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〔偉人〕

三波春夫(みなみ はるお)

 
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水木しげる 南方熊楠 三波春夫

プロフィールバー 〔三波春夫〕のプロフィール
俗称・筆名 三波春夫
本名 北詰文司
生誕 1923年(大正12年)7月19日
死没 2001年(平成13年)4月14日 満77歳没
出身地 新潟県三島郡塚山村(現長岡市越路町)
最終学齢 日本浪曲学校
職業 歌手、浪曲家
ジャンル 歌謡浪曲
活動
代表作 〔歌謡曲〕
 『チャンチキオケサ』
 『大利根無情』
 『東京五輪音頭』
 『世界の国からこんにちは』

〔長編歌謡浪曲〕
 『元禄名槍譜俵星玄蕃』
 『豪商一代紀伊国屋文左衛門』
 『平家物語』

〔著書〕
 『すべてをわが師として』
 『熱血!日本偉人伝』
 『真髄 三波忠臣蔵』
記念館
言葉・信条 〔三波春夫の言葉〕
 《お客さまは神様です》 昭和47年の流行語

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三波春夫の写真
(出典:The Homoerratic Radio Show)

人生履歴 〔三波春夫〕の人生(履歴・活動)
ほたるの館内に《ふるさと三波春夫展》が常設されている

 三波春夫は、1923年(大正12年)7月新潟県長岡市越路町(旧三島郡塚山村)に北詰幸三郎・ミヨの三男として生まれる。

《ふるさと三波春夫展》内に並ぶレコードジャケット

 家業は本屋、村一番の声自慢であった父親の影響で、小さい頃から歌のうまい少年で、民謡・歌謡曲・浪曲を覚え、田植え時など畦を舞台に歌ったり、浪花節をやったりで皆から喜ばれる。13歳で上京、米屋、魚河岸等で働くかたわら、16歳の時日本浪曲学校に入学、南城文若の芸名で六本木の寄席、新歌舞伎座で初舞台を踏み、全国巡業で活躍する。


 1944年(昭和19年)満州(現中国東北部)に出兵、20年終戦、捕虜としてシベリア(ハバロスク)に抑留される。この間、労働の合いまに浪曲・演劇・歌を創り演じることで多くのことを学ぶ。

 帰国後、浪曲家として復帰、1952年(昭和27年)12月に結婚、妻の三味線で浪曲2人旅をはじめる。しかし浪曲の世界に疑問を持ちはじめ、《大衆芸術は浪曲だけでない。今、大衆が喜び、待っているのは歌なのだ》と実感し、浪曲の仕事を断り、歌のレッスンを受け、歌に人生を賭ける。

相撲は強かった:後列右から2人目


故郷の役場へ贈った直筆額

 1957年(昭和32年)歌謡界に転進し《三波春夫》の芸名で『チャンチキおけさ』『船方さんよ』で歌手レビューする。当時、着物姿の男性歌手はなく、《和服歌手第1号》となる。

 その後、『大利根無情』〈1959年〉『東京五輪音頭』〈1963年〉『世界の国からこんにちは』〈1967年〉長編歌謡浪曲『元禄名槍譜俵星玄番』〈1964年〉等の大ヒットを生み、特に昭和の大イベント《東京オリンピック、大阪万博》のテーマ曲を唄い、多くの国民に唄われ愛され国民的歌手の道を歩み、1964年(昭和39年)《日本レコード大賞特別賞受賞》、1976年(昭和51年)リサイタル「終わりなきわが歌の道」で、1982年(昭和57年)には歌謡生活25周年リサイタル「放浪芸の天地」でいづれも文化庁芸術祭優秀賞を受賞、1994年(平成6年)「平家物語」で日本レコード大賞企画賞を受賞する。

 1985年(昭和60年)出身の越路町名誉町民の称号を授与される1986年〈昭和61年〉紫綬褒章授賞、NHK紅白歌合戦出場(40回記念で平成元年)には30回の出場を果たす。


三波春夫 略歴

13歳で上京

16歳で浪曲学校入学、全国を巡業

19歳で満州へ出兵

終戦後4年間シベリアに抑留される。

1952年(昭和27年)

結婚し妻の三味線と春夫の浪曲で2人旅を開始。

1957年(昭和32年)

