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松浦武四郎

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プロフィールバー 〔松浦武四郎〕のプロフィール。
俗称・筆名  松浦武四郎
本名  松浦竹四郎
生誕  1818年(文政元年)生まれ
死没  1888年(明治21年)2月10日
出身地  三重県松阪市小野江町
最終学歴  津藩平松楽斎の私塾に学ぶ
職業  探検家、出版家、篆刻家、蝦夷地開拓判官
ジャンル  サイハテ探検家(蝦夷、樺太、大台ケ原)、紀行本の出版家、アイヌ民族の理解者、篆刻家、登山家
活動  日本全国を歴遊、未開の蝦夷地を6度にわたり踏査し200以上の書物にまとめ、100点以上を出版、北海道の名付け親、晩年は大台ケ原を探査し紹介、この地を愛した。幕末の志士、吉田松陰や頼三樹三郎等や維新の三傑とも交流があった。
代表作 各種蝦夷日誌34巻、蝦夷大概図、
東西蝦夷山川地理取調図、
蝦夷漫画、四国遍路道中雑記、
北海道国郡図

松浦武四郎の肖像・写真 
松浦武四郎唯一の肖像写真。
写真で首に掛けている数珠が行方不明であったが静嘉堂文庫の資料の中から出てきた。


 松浦武四郎は北海道の名づけ親で知られ北海道、樺太の探検、開拓に功績のあった人。 伊能忠敬が亡くなった1818年に伊勢松阪市(旧田丸三雲町)の庄屋松浦圭介の四男として生まれている。

 生家はお伊勢参りの街道に面し、伊勢神宮への参拝客でにぎわい、小さい時から参拝の光景を見て育ち、外の世界への好奇心は人一倍強かった。

松浦武四郎の生家 
武四郎の生家
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松浦武四郎の肖像・写真 
(出典:Wikipedia)
 
日本全国を歩いた武四郎の紀行文は人気をはくす 
日本全国を歩いた武四郎の紀行文は
人気をはくす
 16歳の時、手紙を残し 江戸に家出するも、連れ戻される。ただ戻る際に善光寺、戸隠山、木曽御岳の登山を楽しみながら帰っているのにも驚かされる。しばらく親元でおとなしくしていたが、17歳で外への誘惑にかてず諸国探訪の旅に出る、親は1両(現在の約5万)を襟に縫い込み 、使い終われば帰るだろうと思っていたが、10年間故郷に帰らず父親とはこの出発が今生の別れとなった。

 諸外国やロシアが日本に開港をせまり、北海道を狙っている事をしり、27歳で津軽半島の竜飛岬かから蝦夷地を目指すが失敗。28歳で初めて蝦夷地に到達する。それから41歳まで6度にわたり蝦夷地を踏破、伊能忠敬や間宮林蔵が作成した北海道の海岸線地図に内陸部の地名をアイヌ語で1万に及ぶ地名を付け、『東西蝦夷山川地理取調図』を完成させた。

 明治になり北海道開拓史がおかれると、函館奉行御雇いとなり樺太の調査にあたる。北海道の名前を募集があると5案を提出、その中から今の北海道が選ばれた。アイヌの人を愛し愛され、アイヌ語を語り、アイヌの民族を紹介する本も沢山出版している。晩年は大台が原に興味を持ち大台ケ原を探索、紹介本を出版。自らの骨もここに埋めるよう遺言をした。


記念館タイトル表示 松浦武四郎記念館の訪問記録などの紹介。
松浦武四郎記念館 
松浦武四郎記念館


 〔松坂市にある松浦武四郎記念館を訪ねる〕

 伊勢神宮や志摩半島を旅するついでに松浦武四郎の記念館を訪ねることにした。松阪駅でレンタカーを借り記念館のある松阪市小野江を目指す、30分弱でつく、写真のように白壁の立派な建物だ。玄関を入るとホールの床に大きな北海道の地図が埋め込まれ、武四郎があるいた跡やネーミング地点が刻まれている。

記念館内部の武四郎像 
記念館内部の武四郎像
 受付で千葉から来たと告げると、中野館長がわざわざ出てきて、館内を案内して下さった。記念館に入ると薄暗い照明の中、松浦武四郎の紋付袴の実物大の像がお出迎えする。

