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〔偉人〕

広岡浅子(ひろおか あさこ)

 
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プロフィールバー 〔広岡浅子〕のプロフィール
俗称・筆名 広岡浅子
本名 広岡浅子
生誕 1849年(嘉永2年) 10月18日
死没 1919年(大正8年)71歳 東京で死去
出身地 京都府油小路出水に生まれる
最終学齢
職業 実業家、教育家
ジャンル 金融、鉱山、教育
活動 17歳で大阪の両替商広岡信五郎と結婚、石炭の鉱山経営や加島銀行、尼崎紡績、大同生命の創業に尽力、晩年は日本女子大学の開校に貢献、女子の高等教育普及に務めた。
代表作 2016年4月8日まで日本女子大学成瀬記念館にて《女子大学創立の恩人・広岡浅子展》を開催。NHK朝ドラ《あさが来た》で放映された。
記念館
言葉・信条

人生履歴 〔広岡浅子〕の人生(履歴・活動)

 広岡浅子は京都府二条城近くの三井家に生まれ、大阪の両替商加島屋に嫁ぐ、明治維新の激動期に家業を懸命に支え乗り切る。その後、当時最新鋭のビジネス炭鉱経営や、銀行業、紡績業に取り組み、大阪の産業界を牽引し明治時代を代表する女財界人として活躍する。

 晩年は女性の教育に情熱を注ぎ、日本女子大学の創立に尽力、政治家市川房枝や赤毛のアンの訳者・村岡花子、平塚らいてう等多くの女性リーダーを育てた。


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広岡浅子の写真
(出典:Wikipedia)

人生履歴 〔広岡浅子〕の人生(履歴・活動)(続き)

〔日本女子大学で開催中の広岡浅子展を訪問〕
  NHK朝ドラ《あさが来た》が好評である。明治時代にこんな面白い女性がいたのかと興味を持った。日本女子大学の成瀬記念館で《ヒロイン広岡浅子の特別展》が開催されていると聞き訪ねてみた。しかし、一回目は入学試験日で休館、2回目は入館できた。正門を入るとすぐ左に教会風の建物があり、これが大学の創設者・成瀬仁蔵を記念した成瀬記念館だ。
10時に開館、中に入り、階段を上がると正面が成瀬仁蔵の書や業績を紹介した部屋で、右の部屋に広瀬浅子の書簡や写真、大学創設時の詳しい資料が展示されている。開館後30分もすると狭い展示館は女性客でいっぱいとなり、人気の高さを感じる。記念館入り口には、好評につき開催期間を延長する旨の立て看板が立っていた。広岡浅子展を見ると日本女子大学の創設時の様子がよくわかる。創設者の成瀬仁蔵との往復書簡は数十通並べられ、文は文語体の候文でその原文は墨で書かれ達筆である。

成瀬仁蔵宛 毛筆の手紙と浅子の和歌

                                                            




成瀬記念館


会期延長のポスター

〔NHK朝ドラのヒロイン・広岡浅子〕
 図書館で広岡浅子を描いた『小説 土佐堀川』を検索すると数十人待ち、彼女の関連資料も全て予約待ちで、その人気の高さを知った。あきらめて書店をのぞくと、沢山の参考本が並んでいる。その中の「広岡浅子の生涯」(宝島社刊)を購入してみた。幕末から明治にかけての色々の情報が満載され参考書として秀逸である。




広岡浅子の発刊本

〔京都の豪商三井家のお姫様育ち〕
 
広岡浅子は1849(嘉永2年)京都の油小路出水の三井家の4女として生まれる、油小路はグーグルで調べると二条城 や京都府庁のすぐ近くにある。時は幕末、京都は尊皇攘夷の志士と新撰組がチャンチャンバラバラする混乱の時期、浅子は豪商の令嬢ゆえに何不自由なく育つが、テレビで放映されたように相撲を取ったり木に登ったりのお転婆娘であったらしい。
  男勝りの浅子は漢籍などの書物に興味を持つが、当時の商家には《女子には学問不要》と言う厳しいしきたりがあり、13歳で読書を禁じられたという。浅子は《どうして、女は男のすることをしてはいけないの》と不満を持っていた。その気持ちが後年、日本女子大学の創設や御殿場の女子教育合宿などに尽力することになる。






 


 

京都・二条城

広岡浅子の生涯、宝島社刊

生家の跡地に立つ公共の宿ルビノ京都堀川


 

