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〔偉人〕

本因坊秀策(ほんいんぼう しゅうさく)

 
〔ほ〕の偉人 細井平州 堀辰雄
堀越二郎 本因坊秀策

プロフィールバー 〔本因坊秀策〕のプロフィール
俗称・筆名 本因坊秀策
本名 桑原虎次郎
生誕 文政12年(1829年)父和三、母カメの二男として生まれる。幼少時代母より囲碁の手ほどきを受ける。
死没 文久2年(1862年)コレラにて病没する
出身地 広島県尾道市因島外浦町
最終学齢 5歳より囲碁を学び6歳にて近郷に敵なし、三原城主に見いだされ本因坊家に入り、跡目となる
職業 棋道家
ジャンル 囲碁
活動
代表作 御城碁19連勝し12年間無敗のまま御城碁は廃止された。
古今無双の碁聖と言われる。
記念館 〔本因坊秀策囲碁記念館〕
 広島県尾道市因島外浦町121-1
 TEL:0845-24-315
言葉・信条 囲碁のこころ構え《囲碁十訣》を信条とした。
愛用の碁盤の裏に《慎始、克終、視明、無惑》と揮毫する。

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本因坊秀策の写真
本因坊秀策)

人生履歴 〔本因坊秀策〕の人生(履歴・活動)

〔囲碁史上最強と言われる本因坊秀策〕
 今を去ること200年前、江戸時代後期、天才棋士本因坊秀策が現れ、徳川将軍の御前で打つお城碁では12年間無敗の19連勝を達成している。平成最後の年に井山雄太氏が囲碁タイトルを独占し話題を呼んだので、囲碁を嗜む多くの人が知っている《秀策流の創始者・本因坊秀策》を紹介しよう。


本因坊秀策 略歴
1829年(文政12年)

1歳 現在の尾道市因島外浦町 で生まれ 、母より囲碁の手ほどきを受ける。

1833年(天保4年)

5歳 尾道の豪商・橋本竹下と出会う、竹下は秀策の棋才を見抜き、以後支する。

1835年(天保6年)

7歳 三原城主浅野忠敬と対局、城主の勧めで本格的に囲碁指導を受ける。

1837年(天保8年)

9歳 江戸へ出て十二世本因坊丈和の門に入る。

1839年(天保9年)

11歳 初段の免状を受ける。五人扶持を賜る。

1843年(天保14年)

15歳 四段へ昇進、名を秀策に改め、この頃より秀策流と呼ばれる1、3、5の布石を用いる。

1846年(弘化3年)

18歳 大阪にて十一世幻庵因碩と対局耳赤の一手を打ち勝利、評判を呼び、江戸に帰り五段に昇進する。

1848年(嘉永元年)

20歳 十四世本因坊跡目を継承、本因坊丈和の娘花と結婚、六段へ昇進する。

1849年(嘉永2年)

21歳 初めての御城碁へ出仕し初勝利、以後12年間、御城碁無敗の十九連勝をなしとげる。

1853年(嘉永6年)

25歳 好敵手太田雄三と三十番碁をはじめ、23局終える。七段へ昇進する。

1857年(安政4年)

29歳 因島へ四度目の帰郷、幼少時に使っていて碁盤に揮毫

1861年(文久元年) 

33歳 御城碁19局目を林有美と打つ、19勝目となるが、母カメ死す、秀策追善のため百ケ日の精進生活に入る。

1862年(文久2年)

34歳 8月10日、本因坊家でコレラにて病没する。

1900年(明治33年)

〔後日談〕
 秀策の対局を纏めた「敲玉余韻」が編集された。


ゆかりの地 〔本因坊秀策〕ゆかりの地など

〔尾道市因島の秀策囲碁記念館を訪ねる〕
 戦国時代村上水軍の本拠地の一つである、尾道市因島の山上にある水軍城を訪ねた。その受付で城の下に《本因坊秀策囲碁記念館》があるので訪ねてみたらと声を掛けられた。囲碁の世界で本因坊秀策は伝説の人なので訪ねる事にした。水軍城から車で5分位の位置にあり、道路標識にも本因坊秀策記念館と掲げられていてすぐわかる。駐車場も完備されている。

 記念館は平屋で立派だ、中に入ると歴代本因坊の武宮正樹氏、張治勲氏 等の顔写真が掲げられている。本因坊になると、「この聖地・本因坊秀策記念館を訪ねるのだろう」と勝手に推測した。

 館内では地元人たちが大勢碁を打っている。そういえば私の隣人に囲碁の高段者がいて、帰って報告したら因島は海に囲まれ、夏には真っ黒になるまで魚採りや水泳に没頭したという。秀策の聖地出身者ゆえに碁の筋も良いのだ。かって、アマチュアのトップであった村上文祥氏もこの島の出身である事を知った。

