1
|
まず10年ぶりに故郷伊勢松阪の実家に帰り、先祖の墓に蝦夷地行きの決意を報告する。両親はこの10年の間に亡くなっていた。この間に伊勢神宮への参拝や四国・九州の旅日誌を執筆している(1843年頃
|
(武四郎26~27歳)
|
2
|
京都、北陸、会津から下北半島竜飛岬から蝦夷地を目指すも、松前藩の取締り厳しく失敗。
|
(27歳)
|
3
|
1回目:船主商人のつてを得て、江差から日本海沿岸、東蝦夷(函館~根室)へ、知床では和人最初の「勢州一志郡出南松浦武四郎」と墨書した木柱を立てる。
|
(28歳)
|
4
|
2回目:松前藩医の下僕として石狩から宗谷海峡を越えカラフトに渡る(2カ月)。同行のアイヌから蝦夷語を習う。アイヌを伴い知床まで行き1回目の木柱を確認。日本人初の蝦夷地一周の壮挙を達成。
江差に帰り頼三樹三郎と出会い「百韻百詩」という会を催し祝儀を稼ぎ三樹三郎に渡し金銭面の面倒を見る。百韻百詩は連歌の会のように、即興で100の漢詩を作り、これを早朝から夕刻までに武四郎が篆刻し完成するイベント。
|
(29歳)
|
5
|
3回目:函館~根室~国後島、択捉島を探索。三度の蝦夷行を全34冊の蝦夷日 誌を刊行、また北海道の地図「蝦夷大概図」を上梓、水戸藩に献上、評判となる。
|
(32~33歳)
|
6
|
4回目からは 幕府役人として蝦夷地探査
ペリー来航やプチャーチン(ロシア)の来航により、幕府は蝦夷地守備強化のため函館に奉行所を開設、松浦武四郎は「蝦夷地御用雇人」の役人となり、蝦夷地全域の調査,道作りルート調査からカラフト(現サハリン)にも渡り中部のシツカ(現ポロナイスク)まで探査する。
またアイヌの民族の激減実態をしらべ、アイヌ民族の命と文化を守ることを訴えた。この時の報告書は32冊に及ぶ。探索は過酷を極め隊長は死去、武四郎も大病にかかり死を覚悟し辞世の歌を残す。
《我死なば焼くな埋めな新小田に捨ててぞ秋の実りをば見よ》
|
(武四郎39歳)
|
7
|
5~6回目 蝦夷地の内部を探査する
5回目は石狩川,天塩川の河口から上流まで遡り探査する。
6回目は全ての海岸線、日高川、十勝、道東の内陸部を探査する。
この報告書は62冊におよぶ。
|
(武四郎41~42歳)
|
8
|
間宮林蔵、近藤重蔵の作成地図は北海道の海岸線を作り、輪郭を確定した。
が、中は真っ白だった、松浦武四郎は北海道内部を探索し山、川や集落の有無等を1万に及ぶ地名(アイヌ語多し)を記載した地図「東西蝦夷地山川地理取調図」を完成させた。
|
(武四郎43歳)
|