ゆかりの地 〔広岡浅子〕ゆかりの地など

〔浅子の生家は三井家〕
  三井家は今でも大財閥だが、この始祖は伊勢松坂出身の三井高利である、松坂に行った時この三井家の屋敷跡を見た。立派な門があり、中には入れないが立て看板に解説が書かれている。浅子をえがいた小説「土佐堀川」では「浅子には三井高利の
母・殊法様の血が流れている」という。浅子の活躍を見ると殊法様の生まれ変わりのように思える。ちなみに三井家は十一家あり、本家と呼ばれる男系6家あり、浅子の生家はその一つで、他に女系の連家5家があるという。





松阪市の三井家跡写真

〔大阪の大商人加島屋に嫁ぐ〕
  浅子が大阪に嫁いだのは1865年、17歳であった、この前年には池田屋事件や蛤御門の変などが起きた時だから、京都は大変な喧騒の中だった。加島屋は鴻池屋と並んだ大阪の豪商で大名との取引は100を超えその借用証文は数千通、総額900万両、現代の価値に換算すると4500億円という(宝島社の広岡浅子の生涯より)、そして明治維新によりこれがご破算になるとすれば普通なら倒産だ。姉の嫁ぎ先天王寺屋も大阪一の両替屋であったが、この時期消滅している。
 
浅子は生家では読書を禁止されていたが嫁ぎ先では自由で簿記、算術、その他ビジネスに必要な本を独学で学び、激動の商家を守ろうと努めた。夫は商売には身を入れず謡や三味線などの芸事にのめり込んでいたので、浅子はことさら危機感を持っていた。ドラマを見る限り、夫は多くの人脈を持ち、また大局感があり、適切なアドバイスをしている。日本の芸道には大きな哲学があり、ふところの深い人を作る利点もある。欧米にはこのような芸道は皆無と聞く。





浅子の良きパートナ・広岡信五郎
 

広岡家の家族

〔広岡浅子は明治の財界人と親しかった〕
 NHKの《あさが来た》を見ると明治の元勲が多く出てくる。五代友厚、大久保利通、渋沢栄一、福沢諭吉等を演ずる俳優が素晴らしく引き込まれ、ドラマを盛り上げている。五代友厚は大阪の商工会議所、証券取引所前に銅像があるくらい大阪経済の振興に貢献した薩摩人で、幕末に英国に留学し、先進国の経済システムを学び、大阪遷都まで主張した人で、大阪の恩人であることは確かだ。





大阪商工会議所の五代友厚像

〔九転十起で炭鉱経営に乗り出す〕
  広岡浅子は近代産業のエネルギーである石炭採掘に目をつけ、潤野炭鉱を買い取り、女がてらピストルを胸に秘め、炭鉱現場に飛び込んで行く。この地は炭鉱王・伊藤伝右衛門と白蓮事件を扱った朝ドラ『花子とアンの村岡花子』で話題を撒いた地でもある。
潤野炭鉱の採掘量推移を見ると日清戦争が起きた明治27年は8832トンに過ぎないが、明治32年には50,958トンと6倍近くに急成長し優良炭鉱になっている。

 しかし想像を絶する現場経験から、広岡浅子の人生訓が生まれた。それは《九転十起》だ。その意味は《人が七転び八起きというなら、自分は九回転んでも、十回起き上がる人間になろう》というもので、まさに女傑と言われる人の名言だ。





 
広岡浅子 出典:広岡浅子の生涯

明治時代の潤野炭鉱

〔加島銀行設立 、金融業に進出〕
明治21年銀行業に進出、その名は加島銀行という。社長は義弟の広岡正秋、日本の銀行は渋沢栄一が設立した第一国立銀行が最初で1873年(明治5年)にできている。第一国立銀行は国立を名乗るが、実態は民間銀行で、日本最初の株式会社である。加島銀行設立は、最初の銀行から15年もたっており後発で、乱立傾向ですでに153軒もあった。それ故に他行との差別化のために、女子工員採用や行員教育など新しい施策を実行し軌道に乗せた。





加島屋本家、今は大同生命本社が立つ

〔大同生命、尼崎紡績を創業〕
大同生命は経営難に陥った生命会社3社を合併し明治35年創設された生命会社である。日清戦争の戦没者に保険金が支払われたことから人気が高まり将来性あるビジネスとみて参入した。初代社長は義弟の広岡正秋である。もともと正秋が浄土真宗の門徒総代表格を務めていた関係から、真宗が門徒を中心とした生命保険を持ち、この事業を引き継いだもの。 昔の助け合いの講のようのものだろうか。浅子は《社会救済の意味を含み、人々の生活向上の安定につながる事業》とみていた。

