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〔偉人〕

小栗上野介(おぐり こうずけのすけ)

 
〔お〕の偉人 落合博満 王貞治
岡倉天心 岡田紅陽 岡本太郎
太田清蔵 尾崎放哉 尾崎咢堂
小栗上野介    

プロフィールバー 〔小栗上野介〕のプロフィール
俗称・筆名 小栗上野介
本名 小栗又一忠順(ただまさ)、幼名剛太郎 
生誕 1827年(文政10年)6月23日
死没 1968年(慶応4年、明治元年)閏4月6日(42歳逝去)
出身地 江戸駿河台(現:東京都千代田区駿河台)
最終学齢 安積艮斎(ごんさい)の漢学塾 
職業 政治家
ジャンル 勘定奉行、外国奉行、陸軍奉行、海軍奉行等を歴任
褒章歴 〇明治45年 東郷平八郎が小栗上野介の遺族に対し《日本海海戦に勝てたのは上野介殿の横須賀造船所建設のおかげ》と感謝の気持ちを表した。

〇大正4年 横須賀海軍工廠創立50周年祝典で大隈重信総理大臣代理が幾多の困難を乗り越え造船所を着工された小栗上野介に謝意を表した。

  当日小冊子を配り、技師長ヴェルニ-と2人の胸像建立の運動に発展し大正11年に除幕披露された。今でも毎年11月市の恩人として「ヴェルニー・小栗祭」が開催される。
業績 横須賀製鉄所創建、日本初の株式会社・兵庫商社設立、フランス語学校創立、日本最初のホテル築地ホテル建設
記念館 〇横須賀市ヴェルニー公園に銅像がある

〇高崎市倉渕町菩提寺・東善寺に小栗上野介銅像と記念館
言葉・信条  「これで、たとえ(幕府が)売家になっても、土蔵付きになります」

(たとえ徳川幕府が滅んでも、この製鉄所は将来日本の近代化に大きな役割を果たすという考えを《土蔵付き売家》と表現した)

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小栗上野介の写真
小栗上野介の肖像画)東善寺蔵

人生履歴 〔小栗上野介〕の人生(履歴・活動)
小栗上野介 略歴
1827年
(文政10)

江戸駿河台小栗邸にて誕生

1834年
(天保5年)

8歳、剣道を小谷下総守信友に又柔術、砲術を学ぶ

1835年
(天保6年)

9歳 安積艮斎の塾に入門漢学を学ぶ

1840年
(天保11年)

14歳 砲術同門の先輩より開国論の感化受ける

1843年
(天保14年)

17歳 初登場、将軍に初お目見えする

1848年
(嘉永元年)

22歳 弓術上覧で大的皆命中し,時服賜る、馬術得意

1853年
(嘉永6年)

27歳 将軍家定に勤仕する、1854年日米和親条約調印

1859年
(安政6年)

33歳本丸お目付けとなる、1859年安政大獄
井伊大老より日米修好批准の使節拝命、豊後守に任命される。

1860年
(万延元年)

34歳 1月アメリカへ出帆、桜田門外の変・大老暗殺

1861年
(文久元年)

35歳外国奉行、ロシア軍艦対馬占拠に対応 対馬事件

1862年
(文久2年)

36歳勘定奉行 江戸町奉行 上野介と改名 生麦事件

1865年
(慶応元年)

39歳 軍艦奉行、勘定奉行、横須賀製鉄所鍬入れ

1866年
(慶応2年)

40歳 日本初の商社・兵庫商社創立 徳川慶喜将軍へ

1867年
(慶応3年)

41歳 陸軍奉行 薩摩藩邸焼討断行大政奉還

1868年
(慶応4年、明治元年)

主戦論主張し罷免、戊辰戦争
上州権田村に隠遁、閏4/6無実の罪で烏川畔で主従4人が斬首される
                    赤字は世の動きを示す



 小栗上野介は1827年(文政10年)江戸駿河台に生まれる。
江戸末期の勘定奉行、外国奉行を歴任。日米修好通商条約の批准書交換のため日本国を代表し米国に渡り米国大統領と最初会った日本人3人の1人。帰国の際アフリカを廻り帰国、初めて世界一周をした日本人でもある。幕末、横須賀製鉄所(後に造船所、海軍工廠となる)を創設、日本最初の株式会社兵庫商社、フランス語学校、築地ホテル等を設立した。

 先祖は徳川家康譜代の家来で代々当主は「又一」と呼称した、そのいわれは戦いがあると「また一番槍は小栗か」と家康に言われ「又一」と名づけられたという。上野介は直心影流の剣の名手で槍、鉄砲、馬術にも長じ、文武両道に通じていた。

 アメリカの製鉄所、造船所等を見学し、又外国奉行の時、ロシア軍艦による対馬占拠(対馬事件)に遭遇、日本にも造船、鉄鋼所の必要性を痛感し、フランスの協力を得て横須賀製鉄所を新設、日本の工業技術の発展に貢献した。戊辰戦争では主戦論を展開したが入れられず、群馬県権田村(現高崎市倉渕町)に隠棲したが、1968年新政府軍により無実の罪で烏川の辺りで斬首された。享年42歳。横須賀のヴェルニー公園には小栗上野介の胸像と製鉄所の設計者ヴェルニーの胸像が並んで立ち、又、高崎市倉渕町の菩提寺·東善寺にも親友栗本鋤雲と並び銅像が立っている。  

  坂本藤良氏の名著   ポウハタン号の模型(東善寺蔵)
 

