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土屋文明

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土屋文明

プロフィールバー 〔土屋文明〕のプロフィール。
俗称・筆名 土屋文明
本名 土屋文明
生誕 明治23年(1890年)9月18日 群馬県西群馬郡上郊村保渡
(現高崎市)に生まれる。父保太郎、母ヒデ
死没 平成2年(1990年)12月8日、100歳で死去
出身地 群馬県高崎市保渡田
最終学歴 大正5東京帝国大学
職業 歌人、国文学者、小説家、教育家、明治大学教授
ジャンル 文学
活動 諏訪高等女学校校長(1920年)、アララギの編集発行人、文化勲章受章(1986年)、
万葉集私注により芸術院賞受賞、宮中歌会始選者(1953年〜1962)
代表作 歌集・「ふゆくさ」(1909年)、「往還集」(1929年)、「青南集」(1960年)「 短歌研究」創刊、「万葉集年表」(1932年)、万葉集私注 全20巻 筑摩書房 (1949−56年)、 土屋文明歌集(1984年)
記念館 群馬県立土屋文明記念文学館  高崎市保渡田町2000 
TEL027-373-7721

 齊藤茂吉の後を受けアララギ派の指導的存在となる。戦後群馬吾妻に疎開し万葉集の研究に専念、「万葉集私注」を出版、万葉集研究の第一人者となる。昭和38年より宮中歌会初召人となる、61年文化勲章受章。

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群馬県立・土屋文明記念文学館 は故郷・高崎にある

  土屋文明記念文学館は文明の故郷・高崎市の保渡田にある。県立で敷地は広く、駐車場も完備している。芝生を基調に小川も流れ木々も植えられ、心が和む。木々の間に幾つかの歌碑や句碑がある。高崎出身の村上鬼城の句碑、山村暮鳥の代表詩「いっぱいの菜の花」、そして土屋文明の榛名を詠った《青き上に榛名を永久にまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ》の大きな歌碑が目に入る。

  記念館は2階建てで、2階にレストランがある。榛名や妙義の山々を眺めながら食事や喫茶もできる。1階の正面玄関を入ると右手が土屋文明の記念館で、近代を代表する歌人ゆえに、正面には有名な歌人36人の小人形と代表歌がならび、照明も暗く古代の歌郷に入ったような錯覚におちいる。

  土屋文明の生涯を紹介するコーナーは入口右から入り、写真、資料解説が続く、苦学の中、歌の道を追い求めた生涯が良くわかる。東京青山にあった書斎や文明の愛した植物もこの地に移植されている。記念館の脇には生涯を紹介するビデオも用意されている。

記念館の左会場は常にオリジナルイベントが開催されている。2018年夏には、《童謡詩人・金子みすずの作品と生涯》 が紹介されていた。金子みすずの出身地山口県長門市に彼女の記念館はあるが、遠くてちょっと行けない。ここ高崎で金子みすずのオリジナル詩集や作品に接しられるのは大きな魅力で人出も多い、このような特別イベントはこの記念館を訪ねる楽しみのひとつだ。

土屋文明記念文学館


三十六歌仙入口

土屋文明歌碑

記念文学館内

金子みすずの代表詩 大漁
文明の幼年から中学時代へ

  土屋文明は3歳の時から子供のいない伯父母に養育された。伯父は文明を可愛がり、本を良く読んで聞かせた。伯父は俳句もたしなみ、文明は指を折り作句する姿をみて、心の中に日常と違う世界のある事をしる。小学校高等科の頃は美文調の作文を書き、先生から褒められている。

  文明の名は文明開化を意味していて、こんな歌を詠んでいる
*あわただしき文明開化のおとしものあはれなる名を一生持ちたり

  中学(現高校)になった頃に、友人から写実を尊ぶ『ホトトギス』を送られ強烈な衝撃を受ける。中学では級長をし、級友の多くが軍人の道を歩む中、搾乳業をいとなむ歌人・伊藤左千夫の牧夫となり、文学を生涯の道として生きる決意をする。その頃の文明の歌

*この見ゆる地平霞むにあくがれて出で行きし日のかえることなし
南だけが開けている群馬の地勢から南・東京にあこがれて出発した。


中学時代中央が文明


文明の生地から臨む榛名連邦

中学の時、文学に目覚める


  明治40年17歳の時(中学4年)万葉集略解(橘千蔭の万葉専門書)を手にし、歌に生きようと決心し、伊藤左千夫が経営する搾乳会社に就職し、牧夫となる。左千夫の牧場は今の錦糸町駅近くにあり、恩師・村上成之の紹介で左千夫の弟子となりアララギに参加する。アララギには斉藤茂吉、古泉千樫がいてこんな歌がある
《46歳の左千夫先生に見(まみ)えたりき46歳になりてその時を思ふ》

