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〔偉人〕

鈴木貫太郎(すずき かんたろう)

 
〔す〕の偉人 杉原千畝 鈴木貫太郎
鈴木大拙

プロフィールバー 〔鈴木貫太郎〕のプロフィール
俗称・筆名 鈴木貫太郎
本名 鈴木貫太郎
生誕 1867年(慶応3年) 12月24日和歌山県堺市で鈴木由哲・きよの長男として出生
死没 1948年(昭和23年)4月17日野田市関宿で死去
出身地 千葉県野田市関宿町
最終学齢 海軍大学校卒業
職業 軍人、政治家
ジャンル 軍事、政治
活動 鳥羽伏見の戦いの年(1867年)に生まれ、前橋の桃の井小学校、前橋中学(現前橋高校)から海軍兵学校を卒業、日清戦争に従軍、 明治30年海軍大学入学、明治34年ドイツに留学、欧州各地を歩く、日露戦争を控え軍艦春日・日進を日本へ回航、日露戦争では魚雷の名手として活躍、多くの戦艦艦長をへて海軍兵学校長、海軍次官、連合艦隊司令長官等を歴任

昭和天皇の侍従長を昭和4年~11年の間務め、2.26事件に遭遇、瀕死の重傷を負うも生還。

昭和20年(1945年)4月内閣総理大臣を拝命、昭和天皇の信任篤く、太平洋戦争の終結に尽力した。

終戦後は関宿に隠遁、地元の産業育成に貢献、昭和23年81才で死去した。
代表イベント 太平洋戦争終結時の内閣総理大臣
代表作
記念館 〔鈴木貫太郎記念館〕
 千葉県野田市関宿1273
言葉・信条 正直に腹を立てずに撓まず励め
奉公十訓
天空海闊

人生履歴 〔鈴木貫太郎〕の人生(履歴・活動)
〔日本の一番長い日〕

終戦の8月14日から15日にかけた1日を描いた映画《日本のいちばん長い日》が8月の終戦日近くなると毎年放映されるので何度も見た。

 昔の岡本喜八監督の同作品も数回見ている。


映画・日本の一番長い日 ポスター

 特に昭和天皇と鈴木貫太郎との関係、阿南陸軍大臣と鈴木貫太郎に興味を持った。鈴木貫太郎の渋い人間には魅かれる。

 昭和天皇が一番信頼し、《終戦をやり遂げられるのはあなたしかいない》という言葉にやむなく78歳の高齢で総理大臣を引き受けた。戦争は始めるより終える方が難しい、その難しい終戦をやり遂げるとその日に総理大臣をスパッとやめている。


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鈴木貫太郎の写真
(出典:Wikipedia)

鈴木貫太郎の写真
(出典:Wikipedia)

ゆかりの地 鈴木貫太郎ゆかりの地。

〔鈴木貫太郎記念館を訪ねた〕

  野田市関宿にある鈴木貫太郎記念館は2年前に訪ねたが
今回再度訪問した。関塾は千葉県だが、埼玉・茨城県に接し、町では幸手、五霞、境と接している。関宿と言っても多くの人は知らない。関宿は利根川と江戸川の分岐する突端にあり、江戸時代には江戸と産地を結ぶ交通の要地であった。鈴木貫太郎記念館は関宿台町の交差点にある。駐車場も広く入場は無料である。関宿は現在、野田市に属し市の北部に位置する。記念館の前には《堪えがたきを堪え忍び難きを忍び、以って万世の為に太平を開かんと欲す》という終戦の詔勅の『為万世開太平』の大きな白い石碑が建っていて貫太郎翁の心意気を感ずる。駐車場の脇には集乳所開設の記念碑が立っている。貫太郎翁が晩年故郷に帰った時、郷里の若者に酪農を奨励し、奥さんも協力している。これに感謝した地元の有志が貫太郎翁の屋敷に建てた石碑と知る、碑文には翁の  「和を以って貴しと為す」の言葉がある。市内をドライブすると酪農農家も見かけ、翁の意志が今も生きていることを実感する。

  記念館の中に入ると鈴木貫太郎の資料や、木像、両親の肖像画、終戦の御前会議の絵、日清、日露の戦争画、愛用の日用品、辞令や呼出状などが並んでいる。入口近くに箒で掃除している貫太郎の写真がいい、親しみのある表情で、仕草もよく印象的だ。

   

鈴木貫太郎記念館 正面
 
鈴木貫太終焉の地碑

庭を掃く鈴木貫太郎
集乳所の碑文

集乳所の碑
 
記念館の書物

〔関宿城を訪ねる〕

  関宿城は3層の城郭で外観も美しい、中は県立博物館で水上交通の歴史が詳しく解る展示となっている。昔、米や材木などを運搬する自動車も鉄道もない時、船は有力な交通手段だった。利根川、江戸川は今の高速道路と思えばよい。
関宿は江戸川と利根川の分岐点で交通の要所である。関宿城の天守に登り眺望すると地形も良くわかる。城内には『河川とそれにかかわる産業』をテーマに江戸初期から現代までの水上交通の歴史を紹介している。今年(平成29年)はカスリーン台風70年という幟も立ち、戦後最大の台風の被害を教えている。500mほど遠方に小さな森が見える。ここが昔の城址であると聞き、土手沿いに歩いて行ってみた。関宿城と彫られた石碑が入口に立っている。城址跡は草で覆われている。遠くに現在の関宿城が見える。昔の城址は水害等に見舞われ2/3以上が堤防等の下に埋もれてしまって、昔の面影は何もない。

   

宿城を遠望する
 

関宿城址の石碑

関宿の位置、下は昔の絵図

関宿城博物館内部
 
記念館の書物

 