遣米使節の世界一周航路

ゆかりの地 〔小栗上野介〕ゆかりの地など

 

〔小栗上野介の屋敷は神田駿河台にあった〕

 小栗上野介の江戸屋敷は千代田区神田駿河台1丁目の明治大学本校の道路向い側にあった。現在はYWCA会館である、この辺りの古地図を見ると有力旗本の屋敷が並んでいた。すぐ隣にはご意見番・大久保彦左衛門の屋敷跡の碑が立っている。
御茶ノ水駅から徒歩5分程度である。明大地下1階には阿久悠記念館がある。

 古地図を見るとそれほど広く見えないが1000坪あり、屋敷内には有名な漢学者・安積艮斎(ごんさい)の漢学塾があり、9歳の時からこの塾で学び、後に一緒に横須賀製鉄所を造る栗本鋤雲は、この塾で学んだ竹馬の友であり生涯の友であった。

 上野介は馬術も得意で毎日この駿河台から江戸城まで馬で通っていた。屋敷町からお堀端を、馬でパカパカと疾駆し登城する上野介の雄姿が目に浮かぶ。

 

   

小栗上野介屋敷跡に建つ案内碑
 

 

 
〔日本人初の世界一周をした小栗上野介〕

 1859年(安政6年)6月「日米修好通商条約」が発効し、日本の鎖国時代は終った。政権中枢の老中は阿部正弘、堀田正睦から井伊直弼に移った。日米通商条約の内容につき米国総領事タウンゼント・ハリスと詰めていた岩瀬忠震(ただまさ)等は、井伊直弼によって更迭され、新人事を断行した。その結果小栗上野介は米国派遣団のナンバー3の監察として抜擢、派遣された。

 この旅の目的は前年大老・井伊直弼が調印した「日米修好通商条約批准書の交換」である。その正式使節の正使・新見正興は容姿端麗、押し出しも良く堂々とし、副使の村垣範正は文筆に優れ、小栗忠順(ただまさ)は32歳と若いが才能、胆力があり、井伊大老の目玉代りになる人物として抜擢され、又、日米通貨の交換比率を調査する任務もあり、経済に強い小栗が任命された。

 
 
ワシントン海軍造船所での写真、前列右から2人目
 
使節を乗せたポーハタン号
 

 使節団の一行は日本人77名、米国軍艦ポーハタン号の乗組員は312人、長さ77m、2415トンの大型帆船であった。護衛艦,咸臨丸は日本人による初めての太平洋横断航海として教科書では紹介されているが、日本人乗組員96人の他、米国人水兵11人が乗船し指導した、木村摂津守、勝臨太郎、福沢諭吉も乗船、通訳はジョン・万次郎であった。
 
記念切手となった護衛艦咸臨丸
 
〔大老・井伊直弼に若くして使節団のナンバー3に選ばれた理由は?〕

 井伊直弼に抜擢され米国使節ナンバー3の監察・小栗上野介は主義主張が明快で積極的で行動力があり、剣術、馬術、砲術にも長じていた。外国人に日本人の実力を認識させる人物と直弼はみていた。坂本藤良氏は小栗の人間性を下記のように紹介している。
・理解力   係数に強く知的能力が高い。
・説得力 江戸っ子旗本でハキハキし論理的であった。
・行動力  自信,積極性、若さがあった
・闘争心  かなり負けず嫌いであった
・正義感  間違ったこと、不正への嫌悪感があった
・感受性 感じやすい明敏さを持っていた。


 秘められた目的の一つは、 日本から海外への大量の金貨流失をくい止めることであった。日本と外国との金銀の交換比率は日本に不利で、日本の小判が大量に海外に流失していた。井伊大老は経済に強い小栗上野介にこの問題の解決を期待した。

 坂本藤良氏について
坂本氏は筆者の学生時代、経営学の権威者であった。経営学者の立場から、日本最初の株式会社・兵庫商社に興味を持ち、小栗上野介の研究者となり《小栗上野介の生涯》を著わした。この本は膨大な資料を駆使し、時代背景を詳しく分析した1級の参考書ですが、ネット上でも高価で入手も難かしい。

   

坂本藤良氏の名著
 
ポーハタン号の模型(東善寺蔵)
 
 
遣米使節の世界一周航路

〔日本人初の太平洋横断航海は大変であった!〕

 日米通商条約批准のために、日本人の手により初めて咸臨丸を操船しアメリカに渡ったと学校の歴史では教えられた。
護衛艦・咸臨丸は先に日本を出港、海は荒れ、船は大きく揺れ、日本人は成すすべもなく、米国人船員に面倒を見てもらった。咸臨丸は大きくないが最新鋭の日本所有の船で、無寄港で太平洋を横断し、サンフランシスコに入港している。

 一方、正使節団はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り、ハワイに寄港、品川を出て27日目であった。ハワイではカメハメハ大王に招待され王宮を訪ねている。サンフランシスコに入港したのは4月9日、品川を出てから約50日、今なら飛行機で1日、1860年当時は大変であった。サンフランシスコは当時人口10万人、その12年前は30~40人の小さな村であったが、金鉱が発見されゴールドラッシュで、一気に発展した街である。サンフランシスコ市長による歓迎会に招待され、各国領事、州議員なども正装で参加、音楽隊の演奏、パーティへと進み日本人のちょん髷と刀は珍しさもあり大歓迎された。上野介はハワイで新聞社を見学、その印刷スピードの速さに驚いている。