  伊藤左千夫は文明の優れた資質を見ぬき高等教育を受けさせたいと思い 受験勉強を命じ、労働からも解放した。その当時の歌
《牛と共にありし吾三月かえり見る牛にも長くかかはりなきを》

  明治42年の9月天下の難関第一高等学校に合格入寮する。当時の高等学校は9月に入学、七月に卒業であった。山本有三、近衛文麿等が同級生である。当時の学費は月5円(現在の3万)を無条件で出してくれる篤志家も伊藤左千夫が紹介してくれた。文明は深く感謝し、その恩は終生忘れず、後にその方が歌碑をつくる時、列席し歌も詠んでいる
《君が家の三代の栄につながりて受けて報ゆるなき今日となる》
 (昭和53年 青南後集)
明治43年留年したことが幸いし芥川龍之介、菊池寛、久米正雄、倉田百三等と同級生になり、従来の山本有三、近衛文麿などを含め文学仲間の交流が深まった。


伊藤左千夫前列左、後列左森鴎外,右文明


伊伊藤左千夫の牧場での文明

東京大学時代に歌の基本ができる

 
  伊藤左千夫は土屋文明の才能を見抜き進学を勧め、後援者の紹介もする。土屋文明は大正2年東京帝国大学、哲学科に入学し大正5年に卒業する。この年に師・伊藤左千夫は逝去する。

  大学時代は下宿を何度も変わり、生活の厳しさに直面し、心の美しさが現れる抒情と、現実生活の厳しさを見つめるリアリズムが土屋文明の歌の基本になったと、言われている。

  当時の歌
*貧しさはかくも集まるかと見し巷窮乏のはての我は幾年(青南後集)
*ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交わり絶てり(往還集)


師:伊藤左千夫 出典ウイッキぺディア


大学時代の文明
30歳で諏訪高女の校長に就任

  島木赤彦の故郷は諏訪であり、伊藤左千夫亡きあと上京し、アララギ派の指導者となった。筆者も諏訪には6年住んだので、赤彦の諏訪湖を詠んだ歌は今も忘れられない。

*湖の氷はとけてなほ寒し 三日月の影波にうつろふ

  島木赤彦は東大を卒業しても厳しい生活をしていた土屋文明を諏訪高等女学校(現双葉高校)に推薦し、文明は教頭の職に就いた。女学校では万葉集を講義し、きびしい先生であったが全身全霊で教育の実践に打ち込んだ。三村校長はそんな文明を評価し2年後、30歳で全国一若い校長に就任させた。また地元のアララギ派の歌会にも出席している。双葉高校は今では諏訪の名門校である。文明は女子教育に打ち込み次のような歌を詠んでいる。
 
*語らえば目かがやく乙女等に思いいづ諏訪女学校にありし頃のこと
 *槻の木の丘の上なるわが四年幾百人か育ちゆきにけむ

  その後松本高女校長(現松本蟻が崎高校)に転任、新進気鋭な文明校長の教育改革に対しては反発もあり、又よそ者の校長に対するやっかみもあり、木曽の中学への転任辞令がでた。土屋文明は左遷を拒否し東京に戻った。教育者への道は挫折したが、歌人、文学者、万葉研究家として大成した土屋文明の人生を見ると、塞翁が馬という感じがする。

昔の諏訪高女と今の二葉高校
出典:ウイッキペディア


記念館庭園の文明歌碑、その背景は!

 
*青き上に榛名を永遠に幻の
出でて帰らぬわれのみにあらず。 右の写真の


  土屋文明著の万葉紀行、続万葉紀行(筑摩書房)の1983年版をみた。初版は戦時中の昭和18年、再版は昭和21年と44年と何度か出版されている。

  この歌は70歳の時発表され、望郷歌の代表作となっている。そこで《出でて帰らぬ》とは決して故郷に帰って来ないという意味に取れますがその真意は?と質問すると、『土屋文明の人生はようようとしているように見えますが、一つの暗い事件があるのです。それは文明の祖父は博打に手を染め、警察に捕まり網走の刑務所に送られ、刑死しました。故郷・この保渡田では誰でも知っている事で、昔の村では大変な汚名でした。文明さんには
2度と帰れないそんな事情があったのです。今だから言える事ですが。
とお聞きした。

