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〔偉人〕

山田方谷(やまだ ほうこく)

 
〔や〕の偉人 やなせたかし 山県有朋
山川登美子 山田方谷 山田風太郎
柳田国男 山下清 山村暮鳥

プロフィールバー 〔山田風太郎〕のプロフィール
俗称・筆名 山田方谷(やまだほうこく)
本名 山田球(通称:安五郎、字:琳卿、幼名:阿りん)
生誕 1805(文化2)年2月21日
死没 1877(明治10)年6月26日(73歳没)
出身地 現岡山県高梁市中井町西方
(旧備中松山藩阿賀郡西方村)
最終学齢 丸川松隠塾、佐藤一斎塾
職業 藩家老格。儒家・陽明学者
ジャンル
活動 備中松山藩の藩政再建と産業振興。有終館学頭。閑谷学校再興。
代表作 『山田方谷全集』全3巻 山田準編 明徳出版社
『擬対策』
『理財論』
記念館
言葉・信条

人生履歴 〔山田方谷〕の人生(履歴・活動)

 山田方谷は幕末から明治初期の漢学者、政治家である。備中松山(現高梁市)に生まれ、5歳で丸川松隠塾にて漢学を学ぶ。

 若くして父母を亡くし15歳で家督をつぎ菜種油の製造、販売と農業に従事する。


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山田方谷の写真
(出典:歴史放談)

人生履歴 〔山田方谷〕の人生(履歴・活動)(続き)

 こうした経験が、後に備中松山藩主板倉勝静に認められ、借金漬けだった藩政を建て直すのに役立ったようだ。当時の備中松山藩の歳入は5万両だが、実高は2万両でしかなかったと言われており、借金の方は10万両であった。

 山田方谷はこの借財を8年で返還し建て直した。藩主板倉勝静は、この改革が幕府に認められることとなり、江戸幕府の筆頭家老に任命され大政奉還に関わることになる。

 方谷は藩主板倉勝職・勝静の二代に仕え、「理財論」で藩財政を建て直し、岡山藩の「閑谷学校」(日本最初の庶民学校)の再興にも尽力した。

〔山田方谷先生像〕*01

ゆかりの地 〔山田方谷〕ゆかりの地など
 〔備中松山藩における山田方谷の藩政改革〕

 すでに触れたように、山田方谷が備中松山藩の藩政改革に着手前の借金が約10万両であったが、これに対し歳入総額は表高で約5万両(実高で2万両)なので、松山藩はちょうど総収入の2年分を借金していたことになる。

 これまでの松山藩の対応策は、藩士の扶持(給料)を石高に応じて削減し渡す借り上げ米、農民の持高に応じて割り増しをして取り立てる高掛米、あるいは富裕な庄屋や城下の裕福商人、そして江戸や大坂の豪商から借金をすることでやり繰りしてきたが、このやり方ではどれほど努力しても借金を返済するどころか、今後も借金を増やすことになる。

 そこで、藩主板倉勝静から藩政改革を頼まれた方谷は、すでに12年前に著した『理財論』を基礎に、経済の本来は「経世済民」にあるとし、「乱れた世の中を整えて、苦しんでいる民を救うこと」を基本方針に、次のような具体策を実施した。

方谷地図
〔山田方谷の関連地図〕

?@  江戸や大坂の豪商に、松山藩の実情(表高は5万石だが実高は2万石)を説明して納得してもらい、歳入増となる施策を提示することで、借金支払いの延期を願うこと。それと同時に藩が借金している証書としての藩札の信用を回復させること。

?A  藩主をはじめ藩士・藩民の勤倹節約を徹底すること。但し、藩主が率先垂範に努め、下に向けては撫育が必要なので、決して税の取り立てなどを強化しないこと。

?B  銅山、鉄山、及び砂鉄などを開発して、農具・工具・生活用品の生産をすること。また、杉、竹、漆、たばこ、茶など、地域の特産物と、ゆべし、陶器、檀紙など、名産品を積極的につくりように、藩内の産業を奨励すること。