 咸臨丸はサンフランシスコから江戸に帰り、正規使節団はワシントンに向かう。咸臨丸木村軍艦奉行は暴風雨の中、船、日本人の面倒を見てくれたブルック大尉にお別れの宴を催し、挨拶の後、ドル紙幣の詰まった箱を示し「ほしいだけ取ってくれ、私の気持ちだ」とすすめたが、「その気持ちだけで充分だ」と応え受け取らなかったという美談もある。

護衛艦・咸臨丸の航海途上の様子については教科書等に掲載されている内容と事実は違うので、東善寺HP「咸臨丸病の日本人」をご参照ください。

   

カメハメハ王夫妻に会う、
(佐藤藤七 渡海日記より)
 

〔初めて蒸気機関車に乗る日本使節団〕

 パナマ運河はまだできておらず、パナマ鉄道も5年前に竣工したばかり、日本人70余人は初めて蒸気機関車に乗る。カリフォルニアのゴールドラッシュにより大勢の人が西へ移動するためにこの鉄道が創られたのだ。

 パナマ鉄道は総距離47里半で7両編成、日本人から米側接待委員に質問が出る。建設費、建設資金の調達は?これに対し政府が費用を出したのではなく裕福な商人が資金を出し合い鉄道組合をつくり、運賃を収入とし、利益は出資額に応じ分配するという説明を聞く。小栗上野介はこの方式なら「金がない」幕府でも、出来ると思い帰国後、日本最初の株式会社を興す事になる。上野介の凄いところだ。
 
フィラデルフィアで大君の暗殺というNEWSを見る、「井伊直弼の桜田門外の変」の記事である。アメリカ側は隠そうとした。

   

日の丸の旗を立てた蒸気機関車に日本人70余人が乗った
 

ワシントンでの歓迎風景、担いでいる箱に批准書が入っている(地元の新聞写真、東善寺蔵)

〔ワシントンで大歓迎を受ける〕

  第15 代ブキャナン大統領にワシントンハウスで会う。次の大統領が南北戦争で勝利をおさめたリンカーンである。この後米国は南北戦争(1861~65年)に突入、日本はアメリカを頼れなくなった。小栗上野介は日本人で初めてアメリカ大統領に会った一人である。

 アメリカにとっても東洋のお伽の国のような日本から狩衣姿に鞘巻きの太刀を付け、ちょん髷姿、烏帽子をかぶり草履を履いた盛装の日本武士団は、煌びやかで米国人にとって、珍しく一目みようと大勢の人が押し寄せた。時に1860年5月17日大統領に国書を奉呈した。

   

日本使節を迎えるブキャナン大統領
 

〔熱狂的に迎えられた日本使節団〕

 サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンの各地で歓迎された。一行の動向は絵入り新聞で紹介された《日本人は善良、温和で、世界でも最高の知性を有している》と紹介された。ニューヨークではブロードウエイをパレード、満員の観衆で、エリザベス女王が来た時よりも人出が多かったという

 
 
歓迎のパレードに掲げられて日章旗と星条旗、
日章旗が国際的に使用されたのはこれが初めてかも

ブロードウェイを大行進する日本使節団
(当時の米国新聞:東善寺蔵)

〔通貨交渉での正確無比さに驚く・米国交渉団〕

 T・ハリスと結んだ通貨交換比率は日本側の無知もあり、日本の金小判は米国に持ち帰ると3.5倍に交換できた。それ故に日本の膨大な金が海外に流出する結果となり、井伊大老からはこの改善交渉の密命が上野介に与えられていた。

 上野介はサンフランシスコで造幣局を見学、ワシントンでの国事的儀式終了後、フィラデルフィア造幣局で小判1枚に含まれる金、銀、銅の含有率を朝9時から夕6時まで、分析実験が行われ、小判1枚は米価3ドル57セントに相当するという結果になった。「77人の侍アメリカへ行く」服部逸郎著より。

  《77人の侍アメリカへ行く》の本は昭和40年、遣米副使節の村垣淡路守の子孫である服部逸郎氏が書いた本。この本を古本で求めてみた。使節団に参加した多くの人の日記や新聞記事などを紹介しているので現実感があり面白い。

   

当時の天秤秤
 

ワ当時の算盤
〔「アメリカ人技師のショック」と新聞に報じられた記事〕

 小栗が天秤ばかりを持ち出した、象牙作りの精緻なメモリが刻まれ皿と重りが在るもの。一分の狂いもない、十進法である事にもおどろく、その美麗さ、精巧さ、細密な彫金技術は当時世界最高であった。日本人の合理性、進歩性、当時は1ポンド=16オンスとややこしかった、

 正確無比な算盤にも驚く。高級役人はアバカス(算盤)を持ち 5つずつの木製のボタンがあり15列並ぶ ボタンをあちこちに滑らせると恐るべきスピードで計算ができてし

 


〔アメリカ人がみた日本人の印象〕

 米国の新聞に日本人が紹介されている。小栗上野介は
すぐに発刊される新聞に興味を持ち、日本にも新聞が欲しいと思った。異国人の日本人紹介はよく観察している。

ニューヨーク・ヘラルド紙 の記事は興味深い


  使節団は、全員威風ある美しい合羽、無地の下着、真っ白な脚絆足袋を身につけ、宝石で装飾された見事な刀を差し、自然の威厳を身につけていた。日本人が同じ着物を二度着るのを見ることはほとんどない。彼らはカメレオンのように、変化を喜ぶ習性を持っている。

