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〔偉人〕

中島知久平(なかじま ちくへい)

 
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プロフィールバー 〔中島知久平〕のプロフィール
俗称・筆名 中島知久平
本名 中島知久平
生誕 1884年(明治17年)1月1日
死没 1949年(昭和24年)10月29日、65歳没
出身地 群馬県太田市押切町
最終学齢 海軍大学校、海軍機関学校
職業 実業家、政治家
ジャンル 航空機設計・製造
活動 国産飛行機の開発製造、中島飛行機の創設、衆議院議員,立憲政友会総裁、商工、軍需、鉄道の各大臣を歴任
代表作 戦闘機《隼》《疾風》《零戦》などに搭載されたエンジンの《栄》の設計製作、敗戦挽回のZ飛行機「富嶽」を提言するも実現せず。
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中島知久平の写真
(出典:Wikipedia)

人生履歴 〔中島知久平〕の人生(履歴・活動)

 中島知久平は1884年(明治17年)に群馬県新田郡尾島町(現太田市)の農家粂吉、母いつの長男として生まれる。小学校を卒業すると、家業を手伝いながら軍人をめざし夜間塾に通うが、中学卒業の資格「専検」を取るのは無理と判断し、父の金を無断で持ちだし東京へ出奔、昼は予備校、夜は「正則英語学校」に通い苦学の末、1903年(明治36年)海軍機関学校に入学する。

 この年、米国ではライト兄弟が自家製発動機にガソリンを入れ59秒の初飛行に成功した。中島知久平は巡洋艦や駆逐艦での実習をしながらも、ライト兄弟とカーチスとの飛行機競争に耳をそばだてていた。


 1907年(明治40年)海軍機関学校卒業、機関少尉,中尉に任官後の1910年(明治43年)フランスの航空業界を視察する。

 明治44年には日本最初の飛行船・イ号で試験飛行をする。同年には海軍大学校に入学し飛行機、飛行船の研究に従事、12月海軍大尉に昇進する。

 同年海軍大学を卒業、7月には海軍航空術委員会委員としてアメリカに出張、アメリカ飛行機倶楽部からパイロット・ライセンス(日本人として3人目)を取得して帰国する。

中島島知久平パンフレット

 帰国後、横須賀鎮守府海軍工廠造兵部員として勤務、その後飛行機工場長となり、飛行機の試作に従事する。中島知久平は欧米の航空業界を視察し、航空機の将来に着目し日本国政府に航空機の開発を提言するも、《航空機の製作は民間でなければできない》という結論に達し、海軍を退職し中島飛行機を故郷・現太田市に創設する。最初は失敗の連続であったが、知久平の情熱とプロペラ魂に加え、時代の要請もあり飛行機造りは軌道にのった。

 昭和5年には群馬1区から衆議院議員に選出され、立憲政友会に入党、ビジネスは弟喜代一に譲り、政界で活躍、昭和13年近衛内閣の鉄道大臣として入閣、14年には分裂した政友会中島派の総裁となる。昭和16年12月には中島飛行機の一式戦闘機が陸軍に正式採用される。終戦直後の昭和20年8月軍需・商工大臣として終戦処理にあたる、12月にはA級戦犯に指定される。22年指定解除されるが、24年脳出血のため死去する。


ゆかりの地 〔中島知久平〕ゆかりの地など
〔中島知久平邸を訪ねる〕

 中島知久平邸が開放されたと聞き訪ねる。熊谷から前橋を結ぶ上武道路で利根川を渡ると昔の尾島町に入る。ここから右折し利根川に近い押切に知久平邸はある。

中島地久平邸の築地塀
中島地久平邸の幟が立つ正門

 屋敷は2m程の築地塀に囲まれているのですぐ解る。正面に立派な長屋門がありその門前に広い駐車場があり、中島知久平という幟もたっている。利根川の対岸深谷市には日本経済の父・渋沢栄一の生家がある、車だと近いので訪ねることお奨めしたい。


〔屋敷の広さは3000坪、建物は300坪の豪邸である〕

 この屋敷は中島知久平が両親のために生家近くに建てたもので、中に入ると屋敷は中国でよく見られる中庭を囲むように《ロの字型》に玄関棟、客間棟、両親棟、女中部屋・茶の間棟の4棟がある。

 玄関は純和風の寝殿造り、玄関を入ると左に受付があり、資料も売られている。太田市を紹介するマンガ本があり、この中で《故郷の偉人・中島知久平》としてその生涯が簡単に紹介されている。

