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堀越二郎

〔ほ〕の著名人 細井平州 堀辰雄
堀越二郎 本因坊秀策

プロフィールバー 〔堀越二郎〕のプロフィール。
俗称・筆名 堀越二郎
本名 堀越二郎
生誕 1903年(明36年)6月22日
死没 1982年(昭57年)1月
出身地 群馬県藤岡市上落合
最終学歴 東京帝国大学工学部航空学科
職業 航空設計技術者
ジャンル 技術者、教育家
活動・略歴 三菱航空機梶A東大、防衛大、日本大学等の教授、講師歴任
〔堀越二郎とはどんな人〕

 2013年夏ロードショウで宮崎駿監督の『風立ちぬ』が上映されている。

 堀越二郎がこの映画のの主人公で、今までのアニメと違い今作品は実在の人物が主人公だ。その人こそ日本の飛行機の先駆者で零戦の設計者だ。

 ほとんどの人が零戦は知っていても堀越二郎は知らない。映画をみると恋人、妻となるヒロインが『ジロウさん、ジロウさん』と何度も何度もいうから『二郎さん』を覚えてしまう。事実ジロウさんを旦那にもつある奥さんに「風立ちぬを見たら---」と勧めてしまった。

 この堀越二郎が群馬県の藤岡市出身、藤岡歴史館で特別展『堀越二郎の軌跡』という特別展の開催を知る。高崎に出かけたついでに立ち寄ってみた。市役所から4km離れた郊外の歴史館が会場、普段は歴史資料や古代土器等が展示されているようですが7月から9月8日までの期間限定の特別展である。

 今後も展示されるかは未定。相当な秀才で当時の帝国大学航空学科は定員7名、堀越二郎が受験すると彼は定席で、定員が6名になったようなものと友人が嘆いたという。

藤岡歴史館
       特別展開催の藤岡市歴史博物館
風立ちぬポスター2013
映画風立ちぬのポスター
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堀越二郎の写真
堀越二郎 写真
 
 〔堀越二郎の生い立ち〕

 1903年 群馬県藤岡市上落合に堀越家の次男として生まれる この年ライト兄弟が初飛行に成功、人類の空への道が開ける。旧制藤岡中学に入学、“飛行少年”(大正4年発刊)という雑誌を夢中に読む少年だった。

 ついで第一高等学校に進学、全寮制で、勉学に打ち込む。1923年関東大震災に遭遇、首都東京は壊滅状態となる。 1924年東京帝国大学航空工学科に入学、同級生は8名であった。
 〔航空設計者となる〕

 二郎は航空少年を夢見ていたが目が悪くこの道は断念、卒業設計は飛行艇で、スマートな美しい飛行機作りがテーマであった、友人木村秀政は緻密、秀才、粘り強い人と評している。1927年(昭和2年)首席で卒業、現三菱重工業名古屋に入社、三菱航空機は1921年に航空機生産に乗り出したばかり、この年リンドバー クが 大西洋無着陸 飛行に成功、注目を集める。設計者の道を歩む。映画の中ではイタリアの飛行機制作者カプロー二が夢の中に現れ二郎の悩みを聞いたり、「力を尽くしているかね」と問う。

 〔ドイツ、アメリカで世界の最先端航空技術を学ぶ〕

 入社2年後にはドイツベルリンへ派遣研修を命じられ、ドイツ、ユンカース社で構造計算を勉強、当時ユンカース社は世界最大の大型飛行機を生産していたが、日本人には機密主義で二郎は不満を感じていた。

 その後米国のカーチス社に研修地変更となる。当時の二郎のスケジュール、メモ、立替金など詳細な資料が特別展で展示されていて緻密さが伺える。このカーチス社の研修は得るものが多く、小型戦闘機実機の制作テスト飛行にもかかわった。また図書館にも通い詰め航空関係資料の収集、研究に没頭、量産、生産効率の設計を学び、またアメリカではジュラルミン等の新素材の勉強をし後に零戦に活かされている。
 〔機能的に優れたものは美しい 二郎の設計思想〕

 この言葉は口ぐせのように言っていたという。映画でも優雅に舞う鳥のような紙飛行機で恋人菜穂子と戯れているシーンがある。『納得するまで譲らない』二郎と一緒に仕事をした同僚は『根掘り越し、葉堀り越し』と評し、どんな細かい事でも納得するまで譲らなかったという。


 〔零戦をという飛行機〕

 ゼロ戦の設計にあたり、当時の海軍内では大論争がおき、飛行隊長は運動性能を優先しろといい、海軍航空厰では速度と航続距離を要求する中、堀越はこの難題を見事クリアした。昭和10年(1935年)の九試単機では時速450km、高度3200m、上昇力5千メートルを5分54秒で達成し、欧米先進国の域に達した。