文明記念館の庭にある歌碑


文明記念館で求められるパンフレット

全国の万葉歌を踏査をする


  土屋文明記念館を訪ねた何度目かに、シニア説明員の方が、土屋文明の隠れた逸話を紹介しましょうと言って、案内して下さった。

  万葉歌の詠まれた場所の一覧を見ると、大正10年から昭和52年までの57年間に日本全国400地点近くを訪ねている。主に地元のアララギ派の歌人仲間が案内しているので真実味がある。昔は自動車も無く、汽車とバスを乗り継ぎ、最後は徒歩で訪ねている。

  万葉紀行の巻頭の言葉を見ると、地名が変わっていたり、戦災や開発で消滅していたり で探すのも大変だったろうと思う。土屋文明氏は万葉地理、万葉植物にも多大の関心を持っておられ豊前(九州)、近畿大和、近江、静岡、北陸、伊勢、和歌山、関東、出雲など、全国を踏破している。そして万葉集4500首に自分なりの解釈を入れ解説している。
 本の名前も万葉集私注とし、全10巻を何度か改訂し出版している。

  万葉集は古来多くの万葉学者が多くの解説書を発刊しているが、土屋文明は自分の解釈を主張し、今までの伝統的解釈と違うのも多い。実際に現場に行き事実を見て、判断しているので説得力がある。踏査・訪問地は約400箇所、60年に及ぶ、将に壮大なライフワークだ。

万葉歌の踏査・訪問地一覧約400箇所


万葉歌人柿本人麻呂の研究書

万葉集上野国歌私注


  土屋文明は昭和18年10月故郷の万葉歌を紹介した注釈本.「万葉集上野国歌私注」を地元前橋の煥乎堂より出版した。戦時下でもあり大変だったと思う。
その再版本が昭和54年7月煥乎堂より再版されたので、この本を購入した。立派な装丁で当時1800円でした。この本の冒頭で土屋文明は次のように言っている。


  『私は万葉集を尊ぶ心から、正しい万葉集の理解を得たいと望むこと切である。それと同時に上野国人として上野国歌の正しい理解を得たいといふ願を常に持ち続けている』と。
本当に万葉集を愛し、故郷群馬を愛しているのだと感じる。この本の中で上野国の東歌や防人の歌60種が紹介されている。

土屋文明の代表作は万葉集私注十巻、と  万葉集年表である

土屋文明の「万葉集」を詠んだ歌
*わが命あらむかぎりは続くべし万葉集私注補正続稿(続々青南集)
*今日も亦読めぬ一句に突き当り幾度もでて鶏を見夏草を見る(青南集)


万葉集上野国歌士私注


書斎の土屋文明・万葉集を詠んだ歌

中国を旅し万葉集を深めた「開封回顧」


  昭和19年7月陸軍臨時嘱託として加藤楸邨等と中国にまで足を伸ばしている。戦争は厳しさを増し生きて帰れないかも知れない戦局の中、中国行きを決意したのは万葉紀行の延長として憶良が学んだ大陸の地を踏んでみたいだった。

古にこの?(べん)をすぎ長安に往き来し憶良いかに行きけむ (韮青集、開封で)


  万葉集の代表歌人山上憶良は、遣唐使の随員として大宝2年(702年)に中国に渡る。万葉の時代は今から1300年前、歩いて上海付近から奥地の長安に行くことは想像するだけで気が遠くなる。遣唐使や多くの僧侶が未踏の道を歩き、先進国・中国から学ぼうとした先達の意欲に敬意を表したい。

  『日本自らに対するゆるぎなき信頼を基礎として、純粋無垢な感激を表現している、それこそ万葉集である』と文明は万葉集への思い覚悟を記している。

  この頃サイパン島、テニアン島の玉砕をしり、上海、南京では空襲を経験し、各地で歌を詠み、54歳の文明は敵地を避けながら19年12月に無事帰国の途についた。


万葉集上野国歌士私注


書斎の土屋文明・万葉集を詠んだ歌

柿本人麻呂の著作集


空襲で青山の自宅は焼失、群馬県原町川戸に疎開


  歌壇・アララギ派の中心的指導者であった土屋文明は、昭和20年5月25日敵機B29の編隊525機が来襲、青山にあった文明邸も斉藤茂吉邸も全焼し、アララギ派の拠点も資料も全て失った。