『チャンチキオケサ』で歌手デビュー

歌謡浪曲に転進、東京オリンピック、大阪万博の主題歌が大ヒットし国民的歌手として人気を博す。その後も長編歌謡浪曲『俵星玄蕃』など歌芸の道を歩み極めた。

1964年(昭和39年)

日本レコード大賞特別賞受賞

1982年(昭和57年)

「放浪芸の天地」で文化庁芸術祭優秀賞受賞

1964年(平成6年)

「平家物語」で日本レコード大賞企画賞受賞

1985年(昭和60年)

越路町名誉町民

1986年(昭和61年)

紫綬褒章受賞

1994年(平成6年)

勲四等旭日小授賞を授賞

2001年(平成13年)

新潟県民栄誉賞受賞、NHK紅白歌合戦は30回出場


ゆかりの地 〔三波春夫〕ゆかりの地など

〔長岡市の郊外に三波春夫の銅像や顕彰碑がある。〕
 長岡市の郊外、塚野山にある越後最古の民家・重要文化財長谷川邸を訪ねた折に、その駐車場の近くに《三波春夫顕彰碑》という立看板が目に付いたので、覗いてみた。かなり広い公園には三波春夫の顕彰碑、銅像、代表曲が聞ける歌謡碑、そして地域の《公民館のような建物・ほたるの館》には三波春夫のすべてがわかる記念館とおぼしきものがある。三波春夫が新潟県出身であることは知っていたものの、この地に生まれ育ったとは、偶然とはいえ、何か縁を感じここにご紹介します。

三波春夫の顕彰碑、歌碑
三波春夫の顕彰碑、歌碑

 この長谷川家屋敷は江戸時代から大庄屋でこの付近一帯に180町歩の田畑をもっていた。屋敷の広さは間口70メートル、奥行き120メートルと広大なもの、屋敷の廻りには堀が巡らされている。表門は茅葺の長屋門、母屋の土間は広く、たくさんの部屋がある、床は黒光りで涼しさを感ずる。この長谷川邸のすぐ横に三波春夫顕彰碑という立看板がある。


長谷川家の内部は見学できる
長谷川家の内部は見学できる
長谷川家の長屋門
長谷川家の長屋門
豪農の館・長谷川家の母屋
豪農の館・長谷川家の母屋

〔三波春夫の銅像が立ち、顕彰碑もある〕

 両手を広げた笑顔の三波春夫が2mの台座の上に2mはある銅像がたっている。

 公園の背後は稲田がひろがる。

歌う姿の三波春夫銅像
歌う姿の三波春夫銅像
三波春夫の歌が聞ける装置
三波春夫の歌が聞ける装置

 案内板を見ると、三波春夫はこの地の出身で13歳まで、この地で過し、その後上京し、米屋や魚河岸等で働きつつ、民謡や浪曲を習い、歌謡浪曲という新しい分野を築き、国民的歌手として大成されたとある。


 銅像のある公園はかなり広く、三波春夫の代表歌、チャンチキお袈裟の立派な歌碑、その脇にはチャンチキおけさ、東京五輪音頭、雪の渡り鳥、世界の国からこんにちわ、越路盆唄の五曲が流れる装置がある。顕彰碑などを読みながら、順次この5曲の肉声に聞きいった。張りのある三波春夫の美声が、この自然な稲田の中に鳴り響く、これもまたいいものだ。

三波春夫の顕彰碑・銅像のある公園
三波春夫の顕彰碑・銅像のある公園

〔ふるさと三波春夫展は《蛍の館内》に常設〕

 三波春夫顕彰碑のある公園横に《ほたるの館》がある。この館の右奥に《ふるさと三波春夫写真展》という看板がある。中に入ると三波春夫の写真入りレコードジャケットが所せましと飾られ、三波春夫の笑顔、笑顔、笑顔である。

ほたるの館
ほたるの館

 思えば、昭和の大イベント東京オリンピック、大阪万博のテーマソングを歌っているのが三波春夫だ。東京で2回目のオリンピックが開催されるが、その時も60年前のこの東京オリンピックソングを使っても良いのではと思うほどの名曲だ。また大阪万博の世界の国からこんにちわ は今でも口ずさめるほどの懐かしい曲だ。後で市役所に聞いてみたところ、《三波春夫記念館》とは言ってないが三波春夫後援会が運営する常設館であるとのこと。

