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〔偉人〕

村岡花子(むらおか はなこ)

 
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村岡花子

プロフィールバー 〔村岡花子〕のプロフィール
俗称・筆名 村岡花子
本名 安中はな
生誕 1893年(明治26年)
死没 1968年(昭和43年)
出身地 山梨県甲府市
最終学齢 東洋英和女学校高等科
職業 翻訳家,児童文学者
ジャンル 文学
活動 英語教師、翻訳、文筆。
1960年児童文学への貢献で藍綬褒章受賞
代表作 〔翻訳〕
 『赤毛のアン』シリーズ
 『フランダースの犬』
 『王子と乞食』
 『不思議な国のアリス』
 『小公女』
 『アンデルセン童話集』

〔著作〕
 『生きるということ』
 『村岡花子童話集』
記念館 〔赤毛のアン記念館・村岡花子文庫〕
 〒143-0024東京都大田区中央3-12-4
 イングルサイドハウス大森1F
言葉・信条

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村岡花子の写真
(出典:赤毛のアン展パンフレット)

人生履歴 〔村岡花子〕の人生(履歴・活動)

 村岡花子は明治26年山梨県甲府市の安中逸平・てつ の長女として生まれる。父逸平は熱心なクリスチャンで花子も2歳で洗礼をうける、5歳の時一家で上京し父は南品川で葉茶屋を営む。社会主義活動に加わった逸平は教育の機会均等を訴え、娘の才能を伸ばすべく、10歳で東洋英和女学校の給費生として入学させる。東洋英和女学院はカナダ人創設のミッションスクールで、生徒の多くは裕福なお嬢さんたちだ。


 そのような環境の中、花子は給費生としてミス・ブラックモーア校長より英語、地理、歴史、聖書、音楽、料理などを広く学び、特に英語は書籍室にある英米の古典文学や家庭文学を読破、友人からは「英語のお花さん」と呼ばれたと言う。

 大正2年の高等科卒業式では《日本女性の過去・現在・将来》と題した卒業論文を英語で読み上げたという。

村岡花子 処女作「爐邊」
(出典:赤毛のアン展パンフレット)
東洋英和女学校1890年〈明治23年〉
(出典:赤毛のアン展パンフレット)

村岡花子 略歴
1914年(大正3年)

東洋英和学院高等科(後に東京女子大学と合併)を卒業すると、英語教師として姉妹校の山梨英和女学校に赴任、5年間の教師生活を送る。教壇に立つかたわら文学の道を模索し、翻訳や創作童話を発表した。妹のような教え子に自作や翻訳の物語を聞かせるうちに、日本の出版界に少女たちにふさわしい読み物が少ないことを実感する。

1917年(大正6年)

24歳で初めての翻訳短編集「爐邊」を刊行する。

1917年(大正6年)

東京銀座にある教文館に女性向け、子供向け雑誌の編集者として勤務する。

1919年(大正8年)

村岡けい三と大恋愛の末結婚、翌年長男を誕生するも6歳で病没する。これを機に英語児童文学の翻訳紹介の道に入る。

1927年(昭和2年)

マーク・トウエインの《王子と乞食》を翻訳出版する。

1932年〈昭和7年〉から
1941年(昭和16年)11月まで

JOAKのラジオ番組に出演「ラジオのおばさん」として人気を博す。また翻訳作品を朗読したSPレーコードも発売する。太平洋戦争迫る中、帰国するカナダ人宣教師ミス・ショウから別れに贈られた「赤毛のアン」(Ann of Green Gables)を戦時中、灯火管制のもと翻訳に熱中する。

1952年(昭和27年)

赤毛のアン》とし発刊する、日本初の家庭図書館「道雄文庫ライブラリー」を自宅に開館。

1960年(昭和35年)

児童文学に対する貢献により藍綬褒章受賞

1968年(昭和43年)

 1968年 脳血栓で死去(満75歳没)


〔NHKの朝ドラ『花子とアン』の主人公 村岡花子の《モンゴメリーと花子の赤毛のアン展》を見る。〕

花子とアンの関連書物が並んでいた
花子とアンの関連書物が並んでいた

 朝のNHKドラマ『花子とアン』が茶の間の人気を呼んでいる。

 このドラマの主人公の記念館が東京都大森にあるのを知り、訪ねようと調べたら2015年春までは閉館、日本カナダ修好85周年を記念した展覧会が全国規模で開催され、花子の資料が全国を巡回しているので閉館中。東京では日本橋三越で2014年5月に開催されていたので覗いてみた。

 会場は花子人気でごった返している、80%以上が女性である。展覧会では「赤毛のアン」の原作者と翻訳者の村岡花子の生涯と作品を紹介し、2人の共通点を分析紹介している。

