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〔偉人〕

相馬御風(そうま ぎょふう)

 
〔そ〕の偉人 孫文 相馬御風

プロフィールバー 〔相馬御風〕のプロフィール
俗称・筆名 相馬御風
本名 相馬昌治
生誕 1883年(明治16年)7月10日
死没 1950年5月8日(昭和25年) 67歳 糸魚川で死去
出身地 新潟県頚城郡糸魚川町大町52番地
最終学齢 東京専門学校(現早稲田大学文学科)卒業
職業 作詞家、歌人、俳人、小説家、評論家、出版者、随筆家、翻訳家、教育家
ジャンル 文学
活動 新潟県糸魚川町に父・徳次郎、母・千代の長男として生まれる、糸魚川高等小学校から、高田中学校(現高田高校)を卒業。1906年早稲田大学部文学科卒業、島村抱月の早稲田文学社に入社、翌年早稲田大学校歌「都の西北」を作詞1913年島村抱月の芸術座創立に松井須磨子等と共に参加、「カチューシャの唄」を島村抱月と合作作詞し大ヒットする。

1916年故郷・糸魚川に退任。その心境を「還元禄」に著す。

良寛研究に着手、糸魚川歌会「木陰会」を組織。1923年「童謡・春よこい」を作詞、1924年~1937年良寛、一茶、芭蕉、西行の研究書を多く発刊、御風歌集、御風随筆集を発刊。1938年~1949年多くの著作を残す。

1950年5月8日永眠、67歳
代表作 〔作詞〕
 『カチューシャの唄』
 『早稲田大学校歌』
 『春よ来い』(童謡)
 全国の学校校歌を約220曲作詞

〔量感関連出版物〕
 『還元録』
 『良寛和尚歌集』
 『大愚良寛』など

〔その他〕
 相馬御風歌集、翻訳本など多数発刊
記念館 〔相馬御風記念館〕
 新潟県糸魚川市一の宮1-2-2
 TEL:025-552-7471

〔早稲田大学校歌石碑〕
 東京都新宿区早稲田大学正門近くにある
言葉・信条

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わをん  
相馬御風の写真
(出典:Wikipedia)

ゆかりの地 相馬御風ゆかりの地

〔相馬御風記念館訪ねる〕
  相馬御風記念館のある糸魚川市には北陸新幹線で約2時間、相馬御風が高田中学に行くときは徒歩であったと言う。今は楽に行ける。相馬御風記念館は糸魚川市役所の敷地内にある。記念館入口には相馬御風の銅像がある。晩年の優しい顔である。相馬御風記念館に入ると正面に早稲田大学校歌の詩が掲げられている。また相馬御風の出版物コーナーには沢山の資料が並んでいる。中でも一番読みやすそうな相馬御風(金子善八郎著)を購入した。記念館を訪ねた折に相馬御風について、お話を伺った方が「相馬御風の著者であり記念館の館長」であることを後で知った。今回糸魚川に生まれ、定年後故郷に帰り地元で活躍しておられる寺﨑義博氏に執筆、協力をお願いし、この《ゆい人物館·相馬御風》が完成した次第です。

 



相馬御風記念館正面  
相馬御風記念館内部
 
相馬御風記念館御風の書
 


相馬御風記念館著作販売本

 

〔早稲田大学校歌を作詞〕
 相馬御風の代表作のひとつに早稲田大学校歌がある。早稲田大学は明治40年創立25周年を迎え、校歌制定と式典を挙行することになった。前年に全学から歌詞を募集したが、校歌にふさわしい詩はなかった。審査員である坪内逍遥と島村抱月は白羽の矢を相馬御風にあてた。

  相馬御風は作詞の条件を聞き作曲者に指名されている東儀鉄笛に相談、英米の大学校歌を調べ、レコードも聴き、想を練った。また坪内逍遥、島村抱月にも足を運び、斎戒沐浴をし、寝食を忘れ作詞に没頭した(金子善八郎「相馬御風」参照)。こうして約束の10日間で作詩したというから凄い。

