒
職業 教師、詩人
ジャンル 文学
略歴、
主な活動
〇明治42年熊本に生まれ、伊勢の神宮皇學館に学び、熊本で小学校教員をしたのち、25歳で朝鮮に渡り、女高校教諭をし、その間兵役に2度召集された。
〇昭和20年故郷熊本に家族と共に帰郷、21年四国に渡り高校教諭に従事、昭和25年短歌から詩に転向し、個人詩誌「ペルソナ」を発刊、その後毎年個人詩集を自費出版する。
〇昭和37年53歳より95歳まで個人詩誌「詩国」を毎月発刊(500号まで)自費出版し、自分の詩を発表している。仏教伝道にも尽力し、特に松山市道後出身の一遍上人の生き方に心酔し、一遍上人語録·捨て果てて等の著作もある。
〇平成18年(2,006年)老衰のため砥部町で永眠。
〇平成24年坂村真民記念館が砥部町にオープンし、真民の代表作が展示され、特別展も定期的に開催されている。

代表作

坂村真民全詩集1~8巻、念ずれば花ひらく、詩録集坂村真民一日一言、一遍上人語録、詩国500号、詩「二度とない人生だから」
記念館 坂村真民記念館: 愛媛県伊予郡砥部町大南705
TEL089-969-3643
言葉,信条 念ずれば花ひらく、
二度とない人生だから
著作 坂村真民全詩集1~8巻、坂村真民一日一言、
個人詩誌「ペルソナ」「詩国」、随筆集「念ずれば花ひらく」等多数
 
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坂村真民(坂村真民記念館HPより)
 
坂村真民の詩全集

 

 

 

坂村真民は熊本・菊池川の辺りに生まれ、伊勢の皇學館に学び朝鮮に渡り、女子高校の先生をし、2度の軍隊生活を送り、戦後帰国後、四国の高校に赴任する。40代では生死を彷徨する闘病を経験し詩の世界に没入、自誌詩「ペルソナ」「詩国」を発刊し続ける。最後は松山市に近い瀬戸物の街・砥部で生涯を終えた。《東の相田みつを、西の坂村真民》と言われ、その人生の讃歌詩・言葉は多くの人に愛されている

◆ 坂村真民記念館を訪ねる
 松山道後温泉で同窓会があり、その機会を捉え、砥部町にある坂村真民記念館を訪ねた。同窓会幹事の父君が坂村真民と校長仲間であったこともあり、館長をご存知で記念館の概略説明を頂いた。

 


 記念館は坂村真民生誕100 年に当たる平成24年、東日本大震災の翌年にオープンした。記念館入口には代表作《念ずれば花ひらく》の立派な石詩碑が立ち、参観者を迎える。記念館を入ると広々として沢山の坂村真民作品が展示されている。真民の字は個性あふれ、見れば見るほど味が醸しだされ、その詩に相応しいと感ずるようになってくる。最近は写真撮影も許されるようになり、気に入った詩をカメラに収めた。



坂村真民記念館の正面

坂村真民記念館の内部
◆ 砥部町陶芸創作館
  坂村真民記念館のすぐ近くに砥部町陶芸館がある。砥部町は昔から焼き物の街、陶芸館では陶器を買うこともできるし、絵付けコーナーでは湯呑茶碗や皿などに4色の筆をつかい、白い陶磁器に自分の好きな絵や字を描ける。2週間ほどで自宅に完成品が届く。1000円程度で自分の作品ができるので、ぜひ挑戦欲しい。私も「日常を忘れ、非日常を楽しむ」という心境を書いた。


 
砥部町陶芸創作館全景

絵付けをする村松さん

◆ 坂村真民の詩碑は全国に700ある
  坂村真民記念館を訪ねて、初めて知ったことですが、日本全国に真民の詩碑が700以上あり、世界にも36あり、その場所がプロットされた日本&世界地図パネルに紹介されている。
若山牧水の歌碑が全国で200程度あり、多い方だが、坂村真民の詩碑700以上は日本国内で最高ではないだろうか。その坂村真民のファンが国内に留まらず海外にも広がっている事は驚きである。 真民碑の中で最も多いのは、記念館の入り口にある《念ずれば花ひらく》である。

念ずれば花ひらく苦しいとき母がいつも口にしていたこの言葉

わたしもいつのころからかとなえるようになったそうしてそのたび

わたしの花がひとつひとつひらいていった     真民



 
代表詩《念ずれば花ひらく》の詩碑

《念ずれば花ひらく》を囲む難波田
ゼミ同窓生の面々

坂村真民記念館の詩碑プロット図

◆ 坂村真民の人生・生い立ち

子供時代

  坂村真民は明治42年熊本県荒尾市に生まれる、家は菊池川の辺りに立ち父とは良く魚を捕ったという。母は細川藩の武家の娘で薙刀·鎖鎌をよくし、父母は自宅の庭でよく稽古をしており、父は竹刀、母は薙刀で勝つのはいつも母であったという。小学校長であった父は真民8歳の時、喉頭癌のため42歳で急逝した。母は11歳を頭に五人の子供を抱え、どん底の生活の中、長男の真民も必至に母を支えた。そんな状況下、玉名中学から伊勢の神宮皇学館に入学した。