〔徳川家康も重視した関宿城〕
 関宿城の初代城主は徳川家康の実弟・徳川康元である。近くに家康・康元の生母於大の方を祀る光岳寺がある。徳川家は関宿を重要拠点と見て明治維新まで譜代大名をあて、老中も多く輩出している。江戸末期では久世家が城主で5万8千石を領し、大阪・堺の飛び地も1万石あり、貫太郎の父が代官を務めていた、父は撃剣、西洋流砲術にたけ、体も大きく寛大な人だったという。博物館の中には隅田川の氾濫で江戸庶民が被災する絵や、田沼意次や水野忠邦の肖像画も掲げられ、印旛沼や手賀沼等の干拓をし、災害の防止と産業奨励に務めた為政者の紹介もある。私たちも地形の理解と先人の知恵に学ぶ必要がある

 
 
関宿城址より今の城を見る
 
江戸の水害風景
 
田沼意次肖像も掲示
 

 

〔堺に生まれ前橋で育つ〕
  鈴木貫太郎は1867年鳥羽伏見の戦いが勃発した年に生を受けた。生地の大阪府堺でも大阪の火薬庫爆発音は聞こえたという。明治維新を迎えた父は群馬県前橋の群馬県庁に職を求め、鈴木貫太郎も県庁近くの第一番小学校厩橋学校(明治26年桃井尋常小学校に改称)に通った。年表を見ると鈴木貫太郎は明治10年に転入、12年に卒業している。昭和11年には貫太郎の言葉《正直に腹を立てずにたゆまず励め》が小学校の校是となり石碑もあると聞き訪ねた。しかし、桃の井小学校は現在改築中のため、校舎は別の所に移転、石碑も当然見つからなかった。


 


改築中の桃の井小学校

 

〔前橋中学(現前橋高校)へ入学〕
  鈴木貫太郎は前橋利根川中学(今の前橋高校)へ進学し、その後攻玉社を経て海軍兵学校に入学している。鈴木貫太郎は《前橋は赤城、榛名、妙義の3名山に囲まれ、利根の奔流を背景とした風光明媚の地で、前橋の7年間は第2の故郷》と述懐している。 鈴木貫太郎は青春時代を群馬で過しているので、群馬出身の総理大臣と数えて良いと思う。総理大臣鈴木貫太郎の出身地は大阪府となっているが、大阪府堺は生地だけに過ぎない。鈴木貫太郎を群馬出身と数えると5人となり、山口県、東京都についで群馬県は首相経験者が多い県となる。

 

〔父の希望に反し海軍兵学校に進む〕
  父は医者にしたかったが医者は嫌だった、海軍兵学校の募集を見て、海軍に入れば外国に行けると思い希望した、父は反対、陸軍は長州、海軍は薩州で、関東人では立身出世の余地はない、1年間時間を置き父も折れた。明治16年東京の近藤塾(後の攻玉社) に入学する。塾は海軍兵学校の予備校のような存在で1000人以上いたという。当時福沢塾・慶應義塾 と並び称されていた。明治17年海軍兵学校14期生として入学する。
記念館に兵学校の成績表が展示されていた。科目は砲術、水雷術、運用術、航海術、文学の5科目で課目毎の成績と合計点が表示され、順番は44人中13位となっている。現在ではこのような成績表の公表はないと思うが筆者の高校時代も上位者の公表はあった。この成績が入隊後の昇進まで影響したというから厳しい時代である。
海軍兵学校は今の築地にあり、海軍発祥の地でもある。同期120人のうち関東人は1人、そのくらい海軍内での関東人の存在は薄かった。卒業した明治20年(1887年)海軍兵学校は江田島に移る。この頃は鹿鳴館時代でもあり、東京では刺激が強すぎると判断したのだろうか、その後、築地は海産物市場となり、今後魚市場は豊洲に移り築地も大きく変わるだろう。


 


兵学校時代の鈴木貫太郎の成績順位表

 

〔鈴木貫太郎と日清戦争〕
  明治27年7月25日日清戦争は朝鮮半島の仁川に近い豊島沖の海戦で始まった。鈴木貫太郎は水雷艇を指揮していた、貫太郎の戦い方は《肉を切らせて骨を切る》の精神で当時の魚雷の有効射程距離は500mと言われていたが、確実な戦果を上げるには300mまで接近し発射する方が良いと言う結論を得ていた。黄海海戦で日本軍は勝利を得たが鈴木貫太郎には出番がなかった。明治29年2月威海衛の戦いでは、湾口を塞いだ堅牢な防材を爆破し、世界で最初の水雷艇攻撃に鈴木貫太郎は選ばれた。

  世界最大の戦艦・鎮遠に近づき魚雷発射するも寒さのため発射せず、やむなく引き返す。それでもこの攻撃で来遠、威遠の戦艦2隻を撃沈寸前まで追い込み清国軍の士気は低下した。貫太郎の船は蜂の巣のように砲弾を浴び『鬼貫太郎』の名で知られるようになった。威海衛の戦いで破れた清国の北洋艦隊は白旗を掲げ日本軍の軍門に下った。鈴木貫太郎は武功抜群で金鵄勲章を授与された。




 


日清戦争威海衛海戦(記念館内写真)

 

〔海軍大学校入学から結婚へ〕
  鈴木貫太郎は日清戦争後海軍大学校に合格、参謀等の重要職に就くための戦術、砲術、水雷術、運用術、航海術等を勉強し明治31年卒業した。明治30年30歳の時、会津藩出身の大沼とよと結婚した、共に戊辰戦争の賊軍の末裔である境遇に共感する面があったという。

 

〔鈴木貫太郎と日露戦争〕
  日露戦争当時の日本とロシア海軍の軍艦等の比較では、日本の連合艦隊とロシアの東洋艦隊(ウラジオストックにある)は拮抗していたが、ロシア本国には別にバルチック艦隊があり、日本の2倍の海軍力を持っていた。鈴木貫太郎中佐はイタリア(イタリア製)から日進、春日を回航し開戦に間に合わせた。鈴木貫太郎は春日の副長を命ぜられ出陣した。

  明治37年2月東郷平八郎率いる連合艦隊は旅順港に立てこもるロシア艦隊を湾外に引き出し、旗艦ペトロパウロウスクを沈没させるも、多くの艦は旅順港に立て籠りバルチック艦隊を待つ作戦に出た。5月バルチック艦隊は日本に向け出航した。旅順港に潜む東洋艦隊はウラジオストックに立て籠もるべく旅順を出た。