 館内には本因坊秀策が使用した直筆の署名がある碁盤や、秀策の筆になる囲碁十訓、肖像画、耳赤の一手をイメージした龍の絵図等が並び楽しめる。囲碁好きの方は、しまなみ海道を訪ねる際はこの《囲碁の聖地》を訪ねてほしい。




因島水軍城
秀策囲碁記念館の道路標本因坊秀策囲碁記念館の正面玄関
 
  本因坊各氏の写真が並ぶ   秀策記念館の内部

〔碁聖・本因坊秀策の略歴〕
 秀策流の創設者・本因坊秀策は、瀬戸内海の小島・因島に江戸後期の 1829年に生まれる。母親より碁の手ほどきを受け、5歳の頃には近郊に敵なく、豪商橋本竹下にその才を見いだされた。因島を支配した三原藩主浅野忠敬は囲碁好きで秀策の才に惚れ込み、扶持を与え家来とし、江戸での修行を認めた。江戸の本因坊家に入り修行した秀策は頭角を現し、20歳頃には徳川将軍の御前で打つ《お城碁》に出場するようになり、本因坊家の跡目となる。幕末に徳川幕府が滅びるまで、12年間に負けがなく、トップクラスの棋士を相手にして19連勝している。しかし当時江戸に流行ったコレラに罹り34歳の若さで病没している。

本因坊秀策の碁盤と肖像

 秀策流は良く1,3,5と打つ布石(先手黒番での初手が右上小目、三手目が右下小目、左下五手目が小けいま掛かり)といわれている。三重県本因坊で鳴らした先輩のお話では昭和30年代でも秀策流は主流の布石で、呉清源、木谷実を中心とした、新布石、星、天元、三三等がはやり始めたとのこと。江戸末期から昭和まで、いや今でも秀策流は生きているとすれば素晴らしい布石であったわけです。


〔碁聖と呼ばれる本因坊秀策と七冠達成の井山七冠〕
 2018年正月のビッグニュースとして囲碁界の井山雄太氏は全タイトル七冠を争覇、また将棋界の羽生善治氏も永世七冠を達成し、両氏の国民栄誉賞受賞が話題を呼んだ。囲碁も将棋も日本の国技に近い知的スポーツだ。囲碁の七冠とは名人、本因坊、碁聖、棋聖、王座、天元、十段である。これを全て獲得することは異例なことである。将棋界でも2017年若干14歳の藤井翔太が29連勝し、天才少年として脚光を浴びている。

七冠達成の井山雄太氏

〔秀策記念館のパンフレットが素晴らしい〕
 尾道市が運営する本因坊秀策記念館のホームページを見ると、秀策の生い立ちから囲碁の歴史、ルール、記念館の概要などがやさしくパンフレットに紹介されていて素晴らしい。是非検索しご覧ください。


尾道市のホームページ

〔本因坊秀策の出身地は海賊の島〕
 2014年本屋大賞を受賞した《村上海賊の娘》という本が話題を呼び、因島は海賊の島と呼ばれるようになった。村上水軍は因島水軍、能島水軍、来島水軍の3つがあり、水軍城は因島水軍の博物館となっている。海賊の島々は現在しまなみ海道と呼ばれ、橋で結ばれ、青い海、美しい島、空の織り成す景観は,サイクリングで廻る外国人を魅了し、人気の観光コースとなっている。


尾道と四国を結ぶしまなみ海道

〔神童と呼ばれた秀策〕
 NHK制作の映画であろうか《秀策》というビデオ映画をみた。悪さをし父に叱られた秀策は押入れに入れられた。泣き声もないので覗いたら、押入れの中にある碁盤に石を並べ遊んでいたというエピソードが紹介されている。

  本因坊秀策の幼名は虎次郎、尾道市のホームページで《虎ちゃん新聞》という名で紹介されている。虎次郎は4歳の頃より母に囲碁を教えられ、幼児期に《絶対碁感》を体得し、5歳の頃には近郷に敵なく、神童とよばれ、縁あって三原城主浅野忠敬と対局、棋才を認められ5人扶持で召し抱えられた。殿様は江戸の本因坊家に入れ、本因坊丈和の弟子となり、才能を開花させた。


因島の本因坊秀策の生誕の地

〔囲碁の歴史を知ろう〕
 台湾から来日し戦後日本の囲碁界に君臨した呉清源の著書「天才の棋譜」という本の中で、《碁はもともと勝負を争うゲームではなく、天文や易を占う道具であった》と言っている。
中国で文字ができたのは、殷(紀元前1100年前)の時代、文字のない時代盤面に線を引き白石と黒石で陰陽の動きを知ろうとした。碁盤を宇宙にたとえ、天体は360からなり、碁盤の目は縦19、横19で361ある。