 会場近くの特設コーナーには、「赤毛のアン」や村岡花子の関連著書が所狭しと並んでいた。2015年春までの全国のデパートで開催される(北九州6月、大阪8月、岡山9月、沖縄10月は決定)。詳細はネットで検索ください。


〔モンゴメリーと花子には共通点がある。〕

 一つは2人とも教師であった。二つに貧しい家庭に育ち級友はお嬢様で、そのギャップを受け入れ育つ、三つ目は共にペンで生計を支えたこと。花子は少女時代から実家の家計を支え、関東大震災で倒産した夫を助け支えた。そして2人とも息子を亡くしている。言葉の力を信じ、

  《幸せとは自分だけが得るものではなく、
    周囲の人・家族とともに求めるべきもの、分かち合うもの》


モンゴメリーと村岡花子 赤毛のアン展HPより
モンゴメリーと村岡花子
赤毛のアン展HPより

という考えは生涯変わらず、その実現のため努力を惜しまなかったことも共通している。


〔腹心の友《白蓮》〕

 ドラマでは腹心の友・燁子(あきこ)として登場し九州の炭鉱王と結婚する。花子と燁子の境遇はまったく違うが心を許せる友であり、また、歌の道でも佐々木信綱の兄弟弟子である。

 大正天皇の従姉妹で伯爵家令嬢である燁子は政略結婚に耐え切れず宮崎龍介(孫文の革命を支援者で有名な宮崎滔天の長男)と駆け落ち事件をおこす。後に結婚、歌人、平和活動家として活躍する。

 展示会には花子と交わされた毛筆の手紙が多数展示されていた。燁子は大正三大美人の一人と称されている。

腹心の友:白蓮<BR>出典:赤毛のアン展パンフ
腹心の友:白蓮
出典:赤毛のアン展パンフ

〔幼き日に読んだ童話は殆んど村岡花子の訳本と知る〕

 子供の頃読んだ童話例えば「イソップ童話集」「フランダースの犬」「小公女」「ピーターパン」「ピノキオ」「アルプスの娘ハイジ」「赤毛のアン」「乞食と王子」など殆どが村岡花子の訳本であることを知る。赤毛のアンシリーズでも10種類以上もあることを知る。

 村岡花子は自分の妹のような生徒を教えたとき、子供達に読ませる本が日本にないことに気づき、外国童話の翻訳を志し、また自分でも書くようになった。

花子の翻訳本
花子の翻訳本
出典:赤毛のアン展パンフ

〔大恋愛の末 結ばれた村岡花子と夫・敬三〕

 山梨での教師生活を5年経験し上京、銀座にある教文館に大正8年入社、編集者として活躍のかたわら、小冊子「小光子」に翻訳物の短編を寄稿した。

 この頃、村岡敬三と知り合い恋に落ちる。展覧会では半年に70通からの毛筆のラブレターが交わされ、その一部が展示されている。

花子と敬三のラブレター
出典:赤毛のアン展パンフ
村岡花子と夫・敬三
出典:赤毛のアン展パンフ

 電話もメールもない時代、月に平均10通の交信は大変なもの、しかも、その内容を見ると熱烈で、敬三から“キスをしたい”などと言う表現もみられ、現代人でもこれほど純粋で情熱的な恋愛はなかなかできない。

 敬三は横浜で印刷会社を経営していた。花子は大正8年26歳で村岡敬三と結婚し、翌年には長男・道雄を出産したが、大正2年の関東大震災で夫の印刷会社は倒壊、倒産する。大正15年には長男道雄を疫痢で失う。

 花子はこの人生の試練に耐え“女性、子供向け読み物の翻訳”に没頭する。その絶望の中でマーク・トウエインの「王子と乞食」にであいこの翻訳を決意する。

 花子はその後子供に恵まれず、妹の子供みどりを養女に迎え、孫・花岡恵理が《アンのゆりかご、村岡花子の生涯》を書き、今回のNHK朝ドラ《花子とアン》の原作となりました。


〔ラジオのおばさん 村岡花子〕

 《歌のおばさん安西愛子》は戦後の人、《ラジオのおばさん》村岡花子は戦前有名であった。

 柔らかく張りのある口調で『全国の小さい方々ごきげんよう』ではじまり「それではごきげんよう、さようなら」で終わる挨拶は流行語になったという。今放映の『花子とアン』も『ごきげんよう、さようなら』が三輪明宏の語りでおわっているのも、なるほどとうなずける。

ラジオのおばさん 花岡愛子
ラジオのおばさん 村岡花子
出典:赤毛のアン展パンフ


〔《赤毛のアン》出版には13年の歳月を要した〕

 「赤毛のアン」は本だけでなくテレビアニメで、誰でも一度は目にした物語だ。この物語はルーシ-・モード・モンゴメリ作だが、当初どの出版社に持ち込んでも拒否され、最後6番目の会社が引き受け出版、大ヒットになったという。