  東郷元帥はこの機を逃さずロシアの東洋艦隊を殲滅せんと待ち構える。鈴木貫太郎が回航し乗る春日は当時世界最長の射程距離を誇っていた。連合艦隊とロシア艦隊は平行に走り1.2万メートルあった。鈴木貫太郎は春日よりアスコリドに砲撃、命中、戦列を離脱させた。それを機に三笠の艦橋に立つ東郷元帥はロシア の主艦の司令塔を破壊、ロシア艦隊は大混乱の末、夕8時には壊滅、逃亡した。この後203高地も落とした、あとはバルチック艦隊を待つことになる。




 


日本海海戦の行われた位置:ウイッキペディア

 

〔日本海海戦と鈴木貫太郎〕
  日露戦争の小説としては司馬遼太郎の「坂の上の雲」が多くの人に読まれている。その主人公は秋山真之だが、バルチック艦隊がどのルートを来るかでは相当迷っていた。そんな折、鈴木貫太郎は必ず対馬海峡にくるとアドバイスをしている。その根拠は艦隊の進む速さ、長距離航海の状況、石炭積み寄港などを計測すると10ノットでなく7ノックと遅くなっていることを説明、秋山参謀の迷い解消に役立っている。

  司馬遼太郎の坂の上の雲8巻では第四駆逐艦の4隻を率いて日本海海戦(5月27~28日)に参加していた鈴木貫太郎をこう紹介している。『後年太平洋戦争の終末期の日本の首相にならざる運命をもっていたが、この当時においては世界の海軍の水準からみて水雷船の指揮官としては超一流であったろう。「水雷で敵を攻撃するこつは、敵が発見しないうちにこちらがうんと近づいてしまうことだ」という考えをもっていた。それには鋭敏な索敵感覚が必要だった』と紹介し、まず戦艦ナワリーを撃沈し、ついで三笠に似た戦艦シソイ·ウエリキーを沈めた。この段階で日本軍は無傷の状態で三笠含む27隻が揃い、ロシア側は5隻残り、2500人の乗員がいた。艦長ネボガトフは白旗を掲げ降参した。日本軍大勝利の理由は鈴木貫太郎にみる如く、兵1人1人の戦闘能力、士気が高かったこと、東郷元帥はじめ参謀、指揮官の使命感、戦略、結束力が高かったことではないだろうか。

  日本海海戦の日本の勝利を海外のメディアは誤報という態度をとった。なぜなら世界一のバルチック艦隊が沈むわけがないと信じていたから。イギリスの海軍研究家H·w·ウイルソンは事情が明快になった時「なんと、偉大な勝利であろう。自分は陸戦においても海戦においても歴史上このような完全な勝利というものを見たことがない」と書き、さらに、「この海戦は、白人優勢の時代がおわったことについて歴史上の一新紀元を画したというべきである。欧亜という相異なった人種のあいだに不平等が存在した時代は去った。将来は白色人種も黄色人種も同一の基盤に立たざるをえなくなるだろう」とし、この海戦が世界史を変えたことを指摘している
(坂の上の雲より抜粋)

 


日本海海戦が書かれている八巻


艦三笠の東郷元帥 出典ウィキぺディア
 

 

〔日本海海戦かく戦てりを読む〕
  日本海海戦かく勝てり」という本がある、著者の半藤一利氏は昭和史の研究家で戸高一成氏と対談している。この中で日本海海戦では一般に言われている《丁字型戦法はとられていない》と書かれている。
 丁字型戦法をとる予定であったが、当日は海が荒れこの戦法は難しいので、秋山真之は「天気晴朗なれども波高し」という電報を東郷元帥の電文に追加した。これは「本日は波が高いので丁字戦法とりやめという暗号」だったという説を紹介している。この説は異説もあるようだが興味深い。

  鈴木貫太郎自伝では第四駆逐艦隊司令として出陣した鈴木貫太郎はロシア艦隊と平行に進んだ後、隊形確認のため、敵艦の前を突切って前に出た。これをみたロシアの提督·ロジェストウエンスキーは日本軍が前路に機械水雷を散布したと思い針路を右に切った。それに続くロシアの第二艦隊は迷い隊形が崩れた。その崩れを突き東郷元帥は攻撃開始した。鈴木貫太郎の行動がきっかけとなり、訓練された日本軍の弾は良くあたり、敵の弾はあたらなかったと記されている。

  鈴木貫太郎率いる四隻の駆逐艦は水雷を発射、敵の主力戦闘艦スワロフの司令長官ロジェストウエンスキーは駆逐艦に乗り換え逃げるも、翌日蔚山沖で日本軍に捕獲され降参した。貫太郎は夜戦でも活躍し撃沈した功績を他に譲るほどであった。東郷元帥に戦績を報告した時は『いやあなたの攻撃はよく見ていました』と言われ、30分位諄々と27日の戦争経過を語られた。東郷元帥は日頃は黙っている方なのだが実際は雄弁な人なのだと思った。私の学生時代、元帥は海軍大学校長だったから学生に向かって語られたのかもしれないが、後にも先にもこんなに雄弁に語られた東郷さんを見たことがない。この事は私の終生忘れ難き感激であります、と鈴木貫太郎自伝に書かれている。



 


日本海海戦の行われた位置:ウイッキペディア


日本海海戦の絵(貫太郎記念館)
 

 

〔国際感覚に富む、鈴木貫太郎は若い時、世界各国を見ている〕
 平成の今はいつでも海外に行ける環境にある。戦後の1ドル360円時代、海外に出かけることは大変であった。明治大正の時代はもっと大変であったろう。そんな時代鈴木貫太郎は下記のように努めて海外に出掛けて見聞を広めている。若い時には海外に出るべきと思う。