  草稿を見た坪内逍遥先生は一読して絶賛、特に「心のふるさとわれらが母校」の句を称賛したという。発表の式典当日は陸軍音楽隊の演奏に合わせて、全校の教授、学生関係者の大合唱となった。式典に列席していた御風も,感激のあまりむせび泣いたという。

  後年御風は次のように述べている。

《校歌·都の西北は私にとって校歌の処女作であった。爾来今日に至るまで私は百数十編の校歌·団歌を作ったが、処女作としての「都の西北」やはり一番なつかしい。うたわれる歌は歌詞そのものよりも、それをうたう人々の意気と熱情如何(中略)作歌者たる私の力であるよりも(中略)校友学生諸君の意気と熱情である》。  早稲田大学の校歌は数ある校歌の中でもNO1であり誰でも知っている。また早稲田大学卒業生にとっては精神的支えにもなっている。

 
早稲田大学校歌楽譜
 

早稲田大学校歌
レコード

〔早稲田大学校歌〕

 都の西北早稲田の森に
聳ゆる甍はわれらが母校
われらが日ごろの抱負を知るや
進取の精神学の独立
現世を忘れぬ久遠の理想
かがやくわれらが行く手を見よや
わせだ わせだ わせだ わせだ 
わせだ わせだ わせだ

御風の和歌もある
 
連勝の早稲田健児がうたふなる
校歌の声はわれを泣かしむ御風

   

相馬御風作詞の:早稲田大学校歌
 

相馬御風:早稲田大学校歌碑

〔卓越した和歌の才能があった相馬御風〕

  早稲田大学校歌の歌碑を見たいと思い早稲田大学を訪ねた。守衛所で相馬御風の歌碑の場所を訪ねると、正門と大隈候銅像の近くにあると言う。正門横の歌碑は大きく立派な石碑で横4m、高さ2mはあるのですぐにわかる。

  大きな2本の樅の木の間に歌碑はあり表面は流麗な草書で書かれている。御風直筆の書である。碑の後ろに廻ると作詞 相馬御風、作曲 東儀鉄笛とあり、平成9年10月建立とあるから比較的最近だ。

  昔は別な処にあり、この碑ができた時ここに移されたものだろう。卒業生に聞いた場所とも違っているし、大隈公銅像の近くには歌碑はないことを確認した。

 

高田中学時代の下村先生〔中央〕と相馬御風(右)

〔早稲田大学校歌碑を訪ねる〕

  早稲田大学を卒業してまもなく早稲田大学校歌の作詞を依頼された相馬御風は当時一流の文化人·坪内逍遥や島村抱月に認められていた事になる。その芽生えは子供の頃から俳句や和歌、漢籍の教えなどの蓄積があってのことである。
小学校に入学した6歳の頃、近くの正覚寺住職より漢文を習い、また町の人から俳句や和歌の手ほどきを受け、この頃《窓竹》と署名した短冊も残る。高田中学に入学してからは国語の先生である歌人·下村千別(ちわき)より本格的に短歌の指導を受ける。この頃から御風という号を使い始める。下村先生との贈答歌などを見ると素晴らしく、中学時代に実母を喪った寂しさもあり和歌にのめり込んでいった。

 

相馬御風:早稲田大学校歌碑

  ここに高田を離れる時の歌を紹介しよう。詞書に「住み慣れし高田の地を去る時、師の君·下村先生と涙ながらに歌よみかはしぬ」とあり、この後、連歌のごとく交互に10回20首が詠まれている、ときに御風19歳、千別31歳であった。冒頭歌を挙げると

·わが血つきよつきねばこその今の我身涙もろさを弱しとおぼす    相馬御風 

·山水の泣きわかれし白玉を拾いて遂に逢ふと知らずや       下村千別

  この頃から歌壇では御風の方が知られ《出藍の誉れ》であったという。御風自身は『文学を自分の生涯の道とするに至りましたのは、下村千別を中学時代に得たおかげです』と述懐している。