 使節の纏っている黒の縮緬の羽織の背中の真ん中と両袖には、木の葉の形のマークが付いている、その下に着ている着物はダークでのどもとに三角形を作る形で胸前で重ねられ。その下に着ている白い絹の衣服がごくわずか外に見えている。それは我々のカラーと同じ目的を果たしており、外観をすっきりさせている。
 
 袴の紐は胸と腹の間に膨らみを作り、それがポケットの役割を果たしている。ポケットは異常に膨らんでいる。多分小さな紙の鼻拭きがたくさん入っているのだろう。その紙で鼻をふいて捨てるのが日本人のエチケットなのである。
 
 足袋と草履は親指と他の指と分離させて履くようになっている。草履はおそらく原始時代の履物のスタイルを受け継いだのだろう。
 
 使節は立派な縁取りのある、数インチの籠手のついた絹の手袋をはめていた。それを脱いだとき。小さなデリケートな、格好の良い手が現れた。あんな手を持っていたら、どんなレディーでも自慢したくなるような繊細な手であった。 日本紳士の全体的効果は、趣味と芸術の結晶で、最高の完璧さであった。
 又 オグロは使節団の中心である。何事も彼の同意がなければ決定できない。彼の体のすみずみに、秋霜のきびしさがみなぎっていた。

ニューヨク・ヘラルド紙 の記事は興味深い

 使節団の中に僧侶が一人もいないことに驚きを持つ、日本人はきわめて合理的な性格を持つ人種なのである。ーーーかといって、想像力に欠けているわけではない。そのことは彼らの持参した書物の挿絵の卓抜さを見ればわかる。日本人は善良で、温和で、そして世界でも最高の知性を有している。
 
米紙が報ずる小栗忠順像
 監査オグロ・ブンゴノカミは小柄だが、生き生きした、表情豊かな紳士である、威厳と、知性と、信念と、そして情愛の深さとが、不思議に混ざり合っているのである。彼は明らかにシャープな男である、ワシントンで「日本使節のブラック判事」というニックネームがついたのも尤もなことである。 ブラック判事は名裁判官で日本で言えば大岡越前守といったところである。
 

   

正使:新見正興、副使:村垣範正、
監察(右):小栗上野介
 

使節が宿泊したワシントンのホテル、7階建て2000人宿泊設備の良さに驚く、25日間滞在


通訳見習い・トミーはブロ-ドウエイで大人気
  
 立石斧次郎という若い通訳見習いがいた。坂本藤良氏の著書「小栗上野介の生涯」の最初のプロローグで詳しく紹介している。坂本九ちゃんの「スキヤキ」と同じように「トミーポルカ」という曲が1860年米国で大ヒットしたというもの。斧次郎は愛嬌があり、習い覚えた英語をすぐ使い、片言で話しかけるので「トミー」と呼ばれ、日を追うごとに人気が上昇しヤンキーガールに追いかけ廻されたと言う。

 当時はやったトミー・ポルカという歌が100数十年後に発見され、その楽譜を手に入れた坂本氏は詞を和訳し下記のように紹介している。
  街行く、奥さん、お嬢さん
  夢中で周りに寄ってくる
  魅力あふれた 小さな紳士
  その名はトミー ウイッティなトミー
  日本から来た 黄色いトミー
ブロードウエイでのパレードの最中、トミーは馬車の上から米人女性からもらったハンケチを振り、群衆を沸かせたという。
その熱狂ぶりは南北戦争前の暗い世の中を吹き飛ばしたという記事も見られた。今はユーチューブで聴く事もできる。

   

当時撮影の斧次郎
 

米国で発売のトミーポルカ
ジャケット


小栗上野介が米国で学んだ事、日本に活かす覚悟
  
 坂本藤良氏はアメリカを去る小栗上野介をこう紹介している
          (服部逸郎氏(副使村垣の曾孫)の記述より引用)。

 監察小栗上野介はひとり,衆を離れて、遠ざかりゆくアメリカ大陸を見つめていた。だんだん暮れていく空のかなたには、この一行中で最も明敏な頭脳をもった侍に、深い印象を与えた新しい国が横たわっている。《素晴らしい国だ》小栗上野介は溜息まじりにひとりごとをいった。「何もかも素晴らしい。わが日本もこうならなくてはならぬ。攘夷などとばかばかしい。そんなことをしていたら、各国の餌食になり、やがては分割されて植民地になってしまうのが落ちであろう。アメリカの活気に充ちた新興国の意気と、わが国の沈滞した空気とはくらべものにならぬ。ことに科学の進歩に至っては実に羨ましいことだ。

 あの造船所の機械、また造幣局の設備など、これはどうしてもわが国に取り入れねばならぬ。そうして世界の各国と対抗できるだけの実力を養うのだ。そうだ、自分がやろう。わが日本のため、わが徳川幕府のために、自分がやらないでだれがやるというのだ」彼の目は決意に一瞬輝いたが、「でも難事だぞ、あのわからずやの老中や各藩の若侍どもを相手にして戦うのだ。しかし誰かがやらねばならぬのだ。そしてたとえ命を捨ててもやりがいのある男子の仕事ではないか」
(77人の侍アメリカをゆく)より。

   

七十七人の侍アメリカへ行くの著書
 
 

 

〔帰国時の日本の現状〕

小栗上野介がアメリカ他で見聞し、その後日本で実践した事
  
 「九か月に及ぶ米国~世界一周の旅」から帰国後、外国奉行、勘定奉行、陸軍奉行などの幕府要職を歴任しているが、下記のような難題が次々と発生し、幕府の人材不足もあり、小栗は登用、辞職を繰り返し、《またも辞めたか亭主殿》と奥さんから言われるほど帰国し亡くなるまでの7年間で驚くほど《日本の近代化に貢献》している。