  土屋文明は疎開先を真田家の本城・岩櫃城が見える群馬県吾妻郡原町川戸に定めた。ここで農作業をしながらアララギ派の機関誌を復刊し、昭和27年までアララギの発行人を努めた。
また全国を行脚し会員との交流、組織つくりに努めた。アララギ派の歴代の指導者の中でも地方を巡り、会員と親しく交流したのは文明が一番であった。そして万葉の故郷を訪ね、万葉集私注全10巻を完成、発刊させた。


疎開先の川戸での農作業(昭和25年)


アララギ派の歌会に参加(諏訪の仲間と)


足もひかず66になりぬれば、なお60年も生きる気がする


  (株)従心会のスタッフ3人と土屋文明館を訪ねた。そこで偶然展示資料の中からこの言葉を目にし、みんなで感心した。当時土屋文明は66歳、1955年(昭和30年)であった。この頃100歳以上の長寿者は全国で100人程度である。統計をとり始めた昭和58年でも153人、平成30年では6万人。そんな100歳は珍しい時代に「126歳まで生きられる気がする」という言葉に3人は感心した。実際土屋文明は100歳と3か月まで生きこの言葉を実践した。
《我々も100歳まで生きられるよう努めよう》と誓いあった。

 

 

伊香保温泉には万葉歌碑が9つある


  土屋文明の故郷は万葉集東歌の舞台になっている。それ故に学生時代から万葉集に興味を持ち始め,生涯を通じ万葉集の研究に捧げた。伊香保温泉は文明の故郷から車で20分程度で行ける地であり、歌碑の中には文明の故郷を詠んだ東歌もある。

  伊香保の観光マップを見ると《万》の字が9つある。これは万葉歌碑が伊香保に9つあることを表わしている。万葉集4500首の中に関東地方を詠んだ東歌は5%・230首ある。東歌は20巻の中で14巻目にあり、ほとんどが相聞歌、即ち恋の歌である。
今から1300年以上前に読まれた庶民の歌が東歌であり、文字を知らない人の歌である。歌は文学以前のもので、庶民の間で詠われていたものを、東歌として纏めたもの。わらべ歌や田植え唄などと同じく生活の歌であった。 230首の内上州(群馬)を読んだのものが一番多い。

  伊香保温泉にある歌碑は皆立派な石に彫られ、字も立派だ。碑のすぐ傍に立看板があり、現代読みにした歌とその解説がやさしく書かれている。伊香保温泉を訪ねたら是非立ち寄って欲しい。

伊香保を詠まれた歌を一つ紹介しよう。
●伊香保ろの八坂の堰塞(いで)に立つ虹の顕(あらわ)ろまでもさ寝をさ寝てば
(伊香保神社境内、水沢寺仁王門の脇にもある) 
 土屋文明の故郷近くを詠み、意味は伊香保の八坂の堰きに立つ虹のように人目につくまで寝ていたらよいだろう



土屋文明の故郷は古墳群の宝庫である


  土屋文明記念館のすぐ横には大きな前方後円墳等幾つかの古墳がある。長さは100m以上あり、空堀に囲まれ、兵士や馬の埴輪が古墳を囲み守っている、古墳の頂上より中に入ると中央に石室があり、この中に豪族の遺体が安置されていたことが解る。古墳の上に立つと榛名連邦がすぐ近くに見え、赤城山、妙義山も遠くに見える。古墳群の近くに博物館もあり、古墳群の分布を見ると群馬は奈良、大阪に次いで古墳が多かった事がわかる。群馬は東国の中心地であったのだ。


高崎市八幡山古墳


高崎市八幡山古墳の埴輪群

高崎市八幡山古墳の石棺

子持神社にある東歌の恋歌が素晴らしい


  土屋文明の生家の北に子持山(女山)、小野子山(男山)という夫婦山が見える。子持山の麓には子持神社がある。昼間訪ねても暗く、一人で行くには寂しい所だ。その境内の石垣の上に万葉東歌の歌碑がある。注意をしないと見落してしまう。
でも相聞歌は素直で私の最も好きな歌の一つだ。

子持山若かえるでのもみづまで寝もとわはおもうふ汝はあどかもう(NO3494)
現代訳:子持山の若いかえでが紅葉するまで、貴方と寝ようと思うが、お前はどう思ふ。

この歌碑は江戸末期、子持神社の氏子が皆で建てたものと聞く、 200年前に万葉集に故郷が詠まれていることを知り、その歌を石碑として建てた文化度に敬服したい。
 この時代の結婚様式は夫婦でも一緒に住まず夜のみ会うと言う形式ゆえにこのような相聞歌が生まれたのだろうか。