 その後も改良を加えられ、中国戦線、真珠湾等で活躍した。第二次世界大戦では飛行機と戦車が主役、でも石油がないと動かない。軍部首脳は次のジェット機まで理解出来ず、堀越の機体を変更すべしという要求は受け入れられなかった。日本にはそれだけの国力も先見性もなかった。 映画の中でゼロ戦を牛車で運ぶシーンは美しいが滑稽だ。

ゼロ戦模型写真
ゼロ戦模型写真

ゼロ戦写真
零戦
 〔戦後の日本技術の先駆けとなった!〕

 堀越二郎の技術魂は欧米よりはるかに遅れてスタートした航空技術を零戦により、世界のトップレベルまで押し上げた。しかし終戦により日本の航空機開発、製造は米国により禁止されてしまった。

 それでも日本人の技術魂は自動車、カメラ等の精密機器、電気機器などに引きつがれ戦後の高度成長を支えた。


 〔実物の設計図が見られる堀越二郎特別展〕

 名機ゼロ戦は 1機3000〜4000枚の設計図が必要だったとか、この青い設計図が沢山、この特別展では展示されている。またゼロ戦の特長も詳細に紹介している。

 1) 九試単座戦闘機A5は逆ガル(鴎)デザイン, スマート、時速 450km、高度5000mまで5分54秒
 2) なめらかな空力(沈頭鋲) 美しさを出すためリベットを平にした。
 3) 機体主翼のよじり下げ 高速機には必須技術といわれる。
 4) 昇降舵の剛性調整技術 戦後二郎は東大に学位論文として提出した。
MG_2553
零戦 九試単座戦闘機

 〔『風立ちぬ 』との関連〕

 文藝春秋では監督の宮崎駿、作家の半藤一利氏の対談が掲載されている。この映画は宮崎版昭和史だと半藤氏はいう。堀越二郎と堀辰雄は1歳違いで東大でも同期、零戦を始めて開発したのが昭和12年、風立ちぬを書き上げたのも昭和12年と一致する。

 『風立ちぬ』は今では青空文庫というネットでも読める。冒頭に《風立ちぬ、いざ生きめやも》の一文がある。“風立ちぬ”の文章は甘い。散文にして詩的文章を書かせたら、堀辰雄第一人者である。

 堀越二郎は大変な時代に飛行機を作り、映画風立ちぬのヒロイン奈穂子は重病に掛っても自分で運命を決め生ききった、自分の映画に始めて泣いたという宮崎監督がテーマにしたのは【生きめやも】なのだ。 生きる人たちに何があろうと力を尽くせと訴えている。


 〔堀越二郎の趣味はゴルフ〕

 二郎のゴルフハンディは12、アマチュアとしては最高に近い。ゴルフの詳細なメモが残されている。ゴルフは精神的安定、ショットの正確さ、緻密な組み立てが要求されるスポーツなので、飛行機の設計と似通うものがあるのかも知れない。

 〔宮崎駿という人〕

 宮崎作品は今まで子供向けの作品が主で『トトロ』『風の谷のナウシカ』『魔女の宅急便』『千と千尋』『天空の城。ラピュタ』など空を飛ぶ夢作品が多い。 この映画を提案したのは、プロヂューサーの鈴木敏夫さんで、監督は《アニメーションは子供のために作っているんだ。大人を題材にすべきでない》と烈火のごとく怒ったという。

 鈴木さんは「監督が戦争に並々ならぬ関心を持っていたので、日本だけでなく第2次世界大戦から今でも起きている紛争まで 戦争を真正面から取り組む作品」をと何度も説得したという。 その結果、そんなに言うなら検討しようとなり実現した。

 今はファンタジーを作るのは難しい、東日本大震災、原発事故に直面し映画の中だけ幸せなんてありえない。ゼロ戦の設計者が主人公で、戦前の日本が舞台では、子供が土俵の外に置かれてしまう。そんな中、『子供たちもいつか大人になって分かる日がくる』という意見が出てゴーとなったという。

 宮崎監督の父親は零戦の部品を作っており、小さいときから零戦の機体を身近にみているという。

 東京三鷹の森ジブチ術館。や軽井沢の堀辰雄記念館は今後訪ねる予定です、乞うご期待 。
                        Y.aoki 記

記念館タイトル表示 ◆所沢航空発祥記念館訪記など紹介。
航空発祥記念館
航空発祥記念館
 〔日本最初の飛行場 所沢航空記念公園を訪ねる〕

 所沢航空発祥記念館に実際に動く零戦があると聞き尋ねた。この所沢航空記念公園は50ヘクタールの広さをもつ公園で駐車場も多く市民の憩いの場になっている。ランニングに精出す人、丘の芝生に寝転ぶ人、紙飛行機を飛ばす人など皆楽しんでいる。