?C  押し寄せる社会経済変化に対応するために、大砲の製作や農兵制の導入など、軍制改革を積極的に推し進めること。

?D  「経世済民」を実現するためには、人材育成が大切であること。そのためには、文武を奨励しなければならないが、特に前者の教育を推進すること。

 こうした藩政改革によって、松山藩は8年後に借金を完済した上に、約10万両の黒字が発生したと言われる。ともかく、財政的な困窮から脱しただけでなく、これが高く評価されたことも事実であるが、藩主勝静が奏者番や寺社奉行となる基盤がつくり上げられたことを忘れてはならない。


 〔藩主板倉勝静は老中首座となる〕

やがて、勝静は将軍の一橋慶喜の信認を受けて、文久2年には老中首座に任ぜられ、幕政改革や版籍奉還に関わることになる。この勝静を、すでに幕府の崩壊を予測しつつも補佐したのが山田方谷である。
山田方谷が書いた大政奉還の原文
〔山田方谷が書いた大政奉還の原文〕*02

 〔陽明学との出会いと「理財論」〕

 方谷が藩主勝静から元締役兼吟味役を仰せつかり、藩政改革に着手するのは46歳であったが、その基本理念とした『理財論』は、江戸の佐藤一斎塾時代に書いた論文で、その当時の方谷はまだ32歳であった。

 若くて学問一筋だった方谷が、なぜ「財産運用」に関する『理財論』を執筆するようになったのか。その理由は推測するしかないが、もちろん、藩財政の逼迫もいずれ解決しなければならないと考えてはいたであろう。

 これに加えて、農民をはじめ一般庶民の生活苦を知っている方谷は、人々の苦を済度しなければならないことを、本格的に探していたのではないだろうか。

 学問の意味を探していた方谷は、江戸の佐藤一斎の門を叩き陽明学に出会った。晩年の方谷が門人たちとの質疑応答で、「学問の道は誠意のみ」と答え、その「誠」は「太虚に立ち帰ること」としている。

 陽明学では、この太虚から、いわば人が自然と一体になれば、他者の苦しみは自分の苦しみであり、この苦しみを取り除こうとするのは、人として当然のことで、これを致良知としている。この致良知に陽明学は、混乱する社会経済の救済根拠を見出している。



 致良知を大切にした方谷は、社会経済の根本である財それ自体の性格から問題にする。なにしろ財は利が中心と考えられ易いため、人々が引き付けられがちな性格をもっている。

 この性格をそのまま出している人々は、人々も自分の欲望によって、利己的になっているので、人として歩むべき正しい道(義)などを考えてはいない。このように目先の利益にこだわってしまえば、人は一年後や五年後の利益までに考えが及ばない。

 そこで、社会経済を改革する者は、ここから一旦離れなければならない。学問の道とは誠意であると説く方谷は、まず目先の利益から離れよと語る。

 『理財論』の中で方谷は、「それ善く天下のことを制する者は、事の外に立ちて、事の内に屈せず」とし、私心を離れた大局的な見地から「義を明らかにして利を計らず」と述べる。

 つまり、理財は財の外に立つことで、社会経済の全体的な視点から見ることが大切なのである。そこにこそ「経世済民」の本来があり、先に取り上げた五つの施策を実施しなければならないと、方谷は「事の外に立つ」ことを強調した。この方谷の視点は揺るがず、12年後の藩政改革に活かされたのである。


方谷誕生地と方谷園
〔方谷誕生地と方谷園〕*03
 〔山田方谷の生い立ちと方谷園〕

 1805(文化2)年、備中松山藩内の阿賀郡西方村(現中井町西方)という地に<方谷園>がある。この地で方谷は極貧状態にあった山田家の農商の嫡子として誕生した。

 ただ、山田家は、方谷が誕生する数十年前には士分であったが、ある事件をきっかけとして、全財産が没収され所払いとなった家系だった。後に西方村には戻ったが、山田一家はずっとお家再興が悲願だった。


 遺された方谷への訓戒を見ると、父親もまた非常に勤勉で見識の高い人であった。加えて母親梶も幼い方谷に「いとしい児よ、必ずお父さんの志をなしとげるのだよ」と、日常的に語って聞かせたと、年老いた方谷は述懐しており、丸川松隠だけでなく両親の影響を見逃してはならない。