1.海軍兵学校卒業の明治20年7月から9月実地訓練のため遠洋航海でサンフランシスコ、サンディエゴ、メキシコ、パナマ、タヒチ、ハワイを歴訪し世界に飛躍したいという夢がかなった。

2. ドイツ留学時代 明治34年9月から日露戦争が勃発する直前の明治37年まで留学、その間ベルリン、ハノーバーを起点に、ドイツ全域、イギリス、南ヨーロッパ、北欧、ロシア等を 訪ねている。武器製造クルップの工場、ポーラ軍港、ウイルヘルム軍港、キール軍港等を視察している。明治36年末、注文してある軍艦日進、春日を回航しての帰朝命令を受け37年2月ロシアの妨害を回避し無事回航に成功し帰国する。

3. 明治42 年 宗谷艦長に就任、練習艦隊を率い遠洋航海に出る。明治43年 オーストラリア方面へ回航、 兵学校卒業生連れ、マニラ⇒フィリッピン⇒豪州⇒タスマニア⇒ニュージーランド、当時山本五十六大尉は指導教官として、鈴木艦長のもとで航海している。

4. 大正7年、海軍兵学校校長の時 北米からメキシコ、南洋諸国、真珠湾等を歴訪した。サンフランシスコでは日米戦争についての話をテーブルスピーチし、このスピーチが終戦時に生きてくる。

5. 昭和5年ロンドン軍縮条約調印のため出席




 


ドイツ駐在武官の頃

 

〔日本は平和を愛する国民である〕ーサンフランシスコでのテーブルスピーチ ―
  鈴木貫太郎自伝』を紐解くと、練習艦隊司令長官の時(大正7年)、米国東海岸から世界を半周する訓練を実施、各地を訪問し見聞を広めている。サンフランシスコでは歓迎会の返礼としてテーブルスピーチを求められ、司令官として大正7年《日米戦争という題》でスピーチする。

当時①日本は好戦的国民である ②日米戦争の話題があがっていた。 この2つは誤っている事を話した。その内容は《日本の歴史を調べてみれば解ることで、日本人ほど平和を愛好する人間は世界で他にない。日本は300年の間一兵も動かさず天下が治まっている。しかし、日本人が近来の戦争に勇敢に闘かつた事は確かなことだ、この勇敢さを好戦国というなら甘んじて受けよう。日本人は平和を愛する国民だから外国から仕掛けられてもなかなかやらない》と。
日米戦争論はお互い兵力の消耗で両国にとって何の益もないと。通訳の佐藤一郎大尉(岸首相の令兄)の通訳が大変優れ大喝采となった。この当時第一次大戦中で日米は友好関係にありドイツに対抗していた。




 


鈴木貫太郎自伝

 

〔鈴木貫太郎の太平洋戦争観〕
  《日米は戦うべからず》というのが自分の戦争観だと貫太郎は言っている。大正7年にサンフランシコに回航した際のテーブルスピーチで《日米間の戦争は無意味である、太平洋は安らかな平安の海》という意だ。海軍の実力でも勝てない、ましてやイギリスまで向こうに回して戦おうというのは冷静な頭では理解できない、故山本五十六元帥ともこの問題についてかって話したことがあり、余とまったく同意見だったと自伝に書いている。

 

〔騎士道精神をもった指導者・鈴木貫太郎〕
 鈴木内閣は昭和20年4月7日に発足、4月12日にはF・D・ルーズベルト大統領領が脳溢血で急死した。鈴木首相は敵国大統領の死に対し深い哀悼の意を表し、アメリカの大新聞がこの弔意表明を記事にした。 ドイツ・ヒットラーは反対に無視した。日本は騎士道精神が生きている国と評価された。 日本の新首相は敵国大統領の死に対し深い哀悼の意を表す礼をわきまえた紳士だと国際社会、指導層に好印象を与えた。また内閣発足の4月7日に戦艦大和は坊の岬 洋上で撃沈された。ここに鈴木貫太郎の人となりを紹介しよう。

1 鈴木首唱の苦心は国内に向けては徹底抗戦姿勢を示しつつ、海外に対しては和平の提議を暗号で発信し、相手側には首尾よく解読してもらう工夫を凝らしていた。この暗号を読みこなしたのは昭和16年開戦時の駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーである。グルーは知日派で、日本の 皇室を理解した仁慈聖徳の人であり、この人の存在は日米両国にとって幸せだった、鈴木の深謀遠慮に発する和平提議の暗号通信は米側に解読されていた。終戦時に国務長官代理であり、降伏勧告の諸条件をみて、鈴木内閣は停戦に持ち込めると判断した。

2  鈴木貫太郎は昭和天皇の切なる期待に応えて大東亜戦争の終結、停戦の実現に導き大任を果たし、昭和23年4月17日肝臓がんで逝去した。 鈴木貫太郎が首相になったこと、妻が天皇の養育担当であったこと、79歳で総理につき4ヶ月の激務に耐えた頑健な肉体を持っていたのも幸運であった。

3  昭和7年の アメリカでの日米会戦に対する鈴木貫太郎の演説も好意的に受け止められていた。

4 陸軍大臣・阿南大将も侍従長時代の侍従武官で鈴木貫太郎には心では尊敬していた。映画ではタバコを最後の別れに贈っている。

5  昭和20年6月 連日の空襲を受ける中、50カ国の連合国相手に、帝都東京で堂々と議会を開会し、孤立無援の中、相手側に和平の暗号を発信する。この裏には日本帝国はナチス一党支配のドイツとは違う、このような非常事態でも、議会制民主主義が健全に運用されている国柄であることの誇示であった。ポツダム宣言発布から20日間の日本政府の苦心は大変だった。

6 大正7年 遠洋航海の折に、サンフランシスコでの日米戦争否認論の趣旨を回想の形で盛り込む、日米戦争は天の許さざるを愚挙である。加えて天皇の平和への強い希望を強調、和平提案を暗示したが、国内で読み抜かれては大変、秘書である息子の思い出に10月14日の夜、父に呼ばれて《今日陛下から2度迄も「よくやってくれたね」「よくやってくれたね」との言葉を頂いた》としばし面を伏せ感涙にむせんでいた。と書かれている「鈴木貫太郎」は満1周忌に刊行された。