1.  近代化されたアメリカと植民地化されたアフリカ、中国、アジアを目のあたりに見て、外国を模範にした国の改革を急がねばと公言する。井伊大老亡き後の攘夷吹き荒れる中では勇気のいる事であった。

2. 上野介は帰国後外国奉行を命じられる。ロシアが対馬を占拠した対馬事件に遭遇、対馬に赴いた。ロシア艦長ビリレフは命令で進航、停泊しているので抗議では動けないと判断し、江戸に戻り村垣箱館奉行が箱館の露国領事と交渉し退去させた。イギリス公使の圧力で退去させたという説は誤りと、東善寺のホームページでは説明している。この事件で領土保全の難しさを痛感し、外国列強との交渉には海軍の強化が必須で、自力の軍艦が必要と悟る。

3. ワシントン海軍造船所の威容を見て驚愕した。 あのような造船所を持たないと世界の中で独立し生き残れないと実感した。フランス人技師ヴェル二ーをフランスから招き、横須賀に製鉄所を造る契約をまとめる。米英仏露に負けない艦船を造るには財政の確立が必要で、このことに精力を使った。

4. 外国人が独占している貿易上の利益を日本人に取り戻す、そのため日本初の株式会社兵庫商社を設立した。

5. 日本近代化のためには技術、語学、経済などの教育が必要であると、日本最初のフランス語学校を1865年横浜に設立した。明治のフランス語の辞書編纂やフランス語教育に貢献した人を多く輩出してい
 る。

6. 日本最初のホテル・築地ホテルを建設。水洗トイレ、シャワー付きだったという。銀座の大火で焼失した。

 7. その他自分では実現できなかったが、郵便制度、鉄道、ガス会社等の提言をしている

   

アフリカ奴隷や中国の悲劇を見る
(木村鉄太・航米紀より)
 

明治時代の横須賀港
 

築地ホテル
ウイキペディア(歌川広重画)
 

フランス語学校の生徒(2列目真中が小栗又一)
(写真:クリスチャン・ポラック氏)

 

〔上野介、対馬事件に遭遇し軍艦の必要性を実感する〕

日本とロシアとの歴史
  
  安政元年(1854年)日露和親条約が締結され、エトロフ、クナシリ、歯舞、色丹の諸島は日本の領土と定め、樺太は国境を定めず日露両国人雑居のままとした。日露間の今までの紛争は解決され、両国の友好が確認された。

対馬に赴きロシア軍艦艦長と交渉

1861年(文久元年)2月ロシアの軍艦ポサドニック号ピリリョフ艦長が九州・対馬に上陸し、対馬藩主に面会を要求、対馬・芋崎の租借を求めてきた。帰国早々、外国奉行に就任した小栗上野介は5月対馬に赴き、ロシア艦長と会見した。

 第一回の会談では対馬藩主との会見を求めるロシア側に謁見を許すと回答、第2回目ではロシアの無断上陸は条約違反と抗議する。第3回では老中の指示により藩主謁見を否定する。ビリリョフ艦長は、話が違うと猛抗議をするが、小栗は「私が承諾したのに許可が得られなかったのは私の責任だ、どうぞ私を鉄砲で打ちなさい」といい押し切る。小栗上野介の胆力は評価されたが、江戸に戻った小栗は外国奉行を辞任した。(詳細は東善寺HPを参照下さい)

  小栗は交渉に失敗したがこれにより人間的に成長した。侵犯する外国の軍艦を退避させるには、実力、軍事力、経済力を持つことだと悟る。対馬はアジアの中で最も重要な拠点で、どこの国もほしいと思う地点であった。

 ロシアを追い払ったが、英国もこの地を以前から欲しいと思っていた。米英仏露に負けない艦船を日本人自身で建造できる造船所の建設、財政の確立が必要と、小栗上野介は横須賀製鉄所の設立に動いた。

 その結果日本製の船、戦艦も作られこの対馬沖の日本海海戦でロシア艦隊を撃破し、日露戦に勝利した。
対馬事件でむなしく帰った小栗上野介の無念は、横須賀造船所を造り44年後にこの地の海戦に勝ち報われました。

   

対馬の島々
 

海上交通の重要拠点・対馬の全図
 

対馬の位置
(福岡と韓国の中間にある)
 
 

 

〔対馬事件の通説を糺す〕

 対馬事件はロシア艦が日本の対馬に不法に上陸し井戸を掘り、兵舎を立て居座り続けた事件で日本人が射殺され、あるいは捕らえられ舌を噛んで自害する人も出た。小栗上野介は現地に赴き交渉したが成果を上げることなく江戸に引き上げた。

 菩提寺東善寺のホームページには「対馬事件の通説を糺(ただ)すという、詳細な最新情報をA417ページにわたり詳しく説明している。村上和尚とお会いした時も、最近ロシア側の当時の事情、文書がオープンになり真相が解って来たとおっしゃっていた。

 そのHPの「小栗上野介情報」の大見出しを列記すると
1 対馬事件とは、小栗忠順の交渉経過
2 ロシア海軍が「私的契約で土地を租借」する方針
3 露海軍の独走で起きた事件
4 通説「露艦は英艦が行ったから退去した」は誤り