  一つ余計でそれが天元、つまり太極のことで宇宙の根元を表している。昔の暦は360で1年の日数に当たる、これを4つに分け4隅を春夏秋冬、白石と黒石は昼と夜、このように天地を象徴化したのではないかと。

  呉の孫権が打った棋譜(2000年前)があり、これが世界で一番古い棋譜と言われている。また三国志の中で関羽が碁を打っているシーンがありあると言う。


囲碁風雲録
天才の棋譜 呉清源


 囲碁は数千年前に中国で誕生し韓国を経て飛鳥時代に日本に渡来したと言われている。日本では平安時代の源氏物語や枕草子に囲碁を打つ絵が存在する。日本に伝来した中国の碁は星に石を4つ置いて始め、朝鮮の碁は16おいて始めた。日本の碁は何処に置いても良く、深遠な布石や定石が開拓され、日本碁法は中国、韓国に逆輸入され世界の碁へと発展し統一された。

  江戸時代、徳川家康は囲碁を保護し、四家の家元(本因坊、井上家、安田家、林家)を保護し、将軍の前で打たれる御城碁が年一回開催された。江戸幕府が倒れた後は、御城碁も沙汰止みとなり、将来に望みを持てなくなり、棋士たちも離散し、明治4年(1871年)に碁院四家への家禄奉還令が出され家元制は崩壊した。碁界が復活したのは明治11年(1878年)方円社が発足し秀策が指導した人(初代村瀬秀甫、2代中川亀三郎、3代健造)が社長に就任し、秀策の教え子たちが新しい碁の基礎を作ったと言われる。のちに日本棋院設立へとつながる。


平安時代の物語中に碁を楽しむ女性たち

〔本因坊秀策の棋譜を網羅した 本因坊秀策全集〕
 昭和54年に発刊された『本因坊秀策全集四巻』を図書館で見つけた。和綴じ本で、打った石の番号が算用数字でない十五と言った漢数字で書かれている。この本の巻頭で編集者の瀬越憲作氏は本因坊秀策の碁風を絶賛している。一部紹介すると『秀策の打碁には簡易性が一貫している。秀策は強力と読みの深さを、奥深く蔵して、碁の複雑性を簡易化している。実に碁の奥妙に達しえた名人にして、初めてなし得る神技と言えよう』と。

また『秀策壮年の碁では自ら争闘に出ることもなく、スラスラと打ち勝ち抜いている。この理詰めの、全部出さなくても位だけで勝つところに、この巨匠の偉大さがある』。この秀策全集は四巻で500局の打碁が紹介されている。


本因坊秀策全集 瀬越憲作編

〔石田芳夫元本因坊著「碁聖秀策」では〕
  徳川囲碁史を通じ、《碁聖》の尊称と呼ばれる人は2人、4世本因坊道策と幕末の本因坊跡目秀策である。道策は前聖、秀策は後聖とよばれる。前聖・道策は理論的碁法の創始者で周囲をことごとく打ち伏せ名人碁所につき60歳の天寿を全うした。秀策は名人どころか七段に留まり、本因坊跡目のまま34歳の若さで病没している。碁聖と言われる理由は御城碁19戦全勝と高潔な人格者である事によると記す。


秀策 石田芳夫著

〔御城碁とは〕
  時代劇の映画やテレビを見ていると碁を打っているシーンをよく見かける、徳川家康は囲碁を保護発展させる狙いから、当時最強の本因坊算砂を初代名人碁所として任命した。呉所を預かる棋士は名人に限定し、本因坊家に続き、井上家、安井家、林家を家元四家として認め、この四家が碁所を預かるために競い会うようになった。

御城碁に出場すれば士分に認められ10人扶持が給付された。それ故に狭き門で原則として碁院4家の当主か跡目弟子、四家以外は七段以上でないと出場できなかった。秀策は21歳六段の時に初出仕(1849年)した。本因坊家の当主が死去し、本因坊秀策が跡目となり出仕が可能となった。
出仕した秀策は御城碁で19番たたかい、12年間一度も負けがないまま、江戸幕府が消滅し御城碁もなくなる。将軍の前で、各家元の当主や高段者を相手に闘う御城碁は最高のイベントであり、ここで12年間無敗の19連勝は、まさに碁聖と言われる所以である。