 赤貧の中でも学資を捻出した父親は、5歳の方谷を新見藩の儒学者丸川松隠に弟子入りさせた。だが、文政元年に母親が、翌年には父親が没したことから、一時的に学問を中断して15歳で家督を相続し、家業の農業と製油業に励まなければならなかった。

方谷4歳の時に書いた「つる」の字と手形
〔方谷4歳の時に書いた「つる」の字と手形〕*04

 〔方谷先生像と高梁市郷土資料館〕

 備中高梁駅前通りを右手に歩くと15分ほどで、現在では高梁市郷土資料館として利用されている、明治37年に建てられた、洋風建築の旧高梁尋常高等小学校が右手に見える。

 その玄関前には没後100年を記念して建てられた方谷先生像と、箏曲家として名を馳せ、人間国宝だった米川文子の顕彰碑がある。

 高梁市郷土資料館は、往年の小学校の内部がそのまま生かされており、また内部にはかつて高梁地域の人々が使っていた生活用具、高梁川を上下して物資を運んだ高瀬舟、商売で使われた貨幣や大福帳、方谷が開発し農民に役だてられた備中鍬をはじめとする農具などが展示されている。



高梁市郷土資料館
〔高梁市郷土資料館〕*05

藩校有終館跡
〔藩校有終館跡〕*06
 〔藩校有終館跡〕

 方谷先生像と高梁市郷土資料館を見学した後、さらに駅前通りを1~2分進むと、桜並木のある紺屋川に架かる小さな住之江橋に出る。

 この橋上の左前方に、明治4年に閉校するまで、松山藩の学問所として130年以上もの長きにわたって、多くの人材を輩出してきた藩校有終館の跡地が見える。

 火事で焼失した有終館を、嘉永4年に山田方谷が再興しているが、この時に方谷の手で植えられた黒松が4本現存している。現在は、当時の建物はなく、同敷地は高梁幼稚園として利用されている。

方谷お手植えの松
〔方谷お手植えの松〕*07

 〔備中松山城と板倉勝静〕

 日本三大山城の一つとされる備中松山城は、現存する中で一番高い山城として人々に知られている。その歴史は1240年頃の鎌倉時代まで遡る。

 備中有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭となった秋葉重信が、高梁市街の北に聳える臥牛山(松山)の大松山に最初の城を築き、1331年頃に高橋宗康が、小松山まで城を拡張したとされる。

 臥牛山の山頂からは、高梁川に沿って造られた高梁市の街並みを一望に見下ろせ、周囲の中国山地がかつての交通の要衝の地だったことを彷彿とさせてくれ、しかも松山城が難攻不落の山城として築かれたことが納得できる。

 江戸期には山城で政務を行うには不便であったため、山麓に御根小屋という御殿(現・県立高梁高等学校)を構えて、そこで藩主の起居と藩政を行った。



 江戸初期に備中松山地域は天領とされた時期があり、幕府が城番として小堀正次・政一(遠州)親子を置いたように、当時は軍事的にも経済的にも重要な拠点であった。

 この後、松山藩城主は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、江戸末期の最後の城主が板倉氏である。

 ちょうど人格形成期だった山田方谷は、第6代藩主の板倉勝職から才能を認められ、京都と江戸に遊学させてもらい、さらに朱子学や陽明学の素養を磨いた。

 やがて、松平定信の孫にあたる勝静が、勝職の婿養子となり、嘉永2年に板倉家の家督を継いで第7代藩主となったが、勝静は約20歳年上の方谷を抜擢して藩政改革を断行し成功を収めた。



備中松山藩主 板倉勝静 幕末の老中首座
〔備中松山藩主 板倉勝静 幕末の老中首座〕
(出典:Wikipedia)

 〔方谷駅と長瀬塾〕

 伯備線で備中高梁駅から米子駅方面に約20分ほど行くと、方谷駅というJR西日本の駅がある。この駅名は誰でも分かるように、備中松山藩士の山田方谷に由来している。

 伯備線の方谷駅を含む区間運行を始めたのが昭和3年で、この地の方谷を慕う人々が、「山田方谷先生は当地が生んだすばらしい人です。ぜひ方谷駅と名づけて下さい」と、鉄道当局にお願いしたが、「人名を駅名にした例はない」と、一旦は断られてしまった。

