〔偉人〕
|
〔た〕の偉人 | 高村光太郎 | 高村千恵子 |
高野辰之 | 高浜虚子 | 谷崎潤一郎 |
竹久夢二 | 田山花袋 | 田淵行男 |
太宰治 | 高野長英 |
●〔高村千恵子〕のプロフィール |
俗称・筆名 | 高村智恵子 |
---|---|
本名 | 長沼智恵子 |
生誕 | 1886年(明治19年)5月20日 |
死没 | 1938年(昭和13年)10月5日 |
出身地 | 福島県安達郡油井村漆原町(現:福島県二本松市) |
最終学齢 | 日本女子大学家政学部 |
職業 | 画家 |
ジャンル | 切紙絵 |
活動 | 日本女子大学時代は文化祭の挿絵や背景画を描く、日本女性解放運動の魁となった女性雑誌「青踏」創刊号の表紙絵を描く。夫高村光太郎の創作活動を支援、晩年は入院生活のあい間に紙絵を制作、新分野を確立した。 |
代表作 |
〔代表作〕 切紙絵 千数百点の作品を残す。 高村光太郎の詩集《智恵子抄》のモデルとなる。 〔関連図書〕 ・アルバム高村智恵子 二本松市教育委員会出版 2500円 ・智恵子紙絵 筑摩書房 |
記念館 | |
言葉・信条 |
●〔高村千恵子〕の人生(履歴・活動) |
高村智恵子は1886年(明治19年)5月20日福島県足立郡由井村字漆原町の斎藤今朝吉、センの長女として誕生。母センは酒造家長沼次助の養女であり、今朝吉は誠実、温厚で長沼家を助けていたと言われ、センと結婚した。智恵子は1901年(明治34年)16才、由井小学校高等科を卒業、福島県立福島高等学校に第三学年に編入学、6-7人の学友と下宿する。 |
智恵子の生家・二本松市
|
|
明治36年同高校を卒業、総代として答辞を読む。家の反対を押しきって日本女子大学普通予科に入学(18才) 、翌年家政学部1年に進む、明治38年20才第2学年より選科生となり、倫理、心理、哲学史、教育、歴史、美術史を学ぶ。3学年の多くの皇族を迎える秋季文芸会では演劇舞台の背景を描いたり、記念冊子《三つの泉》の口絵やバザー、学芸会の装飾などで智恵子によるもの多かった。女子大時代の智恵子は口数の少ない面とテニス、自転車などのスポーツを好み、機知にとみ、一事に集中する性格だったという。 |