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〔偉人〕

高野辰之(たかの たつゆき)

 
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プロフィールバー 〔高野辰之〕のプロフィール
俗称・筆名 高野辰之 号は斑山
本名 高野辰之
生誕 1876年(明治9)4月13日
死没 1947(昭和22年)1月25日、71歳没
出身地 長野県下水内郡豊田村(現中野市永江)
最終学齢 長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)卒
東京帝国大学で上田萬年に師事、国文学を学ぶ
職業 童謡詩人、国文学者、東京帝国大学文学部講師 東京音楽学校教授(現東京芸術大学)、大正大学教授
ジャンル 童謡、童話、国文学、日本歌謡史、浄瑠璃史、日本演劇史、校歌・市歌等の著作多数あり
活動 童謡・唱歌を多く作詞、近松門左衛門の研究、古代から近代までの日本歌謡史を著し東京大学より文学博士授与される。
代表作 〔童謡〕  『故郷』『朧月夜』『春よ来い』『春の小川』
 『紅葉』『日の丸の旗』等

〔著作〕
 『日本歌謡集成』全12巻
 『日本演劇史』『近松門左衛門全集』
 『日本民謡の研究』『浄瑠璃史』等
記念館 〔高野辰之記念館〕
 長野県中野市大字永江1809
 TEL & FAX:0269-38-3070

〔おぼろ月夜の館〕
 長野県下高井郡野沢温泉村豊郷9549-6
 TEL & FAX:0269-85-3839
言葉・信条

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高野辰之の写真
(出典:高野辰之記念館)

人生履歴 〔高野辰之〕の人生(履歴・活動)(続き)
 高野辰之は1978年(明治9年)長野県下水内郡豊田村(現在中野市)に父・仲右衛門、母いしの長男として生まれる。父は農業営み、小布施の陽明学者・高井鴻山(葛飾北斎の支援者)の塾生として学問を修めた教養人でした。高野辰之は幼年時代《兎追いしかの山、小鮒つりしかの川》と詠われた自然豊かな北信濃に育つ。尋常高等小学校卒業後、母校永田尋常小学校の代用教員を3年間務める。しかし向学心やみがたく、長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部 )に入学、この頃は1000種の和歌をつくる文学青年であった。26歳の時上田万年文学博士(円地文子の父)を頼り上京、博士のもとで国語、国文学の研究に没頭する。やがて1909年(明治42年)文部省小学校唱歌教科書編纂委員に選ばれ、日本初めての音楽教科書《尋常小学唱歌》を編集する。


高野辰之記念館にて

 その中には自ら作詞した「春がきた」「紅葉」「朧月夜」「春の小川」「故郷」「日の丸の旗」等の唱歌がある。明治後期からは「日本歌謡史」「日本演劇史」「江戸文学史」を書き上げ、高野辰之三大著作と言われ近代国文学に大きな功績を残す。1910年(明治43年)東京音楽学校(現東京芸術大学)教授となり日本歌謡史を講義する。1925年(大正14年)に東京帝国大学から《日本歌謡史》で文学博士の学位を、昭和3年には帝国学士院賞を授与される。戦争が激しくなった1943年(昭和18年)故郷に近い野沢温泉に別荘「対雲山荘」を設け隠棲する。1947年(昭和22年)永眠、享年71才。野沢温泉に《おぼろ月夜の館》がある。  
高野辰之 紅葉の歌碑



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ゆかりの地 〔高野辰之〕ゆかりの地など
〔高野辰之記念館を訪ねる〕
 高野辰之記念館は中野市永江ある。昔、上水内郡永田村と豊井村が合併し豊田村となり、平成の大合併で中野市となる。筆者の義母はこの豊田村の出身で高野辰之を尊敬し、昔からよく高野辰之の話を聞かされ、記念館には何度も訪れている。高野辰之生家は記念館のすぐ近くにあり、昔は郵便局も兼務していたと聞く。高野辰之の記念館は中野市と野沢温泉にある。中野市の記念館は、元豊田村小学校の校舎が使用されている。木造2階建てで床は木で黒光りし、昔の小学校の雰囲気が残り懐かしくなる。小学校跡ゆえに中は広く、写真や、映像見る部屋、高野辰之作曲の童謡を聴く部屋などもある。 父親の写真も飾られている。父は小布施の陽明学者・高山鴻山(葛飾北斎の後援者)の弟子で教養人だったことが伺われる。

高野辰之記念館(中野市)