 しかし、次の話は当地の人々が、どれだけ方谷を慕っていたかを証明するかのようだ。当地の人々はあきらめず「すぐ傍を流れる西方川は、ここで高梁川に合流しています。ですから、西方の谷という地名という意味で、方谷駅はどうでしょうか」と、再度鉄道当局にお願いしたところ、ついに折れて承認したという話である。もちろん、この周辺一帯には方谷という地名はない。




 かつて方谷は、ここ<長瀬塾>に心を許せる武士たちを集めて、「ここで田畑を耕せ。自分の食い扶持は自分で稼ぐのだ。そして、一朝事ある時には武器を持って立ち上がるのだ」と訓じ、農兵隊の育成に努めた。

 今ではその塾舎は、方谷駅の駅舎となってしまった<長瀬塾>だが、この地の人々は方谷の人づくり教育が忘れられないのである。

 〈長瀬塾〉は越後長岡藩士の河井継之助が訪れたことでも知られ、高梁川を挟んで南西側の道で、現在は国道180号となっているが、河井継之助が方谷との別れをする時、振り返って三度土下座をしたということだ。



JR 方谷駅
〔JR 方谷駅〕*08

仲田邸庄屋屋敷
〔長瀬塾跡と方谷旧宅跡〕*09

 〔教育に情熱を注ぐ晩年の方谷と小阪部塾への移転〕

 晩年の方谷は、松山藩の無事を願いつつ、後進者の教育に身を捧げたと言ってよい。〈長瀬塾〉に方谷の学徳を慕って集まってくる塾生は多く、増築して急場を凌いでいたが、それさえもたちまち一杯になって溢れてしまったという。

 方谷は塾生に学業上の規則を五ヶ条に記して守らせていたが、その第一に毎朝祖父母に礼することを掲げ、この礼を怠る者には退塾さえ命じるとされていたという。

 子が親に孝を説く儒教の教えを思い浮かべるが、幼年時代の方谷が両親から教え与えられたものの大きさを考えると、単純に理解してしまってよい規則ではない。

 方谷の母親梶の出身地が、現在の新見市大佐小阪部の西谷家であったが、当時家系が絶えてしまっていた。そこで方谷は、西谷家再興を現実に移すことにした。

 塾舎が手狭になったことを含め二つの理由から方谷は、〈長瀬塾〉を〈小阪部塾〉へと移転して、最晩年の人材教育を母親梶の出生の地とし、またここを自身の終焉の地とも定めたようだ。

 ここで塾を開くことを薦めたのは、方谷の姻戚関係にあり、これまでもずっと方谷の補佐に徹してきた、新見市の矢吹久次郎という人物とされている。というのも、久次郎は旧旗本の陣屋を持っており、方谷にそれを提供したことから、<小阪部塾>への転居が可能となったからだ。ただ、方谷の母親梶への思いが方谷をつき動かしていたことは忘れられてはならない。



小阪部塾跡
〔小阪部塾跡〕*10

 〔閑谷学校の再興と方谷の教育への情熱〕

 閑谷学校は、岡山藩主の池田光政によって開設された日本最古の庶民のための学校である。光政は陽明学に傾倒しており、中江藤樹の門下となって陽明学を学んだ熊沢蕃山を登用した。

 慶安4年(1651年)に庶民教育の場として、蕃山が「花園会」の会約を起草し、これがやがて寛文10年の庶民学校として開かれ、閑谷学校の前身となった。

 方谷は小蕃山と称されたように、蕃山の陽明学を非常に高く評価し、王陽明の没後に陽明学の真髄を究めているのは、蕃山をおいて他にはいないとしている。

 この蕃山の陽明学の基礎に設立された閑谷学校が、明治3年に閉校になったので、その再興の依頼が方谷に舞い込んだのである。



方谷生誕200年記念碑
〔方谷生誕200年記念碑〕*11

 明治5年に現岡山市に設立された漢学支塾の講義を依頼されたが、その話を方谷は断っている。だが、閑谷学校の再興のためと聞いたので、明治6年に69歳になったが、方谷は喜んで小阪部塾から閑谷学校へ出向いたのである。