太田の歴史・マンガ

 500円と安いので思わず買ってしまった。中島飛行機創業のころ、地元では 《米価は上がる、飛行機は飛ばず---》と悪口を言われたというエピソードも書かれている。創業時に苦労するのはいづくも同じだ。中島知久平邸の立派なパンフレットも販売されている。


 昭和6年当時の建設資金は約100万円、同じ時代に大阪城天守閣が民間の寄付金で立てられ、約47万円というからその額の大きさがわかる。玄関突き当りは中庭で、どの部屋からも庭が眺められる構造になっている、今は工事中で水も流れていないが、往時は立派な庭であったろうと想像できる。

 応接間・客間には戦前では珍しい様式暖炉があり、引手には家紋が彫刻されている。客間の絨毯はペルシャ製で30畳敷きといえば値段がつけられない。

寝殿造りの正面玄関

何処からも眺められる中庭
戦前のストーブは珍しい
応接間はペルシャ絨毯
家紋入りの中島邸の引手金具

〔近くの世良田は徳川家の発祥の地〕
世良田の東照宮

 この近くに世良田の東照宮があり、徳川家光が徳川家発祥の地として天海僧正に造らせたもの。 以前訪ねましたが立派なもの、徳川家の先祖はこの地新田氏出身の時宗の僧で、三河の地で松平家の娘婿に入り、徳川家を起こしたというので、この世良田を家康も重んじ、家光は世良田東照宮を設けた。

 境内には新田義貞の銅像もある、この地は昔は新田郡で新田義貞の出身地である。また明治維新の魁となった志士・高山彦九郎もこの地の出身である。


〔飛行機に興味を示す中島知久平〕

中島知久平は明治時代17年に太田市の農家に生まれ、苦学の末に海軍機関学校に通う。知久平が海軍機関学校に入学した明治36年に、アメリカではライト兄弟が世界初飛行に成功した。このニュースは中島知久平が飛行機に興味を持った最初である。

 知久平は海軍大学に入り「臨時軍用気球研究会」の御用掛になり所沢飛行場に通い、飛行船の研究をし、操縦にも成功した。米国ではグレン・カーチスがライト兄弟の強敵手になり、フランスでもサントス・デュモンが飛行機を飛ばし、世界では飛行機競争に突入している。

ライト兄弟世界初飛行に成功:
出典ウイニペグ

〔明治45年にはパイロット資格を得る〕

 知久平は明治44年には飛行機船の試験飛行をした(日本では2番目の操縦員)。その後、アメリカ、フランス、英国など航空先進国を視察し、アメリカではパイロットの資格をとる、明治45年(1912年)日本人では3番目だったという。


〔中島知久平、海軍を退職し飛行機会社を創立する〕

 1913年(大正2年) 海外から帰国し横須賀鎮守府海軍工廠に勤務、翌年フランスの航空業界を再度視察し、帰国後飛行機工場長となり、飛行機の試作に従事する。中島知久平は海外の航空情勢を見て、飛行機の国産制作を訴えるも、当時海軍には水雷部、大砲部、電機部しかなく飛行機部はなかった。中島知久平は《民間でないと飛行機は作れない》との結論に達し、海軍を退社する。

 海軍退職の辞では次のように書かれている『戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を一蹴して新航空軍備に転換すべきこと、設計製作は国産航空機たるべきこと、民営生産航空機たるべきことの三点を強調した』(Wikipediaより引用)。1917年(大正6年)退職を認められ、群馬県太田市尾島に日本最初の『飛行機研究所設立』した。

海軍時代の中島知久平
出典:中島知久平の逸話

〔お米は上がる、上がらない中島飛行機!〕

 先見の明があった中島知久平は三菱より3年早く飛行機制作に着手し、第一号の完成、試験飛行では墜落大破、2,3,4号機も失敗、地元では《札はとぶとぶ、お米は上がる 何でも 上がる、上がらないぞい 中島飛行機》と揶揄される。大正8年に『中島飛行機製作所に改称』、陸軍から20機の初受注を受ける。同年の飛行競技大会で中島式四型6号機が1等になり、従業員も300人となり、注目を浴びるようになる。


〔日本屈指の航空機会社となる〕

 1931年の満州事変後、戦争拡大の時流に乗って急成長、傘下に多数の下請企業を擁し中島コンツエルンを形成、三菱重工業と共に軍用飛行機の製造の中軸となる。

 1941年(昭和16年)から5年間で機体約2万機、発動機3万機以上を製作、代表的機種は戦闘機《隼》《疾風》《零戦》などに搭載されたエンジンの《栄》。終戦時の従業員は約20万人、日本屈指の大企業となり航空機分野では三菱を凌いだという。