高野辰之の父親肖像写真


高野辰之銅像:中野市記念館に立つ

 
高野辰之記念館内部、   
  出典:高野辰之記念館パンフレット
〔昭和天皇ご成婚の奉祝歌〕
 高野辰之作の昭和天皇ご成婚奉祝歌が記念館に飾られているのには驚いた。大正13年1月のこと、その一部を紹介しよう。

新しき年ここにたちて
舊き憂い打忘れ 
物芽ぐみ人勇むこの時 
我等が仰ぐ日嗣の皇子
一部省略
気は清く日は照りそひ
梅匂い鳥うたふ

と続く、2番には天津神、八重雲といった言葉も使われ、古事記や神話文学に通じてないと詠えない詩であると感じた。天皇が現人神であった時代にご成婚祝歌を作詞することは最高の名誉で、当代一の詩人であったことがうかがわれる。

高野辰之作詞の昭和天皇奉祝歌

〔童謡《故郷》の原点をみる〕
うさぎ追いしかの山     
小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたきふるさとた。

 
この唄は誰でも口ずさんだことのある国民歌謡だ。ふるさとには《自分の生まれ故郷》と《心のふるさと》といった思いがある。それ故に1988年(昭和63年)の長野オリンピックのフィナーレでは、この故郷が世界の人と共に歌われた。また「北朝鮮日本人拉致問題を救う会」の集会では、《早期帰国を願う全員が歌う唄》になっている。そして2番では「ふるさとの父母」を思い出す。終戦後、都会に出て、日本の高度成長を支えた人々にとっては、この唄を聴くと涙がでることだろう。

 

   
故郷の歌碑  高野辰之記念館


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高野辰之の菩提寺・真宝寺
〔兎追いはこの地方の冬のイベントだった〕
  高野辰之の育った豊田村出身の義母の話では、兎追いしとある詩は、雪が固くなる2月頃、子供たちを含め村人がこぞって、麓から上に野兎を追い込み、村の上では鉄砲撃ちが待ち構え撃ち捉える。兎は食料となり皮は売られる。兎追いは村の冬イベントだったのだ。 今の人から見ると残酷なこととなるが、何もない昔では貴重な楽しい行事だったのだ。

  高野辰之の菩提寺は真宝寺といい、親鸞の弟子が創建した大きな寺で、境内には「故郷」の詩碑があり、大きなおぼろ月夜の鐘突き堂がある。《かわずのなくねも、鐘の音も、さながら霞める朧月夜》の原風景である。また村内を流れる斑川は春の小川で唄われ、《岸のすみれや、れんげの花に、匂いめでたく、色美くしく、咲けよ咲けよとささやく如く》とまことに美しく詠われている。

真宝寺の鐘突き堂、おぼろ月夜の歌碑がある



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〔菜の花公園に《 おぼろ月夜》の原風景をみる〕
  高野辰之は明治21年永田尋常小学校を卒業後、飯山市の飯山尋常高等小学校に通う、季節の好い時は片道7kmを歩いて通い、冬は雪が深いので飯山の真宗寺に下宿した。当時は小学校4年、高等小学校4年計8年が学制だった。現在、永田から千曲川河岸を車で行くと、春は菜の花がいっぱい咲きほこり、対岸の木島平には広大な菜の花公園がある、4~5月になると観光客が押し寄せるだけの景観をほこり、菜の花畑の向こうに千曲川が蛇行し,北信五岳が聳え、何とも美しい。 
高野辰之も100年前、菜の花畑を左右に見て、小川では鮒や泥鰌、スミレやれんげの花を見て 通学した。高等小学校卒業後、母校の小学校で代用教員をやり、その後長野師範学校に入学、寮生活の合間に実家に帰るのに電車もなく長野から歩いたから、辰之の童謡には北信濃の風景が色濃く読み込まれている。

菜の花公園より千曲川、飯山市を望


菜の花畠に、入日薄れ見わたす山の端霞ふかし

春風そよふく空を見れば、夕月かかりて、匂い淡し
 


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〔故郷に錦をかざった高野辰之〕
   高野辰之の高等小学校時代、師範学校卒業後の教員時代に下宿した飯山市・真宗寺は島崎藤村の破戒に出てくる古刹である。 当時の住職・井上寂英は長男や長女の婿を《大谷光瑞の第1次西域探検隊明治35年》に派遣し、インドからシルクロードの仏教の仏跡・原点を探らせ、今のシルクロード探検の魁となる事業にも理解を示す人だった。高野辰之は後年この寺の三女つる枝と結婚する事になる。両親はつる枝を8歳まで東京の英人宅で育てる程の開明的な人であった。義母は高野辰之の結婚申し込に対し「将来、人力車に乗って、山門をくぐって来るくらいの男になるならね」 といい娘を手放したという。辰之は大正14年2月東京帝国大学の文学博士号を授与され、49歳で故郷3番の歌詞の通りに故郷に錦を飾り帰郷した。