 1939年〈昭和14年〉戦争ムードが漂い、欧米文化排斥の風潮のなか、会社の親友ミス・ショウも帰国を余儀なくされ、帰国に際し友情の記念にと贈られたのが愛読書「ANNE OF GREEN GABLES」だった。そして『いつか平和が訪れたら、日本の少女たちに紹介してほしい』というメッセージが寄せられていた。

 花子は『周囲を巻き込みながら、前向きに生きてゆく主人公アンが、自分の少女時代と重なり、夢中で読みふけった』そして 空襲、灯火管制の中、敵語「赤毛のアン」の翻訳に没頭した。

赤毛のアンの初版本 保存版と朱筆し保存していた。
赤毛のアンの初版本
保存版と朱筆し保存していた。
出典:赤毛のアン展パンフ

 原稿をもって防空壕にかけこむことも度々、そして敗戦、書かれた翻訳原稿は700枚あまりになっていた。三笠書房から出版されたのは1952年(昭和27年)、原書を受け取ってから13年、訳了から7年目のことであった。前向きに生きる「赤毛のアン」は敗戦で打ちひしがれた人々、少女に、勇気と想像力を与え、大人気を博した。


〔モンゴメリの趣味は写真〕

 モンゴメリーとアン展をみて、モンゴメリーの写真への造詣の深さを知った。モンゴメリーの部屋模型をみると、美的センスがあり、展示されているアルバムは写真だけでなく押し花やデッサン、切り抜き絵などで素敵にデザインされている。

 10代の頃からコダックの一眼レフで撮影し、現像からプリントまで自分でやり、『写真ほど魅力的でより大きな喜びを引き出してくれる趣味はありません』と言っている。 1931年(昭和6年)にはコダック社の国際コンテストの審査員をし、映画作りもしている。

 カナダのゲルフ大学には2000点の作品があり、スクラップブックも6冊ある。この時代日本では、コンタックスカメラ1台で家が買えたといと言われたほど、カメラは貴重品であった。

W.Lモンゴメリー ウィキペディアより
W.Lモンゴメリー
出典:ウィキペディアより
〔道雄文庫ライブラリーの開設〕
道雄文庫の子供達
道雄文庫の子供達
出典:赤毛のアン展パンフ

 村岡花子は自分の蔵書や長男道雄の絵本など1000冊ほどを近所の子供たちに「道雄文庫」として解放した。

 土曜の放課後はおやつを食べたり、勉強会、遠足、英語の勉強会などで楽しいひと時を過した、花子も時々参加したという。道雄文庫は花子が入院する昭和42年まで継続した。


〔花子の幅広い人脈〕
 花子は執筆、放送、社会活動に参加していた。作家では古屋信子、宇野千代、林芙美子、平林たい子、坪井栄等と親交があり、実業家広岡浅子、政治家では市川房枝、同級生で徳富蘆花夫人の愛子等と幅広い交流活動をしている。

 村岡花子は赤毛のアンのように明るく前向きに生き、戦中禁止されていた敵性語の翻訳に命をかけ、戦後1952年、物資が不足するなか、「赤毛のアン」として出版した。

 現在の発行部数は新潮文庫版だけでも1400万部に上り、全世界で5000万部と言われる中、日本で30%をしめる(読売新聞DATA)。

 その人気の秘密は《花子の翻訳文の美しさ》にあるという。本のタイトルも最初は「窓辺による少女」だったが、娘みどりの押す《赤毛のアン》と決まったエピソードがあり、ネーミングの良さがヒットにつながった面もある。


〔祖母村岡花子が伝えたかったこと〕
 村岡恵理が語る「祖母村岡花子が伝えたかったこと」のラジオ番組を7月のある日聴いた。村岡恵理は花子の孫で「花子とアン」の原作者です。

 恵理さんは姉と一緒に「村岡花子記念館」を運営しているので、いつか祖母・花子のことを書きたいと思っていた。が、今の学校では近代史を教えてくれず、物語の背景がわからず苦労したという。

 青春時代沢山の本をよみ、関東大震災、太平洋戦争に遭遇しても《絶望しない、生きる力》をもつ花子を伝えたかったと言う。また祖母花子の翻訳文には《多くの言葉の中から日本語を選ぶ言葉の豊かさ》があったと述懐している。そこには歌人になりたくて歌の勉強をした日本語力が生きている。


花子とアンの原作者村岡恵理(右) 出典:赤毛のアン展カタログ 
花子とアンの原作者村岡恵理(右)
出典:赤毛のアン展カタログ
青木青眠 記
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