中島飛行機の職場風景
出典::中島飛行機創設の頃より

〔海軍の零戦、陸軍の隼〕

 零戦は三菱重工業の堀越次郎の設計、隼は中島飛行機の中島知久平、この日本を代表する戦闘機が群馬県出身の設計であることも珍しい、堀越次郎は藤岡市出身、そして中島知久平は隣町の太田市出身だ。ともに明治時代にアメリカ、ドイツで飛行機の勉強をしている。中島飛行機からも三菱・零戦のエンジンを供給していたから二人の交流はあったかもしれない。

中島飛行機の職場風景
出典:中島飛行機創設の頃より
〔まぼろしの飛行機《富嶽》〕

 昭和17年中島知久平はアメリカ本土を攻撃し、ドイツまで行き、給油し帰ってくる『Z飛行機』を立案し、陸海軍にも一時受け入れられ開発に着手した。
 全長65m、航空距離19,400km、6発エンジンで米国のB29を凌ぐ構想でしたが、陸海軍の意見の違いや、小型戦闘機が優先され、大型機を作る余裕はなく、中止となった。

漫画本にも紹介されている「富嶽」

 米国ではB29を開発し、マリアナ海戦で日本軍を壊滅させた後は、サイパン、テニアン島より、本土爆撃作戦が展開され、日本主要都市は焼け野原と化し終戦となった。

 インターネットサイトでこの大型爆撃機『富嶽』の模型を飛ばすイベントを実施している動画を見た。現在のジャンボ機に似て美しい機体だ。

大型戦闘機「富嶽」

〔政治家・中島知久平〕

 1930年(昭和5年)中島知久平は群馬一区から衆議院議員(昭和5年)に当選、昭和13年には近衛文麿内閣の鉄道大臣となり、1939年(昭和14年)年分裂した政友会の中島派総裁となる。

 その後内閣顧問、大政翼賛会総務を歴任し、第2次世界大戦終了時には軍需大臣及び商工大臣の地位にあり、敗戦処理にあたる。その後1945年12月にはGHQよりA級戦犯となったが1947年に釈放された。1949年悩出血のため泰山荘(現在の国際基督教大学敷地内)にて永眠する。


〔中島知久平の屋敷は進駐軍に接収され、庭はテニス場になる〕

 中島知久平の屋敷は3000坪あり、中庭を囲む四角形の建物の前は、広大な芝生が広がる、終戦直後、中島邸はGHQに占領され、広大な庭はテニスコートとなり、米兵家族が白球を追う姿が目に浮かぶ。

庭はGHQのテニスコートだった
中島知久平邸正面

知久平邸平面図
客間、今後公開予定
知久平邸の鬼瓦

〔終戦により中島飛行機は解体、現在の富士重工となる〕

 1945年8月敗戦にともない中島飛行機は財閥解体方針により12社に分割され、その主体は(株)富士産業、富士精密(のちのプリンス自動車工業)に引継がれた。

 航空機の製造は禁止され、鍋。ヤカン、からリャカー、バスのエンジン等をつくりながら、昭和21年にはスクーターを造り、1954年(昭和29年)に「富士重工業」が設立され、自動車業界に参入した。

ラビットと北原三枝
ラビットの盗難注意の張り紙

 他の自動車メーカーが海外メーカーと提携しながらの自動車生産でしたが、富士重工は国産技術にこだわり、自動車生産をしてきた、このこだわりは飛行機でつちかった物つくりへのプライドがあったように思う。


〔昔懐かしいラビットスクーター!〕

  今のシニア世代はラビットというスクーターを覚えているでしょう! この一世を風靡したスクーターは中島飛行機解体後の富士産業が昭和21年から43年6月まで製造したもので63万台に及ぶという。

 石原裕次郎と結婚する前の北原三枝がかっこよくコマーシャルガールとして登場するポスターもある。

  また石原慎太郎は《ラビットによる南米1万キロのラリー》の隊長として参加し青春の良き思いい出と語っている。今から50年以上前の南米アルゼンチンなどの道路事情を考えると、冒険でありラビットの性能を信頼していないとできないことだ。ラビットスクーターは人気商品で盗難も多く、電信柱に《自転車とラビットの盗難にご注意ください》と書かれているのには吹き出してしまう。


〔富士重工業のマークは関連会社5社を表している〕

 自動車に使用されている《スバルの六連星マーク》は、1958年合併した富士重工グループ5社(東京富士産業、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車両)を表わし、一番大きな星が富士重工を表わしているという。

6連星のスバルマーク

 このスバルマークは富士重工の自動車部門として現在も使用されている、マンガ本《太田の歴史》に掲載されているスバル360、スバル1000 ・4ドアセダン、レオーネ1400クーペ、そして現在のレガシ-2000と発展し続けている。