志をはたしていつの日にか帰らん

山はあおき故郷水は清き故郷

帰郷の折にはこんな和歌も残している
・停車場に並みいる子ども礼正しきけば皆これわが姪わが甥

・喜びを抱きて来れば今更に雪なすひげの父は尊し

高野辰之が帰郷の折書いた直筆書

〔高野辰之はなぜ知られてないのだろうか?〕
  高野辰之の代表的童謡は、故郷,朧月夜、春が来た、春の小川、春よ来いなど、いずれも誰でも知っている童謡だ。国文学者・金田一春彦と歌のおばさん・安西愛子が文化人200人にアンケートをとり、好きな童謡を聞いた処、「故郷」と「朧月夜」がトップに来た、いずれも高野辰之の作詞だ。しかし、高野辰之は野口雨情や北原白秋ほど世の中に知られていない、なぜだろうか?その原因は高野辰之の童謡は文部省唱歌であり、昭和48年7月まで文部省は作詞家や作曲家の名前を表に出さなかったからである。明治の頃の文部省は作詞者、作曲家の名前は出させず、作者本人も一切口外しないという契約を交わしていた。従って高野辰之の姪でも、叔父が故郷やおぼろ月夜の作者とは知らなかったと言う。終戦後、著作権法が改定され唱歌の作者、作曲が認められるようになった時には、誰の歌か解らなくなったものも多いときく。冬景色なども辰之説があるが、そうあって欲しい名曲だ。

高野辰之の参考書

〔日本の唱歌の歴史〕
  明治維新により、明治5年学制が交付され国語、算術、習字等と共に唱歌も教育項目が決まったが、「当分これを欠く」とされ、音楽教育はもっとも遅れた。明治の初めには音楽教材もなく、政府は井沢修二という若者を米国に4年間留学させ、音楽を学ばせた。帰国後の明治12年「音楽取調掛」を設け日本の音楽教育はスタートした。日本の唱歌は当初、海外の讃美歌や民謡を翻訳した歌が唄われた、例えば 蛍の光(スコットランド民謡「AULD LANG SYNE」)、仰げば尊し(米国)、庭の千草(アイルランド)などで、今でも唄われている名曲だ。日本の唱歌を作ろうという機運がでてきて、高野辰之等が文部省唱歌教科書編纂委員に選定されたのが1909年(明治42年)だった。小学唱歌に高野辰之の《春が来た》《日の丸の旗》が掲載されたのが1910年(明治43年) 《故郷》は1914年(大正3年)でした。1944年(昭和19)までに尋常小学唱歌は120曲収録された。その中に辰之の歌は6曲採用されている。

高野辰之は日本伝来の民話の中に童話、童謡のネタがあると知り、自らも創り「家庭おとぎ話」を発行、明治43年までに50号を発刊している。
大正8年には民間人による童謡、児童文学を作るという「赤い鳥運動」を鈴木三重吉が主宰・活動しし、北原白秋や野口雨情等により多くの唱歌がつくられた。
 
