* それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて、事の内に屈せず。
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『理財論』に出てくる言葉であるが、「事の内に屈す」とは、目先の利益にとらわれることで、そえに対して、持続可能性を図るように、ずっと先まで人々の利益を図ることが「事の外に立つ」である。現在、さまざまに主張されている成長戦略は、「事の内に屈す」の視点ではないだろうか。
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* 義を明らかにして利を図らず。
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この言葉も『理財論』に出てくる言葉だが、人として踏み行うべき道を義とし、われわれはそれをすべての先に立て、目先の利を目的として活動してはならないという意味で使われている。義を行い続けた結果が利となるという考え方でもある。
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* ふみ見るも 耡(すき)もて行くも 一筋の 学びの道の 歩みなるらむ
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これは方谷が詠んだ和歌の一首である。学問で文章を読んで考えることも、作物をつくるために耡鍬でもって田畑を耕すことも、どちらも優劣の付けがたい学びの道で、それをやり続けることが大切である。農業は生産性が低いと、現代では絶えず言われ続けているけれども、さらに生産性が低いのは人育てであるに違いない。確かに現代は人物が出てこなくなっているが、晩年の方谷が人材育成のために身を投じた心が理解できるのではないだろうか。
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* 総て学問は、存心、致知、力行の三つなり。
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これは方谷が閑谷学校で講義した中庸の解説の『中庸講?録』の一文である。おおよそ学問というものは、まず自分の心に何が大切かをしっかりもつこと、物事の筋道を究めて行くこと、そして、これらを基礎に努力を怠らないことの三つが欠かせない。
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* 何事も自然に任せて、時節を待たねばならぬ。尤も人として為すべきことは仕尽くして、然る上で、自然に任せて時節を待つべし。
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この言葉は、方谷が閑谷学校で『孟子』の「養気章」を講義したものを、門人が筆録した『孟子養気章講義』の一文である。どんな事であっても自分が思い図り、無理矢理に実現しようとするのではなく、それを実現するには適切な時期があるのだから、それを待つことが大切である。ただし、人として為さなければならないことは、やり尽くした上でのことであるけれども。
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*01 |
山田方谷先生像
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山田方谷の没後100年を記念して建てられた銅像。小刀を左脇に右手に扇で裃姿の正装が高梁市民に親しまれている。
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*02 |
大政奉還上奏文の草案(実物)
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将軍から朝廷に政権を返還したのが、1867年10月15日の大政奉還であるが、この時にわが国のこれ以降の歴史が決定したといってよい。そして、この上奏文の草案を書いたのは、勝静の依頼で方谷が書いたという説があるが、記念館にその実物が展示されているので、ぜひ一見して頂きたい。
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*03 |
方谷誕生地と方谷園
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中井町西方の通りを歩きながら映した光景だが、この中に犬養毅元首相が揮毫した「方谷園」石碑が入り口にあり、一段高い墓地には藩主板倉勝静揮毫の方谷の墓がある。
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*04 |
4歳で書いた「つる」と手形
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弟子入りしてきた5歳の方谷を見た丸川松隠に、神童とまで言わしめた方谷は、すでに4歳にして勢いのある「つる」を書し、その下に幼い方谷の手形を捺して、大佐神社に奉納された。
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*05 |
高梁市郷土資料館前
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明治37年建てられた洋風建築の旧高梁尋常高等小学校が、そのまま郷土資料館となっている。玄関前に方谷先生像と、生田流の箏曲家で人間国宝の米川文子の顕彰碑がある。また、往年の尋常小学校には二宮金次郎像があったが、今でも現存していて当時が偲ばれる。
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*06 |
藩校有終館跡
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有終館は武士向けの教育機関であったが、この他に塾が多い街だったと聞く。非常に人材教育に熱心な地域だったことが分かる。
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*07 |
方谷駅
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長瀬塾や方谷住居の跡地を利用して、昭和3年当時に設けられた方谷駅。当時で唯一の人名を冠した駅としても知られ、いかに方谷が人々から慕われていたかが偲ばれる。
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*08 |
方谷お手植えの松
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天保10年の大火によって焼失した有終館を、嘉永4年に山田方谷が再興した。記念に方谷の手で植えた4本の黒松が現存している。
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*09 |
長瀬塾跡と方谷旧宅跡
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方谷駅が長瀬塾や住居の敷地だったが、ここは方谷誕生地への入り口でもある。武士であっても農業も学問もせよと叱咤激励する方谷の声が聞こえるかも知れない。
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*10 |
小阪部塾跡(方谷園)
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小阪部塾へと家塾を移転したが、塾生は多くなるばかりで、塾舎は棟をならべて常に数百人が在塾していた。また、方谷先生は西谷家の祖父母の忌日には必ず墓参された。こうした内容を曾孫にあたる山田琢氏が漢文で記した方谷山田先生遺蹟碑が建てられている。
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*11 |
方谷生誕200年記念碑
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「義を明らかにして利を図らず」とは、目前の利益にとらわれず、人としてふみ行うべき義を明らかにして、それを施策に具体化しなければ、社会経済の混乱は増すばかりという意味で、方谷の基本理念の一つである。
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*12 |
金剛寺境内の方谷庵
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方谷は西谷家の菩提寺である金剛寺境内に小庵を設けて、西谷家の祖父母の霊を祠っている。方谷はこの小庵を方谷庵と命名したが、続妣祠堂ないし継志祠堂と名づけたかったと言われ、母親の意志を受け継いだ思いが込められているようだ。
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*13 |
山田方谷記念館
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母親梶の生誕地であり方谷の終焉の地でもある大佐小阪部は、この記念館からすぐ近くである。館内の展示物も人物や業績を知るには最適であるが、晩年の方谷がこの地をわざわざ選んで住んだことを考えて訪れると、もっともっと方谷が身近になってくるかも知れない。
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*14 |
山田方谷座像
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館内に入ると方谷直筆の書「氣如春」の前に、正座した方谷像が置がれている。1873年冬の書とされるが、前年には念願の方谷庵をつくり、勝静の禁錮も免ぜられ、高弟の三島中州が明治政府に出仕するようになり、方谷自身も閑谷学校で初めて講義するなど、そうした気持ちを「心は春のように暖かく晴れやかだ」としたのだろう。
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*15 |
往年の高梁川の高瀬舟
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備中地域は高原状で山の幸に恵まれ、鉄に薪炭、和紙や楮・三椏、大豆などを、高瀬舟で玉島港や下津井港まで運び、ここから大阪や江戸などへ輸送した。この写真は高梁市の観光駐車場に原寸大の高瀬舟があり、この説明パネルの一枚である。
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