ふるさと三波春夫展(常設)
ふるさと三波春夫展(常設)

〔シベリア抑留を4年間体験した〕
 三波春夫は昭和19年に召集され陸軍に入隊、満州に派兵された。終戦後、64万捕虜の1人としてシベリアで4年間過す。抑留中は《浪曲上等兵》といわれ、毎日の労働(レンガ積み、石炭おろし、材木の切り出し等)の苦しさを紛らわすために、浪曲を聞かせてとせがまれ、休日や休憩時間に演芸会をひらき披露した。


出征時の写真
出征時の写真

 ソ連当局はこれに目をつけ《共産主義の思想教育に活かすため、芝居や歌の楽劇団を組織させた》、三波春夫は中心となって脚本、演習、出演もした。

三波春夫の直筆手紙
三波春夫の直筆手紙

 浪曲はソ連将校には受けなかったが、古賀メロディの《青い背広でこころも軽く…》と歌うといい声をしていると賞賛、三波春夫に民主化芸術家の肩書きを与えキャンプ廻りをさせた。

 節あり語りあり笑いあり、説教的要素もありで人気をえた。三波春夫は後年《シベリヤで歌の素晴しさを知りました。浪曲は長いが、歌は短くて皆で歌える良さがある》と述懐。この経験が後年の歌手・三波春夫を生む原点となった。

 三波春夫は50年後の平成7年夏、終戦50年記念企画のTV特別番組でシベリアを訪れている。日本人抑留資料館にある《日本新聞》に掲載された演芸大会の記事中に、本名北詰文治(司が正しい)の名前を見つけている。


〔故郷に錦を飾った三波春夫〕

 三波春夫展常設館には、三波春夫の生涯が写真で紹介されている。

 昭和30年代だろうか? 歌手として成功した三波春夫が故郷越路町に帰ったときの写真が展示されている。

故郷の歓迎に応える三波春夫
故郷の歓迎に応える三波春夫
故郷の子どもたちと
故郷の子どもたちと


 狭い田舎道には人と車がごったがえし、車から三波春夫が笑顔でこたえ、子供達と一緒に映る姿もある。町長への感謝状、町民に贈った直筆の額も展示されている。

 三波春夫の故郷への思いは強く、人生最後のステージは故郷越路町の体育館で平成12年11月12日(日)開催された。すでに癌をわずらい、開催も危ぶまれる中、故郷での2時間に及ぶショウのフィナーレは、三波春夫作詩・宮川泰作曲の《終わりなき我が歌の道》という三波春夫のマイウエイだったという。


〔三波春夫の東京五輪音頭が大ヒットした理由は!〕

 東京 オリンピックの歌「東京五輪音頭」は三波春夫の持ち歌と思っていましたが、この歌はコロンビア専属の古賀政男の作曲で、レコード会社各社に開放され、三波春夫、橋幸夫、三橋美智也、坂本九、島三郎・畠山みどり各社、大木伸夫・司富子等が競い歌いました。

東京五輪音頭のジャケット
東京五輪音頭のジャケット

 群を抜いて三波春夫の歌がヒットしたのですが、その理由について、2001年に古賀政男文化振興財団から三波春夫が顕彰された記念イベント(於・けやきホール)において、「歌手は当然のごとく、自分の新曲が出ればその歌を熱心に歌って回るわけだが、当時の三波さんは、自分の新曲はさておき、どんな時も一生懸命『東京五輪音頭』を歌った。

 戦争に行き、シベリアで捕虜となっていた三波さんは、彼の言葉を借りれば、『日本は、日本人は、頑張って、こんなに戦後復興を遂げたんですよ、ということを、戦後初めて世界に示すイベントである東京五輪はなんとしても成功してもらいたいと思った』という思いが人一倍強かった。そういう強い気持ちが載った歌だった」という内容の話をしている(wikipedia掲載)

 この東京五輪音頭は1曲で250万売れたという大ヒット商品で、今でもこの記録は抜けないのではなかろうか? NHK紅白歌合戦には30回出場、最後のトリをとったのは5回、紅白歌合戦のエンディングは通常「蛍の光」が恒例だが、唯一昭和38年〈1963年〉の紅白歌合戦では三波春夫の「東京五輪音頭」が歌われた。