「紅葉」の絵葉書、おぼろ月夜の館で販売中

高野辰之の唱歌集が記念館で販売されている


ふるさと橋を渡ると《故郷のメロディ》が流れる


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〔日本歌謡史で博士号を授与される。〕
 高野辰之が童謡、唱歌を作詞したのは比較的若い頃、文部省唱歌教科書編纂委員を委嘱されていた頃である。1910年(明治43年)には東京音楽学校(現東京芸術大)で日本歌謡史を講義している。
 東京堂出版から昭和35年発刊されている《日本歌謡集成12巻》を図書館で探して中を覗いてみた。1巻が600~700頁もある大作である。1巻目は古事記の歌・神武天皇から応神、仁徳、雄略といった天皇の歌が紹介されている。万葉仮名とおぼしき漢字で書かれ、これを詳しく解説している。平安時代の旋頭歌、梁塵秘抄、江戸の歌舞伎、浄瑠璃、近代では地域別、県別、また歌謡のジャンル別に、例えば沖縄九州を見ると、祝賀歌、舞踊歌、雑謡、童謡などに分け、童謡一つ見ても手毬唄、子守唄、遊戯歌等がこと細かに収集されている。これらの歌謡を現地に行き収集し、纏めたのだ、その土地の方言で、民謡、角力歌、盆踊り歌等を紹介している貴重な資料だ。
この歌謡史を集大成し発刊したのが大正15年である。このいきさつを調べてみると、明治38年 に文部省が各府県に、その管内の俚謡、俚諺、童話、古伝説等の報告を求めた。しかし2府13県からは報告がなかった。当時文部省に奉職していた高野辰之はこの膨大の資料整理を命ぜられた。大正3年に発刊されたが、童謡類一切は省略されてしまった。そこで高野辰之は全国の有志に呼びかけ、全国の童話を集めた童話集を纏めたと、この近世編の冒頭言に書いている。
 この日本歌謡史で高野辰之は東京大学より文学博士の称号を頂いた、東大の場合、誰かがケチをつけ反対するのが常だが、この《日本歌謡史の業績》は誰もが認め全会一致だった。


高野辰之の日本歌謡史の1巻、12巻


高野辰之の著作類 出典:記念館パンフレット
〔まぼろしの校歌もある。〕
 高野辰之は全国の学校校歌、市歌、団体歌など数百点以上作詞している。昭和17年、川中島に近い雨宮国民学校の校歌を依頼され下記のような詩を作った。

   大和島根の 頂此処に
   甲越連戦 覇を争ひて
   天与の好機に 長蛇を逸し
   謙信恨みは 今猶尽きず

文部省はこの詩に対し
①大和島根の頂きという言い方はない。②謙信の恨みが今猶つきないというとは妥当でないと朱書をいれ、修正しなければ認めないと言ってくる。文部省の大先輩である高野辰之博士に対しても、横槍を入れ、詩歌をいじくりまわす傾向があった。さすがに高野辰之は校歌の中止を申し入れ、幻の校歌となったという。

高野辰之が作曲した校歌類は全国に及ぶ

〔高野辰之の講義は名調子で人気があった。〕

 大学教授で話の上手い人は少ない、私の習った先生の中には寄席に通い話術を習得し、学生を飽きさせず、しかも深遠な内容の講義をする先生、講義の前に心を鎮め教壇に立つとチョーク1本で学生を魅了し離さなかった先生もいた。高野辰之の講義は浄瑠璃、寄席などに通じ、役者の声色まで飛び出し、御用聞きの人までが廊下で聞き耳をたてたというエピソードがあるほど人気があった。

〔おぼろ月夜の館〕
 《おぼろ月夜の館》は野沢温泉の町中よりやや高台にある、2階に上がると北信五岳(戸隠、妙高、飯綱、斑尾、)が見下ろせる。館の前には高野辰之の銅像がある、晩年の写真に似ていて恰幅のある堂々とした銅像だ。
高野辰之は東京・代々木に長く住み、太平洋戦争中に、故郷に近い野沢温泉に別荘を建て、ここに隠棲した。野沢温泉は北信濃の奥座敷といった古い味のある温泉街だ。10以上の外湯があり無料で湯めぐりができる。一番大きな大湯は熱いが、その下の河原湯は温い、それぞれの外湯には特長があり、湯質、外観も違うので湯めぐりを薦めたい。温泉街の上の方にある麻釜には高温の温泉が噴き出ている。高野辰之もこんな温泉が気に入り、毎日温泉につかり、晩年は地元の方と親しく過ごしていたのだろう。

館内には斑山文庫という高野辰之の書斎、書庫がある。この文庫は東京大空襲でも厳重なコンクリートに守られ、戦後、野沢温泉に移管された。おぼろ月夜の館は立派で1階では喫茶コーナーもあり、希望すると辰之の童謡を職員がピアノで弾いてくださる。2階の階段の途中には大きなステンドグラスで辰之の菜の花畠の童謡が絵で表現されている。


おぼろ月夜の館 正面


おぼろ月夜の館 正面

 
野沢温泉の大湯
 
高野辰之の斑山文庫
 
2階踊り場のステンドグラス
〔名コンビの作曲家・岡野貞一〕
  高野辰之が作詞した唱歌6曲すべてを岡野貞一が作曲している。岡野貞一は辰之と同じ東京芸術大学の教授ですが、出身は鳥取市で若い時からキリスト教の洗礼を受け、教会のオルガンを晩年まで弾いている。故郷、おぼろ月夜、紅葉などは心をゆさぶり、讃美歌的雰囲気がある。
また、「春の小川」や「春が来た」は明るく、歯切れがよく、冬の寒さ厳しさから、春を待つ北信濃の高野辰之、山陰の岡野貞一の心を強く感ずる。