〔鈴木貫太郎内閣の133日 と言う本がある〕
  鈴木貫太郎の内閣の133日」という小冊子が平成15年初版、21年には第2版が発刊されている、これを求め読むと終戦前後の重臣会議の発言内容が詳細に記され、出席者の日記、メモ、書簡などが掲載され昭和史を理解する参考となる。
鈴木貫太郎内閣は昭和20年4月5日に誕生し、終戦日8月15日に総辞職しているから133日の内閣であった。木戸幸一内大臣の木戸日記はなまなましく、内閣誕生の重臣会議の模様・発言が記されている。その一部を紹介すると、鈴木貫太郎を総理大臣に推す声が多い中で、鈴木氏は『軍人が政治に出るのは国を滅ぼす基なりと考えあり、ローマの滅亡然り、カイザーの末路ロマノフ王朝の滅亡また然り。故に自分は政治に出ることは自分の主義上より困難なる事情あり、耳も遠しお断りしたし』と固辞している。
  東條元総理は畑元帥を総理に推しつつ、鈴木候補に対し『国内が戦場にならんとする現在、よほどご注意にならないと陸軍がソッポをむく虞れあり、陸軍がソッポを向けば内閣は崩壊すべしという。この発言に対し岡田元総理は『この重大時局大困難に当り苟も大命を拝したるものに対しソッポを向くとは何事か、国土防衛は誰の責任か、陸海軍にあらずや』とたしなめる記述もある。組閣に対しては陸軍の要望・大東亜戦争を完遂することを約束させられている。鈴木貫太郎は戦後『余に大命が降った以上,機を見て終戦に導く、そして殺される』(終戦の表情)と語っている。

 


鈴木貫太郎内閣の133日


鈴木貫太郎内閣の顏ぶれ
 

〔志賀直哉の鈴木貫太郎評が面白い〕
  『貫太郎内閣の133日』の中に志賀直哉の随筆が掲載され面白い。『私はこの内閣で戦争は終わるのではないだろうかと訊いてみた。近衛文麿さんははっきりとそれを否定し、発足に軍部の要求を入れてしまったから、そう長い寿命ではないといっていた。軍部の要求といふのは本土決戦の事で、私にはこれはどうも腑に落ちなかった。
戦争の初めに、「これで日本も三等国に下る」と言っていたひとが、軍部の要求する本土決戦を約束して内閣を引き受けるという事は辻褄が合わぬ話だと思った。一日一日空襲は烈しくなり、食料は押しつまり、外地の戦況も益々非になり行く時に,かっては政治を本分とせず,大臣を断った人が総理大臣を引き受けるというのはよくよくの事で、何か考えあっての上でなければならぬと思った。

  近衛さんも鈴木さんは立派な人だと言っていた。然し政治家としての期待は持てぬような口吻をもらしていたが、こういう非常な時期には政治の技術など、たいして物の役には立たないのでないか。それ以上のもので乗り切るより道がないような状態に日本はなっていたと思ふ。
鈴木さんにはさう言うものがあり、鈴木さん自身、それを自覚していて、総理大臣を引き受けたのではないだろうか。組閣の初めに軍部の要求を入れた事も、今から思えば含蓄のあるやり方だった。正面衝突ならば、命を投げ出せば誰にもできる。鈴木さんはそれ以上を望み、遂にそれを成し遂げた人だ。鈴木さんが、その場合、少しでも和平をにほはせれば。軍は一層反動的になる。鈴木さんは他に真意を秘して、結局、終戦と言う港にボロボロ船を漕ぎつけた。
吾々は今にも沈みそうなボロボロ船に乗っていたのだ。軍はそれで沖へ乗り出せと言ふ。鈴木さんは軸だけを冲に向けて置き、不意に·終戦と言ふ港に船を入れてしまった。原子爆弾と露西亜の参戦が、それに機会を与え事は勿論であるが、この事なくしても。八月十五日の大詔は遅かれ速かれ、鈴木内閣で発せられたに違いない。(鈴木貫太郎内閣の133日より)後にこの作品を読んだ鈴木貫太郎は『小説家とは偉いものだ。自分とは一度もあったことも、話したこともないのに、自分の気持ちをこんなに良く知っている』とは、全く感心の他はないと語った。



 


志賀直哉  出典ウイッキぺディア


記念館パンフの表紙
タバコを吸う鈴木貫太
 

〔《父・鈴木貫太郎の一生》を息子一氏が語る〕
  鈴木貫太郎の長男・一氏が《鈴木貫太郎》の生涯を書いている。その父親評は心を打つ、重複する面があるが、要約し紹介しよう。(一氏は農林省山林局長をやめ、首相秘書官となり父を補佐した)《2000年の日本歴史の中でいまだ経験したことのない日本本土の焦土化しつつある中に日本民族が滅亡するか残るかという、死活の運命を託されて内閣総理大臣の大命を拝した父は日本歴史上まれにみる悲劇の人物》であった。

  明治が始まる前年の慶応3年、明治維新の動乱と同時に生を受け日本歴史上最も波乱の多い1世紀を象徴する人物である。日清、日露の両戦役には従軍し、水雷艇の艇長として威海衛の敵港深く突入し、或いは駆逐隊司令として日本海戦に敵艦二隻を撃沈し、水雷戦術の第一人者という折り紙をつけられたが、武運に恵まれ身に一弾も受けず、部下に戦死者を出していない。

  やがて海軍軍人最高の栄誉たる軍令部長に在任中、侍従長の任命を受け昭和天皇陛下の側近に奉仕することとなった(昭和4年1月~昭和11年11月)。青年将校を中心とする国家革新の機運騒然たる最中、昭和11年2月26日いわゆる2・26事件に遭遇し、反乱軍伍長の撃った3弾は眉間、心臓、睾丸と急所を突いたが、奇跡の連続で一命を取りとめ得たのは、正に終戦の大業に当たらしめんとの天のたくめる配慮としか思われない。