ご城碁が行われた江戸城

〔秀策の妙手《耳赤の一手》とは〕
 
秀策の遺譜の中で最も有名なのがこの一局で、囲碁全史を通じても屈指の名局と本因坊石田芳夫は著書「秀策」と書いている。
1846年故郷尾道因島からの出府途上、大阪で井上因碩(玄庵)と有名な《耳赤の碁》を打つ、秀策は四段、因碩は準名人の八段、囲碁4家の一つ井上家の当主で普通対戦もできない相手ですが、友人の師匠ということで対面が叶う。
10手目から難解と言われる大斜ガケに入り、コウ争いもある複雑な闘いの中、因碩の白が優勢の状況下、127手目を打った時(図を参照)観戦していた医師が秀策の勝ちと予測した。その理由は因碩の耳が赤くなった、これは「動揺した証拠」という。記念館内にはこの耳赤の棋譜を12枚に分け詳細に掲示し解説も加え《世紀の名勝負》を紹介している(写真参照)。
打ち手の耳が赤くなったという医師の見立てに驚くが、この時秀策はまだ18才、四段で御城碁に出場するのは3年後の1849年である。この碁のあと井上因碩は秀策先で3局打っているが、打掛、2目負け、中押し負け、この局を含めると4敗し、秀策の実力を認めると共に、秀策の才能に惚れ込んだと見られ、後年当時の秀策は《七段はあった》と述懐している。この一局私も興味本位に、棋譜を並べてみた。難解といわれる大斜ガケで始まりコウ争いが続き、素人には優劣つけ難いむずかしい碁だ。

記念館内に耳赤の布石図を「高橋りく」というアーティストが九頭龍に例えて描いた創作画が展示されている。盤上を天空に見立て、白地には白龍がたむろし、赤龍、緑龍、黄龍などが描かれ黒地、未確定地、中間地などを表し、その着想に敬意をはらいたい。写真を添付する。


城耳赤の一手を紹介した展示風景
 

耳赤の一手127の棋譜

尾道市の本因坊秀策パンフレット


耳赤の一手を描いた九頭竜の絵

〔若く急逝した本因坊秀策〕
  本因坊秀策は当時流行したコレラにかかり1862年8月10日34歳の若さで急逝する。前年御城碁の最中に母カメが永眠した。母を慕っていた秀策は喪に服するため、栄養のあるものを控え粗食で過ごし体が衰弱していたこと、また本因坊家内にも多くの人がコレラに罹り、その看病をしている間に自分も罹り、秀策のみ亡くなった。当時コレラが良くわからず本人もはしかと思っていたという。19連勝中、34歳の若さで亡くなったことは、囲碁界にとっても大きな損失であった。

秀策は4度故郷に帰っている。新幹線で短時間の内に帰れる今と違い、江戸から広島・因島に帰るのは大変なこと。帰るときは1年以上も滞在して、行き帰りにも大阪、名古屋などで碁を打ちながらの旅であり、現在の感覚とは違う。秀策は父母に手紙を良く書き、その手紙を纏め巻紙にしたものが、記念館に展示されている。


秀策 直筆の手紙

〔囲碁十訣の教え〕
  秀策記念館に秀策サイン印入りの囲碁の心構えを説いた《囲碁十訣》が掲示されている。元は中国唐時代の王藉新の言葉ですが、 秀策の座右の銘であり記念館の入場券にも使用されている。囲碁を習うものに大変参考になる教えなので茲に紹介する。 カッコ内は一般社会に通ずる意訳。


秀策が揮毫した《囲碁十訣》

・不得貧勝   むさぼれば勝ちを得ず(貪欲は損を招く)
・入界宣緩   界に入りては宜しくゆるやかなるべし(相場の勢いが勝るときはゆるやかに)
・攻彼顧我   彼を攻めるには我を顧みよ(相手を攻める時は、まずは足元を固めよ)
・棄子争先    子を棄てて先を争え「子は石、先は先手」(つまらぬ手は捨てて先を考えよ)
・捨小就大   小を捨てて大につけ(小さな局面にわずわされず大局を見よ)
・ 逢危須棄   危うきに逢えばすべからく棄つべし(危ない手は捨てよ)
・慎勿軽速   謹んで軽速なるなかれ(軽速は軽率) (慎重であれ)
・動須相応   動けば、すべからくあい応ずべし (相場の動きに対し臨機応変に)
・彼強自保   彼強ければみずから保て (劣勢の時には自らを守れ)
・勢孤取和   勢い孤なれど和を取れ(まずい手はほどほどに治まれば良し)


〔参考文献〕
・本因坊秀策全集  瀬越憲作編 誠文堂新光社刊

・囲碁風雲録 林裕著  講談社刊

・日本囲碁体系 秀策 石田芳夫著 筑摩書房

・天才の棋譜 呉清源著 読売新聞社

・日本囲碁盛衰史 神山潤著





青木青眠 記
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