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村山暮鳥
〔や〕の著名人 やなせたかし 山県有朋
山川登美子 山田方谷 山田風太郎
柳田国男 山下清 山村暮鳥
◆〔山村暮鳥〕のプロフィール。
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俗称・筆名 山村暮鳥
本名 志村八九十
生誕 1884年 1月10日
死没 1924年 12月8日
出身地 群馬県西群馬郡棟高村(現高崎市棟高町)
最終学歴 聖三一神学校(現立教大学の前身)
職業 詩人、童話作家、キリスト教伝道師
ジャンル 文学者
活動 キリスト教伝道師として秋田、仙台、東京常陸大田、福島等の東北を中心に活動、同時に、詩、童謡、童話、小説で活動する。翻訳家としてドストエフスキーの作品やボードレールの翻訳もする。
代表作 詩集・雲、詩集・聖三稜玻璃、
長編キリスト教童話「鉄の靴」
現高崎市棟高の農家に生まれる。元総社小学校に入学、その後家庭の事情により堤ケ岡小学校に転校、卒業する。15歳の時(明治32年)2歳年を偽り、尋常小学校の代用教員となり12月に免許状を授与される。
昼は教師、夜は前橋にあった聖マッテア教会の英語夜学校に通う。18歳で小学校の教員をやめ、宣教師の転任に同行し青森へ行き、通訳兼書紀として勤務する。18歳で洗礼を受ける。19歳で現在の立教大学の前身である聖三一神学校(東京築地) に編入学する。21歳の時、日露戦争開戦により満州へ出兵、22歳で帰国し聖三一神学校に復学。20歳頃から短歌を白百合に投稿し、23歳で詩に転向し作品を発表する。
24歳で神学校を卒業しキリスト伝道師として秋田県湯沢町に赴任、以後仙台、東京、常陸大田、福島県平町に赴任,29歳で土田富士と結婚、30歳(大正3年)萩原朔太郎、
室生犀星と「人魚詩社」を設立し,翌31歳で『詩集・聖三稜玻璃』を発刊する。 この作品は批判者も多かったが、萩原朔太郎、室生犀星は暮鳥の理解者として支える。山村暮鳥は神と文学のハザマに悩むことも多く、仙台では上級聖職者と衝突し、 東京に転勤する。山村暮鳥の文学は和歌から詩、小説、そして童話,童謡へと変遷 してゆく。伝道師としてのキリスト教の神からの縛りを抜け、やさしい詩や、童話 へと昇華していった。キリスト教の伝道師に専念すれば、経済的にも、世間の評価もえて、平らかな人生 を送れたはずだが、あえて茨の道を歩み、結核を病んだ
ことから教会からも解雇されたが、文学の仲間が「鉄の靴会」を組織し暮鳥をささえる。大正9年友人が福島県平町菊茸山に新築した家に移るが、麓の住民が結核患者であることを知り、騒ぎだしやむなく退去し、茨城県大洗の磯浜明神町の鬼房裏別荘で晩年を過ごす。詩集「雲」の校正を終え、40歳の生涯を閉じた。2014年生誕130年を迎え、山村暮鳥展が開催された。
山村暮鳥の家族 出典山村暮鳥展カタログ
山村暮鳥生誕130年記念展開催                 

土屋文明館には年に1〜2度おとずれる。いつも何かの特別展を開催している。2014年秋はこの地高崎市棟高出身の「山村暮鳥展」が開催されていた。この土屋文明館の庭園には文明の《いちめんの菜の花》の大きな詩碑がある。文明館では山村暮鳥の資料をせ、これ等の資料を纏めた「山村暮鳥」の立派なパンフレットを発行している。特設会場には家族を“クローズアップした写真”や“全国に散在する詩碑の写真や詩”など、珍しい展示がなされた。

山村暮鳥は上州の三大文学者は

萩原朔太郎、田山花袋、山村暮鳥の3人といわれるが、土屋文明も加えたいところだ。山村暮鳥の記念館はない、でも詩碑は全国に15ほどある。山村暮鳥は現群馬県高崎市棟高に生まれ、18歳で故郷を離れ東北各地でキリスト教の伝道師をしながら文学活動を展開し、最後は水戸市の大洗で40才の若さで亡くなっている。短い生涯の中で激動の人生を送っている。そんな人生を、ゆい人物館で紹介してみたい。