  軍人は政治に関与すべからず、これが父の信条である。かって、海軍最大のシーメンス事件を処理するため、最も政治色のない人物として海軍次官に抜擢された時も、料亭や待合での話し合いは一切やらないことを条件に持ち出したくらいであった。

  昭和20年4月5日小磯内閣の後継として父が推薦されたが、頑として応じない。《生来武弁で、政治には全く素人で、老齢(78歳)で耳が聞こえない》を理由に辞退していた。最後は昭和天皇が乗り出し《耳が聞こえなくても良いからやれよ》との再度のお言葉を拝し、大任をお受けしたとその夜語った.その時の悲壮な面持ちは忘れられない。おそらく死生を越えた、ただ陛下の大御心を体し、いかにして日本民族を救うべきかの一念にぎした高い心境であったと思われる。

  4ヶ月の終戦内閣は、口に一億玉砕を唱えなければ、いつクーデターが起こらぬとも限らない。父の真意はただ1人の閣僚にすら打ち明けることができない苦しい月日がたっていた。原子爆弾とソ連の参戦の報を手にするや、一気呵成にご聖断方式によって、さしもの終戦の大業を成就したのである。世になぜもっと早く終戦できなかったかという人がある。多少の波瀾はあったが、大局的にみて、一糸乱れぬ終戦に持ち込み得たのは、この時機を正に捕らえたからにほかならない。早きに過ぐれば、必ずや陸軍によるクーデターとなり、遅きにすぐれば38度線よる南北二つの日本ができていたであろう。幸いにして陛下と共に日本民族は滅亡を免れたのである。

  しかし8月15日の早朝、国を売った鈴木総理を殺せと言って、兵の襲撃を受け、わずか1,2分の差で身をもって難を免れ、悲劇の主人公の大団円とならなかった。そして昭和23年4月17日《永遠の平和》の一語を残して郷里関宿の自邸に眠るがごとき大往生を遂げた。



 


息子が書いた鈴木貫太郎自伝


終戦宰相·鈴木貫太郎
 

〔神風特攻隊の創設者大西瀧治郎との出会い〕
  鈴木貫太郎が浅間艦長の時 九州 沖で難破している大西瀧治郎他1人を救出したと自伝に記している。後に大西瀧次郎は神風特攻隊を創設し名を轟かし、終戦の時には 本土徹底抗戦派でポツダム宣言受諾に異議を唱え米内海軍大臣より厳しい叱責を受け、終戦確定後の16日割腹自殺をしている。もし、遭難時の救出がなければ大西はその時点で死んでおり、神風特攻隊も生まれなかったかも。




 


大西瀧次郎 出典ウイッキペディア

 

〔何度も死にそこなっている鈴木貫太郎〕
 自伝を読むと危機一髪の中に何度も助かるという運の強さを鈴木貫太郎は持っている。その例を幾つか挙げると

1. 7ー8歳の頃、関宿で魚取りに出かけ堰の中に落ち、泳ぎもできず溺れそうになった、

2. 海軍に入り作業中に鋲と共に海中に抛り出されたり、非番中にうつらうつらし大砲に頭を打ち付け海に落ち助かったこと

3 日清戦争 猛烈の砲弾の中 奇蹟的に助かる。

4. 2.26事件銃弾4発受けながら、奇跡的に助かった。

〔山本権兵衛を尊敬〕
  山本権兵衛は日本海軍の創設者と言われている。鹿児島出身で戊辰の役に従軍 西郷隆盛を尊敬。西南の役でも西郷に殉じようとしたが。西郷より「国のために尽くせ」と諭され戻り、海軍創設に邁進した。鈴木貫太郎はこの大元帥に心腹し認められ、日露戦争では新艦を英国より回漕し、水雷を指揮し後に海軍大将まで昇進した、山本権兵衛総理大臣の時、海軍次官でシーメンス事件に遭遇、その後処理のために、山本権兵衛総理を辞任に追い込む苦しい羽目に立たされた。山本権兵衛は日清戦争直前の軍艦保有状況は清国より劣り、八八計画を立案、日露開戦直前には、ロシアの1/2程度までになっていた。




 


山本権兵衛 出典ウイッキペディア

 

〔鈴木 貫太郎の言葉 ・奉公10訓〕

一  窮達を以って節を更ふべからず

一  常に徳を修め智を磨き日常の事を学問と心得よ

一 公正無私を旨とし名利の心を脱却すべし

一 共同和諧を旨とし常に愛敬の念を有すべし

一 言行一致を旨とし議論より実践を先とすべし

一 常に身体を健全に保つ事に注意すべし

一 法令を明知し誠実にこれを守るべし、自己の 職分は厳にこれを守り他人の職分はこれを尊重すべし

一 自己の力を知れ、驕慢なるべからず

一  易きことは人に譲り難きことは自らこれに当たるべし

一 常に心を静謐に保ち危急に臨みて尚ほ沈着なる態度を維持するに注意すべし




 


貫太郎の奉公十訓

〔鈴木貫太郎の言葉〕
 鈴木貫太郎は多くの言葉を残している。その幾つかを紹介しよう

◆正直に腹を立てずに撓まず励め。父親より腹を立てて何も良い事はないよと諭された。

◆よき軍人である前に、よき人間であれ。生徒たちに孔子や老子の言葉を紹介し人間の生き方を語っている。

◆鉄拳によってしか部下を心服させ、指揮しえない仕官は、仕官たる資格なし。海軍兵学校の校長を2年間勤めた時、教育改革を行ない、伝統となっていた鉄拳制裁を厳禁し、違反者は退校させた。

◆軍人は国防という本分のみを尽くすべきである。軍人が政治に頭を突っ込むのは、二心を抱くようなものだ。太平洋戦争終結のため、天皇から請われ政治のトップに立ったが、『軍人は政治に関わらない』という哲学を持っていた。