 明治初期におけるわが国の社会経済の混乱を考えると、どこでも人材が必要とされていた。これを感じている方谷の人材教育は、わが国それ自体の救済と、人々の生活苦を済度できる人物を育てたいという情熱からだったのではないだろうか。


 〔方谷庵と山田方谷記念館〕

 方谷の母親梶の出身地が、大佐小阪部の西谷家であったが、当時家系が絶えてしまっていた。そこで方谷は、西谷家の再興を現実に実行することにした。

 また方谷は、西谷家の菩提寺であった金剛寺境内に、5坪足らずの小庵〈方谷庵〉を結び、西谷家の位牌を安置して祖先の霊を祠っただけではない。この小庵には母親梶の意志をひたすら受け継でやってきたという方谷の思いが込められていると思う。

 なにしろ、幼少で丸川松隠に「神童」と言わしめ、成人して人々から「備中の聖人」と呼ばれるようになったが、方谷から見れば、その土台をつくってくれたのは、わが身を省みずに文字を教え諭し、学問まで修養させてくれたのは母親梶だったからである。

 母親梶の意志を継いで若い世代の後進者を育てることを、〈方谷庵〉で晩年の方谷は母親の霊前に誓っていたのではないだろうか。方谷はお参りの度に坐禅をくんで瞑想にふけったという。この〈方谷庵〉からお寺の参道を下りると、ちょうど左手に〈山田方谷記念館〉が見える。



金剛寺境内の方谷庵
〔金剛寺境内の方谷庵〕*12
山田方谷記念館
〔山田方谷記念館〕*13

 館内に入ると、すぐに方谷のブロンズ座像が出迎えてくれ、そしてこの右脇で受付を済ますことができる。ここには、方谷にまつわる主な書籍や研究図書が展示されているだけでなく、その中で可能なものは販売もされている。

 ガラスケースには、通常では見ることができない、方谷の書いた大政奉還上奏文の草案、方谷の書、そして四歳での書である「つる」などが並べて展示されている。

 ここでは受付の方がお茶を入れてくれたので、一時間ほど和やかに雑談できたことが印象的だった。


山田方谷座像
〔山田方谷座像〕*14

 〔山田方谷のことば〕

* それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて、事の内に屈せず。  『理財論』に出てくる言葉であるが、「事の内に屈す」とは、目先の利益にとらわれることで、そえに対して、持続可能性を図るように、ずっと先まで人々の利益を図ることが「事の外に立つ」である。現在、さまざまに主張されている成長戦略は、「事の内に屈す」の視点ではないだろうか。

* 義を明らかにして利を図らず。
 この言葉も『理財論』に出てくる言葉だが、人として踏み行うべき道を義とし、われわれはそれをすべての先に立て、目先の利を目的として活動してはならないという意味で使われている。義を行い続けた結果が利となるという考え方でもある。

* ふみ見るも 耡(すき)もて行くも 一筋の 学びの道の 歩みなるらむ
 これは方谷が詠んだ和歌の一首である。学問で文章を読んで考えることも、作物をつくるために耡鍬でもって田畑を耕すことも、どちらも優劣の付けがたい学びの道で、それをやり続けることが大切である。農業は生産性が低いと、現代では絶えず言われ続けているけれども、さらに生産性が低いのは人育てであるに違いない。確かに現代は人物が出てこなくなっているが、晩年の方谷が人材育成のために身を投じた心が理解できるのではないだろうか。

* 総て学問は、存心、致知、力行の三つなり。
 これは方谷が閑谷学校で講義した中庸の解説の『中庸講?録』の一文である。おおよそ学問というものは、まず自分の心に何が大切かをしっかりもつこと、物事の筋道を究めて行くこと、そして、これらを基礎に努力を怠らないことの三つが欠かせない。