  京都大学受験で京都に出てからは、真下飛泉に心酔し和歌に熱中、佐々木信綱の門下に入り、与謝野鉄幹の明星にも参加し、京都大学への受験準備はおろそかになっていった。

  京都大学への入学は父·徳次郎の希望が強かった。その理由は、相馬家は代々寺社建築の棟梁の家で、父の代で廃業し市長などを歴任したが、息子は建築学を修め相馬家を復興して欲しいという意向があった。しかし相馬御風には文学の才があり和歌に熱中。京都大学受験には失敗し、東京に出て現早稲田大学に入学した。

〔御風のネーミングは蘇東坡の詩から採る〕

  御風という号は中国の詩人蘇東坡の「赤壁賦」から採ったものといわれる。三国志の時代·赤壁の戦いがあった赤壁賦に船を浮かべ、1082年蘇軾(蘇東坡)は友人と酒を酌み交わし、有名な詩《こうこうと虚により、風に御して、その止まる所をしらず》から号を採っている。17-18歳の相馬御風が蘇東坡の赤壁賦を読みこなし、その中の一節から御風と名付けた教養の高さに感心する。

 

赤壁の絵:ウイッキぺディア

〔実兄のような存在·真下飛泉〕

  真下飛泉と言えば《ここはお国の何百里 離れて遠き満州の、赤い夕日に照らされて,友は野末の石の下》で有名な《戦友》の作詞家である。京都生まれで 京都、大阪で活躍していた。相馬御風は高田中学を卒業後、京都大学入学を目指し京都に遊学した。19歳の時友人に紹介され真下飛泉を知った。飛泉は御風を弟の様に可愛がり、指導してくれたと御風は回想している。

真下飛泉と相馬御風は19歳から20年近く文通を交わしている。しかし御風の書簡は糸魚川の大火により消失している。娘さんの相馬文子さんは真下飛泉との書簡を50万円叩いて購入、その中に若き相馬御風の手紙が紹介されていて、1m以上の巻紙に毛筆で書かれていたという。早稲大学校歌の碑文を見てもその達筆ぶりは伺える。また、その書から飛泉への尊敬ぶりは、実の兄以上であり、その文通が20年にも渡り、飛泉亡きあとも奥さん、子息とも手紙を交わしていて交情の深さを感じる。


 

真下飛泉資料室より

〔若山牧水と一緒に投稿雑誌の1等入選〕

  明治35年の歌人佐々木信綱首唱の竹柏会·正月例会に出席し、披露した白鷺の歌(下記に記す)が投稿誌·「秀才文壇」の懸賞に1等入選し、若山牧水と一緒に顏写真が掲載された。次の時代を担う歌人2人相馬御風、若山牧水が一緒に並んでいる写真は貴重だ。

白鷺の行方を雪に見失ひて
猟夫(さつお)たたずむ沼の夕暮れ    相馬御風


 

写真右下相馬御風、左上若山牧水

〔石川啄木とも交友ある御風〕

 明治35年新詩社の集会で初めて石川啄木とあう、啄木は《相馬氏の風貌想いしよりは荘重ならず》と日記に書く、啄木は若くして亡くなり、その1周忌では相馬御風が追悼の言葉を述べた《2000年の永い間、貴族の専有に帰して居た我が三十一字詩を、苦しい実生活の泥にまみれた平民の手に引き下ろした日本最初の歌人である石川啄木君を私は賛美する》と述べたという。「一握の砂」や「悲しき玩具」を愛読する私にとって、すばらしい追悼文だ。


 

石川啄木(ウイッキペディア)

〔相馬御風の日記〕

 相馬御風は日記を書き出すと、大きな事件に遭遇し日記を書くのを断念している、唯一高田中学時代、19歳の元旦明治33年1月1日から3ヶ月の日記が残っている。これを読むと短い文の中に何に熱中していたことがかわかる、相馬御風の若き学生時代の生活をかいま見ると