◆縁の下の力持ちが軍人の道だ。黙々として国を守ること、これこそが高尚で重大な任務
である。

◆天空海闊
広い海を航海している時が一番気持ち良い と言い艦橋に立ち空と海との大自然の中にひとり溶け込む時を愛した。太平洋は平和を意味する言葉でもある。この言葉が好きで揮毫を求められるとこの言葉を良く書いていた、

◆.政治の意味は
鈴木貫太郎は政治に拘らないようにしていた。友人の評も『鈴木は正直すぎるから政治に向かない』と言われていた。それに対し笑ってこう答えていたと言う。《政という字は、正と攵(ぼく)を組み合わせたものだ。政治の本質は正直なのだ。正直で政治ができないようなら それは世の中が悪いのだ》 今の政治家もこの言葉を味わって欲しいものだ。

◆昭和の意味、語源は
昭和とは書経の中の「百姓照明、協和万邦」から取られている、意味は「世界平和と君臣一致」を願いつけられた名である。昭和の前半は戦争の歴史で、軍人が政治に介入し、貫太郎が終戦に持ち込み 、昭和の経済発展に繋がった。貫太郎の功績は大きい。鈴木貫太郎は兵学校校長時代、日曜日は家庭を解放し生徒を招き入れ、奥さんはご馳走で歓待し、生徒たちは歓談の中に貫太郎の言葉を聞き薫陶を受けている。

 


貫太郎翁の思い出より


貫太郎の書、天空海闊
 


〔鈴木貫太郎の奥さんは昭和天皇、秩父宮の養育担当〕

  貫太郎の奥・たかさんは札幌生まれ、父はクラーク博士の教え子の一人、東京女子学校(現御茶ノ水大学)卒で幼稚園の先生であったが人物識見に優れ、木戸孝正東宮侍従長に見込まれ宮中に上り、明治38年昭和天皇、秩父宮の養育担当となった。その養育方針として次の5つを上げ実践したという。

1 心身の健康を第一とすること

2.天性を曲げぬこと

3.ものに恐れず、人を尊ぶ性を養うこと

4.困難に耐える習慣を身につけること

5.わがまま、気ままの癖をつけぬこと

昭和天皇の幼年時代10年間育ての母として貢献された。貫太郎に嫁ぐにあたり、昭和天皇は記者会見で《たかとは、本当に私の母親と同じように親しくした》と述べている。
(終戦宰相鈴木貫太郎 花井等著より)
後に鈴木貫太郎は東宮侍従長を務め、夫婦共に昭和天皇の父母役を務め、天皇の信頼が厚かったが故に終戦処理への期待も大きかった。

 


鈴木貫太郎·たか夫妻


終戦日に家を焼かれ
皇后が下賜した茶碗
 

 

〔2.26事件に遭遇、銃弾を浴びながらも生還する〕

11年2月16日朝4時、兵隊が家に侵入、《理由があるだろうから聞こう》という言葉に回答なく股、心臓、頭、肩に銃弾4発を浴び倒れる。留めをという声に、奥さんは《留めはやめて頂きたい》という。指揮官は敬礼し引き上げて行った。奥さんのその後の処置もよく、神仏の加護もあり一命をとりとめた。指揮官は安藤大尉で事件の2年前貫太郎を訪問し、貫太郎は《軍人が政治に口を出すのは亡国のきざしである》ことを3時間に亘り説いている。その時は同意しているが、同志を説破できず、この日の行動となっている、大尉はその後自決したが、死に切れず死刑になっている。




 


2.26事件の模様を描いた絵(貫太郎記念館)

 

〔実相寺の貫太郎墓所を訪ねる〕
  野田市・関宿にある実相寺は関宿藩主の菩提寺である、この寺に鈴木貫太郎の墓所があるので訪ねた。 寺門を入ると鈴木貫太郎、鈴木孝雄の墓所案内立札が立っているのですぐわかる。
鈴木家墓所は江戸初期からの先祖代々の墓が並び広い。 奥に貫太郎の墓所があり、横3m以上の木枠には鈴木貫太郎略歴が紹介されている。地元の有志が立てたものである。横に鈴木貫太郎夫妻の墓がある。

 
 
貫太郎翁の略歴掲示と墓
 
 
貫太郎翁の菩提寺実相寺
 

〔兄は海軍大将、弟は陸軍大将の兄弟〕

関宿の菩提寺実相寺には鈴木家の墓所手前に弟・鈴木孝雄の墓がある。兄・貫太郎は海軍大将、弟の孝雄は陸軍大将である。 明治以来、全国で海軍大将は77名、陸軍大将は134人誕生している。兄弟で海軍と陸軍の大将となったのは西郷隆盛と従道と鈴木貫太郎・孝雄以外いないのではなかろうか? 薩長出身以外軍人になっても出世はできないから、やめておけと言われた時代に《海外を見たい》という一心から軍人になり、最高位の大将に兄弟でなったのだからすごい。弟の鈴木孝雄は大正10年野戦銃砲兵第一旅団長から士官学校長に抜擢され、第14師団長、技術本部長兼軍事参議官を歴任、大将となる。 昭和8年靖国神社宮司となる。




 


鈴木貫太郎·孝雄兄弟の墓所

〔関東大震災時には呉鎮守府長官・海軍大将〕
  正12年の関東大震災時、鈴木貫太郎は広島県呉にいた。中央からの命令を待っていたら何もできない、鎮守府長官だった鈴木貫太郎は独断専行で救援を決断し行動した。救援の糧食、衣服、衛生隊まで用意し各地に船を発進している。

〔昭和天皇の侍従長に就任〕
  昭和4年1月軍令部長として在職中に、前侍従長がなくなられ、天皇の侍従長の話が持ち上がり固辞していた。貫太郎自伝によると侍従長は栄転ではなく、宮中席次は二三十番下がるという、こういう問題を十分承知しながら就任要請をすることは、よほどの事と理解し受理した。待遇は侍従長と枢密院顧問官を兼務という形で拝命し、2.26事件で銃弾4発を浴び重傷を負い、昭和11年11月まで8年間の侍従長を務め、昭和天皇とは肝胆相照らす仲となり、終戦時の大役を懇願されるようになる。