 尼崎紡績は明治22年夫の広岡信五郎を社長として設立された。尼崎は国内有数の綿産地であることから、地元の協力をえて、また誰からも親しまれる信五郎の人柄から、後のユニチカに発展してゆく。





大同生命本社ビル

尼崎紡績、現ユニチカ出典:広岡浅子の生涯

〔日本女子大学設立に情熱を注ぐ〕
 
『女子には学問不要』と言われ、13歳で読書を禁止された悔しい思いを広岡浅子は常日頃感じていた。成瀬仁蔵の説く『女子教育』に共鳴し《女子にも高等教育は必要》という強い意志を持ち、当時の政財界のトップに働きかけた。日本資本主義の父・渋沢栄一(ゆい人物館渋沢栄一参照)、初代総理大臣・伊藤博文、12,14代総理大臣西園寺公望、早稲大学創設の大隈重信、吉野の山林王土倉庄三郎、三井宗家の三井三郎助等多くの著名人に女子教育の必要性を説き設立基金を集めている。
 
  自らの寄付金の額も夫・信五郎名義で 5000円、浅子名義で3000円、その後も繰り返し寄付し合計で45,000円(夫婦で)になる。 明治時代の1円は初期で今の2万円、末期で1万円だというから、明治30年代の寄付額総計は、今に換算すると6億円強になる。
 
  最初の構想では関西に女子大学を作る予定だったが、広岡浅子の実家三井家から目白の敷地5400坪の寄贈を受けたことから、東京に建設になったというから、広岡浅子の尽力がなければ日本女子大学の創立は難しかったと想像できる。開校後の第2回卒業式写真を見ると最前列中央に広岡浅子や大隈重信などが並んでいる。





日本女子大学創設者 成瀬仁蔵

現在の日本女子大学正門


開校当時の日本女子大学正門




日本女子大第2回卒業式 出典:広岡浅子資料目録より、広岡浅子や渋沢栄一、大隈重信も並ぶ

〔女子向けの夏季合宿実施や本の出版〕
広岡浅子は日本女子大学を創立した後、三井高景を通し軽井沢別荘内に三泉寮を造り寄贈する、三泉の意味は健康の泉、知識の泉、心霊の泉の意で成瀬仁蔵が名付けたもの。

  そして夏にはここに学生を集め合宿した。また御殿場の広岡家別荘でも女子のために夏の勉強会を開催した、この会には村岡花子(ゆい人物館村岡花子参照)や市川房江等も参加している。御殿場勉強会の写真で浅子の右隣が村岡花子である、花子が進路に悩んでいる時、浅子は『自己実現のためだけでなく、社会のために成すべきことを見つけなさい』とアドバイスしたという。その結果翻訳者の道を選んだという。





軽井沢三泉寮合宿 出典広岡浅子関連資料目録

中央広岡浅子と右隣村岡花子

〔広岡浅子の元気の秘密〕
広岡浅子は江戸幕末から明治大正のビジネス世界を生き、晩年は日本の女子教育に情熱を注いだ。その元気の秘密を日本女子大学の同窓会誌に、文語で格調高く書かれ、今でも通用するものでご紹介しよう。資料は日本女子大学所蔵の「広岡浅子関連資料目録」に掲載されている。

《余が不老の元気は何に因りて養るるか》=私の元気は何で養われたか
(私は老年になっても元気は衰えず年と共に旺盛になっている、その不老の元気はどこより湧きでるのか、と問われたのでこう答えました。)元気の元は《無限の希望》と言いたい。少年時代から老年まで具体的に述べましょう。

◎少年時代の希望

私は女子ゆえに13歳で読書を禁じられました。女子も人間で、学問は必要なしと言うことはない、学べば必ず修得できる頭脳を持っています。私は男子と一緒に学び、女子の頭脳開拓ができるという希望をもち力を養いました。

◎青年時代の希望

17歳で大阪広岡家に嫁ぎました。これは2歳の時に父が決めたものですが、私は人の一生を親の一存で決めるのは女の価値を認めず、婦人を物質視し自由を束縛し、生涯を犠牲にするものです。私はこの悪弊を改善しようと心に決めておりました。
私が嫁いだ広岡家は大富豪ですが、主人は遊興を自分の仕事の様にしている。私はこのような状況で家業が繁栄するのは疑問と思い、一朝事あるときは自分が立つと決意し、簿記、算術、その他商業に関する本を寝る時間を割き、学び、熟達する事を私の希望としました。