岡野貞一出典:高野辰之記念館パンフレット

春が来た
春がきた、春がきた、どこにきた
山にきた、里にきた 野にも来た
花が咲く 花が咲く どこにさく
山に咲く 里に咲く 野にもさく
  

春の小川
春の小川は さらさらいくよ
岸のすみれや れんげの花に
姿やさしく 色うつくしく
咲けよ 咲けよと ささやく如く


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春が来た 歌碑
〔高野辰之と島崎藤村の因縁〕
 東京都の副知事や知事を歴任し、作家でもある猪瀬直樹氏は北信濃の出身で、その著作『唱歌誕生』には日本の唱歌誕生のいきさつを詳しく書いており面白い。中でも高野辰之と島崎藤村の関係が興味深く色々と書かれている。
ここに2人の因縁を2-3紹介しよう。

1.島崎藤村の《破戒》にでてくる主人公・丑松が下宿している真宗寺(本では蓮華寺)は高野辰之の奥さんの実家である。 《破戒》上では事実とちがい住職を悪く書いているので高野辰之は抗議している。藤村は文学上の問題と受け流している。

2.島崎藤村の《椰子の実》はよく知られている詩ですが、《椰子の葉陰》という短編もある。藤村全集2巻(筑摩書房)に《破戒》と共に掲載されている。この主人公は明治時代にシルクロードを探検した大谷光瑞探検隊に加わった藤井宣正である、主人公・宣正はこの寺の住職の娘婿である。椰子の葉陰は珍しい書簡体で主人公が飯山の父に絵葉を送る構成でインドの光景や仏跡を訪ねた感想を父親に葉書17通を送っている。最後は自分の死を悟り、無量寿教を読寿しつつ、《父上よ、さらば》と結んでいる。この父上とは飯山の真宗寺の住職で高野辰之の義父でもある。藤村と辰之はこの《椰子の葉陰》で結ばれている。

3.藤村が新体詩の若菜集を発刊したのは1897年(明治30年)、辰之もこの当時長野師範学校生で新体詩も多く詠んでいる。辰之も新しい詩に興味を持っていた時期なので新体詩で2人は結ばれている。


猪瀬直樹の唱歌誕生


〔信濃には童謡作家が多い〕

《みすずかる信濃の国は自然が豊かのせいか、童謡詩人が多いことを実感した。

◇高野辰之は、豊田村出身、故郷、朧月夜、紅葉、春が来た、春の小川を作詞。

◇中山晋平は、中野市の出身、砂山、背くらべ、てるてる坊主、れんげ草、シャボン玉、あの街この街、黄金虫、ゴンドラの歌、カチューシャの歌、東京音頭など生涯に3000曲以上を作曲。

◇草川信は、長野市の出身、夕焼け小焼け、揺籃の歌、どこかで春が、みどりのそよ風,汽車ポッポなど1400曲以上を作曲。


◇海沼実は、松代町出身の作詞家、お猿のかごや、里の秋、みかんの花咲く丘、蛙の笛、カラスの赤ちゃん等2000曲を作曲。児童合唱団「おとはゆりかご会」を設立、日本童謡界の発展に貢献した。

◇坂口淳は、松代町出身の作詞家、マロニエの木陰、子鹿のバンビ、なぎさのさくら貝、等を作詞した。


◇島崎藤村は、馬篭出身の作詞家、千曲川旅情の歌、小諸なる古城のほとり、椰子の実、朝、惜別の歌、初恋など作詞。

◇井沢修二は、高遠町出身、明治8-12年アメリカに留学、日本人として初めて音楽を学び、帰国後音楽取調掛初代所長となり、小学唱歌集を刊行。東京芸術大学初代学長となり唱歌教育の創始者となる


日本の名歌を訪ねて

〔参考文献〕
・菜の花に入り日うすれ 三田英彰著 理論社刊

・言葉をかみしめて歌いたい童謡・唱歌 由井龍三著 春秋社刊

・日本歌謡史 高野辰之著 東京堂出版刊

・日本の名歌 信州ゆかりの名歌普及会編 ほおずき書籍

・唱歌誕生 猪瀬直樹著 中公文庫

・藤村全集第二巻 島崎藤村 筑摩書房


高野辰之記念館パンフレット


青木青眠 記
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