〔プリンスという懐かしい車も中島飛行機の末裔、そして日産へ〕

 《プリンス》という自動車覚えていますか、まだ自家用車を持つ人が少ない頃、私の先輩はこの車にのっていて、よく同乗させて貰った。また友人もこの会社に2人就職していた、当時技術・性能がよく高級車の部類に入っていたが、後に日産自動車と合併した。中島飛行機がGHQにより解体された12社の内、最終的に残ったのは富士重工とプリンス自動車だけという。

プリンス・スカイラインGTB 出典:ウィッキペディア

 現在の富士重工は米国・ボーイング社の最新鋭機ボーイング777の中央翼を海外メーカーで初めて担当している。これも飛行機づくりの技術とスピリットを受け継がれている証明かも。


〔昭和天皇の御料車《日産・プリンスロイヤル》の開発もプリンス自動車だ!〕

  日本の皇室が馬車から車に変えたのが1912年、ロールス・ロイスやメルセデスベンツ等の欧米の車が使用されていた。

 国産車でのロイヤル車開発は日本の悲願でしたが、1965年(昭和40年)プリンス自動車が開発にあたり、《当時の自動車製造技術の粋を集めて開発された国産初の御料車》と昭和天皇記念館ホームページで紹介されている。

プリンス・スカイラインGTB 出典:ウィッキペディア

 プリンス自動車は日産と合併したため、車名は『日産・プリンスロイヤル』とされ、プリンスの名が尊重され残った。7台納入され、2台は日本万国博覧会では国賓送迎用に利用され、一般市場には販売されなかったという。8人のりリムジンで2004年まで利用された。立川市にある昭和天皇記念館に、この日産・プリンスロイヤル1台が保存・展示されている。


〔高崎経済大学と中島知久平〕

 この記事の原稿段階で、歴史に詳しい先輩に見て頂いたところ、高崎経済大学と中島知久平文庫との関係が落ちていると指摘されました。

 この関係を知っている人は少ないかと思いますが、「高崎経済大学五十年史」に書かれているので、抜粋を紹介しよう。

高崎経済大学6-7号棟 出典:ウィキペディア

 1949年に群馬大学が前橋に設置され、商都・高崎市では当時近隣諸県にない経済学部を誘致しようとまず市立短期大学を1952年に設立し、5年後の大学昇格を目指したが、短大の蔵書数が大学設置基準を満たしていなかった。そこで、県議会図書室所蔵・中島文庫の一部を寄託してもらい、設置基準をクリアすることにした。

  中島文庫は中島知久平の蔵書であった。知久平が衆院議員になった昭和5年は、昭和恐慌下の経済政策の失敗や金権腐敗から国民の間で政党政治への不満が高まっていた。そこで、中島知久平は昭和6年に国政研究会、翌年には国家経済研究所を開設し、政治家・政党の政策能力を高めようとした。両機関はわが国初の民間シンクタンクであった。

 両機関では〈1〉政治・経済の調査研究、〈2〉欧米諸国で刊行された新刊書を購入し、専門の学者に要点を翻訳させ提出、〈3〉毎金曜日に嘱託学者が講師となり政治・経済問題をテーマとした講演会を開いた。嘱託学者は50人もいて、田辺忠男(東京帝国大学)、大西邦敏(早稲田大学)、猪谷善一(東京商科大学)がその中心であった。


〔蔵書類は約4万6000冊に達し、55年(昭和30年)に県議会図書室に寄贈された〕

 1985年、県立図書館に移管。
 高崎経済大学の初代学長には田辺忠男が迎えられ、開学記念式典の講師は芦田均(元首相)と川北禎一(日本興業銀行頭取)であった。

 田辺忠男は知久平のブレーン、芦田均は国政研究会で研鑽(けんさん)を積んだ政治家、日本興業銀行は中島飛行機のメーンバンクであった。

芦田均元首相による開学記念公演
出典;高崎経済大学五十年史

 こうして見ると、高崎経済大学は中島知久平の遺産の上に開学したと言っても許されるであろう。「高崎経済大学五十年史」より、高崎経済大学は1957年(昭和32年)高崎市立経済大学として出発し、その後地域政策学部や大学院も設置され、地方大学としては珍しく全国から優秀な人材をあつめ、発展している。

 その原点には東大経済学部の田辺忠男氏の弟子・難波田春夫氏を初め優秀・熱心な教授連が存在したこと、その多くが中島知久平の経済研究所の関係者であったかもしれない。


青木青眠 記
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