◎壮年時代の希望

20歳で明治維新の変革があり大阪の富豪は大困難に遭遇、私は一族のため家政の責任を一身におい事業に邁進、これは自家のためだけでなく、国家のため、富国の必要を感じてのこと、一般婦人の及ばない困難を克服、己を忘れ一身を将来の希望に向かって突進しました。
45ー46歳の頃成瀬先生より女子高等教育の必要性を説かれ,私の子供の頃からの思い、女子境遇の救済に繋がると決意し、日本女子大学の発起人に加わり、7年間躊躇せず将来の夢をみて希望に向かって尽力して参りました。


◎老年時代の希望

私はすでに還暦を迎えましたが、思想においては少しも老衰を覚えず、青年の女子大学生と共に校長の実践倫理を学び、頭脳開拓のために科学の必要を感じ、時あれば多くの師より学び、読書によりて自己の修養に勤めています。
私は死生の別を考えるひまなく、今なお無限の希望に満ちて、百年の計画を行う、これが私が老いない原因であろう。 願わくば婦人が覚醒し女子の宿弊をあらため、無限の希望に生き、不老の境になれば、我が国の内的革新なる第2の維新は婦人の手によりなるのも遠くないと信じます。

  この記事は明治42年1月1日発行の「家庭週報」に記載されたものですが、《いつも希望を持てば老いない》と言うのは100年たった今でも通用し、広岡浅子女子が夢見た《女性の時代》が到来しつつあるように思われる。





広岡浅子 出典;広岡浅子の生涯


広岡浅子の出版本・一週一信

読書する広岡浅子 出典;広岡浅子の生涯

晩年、女子の合宿教育に力を注ぐ  洋装が浅子。 出典:広岡浅子関連資料目録

〔洋装の麗人広岡浅子〕
《あさが来る》をみていると外出時はいつも洋装である。100年以上前の明治時代に考えられないが、参考本をみると洋装が多い、広岡浅子記念展でも広岡浅子が着た洋服をそのまま、日本女子大学家政科の学生が復元し2着展示していた。真っ白でセンスのある服である。

  軽井沢、御殿場の合宿勉強会、卒業式等の記念写真を見ても、全て洋装である。100人以上が並ぶ卒業式の記念写真などは唯1人広岡浅子のみ洋装で、しゃれた帽子をかぶっている、ゆえにすぐに見つけられる。人と違った服装をすることは相当な勇気が必要だ。《60才過ぎたら派手な色を着て。心を若く》なんて言われるけれど勇気がいることだ。





洋装の広岡浅子 出典:広岡浅子の生涯

〔広岡浅子の言葉〕
●九転十起 
 人が七転び八起きというなら、自分は九回転んでも、十回起き上がる人間になろう 

●《いつも希望を持てば老いない》

●私は遺言を残さない、常日頃言ってきたことが私の遺言です。


〔広岡浅子の年表〕
1849年(嘉永2年) 10月18日 京都・出水三井家に生まれる

1850年(嘉永3年)大阪・広岡家の許婚になる

1865年(慶応元年)大阪の豪商広岡家の次男信五郎と結婚,17歳

1867年(慶応3年)諸藩からの利子収入が途絶え加島屋危機に直面する、大政奉還

1869年(明治2年)義父広岡久右衛門死去、家督は義弟の正秋が継ぐ

1876年(明治9年)長女・亀子を出産  廃刀令発布

1884年(明治17年)石炭業に着手、夫・信五郎が社長に就任

1888年(明治21年)加島銀行設立、社長に義弟の正秋就任、

1889年(明治22年)尼崎紡績設立.大日本帝国憲法発布

1896年(明治29年)成瀬仁蔵を助け日本女子大学設立に尽力、

1901年(明治34年)日本女子大学開校

1902年(明治35年)大同生命創業

1904年(明治37年)夫・信五郎死去、事業を娘婿に譲る

1909年(明治42年)胸部手術受ける  伊藤博文ハルピン駅頭で暗殺

1911年(明治44年)洗礼受ける、関税自主権回復

1914年(大正3年)別荘のある御殿場にて女性対象の勉強会を毎夏開催

1918年(大正7年)「一週一信」 出版

1919年(大正8年) 71歳 東京で死去

 


青木青眠 記
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