土屋文明館庭園にある山村暮鳥の風景の詩碑
山村暮鳥の代表作は《菜の花》の詩だ
山村暮鳥の《風景》・菜の花を唄った詩碑が榛名連山をバックに土屋文明館の公園に立っている。この詩はシンプルだからすぐに覚えられる。 誰でも書けそうだが、こんな発想はなかなか凡人には出てこない。この作品は大正初期の山村暮鳥詩集「聖三稜玻璃」の《風景》だが、ここに紹介してみよう。
15才で代用教員をし、夜は14km離れた教会に通い英語の勉強をした
山村暮鳥の生い立ちをみると複雑だ。両親は両養子で暮鳥の幼年時代、両親は千葉房佐原に住み、山村暮鳥幼年時代父方の祖父と群馬総社に住み、祖父から漢籍をならい、学業は優秀で15歳の時、年を2歳偽り、小学校の代用教員となっている。展覧会では暮鳥の成績表や、教え子への親切な添削文書が展示されていたが見事な書だ。
暮鳥の習字手本
恩師ゼームス・チャペル夫妻
山村暮鳥は向学心に燃え、昼間は子供達に教え、夜は群馬町から約14km離れた前橋の教会まで英語の勉強通っている。今では車で15分程度だが、明治38年の群馬の田舎には自転車はない(東京府下でも自転車は7587台に過ぎない)、とすれば歩くよりほか無く、空っ風の吹きすさぶ、真っ暗な田舎道を片道2時間以上かけ、通うことは想像を絶する忍耐力が必要だ。
山村暮鳥・生地の図書館にも詩碑がある
また福田赳夫元首相の銅像もある

    元群馬町立中学校の跡地に市民活動センターがある、同じ敷地内の図書館入り口には67代内閣総理大臣・福田赳夫さんの銅像がある。  福田赳夫元総理もこの旧群馬町の出身で、この町の名士なのだ。棟高の生家跡にも詩碑があるので図書館で尋ねて見たが、生家はわからないという。子孫が住んでおり、個人情報もありオープンにしてないのかも 。
福田赳夫首相の銅像
図書館は開架式で書棚には山村暮鳥 の本が数10冊並んでいる。 暮鳥全集には1巻で1000p近いものもある。この市民活動センター敷地内にある詩碑は≪月≫は昭和33年中学校校庭に「故郷を後にした暮鳥への愛と憎しみを超越した村人たちの心の象徴」として建てられたが、廃校にともないこの地に移された。碑文はつぎの通りだ。
松にも
椎にも
ほのかな風の翳がある
しんとして
月の匂いがとめどなく
ながれる
棟高町・堤下公園内に≪ 独唱≫  の詩碑がある
堤下公園は山村暮鳥の生家に近い公園だ、滝が流れる日本庭園の近くに山村暮鳥の処女詩集の巻頭詩≪独唱≫の詩碑がある。この辺りは三つ寺公園から土屋文明館に続き、1500年ほど前の古墳群や埴輪の里へ、秋はコスモス、春は桜が咲き誇り、大きな堤にはスワンのボートが浮かび市民の憩いの場所である。詩碑≪独唱≫の詩は以下の通りです。山村暮鳥の一生を簡単に紹介した碑も横にある。
山村暮鳥生家付近の散歩マップ
暮鳥の故郷:古墳とコスモス
山村暮鳥・《独唱の詩碑》
かはたれの
そらの眺望の
わがこしかたの
さみしさよ

そのそらの
わたり鳥
世をひろひろと
いづこともなし
      

           暮鳥

山村暮鳥詩碑近くの池
前橋石倉町西河岸中央大橋たもとに≪ふるさと≫の詩碑がある
凛々として
天の川が流れてゐる
すっかり秋だ
とほく
とほく
豆粒のやうな
ふるさとだのう 

1925年《雲》より

山村暮鳥詩碑《ふるさと》、中央大橋近くの
山村暮鳥の詩碑はほかにも次の場所にある
・暮鳥生家の庭詩は≪野良道≫
・前橋こども園内≪夕方≫ 片貝町には≪雲≫
・高崎市山名町 石碑の道 ≪梅≫
・水沢寺境内 ≪ある時≫
・大洗海岸 ≪ ある時≫
・榛名湖畔国民宿舎榛名吾妻荘庭 ≪山上にて≫
・高崎市箕輪町中壽邸 ≪父上のおん手≫の詩
・大洗町 ≪老漁夫の詩≫
・水戸市の祇園寺が管理する江林寺内に暮鳥の墓がある。