〔昭和天皇の御言葉筆記〕

昭和20年8月14日御前会議に於ける昭和天皇の御言葉筆記が鈴木貫太郎記念館に残されている。終戦の詔勅原稿になるメモで昭和天皇の御意志が良く解る言葉なのでここに紹介しよう(出典:貫太郎内閣133日)他に別段意見の発言がなければ私の考えを述べる。反対側の意見はそれぞれ良く聞いたが、私の考えはこの前に申した事に代りはない。私は世界の現状と国内の事情とを充分検討した結果これ以上戦争を継続することは無理だと考える。国体問題に就いて色々疑義があると言う事であるが、私は此の回答文の文章を通して、先方は相当好意を持って居るものと解釈する。先方の態度に一脈の不安があると言うのも一応尤もだが、私はそう疑いたくない。要は我国民全体の信念と覚悟の問題であるかと思うから。この際先方の申入れを受諾して宜しいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい。
 
 更に陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領という様な事は誠に堪え難い事だ、其等の心持は私には良く解る。然し自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局我邦が全くの焦土となり万民に是以上の苦悩を嘗めさせる事は私としては実に忍びがたい。祖宗の霊に御応えができない、和平の手段によるとしても、元より先方の遣り方に全幅の信頼を置き難いことは当然であるが、日本が全く無くなるという結果に較べて少しでも種子が残りさえすれば更に又復興と言う光明も考えられる。

 私は明治大帝が涙を呑んで思い切られたる三国干渉のご苦衷を偲びこの際、耐え難きを耐え忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち直りたいと思う。今日まで戦場に在りて戦没し或いは殉職して非命に斃れたる者、又其遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負ひ戦災を蒙り家業を失ひたる者の生活に至りては、私の深く心配する所である。

 一般国民には今まで何も知らせずに居つたのであるから、突然此の決定を聞く場合動揺も甚だしいであろうからこの際私としては為る事があれば何でも厭わない、国民に呼びかける事が良ければ私は何時でも「マイク」の前に立つ。陸海軍将兵には更に動揺も大きいであろう、此の気持ちをなだめる事は相当困難なことであろうが、どうか私の心持を能く理解して陸海軍大臣は共に努力し良く治まる様にして貰いたい。必要あらば自分が親しく説き諭しても構わない。この際詔書を出す必要もあろうから政府には早速其の起草をして貰いたい。  以上は私の考えである。




 


御前会議の絵、左手前が鈴木貫太郎総理


終戦の詔勅


御前会議絵 正面左が鈴木貫太郎(記念館)


終戦の詔勅レコード

〔鈴木貫太郎の略歴〕

1868年 (明治元年) 産まれてすぐの1月3日鳥羽伏見の戦い、2月江戸城明け渡し、7月17日江戸を東京に改む。翌年泉州引き払い東京に移る。1971年廃藩置県

1872年(明治5年)千葉県関宿に移り、関宿久世小学校に入学、

1877年(明治10年)父由哲群馬県庁に出仕、前橋市に移る。貫太郎も桃井小学校に転校、西南の役(2月~9月)勃発

1879年(明治12年)前橋中学(現前橋高校)に入学

1883年(明治16年)前橋中学を退学上京、近藤真琴の塾に入り、海軍兵学校の入学準備、翌年1884海軍兵学14期生として入学。

1887年(明治20年)海軍兵学校を卒業、海軍少尉候補生として実地訓練のため9月遠洋航海に出発、サンフランシスコ、サンディエゴ、カプリコ、パナマ、タヒチ、ハワイ等を歴訪。

1888年(明治21年)天竜艦乗船、海軍兵学校江田島に移転、以後水雷術練習に打ち込む、

1894年(明治27年)日清戦争7月始まる、水雷艇艇長として旅順・威海衛攻略に参加。

1897年(明治30年)大沼とよ と結婚、海軍大学入学、翌年1998年卒業し海軍大佐となる

1901年(明治31年)ドイツ駐在を命じられる。~1903年まで駐在

1904年(明治37年)巡洋艦日進・春日回航に成功。日露戦争おこる。

1905年(明治38年)日本海海戦に第四駆逐隊司令として参加

1912年(大正元年)妻とよ死去

1913年(大正2年)海軍省人事局長となる

1914年(大正3年)八代六郎海相のもと海軍次官となる


1917年(大正6年)父由哲死去、練習艦隊司令官に補せられる

1920年(大正9年)第二艦隊司令長官に補せられる 1921年には第三艦隊司令長官へ

1922年(大正11年)呉鎮守府司令長官に補せらる

1923年(大正12年)海軍大将に任ぜらる

1924年(大13年)第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官に補せられる

1925年(大正14年)軍令部長となる

1929年(昭和4年)侍従長となり、枢密院顧問官を兼ねる

1936年(昭和11年)2.26事件に遭遇、安藤輝三陸軍大尉等に銃撃されるも一命をとりとめる。侍従長を辞す。男爵位を授かる

1944年(昭和19年)枢密院議長となる

1945年(昭和20年)4月小磯内閣総辞職のあと、組閣の待命が降下する、8月ポツダム宣言受諾、終戦 鈴木内閣総辞職

1946年(昭和21年)枢密院議長を辞任

1948年(昭和23年)関宿の自邸にて逝去(享年81才)


〔参考文献〕
★鈴木貫太郎自伝  中央公論社刊
★貫太郎翁の思い出 戦後70周年記念誌 野田市教育委員会発行
★鈴木貫太郎内閣の133日 野田市郷土博物館発行
★終戦宰相 鈴木貫太郎 花井等著
★鈴木貫太郎自伝  鈴木一著
★坂の上の雲八 司馬遼太郎著  文春文庫刊
★日本海戦かく勝てり 半藤一利、戸高一成著 PHP研究書

青木青眠 記
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