●〔渋沢栄一〕ゆかりの地など |
〔常盤橋の渋沢栄一の銅像〕
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〔日本資本主義の父・渋沢栄一の故郷を訪ねる〕 東京駅からほど近い小さな日本橋常磐橋公園のベンチに腰掛けると、緑に囲まれた樹木の中に洋装姿の銅像が立っている。よく見ると「論語とソロバン」で脚光をあびている「日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の銅像」である。 渋沢栄一像は柔和な顔で目は遥か遠くを見ている。渋沢栄一の孫の孫と言われる「渋沢健氏の論語と算盤」の講演を聞く縁もあり、渋沢栄一の生家と記念館のある血洗島(深谷市)を訪ねてみた。 〔渋沢栄一の生い立ち〕 日本資本主義の父と言われる渋沢栄一は武蔵野国榛沢郡血洗島(現埼玉県深谷市)に1840年(天保11年)に生まれる。生家は養蚕農家であり藍玉も商う豪農であった。 渋沢栄一も若い頃、藍玉の仕入れ販売等を手伝い商売のイロハを学ぶ。また幼い頃尾高惇忠から儒学を学び、尊皇攘夷運動が盛んな幕末には、従兄弟等と高崎城を襲う計画を画策したが、実行されなかった。この事で親類に類が及ばぬよう勘当の身となり京都に赴き、その後、縁あって一橋家の一橋慶喜に仕える。 |
〔西欧の先進国を見聞し日本に株式会社制度を導入する〕 徳川慶喜が徳川家の十五代将軍となると、弟の徳川昭武がパリ万博の日本代表使節に決まり、渋沢栄一は勘定役としてフランスへ随行した。渋沢栄一は1年半にわたり滞在し、歴訪した欧州先進国の産業、軍備や欧州の金融・経済システムを学び産業の重要さ痛感する。 コチコチの攘夷論者が西欧文明に接し、これに感嘆し・変化していく様子を日記に書いている。この欧州体験が後の活躍につながった事は確かだ。作家津本陽氏の「小説渋沢栄一、藍々たり」を読むとこの辺の事情がよくわかる。 江戸幕府の崩壊により1868年帰国した、静岡に謹慎していた慶喜を訪ね、慶喜より「自分の道をゆけ」との励ましを受けたという。 大蔵省に入省し国立銀行条例制等に携わる。しかし官僚トップと対立し退官、民間人として第一国立銀行や多くの地方銀行設立に関与し、多種多様な企業を設立(第一銀行、東京ガス、東京海上火災、王子製紙、帝国ホテル、日本郵船、キリンビール等)し、日本経済の基盤確立に貢献した、その会社数は500社以上と言われている。 |
〔生家にある渋沢栄一像〕
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〔渋沢栄一記念館〕
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〔渋沢栄一記念館〕 血洗島とは血の気の多い村だなと思いつつ、東京から高崎に向かう国道16線から右に利根川方向に折れ、今でも血洗島の地名が残る地に渋沢栄一記念館(深谷市血洗島)を訪ねる。2階建ての大きな建物の1階入口近くに渋沢栄一記念館がある。渋沢栄一の生い立ちや、業績、文献,書等が幅広く展示されている。 説明をお願いしたら、渋沢栄一を知り尽くした館員・篠田さんが熱のこもった説明をして下さった。特に渋沢栄一は500もの会社を作ったが三井、三菱、安田、住友、古河と言った財閥と異なり、渋沢財閥を作らなかったことを力説された。 |
〔血洗鹿島神宮〕
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〔渋沢栄一の哲学:「私利を追わず公益を図る」〕 渋沢栄一は小さい時から論語に親しみ「私利を追わず公益を図る」という考えを生涯貫き、「道徳経済合一説」を唱え、株式会社という名前さえ知らない明治時代に、“日本の国作りには株式会社が必要”と説き、多くの産業、会社を創設した。 また、社会活動にも熱心で日本赤十字社や孤児院、養育院の設立や大学の設置、医療施設の設立等、弱者の救済や、学問の普及、病院など社会保障システムの確立にも関わっている、これも論語精神の現れかもしれない。 |
〔渋沢栄一の生家〕 渋沢栄一の生家の近くには「論語の道」と言われる道がある。また近くの鹿島神社には大きな古木があり、不思議なことに、木の中は直径5m位の空洞でその真ん中に井戸がる。昔は水も出て神泉として村民にあがめられていた。 渋沢家・中の家と呼ばれる生家は北関東に見られる門構えのしっかりした豪農の家である。門を入ると紋付袴に刀を差した渋沢栄一の銅像が立っている。池には沢山の鯉が泳ぎ。土蔵の前には「藍の木」が植えられている。土間に入ると渋沢栄一に関する資料が展示されている。 この家は栄一の妹が継ぎ、妹婿さんは村長、県議を歴任し地元の発展に貢献している。10畳の部屋が3室3列に並び一番奥の客間は栄一が帰省したとき使用していたという。 この屋敷の隣には栄一の姪が日本学校を創設し外国人に対し教育行った。今で言えば留学生を受け入れ教育をしていたことになる。その宿泊施設も含め鉄筋建の白い建物で、外から見ても立派だ、多くの国際人がここから巣立ったという。この生家は残念ながら子孫が絶え、現在深谷市が管理し渋沢栄一生家として多くの方が訪れ賑わっている。 |
〔生家の正門と駐車場〕
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〔今こそ渋沢栄一を知ろう〕 幼少より論語学び、青年時代は攘夷思想に固まり倒幕をくわだて、最後の徳川将軍・慶喜に見い出され、欧州先進国の文明を見聞し、多くの産業を興し、私利を追わず公益を図るという考えを貫いた日本資本主義の父・渋沢栄一の生家・記念館を訪ねる事を勧めたい。 栄一は誰とも笑顔で接し外国人にも愛され、日露戦争後は民間外交として米国に何度もでかけ日米友好に努めた、記念館にはその証としての「アメリカから贈られた青い目の人形と日本から贈った市松人形」が展示され、日米が戦争にならぬよう努力している姿が良くわかる。 |
〔生家の前に立つ栄一像〕
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〔渋沢栄一の言葉〕
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〔参考書籍〕
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青木青眠 記 |