1.放課後銃槍を良く稽古している

2.かなりの文学青年でゲーテをよく読んでいる

3.芝居は月に何度か見ている

4.和歌や俳句も上手に読み、日記に残している、俳句だけを日記に記す日も多い

5.母親を亡くし、それを忘れるために、何かに打ち込まずにはいられない時期でもあった。


 

相馬御風

〔カチューシャの歌 を作詞する〕

 カチューシャ の歌は島村抱月 の演出 松井須磨子主演の演劇の主題歌である。一番は島村抱月が作詞したが、一番だけでは劇の 間が持たず、島村抱月より頼まれ2番以降は相馬御風が作詞し、一世を風靡した。大正時代のヒット曲で今でも唄われる名曲である。作曲は中山晋平である。相馬御風が中山晋平を作曲者に推薦している。

 

 

カチュ-シャの楽譜

YouTubeにて春よこいの唄を視聴できます上画面ををクリックして下さい

〔歌の師·佐々木信綱〕

 佐々木信綱先生には明治34年( 18 歳)単身上京し面接を受け、先生が主催する竹柏会に入会を許された。相当の心臓の持ち主でないと超一流の先生には伺えない。でも先生は快く受入れこれに感激した御風は次の歌を読む。

情深き師のみ言葉に涙のみて
うき身の上をついにかたりぬ      相馬御風

〔童謡《春よ来い》を作曲〕

 御風が糸魚川に帰って間もなく 大正七年、鈴木三重吉の《赤い鳥》が創刊され童謡の時代が訪れ、相馬御風も、次々と童謡を発表、大正12年《春よ来い》がヒットした。作曲は弘田龍太郎。

  春よ来い 早く来い
  あるきはじめた みいちゃんが
  赤い鼻緒のじょじょはいて
  おんもへ出たいと待っている

  相馬御風はこの当時3人の子を亡くしているので、子供の無事な成長を願う親の気持ちが込められていると言われる。御風は北原白秋や西条八十などと童謡詩人会を結成している。

 

 


YouTubeにて春よこいの唄を視聴できます上画面ををクリックして下さい
 

〔相馬御風の幅広い文芸活動〕

 相馬御風は10代から各種文学活動等に参加している。与謝野鉄幹の新詩社、佐々木信綱の「竹柏会」、自ら編集した雑誌「白百合」(20歳)、歌集「睡蓮」の自費出版(22歳)、早稲田詩社を三木露風、野口雨情と結成、詩歌革新運動を開始(24歳)島村抱月の「早稲田文学」の編集、坪内逍遥の「文芸協会」、島村抱月の「芸術座」結成に参加、「カチューシャの唄」ヒットに繋がる。相馬御風は文芸評論家としても評価されるようになっている。

 

 

芸術座の創立
ンバー

〔還元録 に糸魚川退任のいきさつを著す(大正5年)〕

 御風の長男昌徳1歳で死ぬ 小説峠を書くが 幼稚と評価され嫌悪に陥る 不眠症から自殺未遂まで起こす。 疲れ果て、平凡であるが力強い生活、情愛の豊かな生活、そして凡人浄土を求めて、友人に還元録を配り糸魚川に帰る

 
記念館の還元録碑
記念館の還元録
 

〔記念館には相馬御風の資料·著作物を多く展示〕

 館内には相馬御風の生い立ち、御風著作物、書、レコードなどが沢山展示されてる

 
  御風の達筆な書   御風の作詞したレコード   御風の著作した作品類   御風の紹介展示物  


〔生誕100年記念に相馬御風歌集発刊〕


 昭和58年に生誕100周年を記念し《定本相馬御風歌集》が発刊されている。編集は相馬文子さん、339頁の大作で相馬御風の歌が年代別に掲載され、処女歌集「睡蓮」から「御風詩集」「月見ぐさ」「木かげ」「野を歩む者」「御風詠草」4000首近くあるだろう。最後には何人かの人が相馬御風との思い出や歌の鑑賞法を書かれている。

