〔広岡浅子の元気の秘密〕
広岡浅子は江戸幕末から明治大正のビジネス世界を生き、晩年は日本の女子教育に情熱を注いだ。その元気の秘密を日本女子大学の同窓会誌に、文語で格調高く書かれ、今でも通用するものでご紹介しよう。資料は日本女子大学所蔵の「広岡浅子関連資料目録」に掲載されている。
《余が不老の元気は何に因りて養るるか》=私の元気は何で養われたか
(私は老年になっても元気は衰えず年と共に旺盛になっている、その不老の元気はどこより湧きでるのか、と問われたのでこう答えました。)元気の元は《無限の希望》と言いたい。少年時代から老年まで具体的に述べましょう。
◎少年時代の希望
私は女子ゆえに13歳で読書を禁じられました。女子も人間で、学問は必要なしと言うことはない、学べば必ず修得できる頭脳を持っています。私は男子と一緒に学び、女子の頭脳開拓ができるという希望をもち力を養いました。
◎青年時代の希望
17歳で大阪広岡家に嫁ぎました。これは2歳の時に父が決めたものですが、私は人の一生を親の一存で決めるのは女の価値を認めず、婦人を物質視し自由を束縛し、生涯を犠牲にするものです。私はこの悪弊を改善しようと心に決めておりました。
私が嫁いだ広岡家は大富豪ですが、主人は遊興を自分の仕事の様にしている。私はこのような状況で家業が繁栄するのは疑問と思い、一朝事あるときは自分が立つと決意し、簿記、算術、その他商業に関する本を寝る時間を割き、学び、熟達する事を私の希望としました。
◎壮年時代の希望
20歳で明治維新の変革があり大阪の富豪は大困難に遭遇、私は一族のため家政の責任を一身におい事業に邁進、これは自家のためだけでなく、国家のため、富国の必要を感じてのこと、一般婦人の及ばない困難を克服、己を忘れ一身を将来の希望に向かって突進しました。
45ー46歳の頃成瀬先生より女子高等教育の必要性を説かれ,私の子供の頃からの思い、女子境遇の救済に繋がると決意し、日本女子大学の発起人に加わり、7年間躊躇せず将来の夢をみて希望に向かって尽力して参りました。
◎老年時代の希望
私はすでに還暦を迎えましたが、思想においては少しも老衰を覚えず、青年の女子大学生と共に校長の実践倫理を学び、頭脳開拓のために科学の必要を感じ、時あれば多くの師より学び、読書によりて自己の修養に勤めています。
私は死生の別を考えるひまなく、今なお無限の希望に満ちて、百年の計画を行う、これが私が老いない原因であろう。 願わくば婦人が覚醒し女子の宿弊をあらため、無限の希望に生き、不老の境になれば、我が国の内的革新なる第2の維新は婦人の手によりなるのも遠くないと信じます。
この記事は明治42年1月1日発行の「家庭週報」に記載されたものですが、《いつも希望を持てば老いない》と言うのは100年たった今でも通用し、広岡浅子女子が夢見た《女性の時代》が到来しつつあるように思われる。
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