 背は小柄だが江戸時代としては普通の大きさだろう。中野恭館長のお話では武四郎は小柄(当時148cm,今で170cm)だが、健脚で1日50〜70km位は歩いたという。電車も飛行機もない時代16歳から71歳の亡くなるまで全国を走破している。

武四郎のゆるキャラ 
武四郎のゆるキャラ

記念館ホール床にある北海道地図 
記念館ホール床にある北海道地図


 〔北海道の名付け親:松浦武四郎〕

 松浦武四郎は伊能忠敬ほど世に知られていない、が忠敬以上に北海道の開拓、告知には貢献している。

 北海道という名を付けた人というとホーとうなずく人もおりますが、その詳細は知られていないので、ここに紹介したい。

武四郎の手紙は屏風で保存されている 
武四郎の手紙は屏風で保存されている
 伊勢神宮の20年に一度の遷宮祭が2013年行なわれ1000万人以上の人が訪れている、日本人の10%が伊勢の地を訪ねたことになる。江戸の昔からお伊勢参りは《一生に一度は行きたい》という日本人の願いでもある。

 武四郎はこの伊勢街道沿いで育ち、16歳で松坂を飛び出し、70歳になるまで全国を駆け巡っている。そして今で言う観光案内書を発刊している。その案内本を見ると自分で絵と文を書き、解りやすいものだ。


 〔北海道の名称案を6つ提案した。〕

 明治時代になり、北海道の名前募集があったとき 6つの案を上申 、その中で『北加伊道』の案が採用された。加伊は海に改め蝦夷地を北海道と命名されたのです。

 武四郎が北加伊道と提案した背景にはアイヌ民族を指す古い言葉が『カイ』であるという話を地元の古老から聞き『北加伊道は北のアイヌ民族が暮らす広い大地』という意味で、先住民であるアイヌの人々を尊重する思いが込められている。 道内の郡名や国名(今の支庁名)はアイヌ語に基づいたネーミングとなっていたが、その後の名称変更で変化している。北海道内には松浦武四郎を顕彰する3体の銅像と50の顕彰碑が建てられているという。
霧多布岬には武四郎の歌碑がある 
霧多布岬には武四郎の歌碑がある

 〔中野館長さんの熱心な説明を聞く〕

 中野館長の説明は解かりやすく、武四郎を慕う熱意が伝わってくる。松阪の歴史に始まり、昔は神皇正統記の北畠家に仕え、戦国時代には藤堂高虎、江戸時代には和歌山藩領になっていた。

 松浦家は長崎平戸の松浦党からこちらに流れてきたとの説明を受ける。

 
 武四郎の父桂介は本居宣長門下で国学を修め,俳諧や茶道にも親しんだ風流人で、武四郎は末っ子でもあり父親に愛され、幼い頃より、和漢の軍談を聞かされ育った。ゆえに、若くして僧侶になり、また還俗し、探検家、文筆業、篆刻家、絵や書にも通じた多彩なマルチタレントとなっている。


 〔松浦武四郎の蝦夷地探索は6度に及ぶ〕

 松浦武四郎の蝦夷地への好奇心には驚く、長崎平戸で僧侶となっていた武四郎は長崎で名主津川文作からロシア南下の危機を聞かされ、「蝦夷地を探査し国の守りを固めたい」ということから、蝦夷地行きを決断したというから並みの人ではない。

第4回目の蝦夷・樺太の探査行路図 
第4回目の蝦夷・樺太の探査行路図

 〔蝦夷地探索の過程を見てみよう。〕

 まず10年ぶりに故郷伊勢松阪の実家に帰り、先祖の墓に蝦夷地行きの決意を報告する。両親はこの10年の間に亡くなっていた。この間に伊勢神宮への参拝や四国・九州の旅日誌を執筆している(1843年頃