御風の歌を2,3紹介しよう。

  ·酒のめば心はたのし酒のめばおもいはとほし松風のおと

  ·かへり見て恋ふる人だにあらなくに越えぬる山のただなつかしき

  ·天の座に母と相見ばたけのびて歌さへよむとゑみてかたりね

 

 

相馬御風歌集
 

相馬御風歌集  睡蓮、白百合

〔糸魚川での活動〕

1.糸魚川帰任後は《木かげの会 》を地元の仲間で短歌結社を結成した。

2.野を歩む者 の創刊、21年間85冊を発

3.良寛の研究

4翡翠の探索,発見
 
 
 

 

〔糸魚川周辺の観光〕

1. 親不知子知らずと芭蕉の奥の細道

2. 姫川の翡翠、ジオパーク

3. 百名山の雨飾山


良寛研究の第一人者:相馬御風

 

相馬御風の家族 妻と娘


〔相馬御風略歴〕


1883年(明治16年) 新潟県糸魚川町大町52番地に父·徳次郎、母·千代の長男として生まれる、相馬家は代々神社仏閣建築の棟梁、父は第4代糸魚川町町長

1893年(明治26年) 町立尋常小学校卒業 、糸魚川高等小学校に入学

1894年(明治27年) 地元の俳人·歌人の手ほどきを受け俳句、和歌を詠み始める。

1896年(明治29年) 糸魚川高等小学校を3年で中退、高田の中学校(現高田高校)へ入学

1898年(明治31年)庄田直道の家塾にて古武士的訓育を受け、剛毅精悍な気風を培われた。

1899年(明治32年) 母千代死去、 国語教師·下村千別より短歌を学ぶ

1900年(明治33年) 佐々木信綱の竹柏会に入会、御風を名乗る

1901年(明治34年)高田中学校卒業、第三高等学校(現·京都大学)受験のため京都に行く、真下飛泉と親交を結び、与謝野鉄幹の新詩社に入会、

1902年(明治35年)東京専門学校高等予科(現早稲田大学)に入学、同級生に会津八一等がいた。歌会に出席したり、歌、新体詩を積極的に発表している、

1905年(明治38年)第1歌集「睡蓮」を自費出版

1906年(明治39年)早稲田大学部文学科卒業、島村抱月の早稲田文学社に入社、自然主義評論家としての第一歩を歩む。

1907年(明治40年)早稲田大学校「都の西北」を作詞、早稲田詩社を結成し口語自由詩を提唱する、藤田茂吉二女テルと結婚

1911年(明治44年)早稲田大学講師になる。糸魚川大火で生家焼失、長男昌徳夭折

1913年(大正2年)島村抱月の芸術座創立に松井須磨子等と共に参加

1914年(大正3年)戦争と平和を翻訳、「カチューシャの唄」を島村抱月と合作作詞

1916年(大正5年)早稲田文学発禁処分に会う、故郷糸魚川に退任、その心境を「還元禄」を著す、良寛の研究に着手。糸魚川に歌会「木陰会」を組織し発会

1918年(大正7年)良寛の著作各種出版、父徳次郎、島村抱月死去

1923年(大正12年)「童謡·春よ来い」を作詞、

1924年 (大正13年)~1937年(昭和12年)良寛、一茶、芭蕉、西行、の研究 書を多く発刊、御風歌集、御風随筆集を発刊している。

1938年 (昭和13年)~1949年(昭和24年)多くの著作を残す、北大路魯山人、会津八一など多くの文人墨客が御風宅を訪れる。
      
1950年 (昭和25年)5月8日永眠、67歳、 法名は大空院文誉白雲御風居士

 


〔参考文献〕


●相馬御風  金子善八郎  新潟日報事業社刊

●若き日の相馬御風 –文学への萌芽-
                相馬文子  三月書房 刊

●一茶と良寛と芭蕉  相馬御風著  恒文社刊

●定本相馬御風歌集  相馬文子編 千人社刊

 

 

 
 

 

青木青眠 記
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