伊勢、朝鮮時代

  皇學館では自己表現の手段として和歌を学び、真民の名で校内雑誌に投稿していた。伊勢での4年間は古い国が持つ海と山川の美しさに触れ、私と言う人作り創めたという。皇学館国語漢文科を卒業後、熊本の小学校の代用教員を経て、昭和9年25歳で朝鮮に渡り女子高校で、母の恩に報いようと女子教育に情熱を燃やす。当時から創作活動も活発に行い「朝鮮民謡協会」を立ち上げ、歌謡集の出版やレコードの作詞もしている。2度の出征も経験し、終戦を迎えた昭和20年妻、子供を連れ熊本に帰国する。

四国の  三瓶 みかも  、吉田時代

  昭和21年熊本から四国へ、高等女学校の教諭として赴く。昭和25年頃には和歌の31文字では詩心を表現できなくなり、詩に没入し個人詩誌「ペルソナ」を発刊、詩の世界に踏み出す。学制改革で私立が公立になり三瓶高校、吉田高校の教諭をしながら、仏教に心を傾けて膨大な経典を読むうちに、目を患い、失明寸前までゆく。目をやむ中、母を亡くし、心の師・杉村春苔尼に巡り合い、薬草学者・利根白泉の調法によりガンを克服した。
昭和26年第一詩集「六魚庵天国」を発行する。六魚とは家族6人(亡くなった長女含む)の質素だが心温まる情景を描いた詩だ。以後毎年1冊ずつ詩集を発行している。


宇和島、砥部時代

 病が癒えた後、宇和島東高校に移り、この地に生まれた一遍上人に帰依し、個人詩誌「詩國」の創刊を決意 以後42年間、毎月無償で配布された。昭和62年真民ファンの全国組織「朴の会」が発足、知名度が上がるにつれ、毎月朴庵例会も開かれた。 58歳から亡くなる97歳まで砥部を終の住処とし詩作活動を展開する。

 
家族写真、父と母と小学入学前の真民

坂村真民の初詩集 六魚庵

坂村真民の家族

坂村真民

◆ 晩年の坂村真民の一日

  坂村真民の1日は普通の人とは違い、求道者の1日であった。長針と短針が合致する午前零時に起き、夕方4時半には眠る生活、誰もできない習慣だ。 以下に時間を追って記す。

●御前0時に起床、読経(妙法蓮華経、観世音菩薩など)、座禅、詩記作成、読書

●3時36分 自宅庭の99番碑にて以下の3つの祈りをする

  1. 宇宙の運命を変えるような核戦争が起きませんよう

  2. 世界人類のユニテ(一致)が実現しますように

  3. 生きとし生けるものが平和でありますように

●午前4時 重信川を渡り「彼岸の祈り」、月、明星、朝日からの光の吸引

●御前7時 朝食

●御前8時~12時 詩作、書を書く

●午後1時~3時 おやつ、手紙の返事、読書、宛名書き、発送

●午後3時 夕食 4時半就寝




 

散歩する坂村真民


◆ 2人の母をもつ

  坂村真民は生みの親と心の母を持っている、実母タネは真民の生涯に決定的な影響を与えている。8歳の時、父が急逝、実家の母は「5人の子供を育てるのは無理だから、上の3人はどこかにやるか、奉公に出すかして、下の2人を連れ実家に帰ってこい」と強く言われたのを,頑として拒否し苦労を覚悟し5人の子供を育てることにした。坂村真民はこの母の覚悟に恩を感じ、その大恩に報いることが真民の生きる原動力になっている。昭和28年母は亡くなり、悲壮感、無力感に襲われた真民は、別府の杉村春苔尼を訪ね、心の悲しみを慰められ、生きる勇気を貰っている。真民にとってこの二人は大恩人であり、真民詩の根底に《母の愛》として流れている。

母二人

母はわたしを生んだ人

先生はわたしを

真の詩人にした人

2人の母よ


恩恵

母からは骨肉を貰い

先生からは仏心を頂いた

ああこの二つの

大きな恩恵よ

二人の母の企画展が記念館にて平成28年に開催された。



 