 案内看板を見るとこの地は明治44年に日本で最初に徳川好敏大尉がフランス製のアンリ・ファルマン 機で800m飛行したという。飛行機の滑走路も有し、整備もできる飛行場であった。戦後アメリカ軍が使用し返還後の昭和53年に公園とし利用され、その一角に航空発祥記念館が開設された。

 〔堀越二郎特別展開催〕

 「風立ちぬ」の宣伝が効いているのか、入場に列ができている。会場内は堀越二郎の生涯が年代を追って詳しくパネルに表示され、企画展用解説本も2000円で販売、堀越二郎の30分ものの映画も上映されていた。


航空発祥記念館
日本発の飛行機
 〔飛行可能な零戦をみる〕

 ゼロ戦の本物が奥の展示場に据えられ2階からも眺められる。この零戦の所有者は米国の航空博物館が所有し、日本には17年振りで3度目、めったに 見られない代物。

 実際に飛行するビデオも上映されている、アメリカから運ぶには機体をバラし、日本でまた組み立てている。

航空発祥記念館
飛行可能な零戦52型
 〔航空機産業は将来の日本製造業の牽引役となりうるか〕

 館内には過去だけでなく未来の技術も紹介されている。 航空機は自動車の100倍の部品点数が必要とされ、高度にシステム化された工業製品であり、整備、運行、訓練など幅広いサービスも必要とされる。航空輸送は今後15年で2倍にのびると予想う。

 最新鋭のボーイング787は機体の50%に炭素繊維複合材料が使用され、機体の35%が日本製と言われる。堀越二郎生誕、ライト兄弟初飛行から110年、半世紀振りに 国産旅客機MRJの初飛行、ビジネスジェットhondajetが計画されている。


堀越二郎氏写真
堀越二郎氏写真
 〔堀越二郎の終戦日記〕

 堀越二郎の八月十五日の終戦日記を入手した、約70年前の終戦の日に、こんなに冷静に現状を分析し、きちんと整った名文を書けるだろうか、「誠実にして、叡智ある、憂国の政治家出でよ」の結びは心を打つ。

 「正午ラジオが天皇が重大な放送をされると告げたとき、私は咄嗟に終戦の勅許に違いないと悟った。録音を再生しての放送は、お声がかすれて所々しか聞き取れるなかったが、天皇の悲しい御言葉の一つの一つを聞き分ける必要はなかった。しかし徐々に開戦も已むを得ないような雰囲気が作り上げられた4年前、さて現実に戦いが起こって見ると、敗戦まで行かぬうちに何とか政府は手を打つのだろうと万然と考えてきた。国民大衆はこれを聞いて何と感じたであろうか。

 戦いは終わった。日本がすっかり消耗し尽くした後の、初めて経験する現実の敗戦。明日からわれわれは何をしたらよいのだろう。飛行機を造ることが終わったという以外、現実には何も分からない。分からないが考えなければならぬ。社会的訓練の未熟、過剰な人口と狭い国土、自力では解決できぬ致命的な経済上の問題を抱えているこの国に、数年前の文明国らしい生活が帰って来るだろうか。

 われわれに国際間の自由な交易を世界が許してくれなければ、疲弊から立ち直ることはできない。そもそも先進欧米諸国のブロック経済主義がこの戦争の根本原因でなかったか。

 日本が、否日本の軍部とそれと結ぶ政治家が、外交で平和的に打開することせず、武力に訴え所まで短気を起こしたことが、戦争の原因でなかったか。戦勝国民にも、日本国民にも、この反省がなければ、日本の前途には長期にわたる経済および道徳の混乱が続くだろう。それは日本人にはもとより、世界人類にとっても得策でないはずである。日本に壊滅をもたらした政策を指導してきた者が全部去らなければ、腐敗の種は残る。「誠実にして叡智ある、憂国の政治家出でよ」これが願いである。


 〔偉人たちの言葉〕

 ◆ロケットの父、ロバート-ゴダールの言葉
  昨日の夢は、今日の目標であり、明日には実現となる。
   夢を持つことが未来を創る第一歩

 ◆堀越二郎の言葉
  私は一瞬、自分がこの飛行機の設計者であることをも忘れて美しい! と、喉咽のそこで叫んでいた。

   堀越二郎著、「零戦その誕生と栄光の記より」

 ◆ピーター・ドラッカーの言葉
  未来を知る確実な一つの方法は、未来を自ら創り出すこと、またもう 一つの方法は歴史を知ること。

Y.AOKI記  

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