(武四郎26〜27歳)
 京都、北陸、会津から下北半島竜飛岬から蝦夷地を目指すも、松前藩の取締り厳しく失敗。

(27歳)
 1回目:船主商人のつてを得て、江差から日本海沿岸、東蝦夷(函館〜根室)へ、知床では和人最初の「勢州一志郡出南松浦武四郎」と墨書した木柱を立てる。

(28歳)
 2回目:松前藩医の下僕として石狩から宗谷海峡を越えカラフトに渡る(2カ月)。同行のアイヌから蝦夷語を習う。アイヌを伴い知床まで行き1回目の木柱を確認。日本人初の蝦夷地一周の壮挙を達成。

 江差に帰り頼三樹三郎と出会い「百韻百詩」という会を催し祝儀を稼ぎ三樹三郎に渡し金銭面の面倒を見る。百韻百詩は連歌の会のように、即興で100の漢詩を作り、これを早朝から夕刻までに武四郎が篆刻し完成するイベント。

(29歳)
 3回目:函館〜根室〜国後島、択捉島を探索。三度の蝦夷行を全34冊の蝦夷日 誌を刊行、また北海道の地図「蝦夷大概図」を上梓、水戸藩に献上、評判となる。

(32〜33歳)
 4回目からは 幕府役人として蝦夷地探査

 ペリー来航やプチャーチン(ロシア)の来航により、幕府は蝦夷地守備強化のため函館に奉行所を開設、松浦武四郎は「蝦夷地御用雇人」の役人となり、蝦夷地全域の調査,道作りルート調査からカラフト(現サハリン)にも渡り中部のシツカ(現ポロナイスク)まで探査する。

 またアイヌの民族の激減実態をしらべ、アイヌ民族の命と文化を守ることを訴えた。この時の報告書は32冊に及ぶ。探索は過酷を極め隊長は死去、武四郎も大病にかかり死を覚悟し辞世の歌を残す。

 《我死なば焼くな埋めな新小田に捨ててぞ秋の実りをば見よ》

(武四郎39歳)
 5〜6回目 蝦夷地の内部を探査する

 5回目は石狩川,天塩川の河口から上流まで遡り探査する。
 6回目は全ての海岸線、日高川、十勝、道東の内陸部を探査する。
 この報告書は62冊におよぶ。

(武四郎41〜42歳)
 間宮林蔵、近藤重蔵の作成地図は北海道の海岸線を作り、輪郭を確定した。

 が、中は真っ白だった、松浦武四郎は北海道内部を探索し山、川や集落の有無等を1万に及ぶ地名(アイヌ語多し)を記載した地図「東西蝦夷地山川地理取調図」を完成させた。

(武四郎43歳)

友人の画家・河鍋暁斎に書かせた自分の涅槃図、中央にいるのが武四郎 

友人の画家・
河鍋暁斎に
描かせた
自分の涅槃図

中央にいる
のが武四郎

 〔幕末の志士と交流があった松浦武四郎〕

 松浦武四郎は蝦夷地を6度、15年に渡り探査し、この旅行記を発刊している。志士に影響力をもつ水戸藩には蝦夷の地図を献上するなどしているから、志士との交流は多く、情報能力も優れていた。1854年のペリー来航に際しては「下田日誌」を著し当時関係者しか知らない情報が詳細に書かれ、黒船の見取り図まで書かれていた。

 吉田松陰の書簡が記念館に展示されているが、吉田松陰が武四郎邸を訪ね,海防問題につき話し合い、一つの布団に一緒に寝たと云うくらい親しい関係にあったようだ。

 藤田東湖、頼三樹三郎、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允とも交流があった。明治になって開拓史になったのも大久保利通の推薦があったという。画家・書道家・詩人・歌人等の芸術家とも交流があったが、武四郎自身、絵や書、漢詩、和歌も詠み、人間的魅力があったのだと思う。

 〔松浦武四郎の研究会を毎月開催している〕

 松浦武四郎記念館では月2回《武四郎を読む会》を実施、毎回15ー16人が参加というから熱心なファンが地元にいるからこそできること。その成果をまとめ本を年1回発刊している。江戸から明治時代の古文ゆえに基礎知識が必要だ。 毎年テーマを変えてやっているというが、すばらしいことだ。十勝、釧路、日高日誌等140冊からの資料がある。