坂村真民の二人の母の企画展ポスターの一部



母との記念写真
 

◆ 40年間、毎月「詩国」を発刊

  坂村真民は皇學館時代から朝鮮赴任時には、和歌を良くしたが、和歌よりも詩の方が、字数多く表現しやすいのと、詩の方が多くの人が見てくれることもあり、詩に傾斜してゆき、41歳の時個人詩誌「ペルソナ」を発行、53歳の時には教育者であり求道者であった森信三先生に勧められ、個人詩誌「詩国」を発行、以来500号になるまで、毎月発行続けた。この発刊の趣旨は詩を宣伝するのではなく縁ある人へのお礼であり、無償で郵送し続けたという。

 
1回も休むことなく発行することが真民の実践であり生き方であった。「ぼくは詩人になろうと思って詩をかいているんじゃない。普通のおばさんたちが、子供を背負いながら僕の詩をよむんだ」という。 どれだけの広い底辺を持つかが大切ともいう。

 

《詩国》創刊号


◆ 一遍上人を尊敬する坂村真民

  坂村真民は祈りの詩人とか仏教詩人とか言われている。心の修行の遍歴は、まず皇學館で神道を学び、またキリストの生き方、キリスト教の精神も深く勉強され、仏教では大蔵教等の難しい仏典を何度も読まれ失明の危機に瀕したこともある。 毎朝各種のお経をあげている
  最も尊崇したのは松山・道後出身の一遍上人で、大きな寺をもつ空海、最澄、親鸞道元というより、全てを捨て去った旅姿の空也や一遍、良寛に共感し、和歌俳句の世界でいえば山河、自然を相手にする西行、芭蕉、牧水、山頭火等に親近感を持ち、真民の詩も自然や底辺に生きる庶民に勇気を与える詩が多い。

  一遍上人は「南無阿弥陀仏 決定往生60万人」の願を立て、南無阿弥陀仏と書かれた札を、全国の人に配って歩かれた。坂村真民の「詩国」配布は、40年以上500月も続けられ一遍上人の60万人を超えた人々に、自分の詩を配っている。誰でもできないことです。《尊いのは足の裏である》という詩に見られるように、下から物事を見る姿勢は一遍上人より学ばれ実践している。 以下に《尊いのは足の裏である》の詩を紹介しよう。



 

一遍上人の木像


尊いのは頭でなく
手でなく足の裏である

一生人に知られず
一生きたない処と接し
黙々として
の努めを果たしてゆく
足の裏が教えるもの
しんみんよ
足の裏的な人間になれ

頭から
光が出る
まだまだだめ

額から
光が出る
まだまだいかん

足の裏から
光が出る
そのような方こそ
本当に偉い人である





 


尊いのは足の裏である の詩額


◆ 東の相田みつを、西の坂村真民

  2014年東京駅の中にある相田みつを記念館で《坂村真民と相田みつをの世界》と題する特別企画展を私も見た。二人の出会いは昭和45年にさかのぼり鎌倉円覚寺で、その後交流を深めたという。ふたりの作風は違うが,ともに仏教的な思考を根底におき、人間の生き方を説き、多くの詩を残したことは共通する。
 初めに愛媛砥部で二人展を実施し、好評だったので東京でも開催となったようだ。《念ずれば花ひらく》の坂村真民、《にんげんだもの》の相田みつを展は賑わっており、相田みつをの御子息のセミナーを聞いた。両氏の独特の字には味もあり、カレンダーや掛物として人気がある。



 

相田みつを(左)と坂村真民(右)


◆ ニ度とない人生だから   坂村真民

  村真民の《生きる》講演会で「皆さんは本当に二度とない人生を生きていますか」と問いかけている。ただ「いい言葉だ」というのでは何にもならない。「実践せずして人生はない」と言い切っている。以下に二度とない人生だからの詩全文を紹介しましょう。

二度とない人生だから
一輪の花にも
限の愛を
そそいでゆこう
一羽の鳥の声にも

無心の耳を
かたむけてゆこう

二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないように
こころしてゆこう
どんなにか
よろこぶことだろう

二度とない人生だから
一ぺんでも多く
便りをしよう
返事はかならず
書くことにしよう


二度とない人生だから
まず一番身近かな者たちに

できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう


二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも

めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめよう

二度とない人生だから
のぼる日しずむ日
まるい月かけてゆく月

四季それぞれの
星々の光にふれて

わがこころを
あらいきよめてゆこう

二度とない人生だから
戦争のない世の

実現に努力し
そういう詩を

一篇でも多く
作ってゆこう

わたしが死んだら
あとをついでくれる

若い人たちのために
この大願を

書きつづけてゆこう

 

二度とない人生だからの詩額



坂村真民の《本気》の詩
 

坂村真民の《七字のうた》の詩
 

 