山村暮鳥の「伝道日記」が没後見つかる
明治42年25歳頃の日記には、キリスト教の伝道に心血を注ぎ、毎日200ページ以上の読書をかし、その内容は宗教から文学に及ぶ、ゲーテの≪若きヴェルテルの悩み≫に感動、暮鳥にも同じ悩みがあった模様、そしてこの頃「宗教か文学かに迷い」、尊敬する詩人・蒲原有明に手紙を書く、この頃が≪詩人・山村暮鳥誕生≫の時期と書かれている(山村暮鳥 和田義明著)。

代表作,『聖稜破璃』は不評であったが、評価する人もあった
山村暮鳥の聖三稜玻璃は(大正4年12月)発刊された、フランスの詩人ボードレールの影響を受けた詩だが、難しく、保守派の人達から批判され、暮鳥も落ち込むが萩原朔太郎や室生犀星は擁護する。大正初期の詩壇では2つの大きな流れがあり、 三木露風を中心として、川路柳虹、柳沢健、西条八十 で 保守派 、もう一つは北原白秋の耽美派の流れをくむ 萩原朔太郎、室生犀星、山村暮鳥であった。
聖三稜玻璃とは難しい名前だが、三稜玻璃は万華鏡のことである。この本の出版に当たって山村暮鳥は詩集の装丁にこだわっている。 序文は室生犀星、巻頭にレオナルド・ダビンチの「救世主の像」の口絵を使った、その絵は暮鳥をキリスト教に導いた師・女宣教師ウォ−ルから贈られた愛蔵の品なのだ。

暮鳥は教え子への手紙には「小生は今の文壇乃至思想界のために、ばくだんを製造している」と記す。

聖三稜玻璃の冒頭詩を紹介しよう
ここは天上で
粉雪がふってゐる----
生きてゐる陰影
わたしは雪のなかに跪いて
その銀の手をなめてゐる
暮鳥は翻訳家でもあった
暮鳥は26歳でボードレールに心酔しフランス語を習いその詩を翻訳し、32歳(大正5年)ではドストエフスキーにひかれ翻訳している。友人にこんな手紙を出している「ドストウエフスキーの手紙の翻訳をやっています、日本にはまだきていないものです、私の所へ来たばかりです、それなどによると私共の苦痛なんか、彼の爪の垢ですね」。シベリア流刑中の苦痛を訴えるドストウエスキーの悲愴な手記から、彼のヒューマンの心にうたれたという。
また、35歳では「モーゼの伝記」に熱中し「頭に角のある人」でモーゼの一生を紹介し、死の直前には聖者伝「聖フランシス」を発刊している。
暮鳥は晩年には 童謡、童話を書いている
明治時代は子供に「うその話をよむとうそつきになる」とし物語を読ませなかったという。
この風潮を破るため巌谷小波が「おもしろさ」を追及した海外の童話を紹介し口火をきり、大正時代になると鈴木三重吉が童話を、北原白秋が童謡を担当し「赤い鳥」が創刊された。
1920年(大正9年)からは『おとぎの世界』が刊行され、山村暮鳥は24回にわたり「鉄の靴」という長編童話を掲載している。暮鳥はキリスト教信仰や自分の哲学的な思考を背景にいれ、自分の娘に寝ながら聞かせたものを童話として纏めている「チルチルミチル」はその一遍である。
暮鳥の凝縮された人生に学ぶ
山村暮鳥の年表を見ると、現代人の平均年齢が80歳として、暮鳥は半分の40歳で亡くなり、現代人以上の人生を歩んでいる、16歳で小学校の先生になり、18歳で洗礼を受け、21歳で日露戦争に従軍、24歳で神学校卒業、この間短歌から詩の世界に入り、毎年のように結社を創り、詩集を創り、東北各地を転々とし、中央の詩人とも人脈をつくり多くの詩、童話、童謡、小説を世に送り出している。
代表的文学活動を見ると、
 20歳 「白百合」に短歌3首掲載される、
 22歳 「築地の園」に詩を発表
 23歳  雑誌「南北」を創刊 、
 25歳 「北斗」を創刊
 29歳  詩集「3人の処女」発刊 土田富士子と結婚
 30歳  文芸雑誌「風景」創刊、「人魚詩社」を萩原朔太郎、室生犀星等と設立
 31歳  人魚詩社より「卓上噴水」創刊 、詩集「聖三稜玻璃」発刊
 32歳 「LE・PRISME」創刊
 34歳 「苦悩者」創刊、「ドストエフスキー書簡集」翻訳、
 35歳  モーゼの伝記に熱中100枚の作品書く
 36歳 「鉄の靴会」発足 、新聞いばらきに小説「影」掲載開始
     童話集「ちるちる・みちる」発刊
 37歳  詩集「梢の巣にて」「穀粒」発刊
 38歳  小説「春」脱稿  小説「十字架」,童話童謡集「万物の世界」「葦舟の児」
    「少年行」「お菓子の城」を発刊
 39歳  山村暮鳥詩集発刊準備、長編童話「鉄の靴」発刊
 40歳  詩集「風草木にささやいた」評伝「ドストエフスキー」翻訳発刊
     聖者伝「聖フランシス」発刊
 40歳  詩集「 雲」発刊準備中に逝去 、死後に発刊された
こう見ると毎年なんらかの出版をしている、39歳時には《洪水のように詩想が溢れてくる》と弟子に書いているように、天才的な詩才、文才である。 現代の私どもは長生きをしても≪何をやったのだろう≫と考えてしまう。
山村暮鳥の各種著作
代表作は雲であり、 雲の詩人と言われる
山村暮鳥が死の床で精魂かたむけて制作したのが≪詩集・雲≫である。その代表詩が《友らをおもう》の
次の詩である。上州弁が出ていて、長閑でわたしは好きだ。
おうい、雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきそうじゃないか
どこまでゆくんだ
ずっと磐城平の方までゆくんか
暮鳥の代表詩集《雲》
《雲》が発刊される前に暮鳥は逝かれたが、弟は徹夜で製本を急がし仮製本1冊を棺に納めたという。この《雲》の序文には暮鳥の到達した心境が語られている。その抜粋を紹介」しよう。