〔国民に愛された歌手〕
 三波春夫は父親の美声を引き継ぎ、小さい頃から米どころ・新潟の田植時には、民謡や浪曲を唄っていたと言うから才能は天才的だった。13歳で上京、色々の職業を経験しながら、16歳で浪曲学校へ入学、10代で歌舞伎座の初舞台に立ち、地方廻りで鍛える。

 シベリア抑留時に歌謡曲の時代を予感し、日本の伝統歌謡に興味を持ち、長時間の《歌謡浪曲》分野を切り開き、《元禄名槍譜俵星玄蕃》でヒットし、晩年には《平家物語》-2時間30分の長編歌謡浪曲-の構想に10年を費やした。《世の中を明るくする仕事を》したいという思い、と《お客様は神さまです》のこころ根が国民に愛されたのでしょうか。


 〔俳句が趣味で 俳号は北桃子〕
 三波春夫の晩年の秘書・娘八島美夕紀が《ゆく空に》という本を発刊、三波春夫の思い出を書いている。各章ごとに北桃子の俳号で句が紹介されている。最初は女性かなと思ったが、良く考えると《子》は昔から男を指した、俳人も秋桜子、誓子、虚子など《子》を使った俳人も多いことに気がつく。北桃子の北は三波春夫の本名北詰からとり、桃子はかわいい俳号だが桃が好きだったのだろうか。

 書籍名の「ゆく空に」は 三波春夫辞世の句逝く空に桜の花があれば佳しの発句を使っている。

掲載句をいくつか挙げてみると

   ☆れんげ摘む遠いあの日のお下げ髪

   ☆この芽和えかめば故郷ほろ苦く

   ☆高々と蝉三界の経を読む


行く空に(娘執筆)
行く空に(娘執筆)

〔歴史に造詣が深かった三波春夫〕
 日本の歌謡史は三波春夫の生涯のテーマとして研究している。三波春夫の歌には平家物語の琵琶、仏教の声明、民謡、浪曲、講談、演歌などの日本の伝統歌謡が内包している。それゆえに人々の心をとらえる。

 三波春夫には《熱血!日本偉人伝》という著書がある。この中に9人の偉人が並ぶ、高田屋嘉兵衛、大石内蔵助、勝海舟、平清盛、二宮尊徳、児玉源太郎、織田信長と豊臣秀吉、聖徳太子、スサノウと日霊女、 これら偉人の多くが三波春夫の歌の素材になり、歌謡浪曲として唄われている。

 『ゆい人物館』で紹介している 内村鑑三の代表的日本人 は5人の偉人をあげておりますが、三波春夫は10人の偉人を上げている。


熱血!日本偉人伝
熱血!日本偉人伝


 これを読むと通常知らない視点から書かれ面白い。例えば、勝海舟の祖父は新潟県の三波春夫の生家に近い村の出身で盲目だが頭脳明晰で最高位の検校にまで上りつめ、財をなしたが、死ぬ時は全ての借用書を焼きすてた。

 《子孫に金を残すのでなく徳を残す》と遺言したという。そのような人物の孫ゆえ、江戸城無血開場をなしとげ、西郷隆盛は江戸を救い、大久保利通は東京遷都をなしとげ150万江戸庶民の失業を救った。これらにみな勝海舟が関わっている、という視点で書かれており面白い。


また平清盛は悪人としての評価が一般的だが、神戸港や音戸の瀬戸を開き、『日本は貿易立国でなければと日宋貿易をはじめた世界に目を向けた大人物』ととらえている。従来の平家物語の悪人説をくつがえした『新しい平家物語』をかき、長編歌謡浪曲にしたてている。

 歌手は作詩家の詩を歌うのが普通ですが、三波春夫は自分でその人を研究し、惚れこみ唄っている。その底に流れる思いが強いから、聞く人々の心を打ち、国民的歌手にまで到達したように思う。

もっと長生きして、多くの偉人を描いた長編歌謡浪曲を唄って欲しかった。

   《三波春夫顕彰碑、ふるさと三波春夫展常設館》
     所在地:新潟県長岡市塚野山5141
     Tel:0258-92-3111

青木青眠 記
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