 ロシア皇帝の事情は外交の形をとらず、「現地領主との直接交渉で租借できる」という日本の封建制の弱点をついて進航、停泊した。露艦・ビリレフ艦長はロシア海軍の命令で対馬に来ていたので、軍人として勝手に退去できない。村垣箱館奉行のロシア本国提督への退去要求により退去した。

 従って「英国艦隊が対馬に行ったので、ロシア艦隊が退去した」という通説は誤りである事を細かに解説している。興味のある方は東善寺ホームページ《対馬事件の通説を糺す》をご覧ください。

   

ロシア艦長ビリレフ
(東善寺HPより)
 

魯冦跡の碑(昭和2年立つ)
 

ロシア側が居住した芋埼浦絵図 (東善寺HPより)
 
 

 

〔たとえ売家(幕府が)になっても蔵付きになります〕

 《土蔵つき売家》という小栗の言葉は有名だ

 司馬遼太郎の「街道をゆく・三浦半島記」では次のように紹介している。

「当時、江戸から横須賀までひとすじの小道が通じていた。小栗は、この道を何度も往復した。ある時、小栗は、路傍で外国方の栗本瀬兵衛(1822-97)を見かけ、《瀬兵衛どの、瀬兵衛どの》と馬上から呼びかけた。小栗のその明るい声が、明治後、新聞人になった栗本鋤雲にとって、終生忘れられないものだった」という。

「これで、たとえ(幕府が)売家になっても、土蔵つきになります」小栗上野介の有名な言葉である。馬上にいるのはもはや幕府中心主義の小栗ではなかった。一個の日本人だった。

 土蔵つき売家とは横須賀製鉄所をさし、幕府が瓦解しても土蔵付きで、日本の国にとって必要物という信念で小栗は製鉄所建設に取り組んでいた。

「坂本藤良氏の小栗上野介の生涯」では横須賀製鉄所の建設について詳細に書いている

1 建設のきっかけは鍋島藩から蒸気動力の製鉄・造船機械一式(オランダから購入)を幕府に献納されたが使い方に困ってしまった。

2. 幕府の主艦翔鶴丸が破損、フランス艦にお願いしたら直ぐに修理した。幕府や有力藩は艦を持っていたが、日本では修理ができず上海に持ち込む、修理に時間と費用が掛かりすぎるので、日本での修理、建造ができないかと上野介は考えた。

3. 艦を造れるのはイギリス、フランス、アメリカと解った。イギリスは薩英戦争の後、薩摩に傾斜していた。また中国植民地の経過を見て、イギリスを警戒した。フランスは野心を感じさせず、ナポレオンの姿勢、フランス大使ロッシュの好意もあり、幕府はフランスに傾斜していった。

4. 幕府の指導層は造船所建設には反対唯一無二の親友・栗本鋤雲(じょうん)のみが賛成し助けた。鋤雲はフランス語をマスターしフランス公使ロッシュの通訳カションとも親しかった。後に勘定奉行、外国奉行を歴任、パリ博に同行し代表の徳川昭武を助けた。

5. 1865年横須賀製鉄所の建設が決定され、外国奉行柴田日向守をフランス・ツーロンに派遣した。フランスの技師ヴェルニーを招聘、ヴェルニーは若いが優秀で短期間に製鉄所を完成させた。彼の部下は明治4年に富岡製糸場を完成させている。

   

 

江戸時代の横須賀絵図
横浜市自然・人文博物館蔵))
 

横須賀造船所
(横浜市自然・人文博物館蔵)
 
 

ゆかりの地 〔小栗上野介〕ゆかりの地など

 

〔横須賀市ヴェルニー公園を訪ねる〕

 横須賀駅に降り立つとすぐにヴェルニー公園がある。園内に入ると横須賀製鉄所を造ったフランス人・ヴェルニーと小栗上野介の銅像が公園を見渡せる位置に、仲良く立っている。

 公園内には広いバラ園があり、海にも面した岸辺からは大きなエイが何匹も泳いでいるのを見かけた。海の反対側には船のドックらしきものが見え、大きな船や潜水艦も見受けられる。

 直ぐ近くから湾内の遊覧船が出ている。これに乗ると湾内に浮かぶ軍艦、潜水艦等を見られ、案内嬢の説明を聞くと様子も良くわかる、近くの猿島には戦前の大砲跡が残り、また日露戦争の主艦・三笠の内部も見学できる。

 公園の奥には、戦艦武蔵の大きな大砲が並び、ヴェルニー記念館内に入ると、最近まで使われていたという《3mほどの大きなスチームハンマー》が展示されている。これで鉄の工業製品を造っていたのだと想像する

 

 

ヴェルニーと小栗上野介の像が並んで建つ
 
小栗上野介像   ヴェルニー像
 

この横須賀製鉄所の建設は1865年正月、日仏の約定書が調印された。

東洋で最大の工場で近代的工業の夜明けと表現される、大きなスチームハンマーが6台設置され、大きな3トン物は1996年まで使用された。機械遺産に指定さている。

    展示品のスチームハンマー  

横須賀製鉄所の立役者として
2人が紹介されている


ヴェルニー公園
 

公園内の大砲

公園の中央
   
〔横須賀造船所の現在〕
 
ヴェルニー記念館内部













現在の横須賀港
 
         
 
戦艦武蔵の大砲が展示されている
 
 
         
 
ヴェルニーの説明看板
 
横須賀造船の関係者記念写真
 
         
 