子持神社の境内


子持神社の万葉歌碑 子持山若かるでの歌

万葉紀行にみる田児の浦歌碑


  土屋文明は万葉集に詠まれたこの地を昭和17年1月に訪ね、詠まれた歌の背景や土地の状況、苦労話を「万葉紀行」に詳しく書いている。

数年前、この地をドライブし立派な石塊を見つけた。それが赤彦の万葉歌碑であった。快晴の日で、赤彦の見た富士もかくやと思った。 この歌も素晴らしく昔暗誦したものだ。

天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き、駿河なる 不土の高嶺を天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言いつぎゆかむ 不尽の高嶺は

反歌
 多児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪はふりける

遠くから見える石塊は立派な万葉歌碑であった


田子の浦海辺

反歌の歌碑
文明の初恋の人、奥さんはその姉

  土屋文明は小学校から中学校にかけ同級生の少女と初恋をしている。85歳になった時70年前を回想しその少女を歌に5首歌に詠んでいる。その一部を紹介すると
  *姫萩にかけてしのばむ彼の少女ほのぼのとしてただに悲しも(青南後集)
  *二人三人の友とありし日少しはしゃぎ少女は声に我を呼びにき(同)
  *墨うすくにじむ習字をただに見ぬ一つ机に並ぶ少女を (同じ)

この少女の名は塚越エツ子、当時の小学校は尋常科が4年、高等科が4年、高等科に進んだ女子はエツ子一人,成績は文明が1番、エツ子が2番であったという。
 エツ子は素封家の娘、父親は冗談にエツ子を嫁にやってもいいと言ったことがある。それだけ文明の才能を評価していたからという。しかしエツ子は病気になり、学校に姿を見せなくなり、中学2年の時死去した。文明はエツ子を忘れられなかったのだろうか、後にエツ子の姉テル子と結婚した。

  奥さん(テル子)も才女で現在の津田塾大学を卒業し、足利の高等女学校で教鞭をとっていた。文明は足利の彼女を思い、相聞歌をたくさん読んでいる。2〜3の歌をあげると
  *西方に峡(はざま)ひらけて夕あかし吾が恋ふる人の国の入り日か
  *白楊(どろ)の花ほのかに房のゆるるとき遠くはるかに人をこそ思え
  *春といえど今宵わが戸に風寒しわがこころづまさはりあるなよ

文明が諏訪高女に職をえて赴任する際に、女子高へは独身ではまずいという忠告もあり二人は結婚する。結婚に際し2人の家柄の違いが問題になったがテル子の意志で結婚した。
後に子供ができた時、妻は足利で働きながら別居で生活を支え90歳以上まで添い続けた。

 


土屋文明の家族奧さん右端(昭和28年頃)
 

文明最中は美味しい


  土屋文明の故郷は今は高崎市となり記念館もある保渡田である、この故郷に近い県道沿いの観音寺バス停近くに《文明最中》という菓子屋がある。
文明という名に興味をもち店内に入って見た。店の中は色々の菓子類がならんでいる。品の良い年配の女将さんに文明最中の謂われを聞いた。

文明さんが元気な時に《文明最中を作りました》と最中を持ち込み食べて頂いたら文明さんは《うれしい、おいしい》と言ってくださった。私も店頭で食べてみた、どこで食べる最中よりも美味しかった。胡桃入りなど数種類があり、美味しいので幾種類かを入れ、お土産に群馬の知人宅に持参した。その家でも初めて食べたと言いその味に驚いた。

  女将さんの話ではお土産や引き出物によく使われ、もう30年になるというからその味は本物である。女将さんとは話がはずみ、この近くの棟高という地域には戦前、飛行場があったという、今はその地がイトウヨーカド―になっているという。 確かに最近まで平らな広い畑があった。
元首相福田赳夫さんの生家はこの家から5分位の処にある。



観音寺バス停近くにある文明最中の店


伊香保温泉から赤城山、文明の故郷を臨む
参考にした書物

*歌の古代を探る 土屋文明記念文学館 刊
*歌人土屋文明  土屋文明記念館編
*万葉集上野国歌私注 土屋文明著 煥乎堂刊
*万葉集私注 土屋文明著  筑摩書房
*万葉集入門 土屋文明著  筑摩書房
*万葉名歌  土屋文明著  社会思想社

土屋文明の写真
(出典:Wikipedia)

万葉集私注

青木青眠 記
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