* 何事も自然に任せて、時節を待たねばならぬ。尤も人として為すべきことは仕尽くして、然る上で、自然に任せて時節を待つべし。
 この言葉は、方谷が閑谷学校で『孟子』の「養気章」を講義したものを、門人が筆録した『孟子養気章講義』の一文である。どんな事であっても自分が思い図り、無理矢理に実現しようとするのではなく、それを実現するには適切な時期があるのだから、それを待つことが大切である。ただし、人として為さなければならないことは、やり尽くした上でのことであるけれども。


〔山田方谷プロフィール〕 ~ 〔山田方谷の言葉〕 高橋 正已 記



ゆかりの地 〔山田方谷〕ゆかりの地など
日本一高地にある備中松山城
〔日本一高地にある備中松山城〕
 昔の備中松山を前々から訪ねたいと思っていたが、吉備国際大学高橋教授の主催するセミナーに参加の機会をえて訪問した。岡山からは電車で1時間弱だ。

 備中松山城は日本一高い所にある山城で有名、駅から乗り合いのタクシーが利用できる。前日の大雨で大木が倒れ車も城まで行けない、仕方なく昔ながらの自然歩道を歩いて登る。

 幸いタクシーで乗り合わせた女性と昼なお暗き道を歩く、途中大石内蔵助の腰掛の石がある。昔赤穂藩がこの城を引き取りに来た際に代表として大石内蔵助がきたのだという。

 松山城の天守閣石垣は急峻で美しいが、政治をとるには不適で執務所は街中にあった(現高梁高校敷地がその跡)。

往年の高梁川の高瀬舟
〔高梁川と高瀬舟〕*15

 高梁市の観光スポットは三大山城と言われる松山城、小京都と言われる武家屋敷や小堀遠州(この町の出身)の庭園、寅さん映画では2回もロケ地として登場等、魅力的な街である。

 また足を伸ばすと『ベンガラの街・吹矢』は江戸情緒豊かな銅山の町が残る。またベンガラで財をなした広兼邸は横溝正史の八つ墓村のロケ地となった豪壮、広大な庄屋屋敷で見学もでき、仲田邸は蔵屋敷を開放し、庄屋屋敷の雰囲気を味わえ、格安に泊まれる。

 高梁高校は江戸時代藩政が行われた藩庁跡にあり優秀な卒業生を輩出しているという。京セラ社長を勤めた伊藤謙介さんもその一人と駅前のレストラン主人からお聞きした。

山田方谷シンポジウム
〔山田方谷に学ぶシンポジウム(東京)〕

庄屋蔵屋敷
〔仲田邸(庄屋蔵屋敷)〕
 また、山田方谷は地元では大変尊敬され、NHKの大河ドラマに取り上げて貰おうと100万人の署名活動を展開しているという。東京で「山田方谷の志を学ぶシンポジウム」が開催されるという案内書を頂き帰京後出かけてみた。

 二松学舎の講堂は満席に近く盛況だった。すでに50万人の署名を達成したという。近い将来 財政を立て直した山田方谷の大河ドラマが放映されることを期待したい。「今の日本国の借金1000兆円の解消には備中松山に学ぶ」姿勢が必要かもと思った。
〔高梁市訪問記〕 Y.青木 記