スチームハンマーの説明図
  横須賀港は現在海上自衛隊と米軍基地となっている。湾内は観光船が出ていて、湾内に停泊する軍艦、潜水艦等の詳しい説明をしてくれる
 近くには日露戦争の旗艦・三笠が記念艦となり日露戦争のことが良くわかる。また無人島の猿島に船でわたると昔の大砲が多く残され、海上防衛の歴史がわかる
 

〔菩提寺・東善寺(高崎市倉渕町)を訪ねる〕


 菩提寺・東善寺は烏川畔の国道沿いにある。和尚さん村上泰賢氏は小栗上野介の研究家では第一人者で、小栗上野介に関する本を何冊も出版されている。以前、深谷の渋沢栄一記念館で「渋沢栄一と小栗上野介」をテーマにした講演が開催され、拝聴しているので親近感を持ってお会いした。

 本堂の周囲には小栗上野介の資料が並ぶ。その脇の座敷で、上野介についてお聞きした。何でも知っておられ、間髪を入れず応えが返ってくる。本にはない新しい事を色々とお聞きし話もはずみ、あっという間に数時間が過ぎた。
 〇坂本藤良氏の「小栗上野介の生涯」が発売後、東善寺へ
  の参拝者が増えたという。
 
 〇ロシアの古い資料が最近公開され、対馬事件について
  も今までの通説を覆す新事実が出てきている。
 
 〇小高用水のことを聞き、実際に用水も見学した。
 〇上野介のお役替えは70数回に及び、NHKのお正月
  特別番組で「またもやめたか亭主殿」が放映された。
  「その時歴史が動いた」「知恵泉」でも放映されたが、
  敗軍の将ゆえに大河ドラマ(NHK)はまだ実現してい
  ない。
 
 〇アメリカ土産は工業用ネジであった。ネジは近代工業
  の象徴であり、ネジがつくれる国になりたいと、各方
  面に配り、東善寺にも1本ある。
 
 〇富岡製糸場は横須賀造船所の妹のようなもの。横須賀
  を造ったフランス人技師が富岡製糸場も設計、横須賀の
  日本人大工を連れてきて建設した。
 
 〇幕府の御用金を赤城山に隠したことを、お聞きしたら
  笑って否定された。幕府にそんな余分なお金はなかった
  、それ故に小栗上野介は苦労したのだと。
 
 〇上野介の奥さんの逃亡ルートについても聞いて見た。新
  潟との県境にある野反湖~秋山郷の道は、現在では通行
  困難な秘境ですが、「妊婦の夫人が良く行けましたね」  
  の問いには、「それは車社会の人が考える事であって、
  昔は越後へ抜ける道でよく使われていた」と聞かされた。

 〇建築中の小栗上野介邸宅や日記、家計簿その他多くの物
  が高崎の業者により処分され、新政府軍の軍資金とされ
  たという。

 
東善寺への参道
 
     
 
東善寺和尚・村上泰賢氏
 
     
 
東善寺所蔵のアメリカ土産のネジ
 
     
 
東善寺の内部、記念資料が並ぶ
 
 

訪米時の記念写真

〔小栗上野介斬首の場所を訪ねる〕

 前橋在住の友人に案内頂き、烏川の河畔に建つ小栗上野介の顕彰慰霊碑を訪ねた。碑は水沼河原と呼ばれる広い畑田のわきに立ちすぐ解る。大きな石垣の上に3m位の慰霊碑が建ち、《偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる》と力強い字で彫られている。建立は昭和7年と戦前だ。当時まだ敗軍の将として、扱われ罪なくしてという言葉を使用するにも勇気が必要だったと聞く。
 
 明治維新・元年1868年閏4月6日この場所で、主従4人が西軍の為に斬られている。家臣の大井磯十郎が「一言の取り調べもなく、お殿様がこんな所でご最後とは残念だ」と叫ぶと。「この期に及んで未練がましい事を申すでないぞ」とたしなめ従容として斬られた。

 その翌日高崎城内では息子・又一他主従4人が何の取り調べもなく斬首されている。この中には近代国家アメリカから世界を見聞している若者が含まれている。上野介の息子もフランス語学校を出てフランス語で通訳ができる逸材であり、国家の損失でもあった。

   

烏川水沼河原の慰霊碑
 

《偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる》と書かれている
             
     
小栗上野介の墓と銅像
   
家臣の墓

〔東善寺内には貴重な資料が沢山ある〕

         
 
小栗上野介の写真
 
メリカ渡航時の写真と航路図
 
 

世界一周図

〔小菩提寺・東善寺に無二の親友・栗本鋤雲像の像が並び建つ〕

 境内には小栗上野介と親友・栗本鋤雲の銅像が仲良く並んでいる。

 栗本鋤雲は江戸の医者の家に生まれ、小栗家屋敷内にあった、安積艮斎の塾で一緒に学んだ。奥詰の医師になった時、幕府軍艦に試乗した事で、上司に咎められ箱館に左遷された。

 箱館でフランス人宣教師カションに日本語を教え、彼からはフランス語を学びフランス語をマスターした。また、病院兼診療所を開設(現市立函館病院)、薬草園の開設、樺太での越冬、国後エトロフを巡視、ロシアとの外交関係を論じた建議書を提出、北海道南部の畜産・養蚕振興など幅広く活躍し、その業績が認められ、江戸に戻る。昌平坂学問所の頭取(東京大学の前身)、外国奉行、勘定奉行、目付等を歴任した。