二度とない人生だから」は真民57歳の時、定年を迎え自分自身どう生きるかを悩んでいた時に書かれた詩である。第2の人生を迎える方、迎えた方に贈る詩でもある。この詩について、真民は《人間として生まれて来て、どう生きるか。それが父の急逝(8歳の時)によって私に与えられた、最大の課題であった》「二度とない人生だから」「一回きりの人生ならば」こう二つを並べてみよう。前者は長く深く生きる生き方であり、後者は太く短く生きる生き方である。私は生まれつき、体も心も晩生の人間であったから、前者を選び、「詩と真実」を求めて生きてきたと書いている

《二度とない人生だから》 の詩を佐藤宗幸が歌っているので、ユーチューブで聴くこともできる。

◆ 97歳まで生きた坂村真民の秘密

  坂村真民の随筆等を読むと小さい時から体は弱く、40代には生死をさ迷う大病もしている、今と時代も環境も違う戦中、戦後の混乱の中を、97歳まで生きられたのは何だろう。普通人とは違った下記のような色々な理由がありそうだ

1. 規則正しい生活をし、午後4時半に寝て真夜中の0時に起き、朝の石槌颪をあび、念仏を唱える。

2. 庶民の心の病を治す医者=詩人になろうというボランティア精神に徹していた。

3. サンマヤ足心いぶき法(朝晩足の裏を揉み、耳の裏、耳も揉み、目を閉じ抑える)を毎日実施していた。

4. 宗教心に富んでいて、心がいつも穏やかで晴れやかゆえに、素晴らしい詩が生まれる。


私たちも真民さんの爪の垢でも飲めば、長生きができるかもしれない。


 

晩年の坂村真民


◆ 参考資料

●念ずれば花ひらく  坂村真民記念館公式ガイドブック  (株)えひめリビング新聞社刊

●一道を行く  坂村真民の世界  坂村真民生致知出版社誕100周年記念

●坂村真民 一日一言  坂村真民著  致知出版社

●念ずれば花ひらく  坂村真民著  (株)サンマーク出版

 




念ずれば花ひらく








一道を行く
 
坂村真民一日一言ꌾ
 
念ずれば花ひらく
 

◆ 略歴

1909年(明治42年) 1月6日熊本県玉名郡府本村(現在の荒尾市)に生まれる

1917年(大正6年)父急逝 生涯の大転換機となる

1921年(大正10年)熊本県立玉名中学校に入学

1927年(昭和2年)伊勢の神宮皇学館(現皇学館大学)に入学

1929年(昭和4年)短歌結社「蒼穹」に入社する

1931年(昭和6年)神宮皇学館国語漢文科卒業、熊本に戻り画図小学校の教員となる

1934年(昭和9年)朝鮮に渡り、高等女学校の教員となる

1935年(昭和10年)辛島久代(18歳)と結婚する

1945年(昭和20年)11月 朝鮮より引き上げ、熊本に帰る

1946年(昭和21年)5月 家族を連れ四国に渡り、愛媛県の高等女学校(現三瓶高等学校)教諭となる

1950年(昭和25年) 個人詩誌「ペルソナ」を創刊し、短歌生活とは別れる、吉田高等学校に転任

1951年(昭和26年) 第1詩集「六魚庵天国」を発行、以後毎年1冊づつ自費出版の詩集を発刊

1952年(昭和27年) 世界仏教徒大会広島に参加し、「宝蔵菩薩に捧ぐる平和の詩」(英訳版)を各国代表に贈る

1953年(昭和28年) 母·夕子永眠する、 第2の母·杉村春苔尼先生訪問

1956年(昭和31年) 眼、内臓の病気に罹り、生死を彷徨する。利根先生の助力に寄り克服。県立宇和 島東高校に転任

1962年(昭和37年) 森信三先生より詩國発刊の大経示頂き、個人詩誌「詩國」を創刊する

1966年(昭和41年) 県立吉田高等学校を定年退職する

1967年(昭和42年) 「自選坂村真民詩集」発刊する、伊予郡砥部町に居を移す


1970年(昭和45年) 「詩國」100号発刊、京都常照寺に《念ずれば花開く》の初の詩碑建立

1974年(昭和49年)   長い教員生活を終え、妻と八十八箇所巡礼の旅に出る

1979年(昭和54年)  「詩國」200号発刊  随筆集「念ずれば花開く」刊行

1981年( 昭和56年)  「一遍上人語録ー捨て果てて」刊行

1989年(昭和64年、平成元年) 昭和最後の日全ての番組中止される中、「念ずれば花開く」が放映

1992年(平成4年)  さとう宗幸作曲·歌「2度とない人生だから」キングレコードより発売

2001年(平成13年) 砥部町より名誉町民賞受賞、坂村真民全集第七巻発刊

2004年(平成16年) 「詩國」500号発刊し終刊とする、朴庵例会171回で終わる、熊本県玉名高校に700番詩碑建立される

2006年(平成18年) 12月11日  老衰により永眠する。97歳

2012年(平成24年) 坂村真民記念館オープン



青木青眠 記
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