 人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生まれたことはもうむかしのむかしの、むかしの、その昔のことである。まだ、すべてが昨日今日のようにばかりおもわれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさってしまったのか。一生とは、こんな短いものだろうか。これでよいのか。だが、それだからいのちは貴いのであらう。 そこに永遠を思慕するものの寂しさがある。

 芸術のない生活はたえられない。生活のない芸術もたえられない。芸術か生活か。徹底は、そのどっち かを撰ばせずにはおかない。而も自分にとっては二つながら、どちらも棄てることができない。
これまでの自分には、そこに大きな悩みがあった。それならなんぢのいまはと問われたら、どうしよう、かの
道元の谿谷山色はあまりに幽遠である。かうしてそれを喰べるにあたって、大地の中からころげでた馬鈴薯をただ合唱礼拝するだけの自分である。

 詩がかけなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。だんだん詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。詩をつくるより田を作れといふ、よい箴言である。けれどそれだけのことである。
     よい詩人は詩をかざらず。
     まことの農夫は田に溺れず。

山村暮鳥大洗の終の棲家
茨城県大洗の鬼房裏別荘が暮鳥の終の住家となる
結核をわずらった暮鳥は友人が新築したいわき平山麓の家に移ったが、病気のの結核が飲み水を通じ、下流の住民に病が移ると抗議されやむなく、下山する。その時の日記にはエデンを追われた夫婦けれど彼らには健康があったと記す

終の棲家となった大洗町鬼坊裏別荘は松林のなかで土地の子供達とあそびながら、童謡、童話を書き上げた。この地の隣近所のひとは暮鳥一家を助け、のちに《老漁夫の詩》の詩碑を建てた。

Y.青木 記
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この風景・いちめんの菜の花の詩を友人・室生犀星はこんなふうに書いている
彼は仮名というものに日本的なやさしい音楽を感じ、それによって彼は彼の音楽をかなでることに、生涯をついやしていたといって言ってよい。(略)「いちめんのなのはな」の一遍などはその作品発表当時は、はなはな変な、わざとらしさがうかがわれたが、今日になると、これらの平仮名の行列があたかも菜の花畑を見るやうで、美しい。
                     室生犀星[解説]「山村暮鳥詩集」(昭和27年8月)より
山村暮鳥のいちめんの菜の花の詩
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