 〔写真の説明〕
*01 山田方谷先生像  山田方谷の没後100年を記念して建てられた銅像。小刀を左脇に右手に扇で裃姿の正装が高梁市民に親しまれている。
*02 大政奉還上奏文の草案(実物)  将軍から朝廷に政権を返還したのが、1867年10月15日の大政奉還であるが、この時にわが国のこれ以降の歴史が決定したといってよい。そして、この上奏文の草案を書いたのは、勝静の依頼で方谷が書いたという説があるが、記念館にその実物が展示されているので、ぜひ一見して頂きたい。
*03 方谷誕生地と方谷園  中井町西方の通りを歩きながら映した光景だが、この中に犬養毅元首相が揮毫した「方谷園」石碑が入り口にあり、一段高い墓地には藩主板倉勝静揮毫の方谷の墓がある。
*04 4歳で書いた「つる」と手形  弟子入りしてきた5歳の方谷を見た丸川松隠に、神童とまで言わしめた方谷は、すでに4歳にして勢いのある「つる」を書し、その下に幼い方谷の手形を捺して、大佐神社に奉納された。
*05 高梁市郷土資料館前  明治37年建てられた洋風建築の旧高梁尋常高等小学校が、そのまま郷土資料館となっている。玄関前に方谷先生像と、生田流の箏曲家で人間国宝の米川文子の顕彰碑がある。また、往年の尋常小学校には二宮金次郎像があったが、今でも現存していて当時が偲ばれる。
*06 藩校有終館跡  有終館は武士向けの教育機関であったが、この他に塾が多い街だったと聞く。非常に人材教育に熱心な地域だったことが分かる。
*07 方谷駅  長瀬塾や方谷住居の跡地を利用して、昭和3年当時に設けられた方谷駅。当時で唯一の人名を冠した駅としても知られ、いかに方谷が人々から慕われていたかが偲ばれる。
*08 方谷お手植えの松  天保10年の大火によって焼失した有終館を、嘉永4年に山田方谷が再興した。記念に方谷の手で植えた4本の黒松が現存している。
*09 長瀬塾跡と方谷旧宅跡  方谷駅が長瀬塾や住居の敷地だったが、ここは方谷誕生地への入り口でもある。武士であっても農業も学問もせよと叱咤激励する方谷の声が聞こえるかも知れない。
*10 小阪部塾跡(方谷園)  小阪部塾へと家塾を移転したが、塾生は多くなるばかりで、塾舎は棟をならべて常に数百人が在塾していた。また、方谷先生は西谷家の祖父母の忌日には必ず墓参された。こうした内容を曾孫にあたる山田琢氏が漢文で記した方谷山田先生遺蹟碑が建てられている。
*11 方谷生誕200年記念碑  「義を明らかにして利を図らず」とは、目前の利益にとらわれず、人としてふみ行うべき義を明らかにして、それを施策に具体化しなければ、社会経済の混乱は増すばかりという意味で、方谷の基本理念の一つである。
*12 金剛寺境内の方谷庵  方谷は西谷家の菩提寺である金剛寺境内に小庵を設けて、西谷家の祖父母の霊を祠っている。方谷はこの小庵を方谷庵と命名したが、続妣祠堂ないし継志祠堂と名づけたかったと言われ、母親の意志を受け継いだ思いが込められているようだ。
*13 山田方谷記念館  母親梶の生誕地であり方谷の終焉の地でもある大佐小阪部は、この記念館からすぐ近くである。館内の展示物も人物や業績を知るには最適であるが、晩年の方谷がこの地をわざわざ選んで住んだことを考えて訪れると、もっともっと方谷が身近になってくるかも知れない。
*14 山田方谷座像  館内に入ると方谷直筆の書「氣如春」の前に、正座した方谷像が置がれている。1873年冬の書とされるが、前年には念願の方谷庵をつくり、勝静の禁錮も免ぜられ、高弟の三島中州が明治政府に出仕するようになり、方谷自身も閑谷学校で初めて講義するなど、そうした気持ちを「心は春のように暖かく晴れやかだ」としたのだろう。
*15 往年の高梁川の高瀬舟  備中地域は高原状で山の幸に恵まれ、鉄に薪炭、和紙や楮・三椏、大豆などを、高瀬舟で玉島港や下津井港まで運び、ここから大阪や江戸などへ輸送した。この写真は高梁市の観光駐車場に原寸大の高瀬舟があり、この説明パネルの一枚である。

 〔参考図書〕
1 山田準編纂  『山田方谷全集』全3冊  明徳出版社 平8年
2 矢吹邦彦著  『炎の陽明学 山田方谷伝』  明徳出版社 平成10年
3 矢吹邦彦著  『ケインズに先駆けた日本人 山田方谷外伝』  明徳出版社 平10年
4 山田琢・石川梅次郎著  『山田方谷・三島中洲』叢書日本の思想家41  明徳出版社 昭52年
5 朝森要著  『山田方谷の世界』岡山文庫215  日本文教出版 平成14年
6 野島透著  『山田方谷の夢』  明徳出版社 平成23年
7 童門冬二著  『山田方谷 -河井継之助が学んだ藩政改革の師-』  学陽書房 平成25年
8 山田方谷に学ぶ会編  『山田方谷のことば -素読用-』  明徳出版社 平成22年

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