 〔記念館には重要文化財が1503点ある。〕

 この記念館は平成6年に建設、松浦家より遺品の寄贈受けた、重要文化財は1503点に及ぶ、展示されている資料を見ると達筆な文章と上手な絵が添えられた紀行文が多い、筆者は薩摩を旅した旅行記を購入してみたが、武四郎の直筆の絵と文で構成され読みやすい。江戸時代にはこの様な本は少なく、新傾向の本であっただろう。

記念館内部 
記念館内部

 〔多彩な顔を持っている松浦武四郎〕

 武四郎は探検家、登山家(100の山を歩く),歌詠み、出版人、大台ケ原紹介者、漢詩・絵を嗜み、篆刻家(いんかん作り)、学者、思想家、宗教家、作家、測量家地図制作、考古収集、小銭収集などまさにマルチタレント だ。 交通網が発達した今でも難しいことを200年前に全国を行脚しこれを絵と文で書き出版している。

 16歳といえば現代の高校生である、この年齢で全国を行脚しているが経済的にはどうやって生きていたのだろうという疑問が湧く。武四郎は江戸で篆刻(印鑑)の技術を習得し、地方を旅するさいに有力者の篆刻を彫って旅費を稼いでいたらしい。

 また伊勢神宮のある伊勢の出身というのが、彼の旅を支えていた。当時“伊勢参りをいつかは”という庶民の願いがあり話題にことかかなかった。それ以上に武四郎の人間性、マルチタレント振りが人々を魅惑し、交流が深まり支援者も多くいたのだろうと思う。

 〔晩年は大台ケ原の紹介に尽力する〕

 今でこそ大台ケ原は知られているが、江戸末期は秘境で魔の山であった。

 老いてなお、冒険心が盛んな武四郎は、三重県と奈良県の境にまたがる、北海道と似た気候の大台ケ原が気に入り60代後半に3度登り、登山道の整備や、山小屋の建設に尽力した。

 大台ケ原を終焉の地と定めここに埋めよと遺言した、現在分骨碑がある。

大台ケ原にある武四郎分骨碑 
大台ケ原にある武四郎分骨碑

 〔一畳敷の書斎を作る(70歳)〕

 記念館の中に一畳の書斎がある。武四郎が晩年、知人を通じ全国の古社寺から材料を集めて建てたもので「草の舎」と呼んだ。中野館長がこの素材は熊野本宮大社とか、出雲大社、聚楽第などと説明してくれる、いずれも有名な寺社のもので交流がないと入手できないものだ。

 都会のサラリーマンは自分の書斎をもてない人も多い。そんな人に一畳の書斎は自分の世界を持てるという魅力的なものだ。畳1畳あれば悟りの境地に入れるという武四郎の考えがあるのかも。1畳の書斎をイナックスが協力し平成20年再現、実物が展示されている。本物の書斎は国際基督教大学構内に移築されている。

 〔《武四郎まつり》を毎年2月に開催〕

 北海道の探索はアイヌの信頼が無いとできなかった。武四郎はアイヌを愛しアイヌの言葉で話し、交流した。そして松前藩の武士に苦しめられたアイヌ民族に同情し、幕府に当時の悪法「場所請負制度」の廃止に尽力した。またアイヌの生活・文化風俗を紹介する「蝦夷漫画」を著し、庶民に蝦夷(北海道)を紹介した。

 武四郎をニシパ(旦那)と慕ったアイヌの末裔と毎年2月(武四郎の誕生月、忌月)に武四郎祭りを開催している。アイヌの伝統舞踊と松坂のしょんがい踊りが披露される。現在、武四郎生誕200年となる 記念行事企画中とか。

 〔松浦武四郎の歌〕

 *我死なば焼くな埋めな新小田に捨ててぞ秋のみのりをばみよ
 *優婆塞もひじりもいまだ分けいらぬ 深山の奥に我はきにけり(大台ケ原を読む)
 *花咲いてまた立出ん旅こころ 七十八十路身は老いぬとも(70歳の時読む)


 ◆松浦武四郎記念館の場所

 ・住所 〒515-2109 三重県松阪市小野江町383番地
 ・電話 0598-56-6847 FAX 0598-56-7328

  参考図書 : 松浦武四郎の歩き方 NAGI凪47 発行所月兎舎

                            Y. 青木 記

一畳敷きの書斎 
一畳敷きの書斎
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