 横須賀製鉄所建設は幕閣の多くが反対する中、栗本鋤雲は理解を示し小栗上野介を助けた。フランス公使ロッシュやカションとは箱館時代の親友でフランス語学校設立、フランス陸軍顧問団の招聘、パリ万国博覧会代表の徳川昭武渡仏時には随行し補佐した。上野介逝去時はフランスにいた。大叔父は鬼平と言われた長谷川平蔵といわれている。

 維新後は明治政府に仕える事を良しとせず、明治6年「郵便報知新聞の主筆」を務めジャーナリストして活躍した。登山家でもあり、渡仏中日本人初のアルプスに足を踏み入れている。

   

 

東善寺に並び立つ2人の銅像
 

〔日本初の株式会社・兵庫商社を設立〕

 小栗上野介はアメリカでコンぺニーと称する会社を知り、日本に帰ると、「兵庫商社」という日本で初めての株式会社を設立した


  坂本藤良氏は昭和30~40年代経営学の大御所的存在だった。この坂本氏が「小栗上野介の生涯」(講談社刊)という本を著し、その副題が「兵庫商社を創った最後の幕臣」である。経営学を研究して行くと日本資本主義の原点である株式会社を創った人に突きあたったのだと思う。

 一般的には坂本竜馬の海援隊が最初の商社と言われているが、小栗は慶応3年(1867年4月)に兵庫商社の創立を建議している。坂本氏は日本で最初に商社設立を幕府に願い出た小栗上野介を紹介しつつ、小栗の「先見の明」を詳細に紹介している。

 即ち、小栗上野介は万延元年の遣米使節の一行に参加し、米国の財政経済上の新知識を会得し、コムぺニ―(会社)に関する知識をもたらし、日本に商社を創らんと建議した。当時、外国商人に馬鹿にされ、西洋商人を儲けさせるために東洋の地を提供しているのが残念という、日本人としての国益意識であると紹介している。

 坂本氏は小栗の構想には貿易だけでなく「銀行業を兼ね」、さらに「ガス灯の設置、郵便局の開設、鉄道の敷設」までも提案していたという。この構想の素晴らしさには感動せずにはいられない と書いている。

 不幸にも小栗上野介は明治元年に斬首されてしまうが、明治政府になりこれらの構想は実現された。この辺が司馬遼太郎が「近代の父5人」の1人として挙げる理由ではなかろうか。「明治という国家」(司馬遼太郎著)では「明治の父と五人」として次の5人をあげその根拠も記している。紹介すると
〇小栗上野介 国家改造の設計者
〇坂本龍馬  維新を躍進させた風雲児
〇勝海舟   国家という建物解体の設計者
〇福沢諭吉  新国家設計の助言者
〇西郷隆盛  無私の心をもち歩いていた巨魁

 
 
小栗上野介の生涯
 

〔上野介の奥さんは会津へ逃亡、ルートは困難極まる〕

 上野介は自分が斬殺される前に奥方を会津に逃がした。その逃亡ルートを小栗上野介(みやま文庫)では詳細に紹介している。

 そのルートは現在では困難な難路である。高崎市倉淵村から吾妻郡の山中を通リ、六合村から野反湖(昔は湖でなく湿地帯であった)湖畔を通リ、秘境秋山郷の和山温泉まで、夫人は妊娠8か月の身重な中、よくぞこの難路を通ったものだと脱帽する。筆者は野反湖のお花畑、苗場山の登山口・秋山郷には何度か出掛けたことあるが、この逃亡ルートはベテラン登山家でも難しい道と言われている。

 村人の護衛隊は綿密な計画をたてる。チームは二手に別れ母親のパーティーは善光寺参りを装い、奥志賀経由で、夫人のパーティは苗場山、鳥甲山間の急峻な渓谷コースを辿った。夫人は山籠で、また男の背に、又歩いての難行であったと書かれている。

 
 
現在の野反湖はキスゲの名所


秋山郷へ抜ける渓谷
 
  現在秋山郷には6つの温泉があるが、江戸末期には越後の文人・鈴木牧之が北越雪譜という紀行文で深山幽谷とその秘境ぶりを紹介している。この地まで小栗夫人を護衛してきた村人の何人かは、ここで別れ小栗の殿様の仇を打つべく新政府軍との闘いが予想される三国峠に向かい戦った。その後会津でも戦い、命を落とされた人もあり、会津にその墓が残されている

 夫人一行は秋山郷からは新潟に出て、会津に向かう。上野介の父親は晩年新潟奉行を歴任し、この地で面倒を見た人も多く、その人たちが支援し無事会津へ着いた。

 しかし会津でも会津戦争の真っただ中であった、藩主松平容保公にもお目通りした。しかしお世話になる横山家の当主主税は激戦の中討ち死にしてしまった。そのような非常事態の中、城外に設けられた野戦病院で6月10日無事女の子を出産クニ(国)子と名づけられた。

  会津戦争終了後、小栗夫人と遺児は東京に戻るが、元の屋敷は新政府軍に没収され
ていた。その時夫人を助け面倒を見たのが、かって小栗家の番頭で三井家の大番頭となっていた三野村利左エ門であった。夫人は日本橋浜町の三井家別邸で暮らし、夫人没後の明治19年には縁のあった大隈重信とその夫人に娘・クニ(国)子は引き取られ成長した。

 


〔小栗上野介の倉渕村居宅と観音山〕

 小栗上野介は大政奉還、江戸城開城後、領地のあった権田村(現高崎市倉渕村)に隠遁し、次世代を担う若者の教育をしようと倉渕村の山上・観音山に新しい居宅の建設を始めた。棟上げ式の直前に新政府軍の東山道総督府はこれを新政府軍に対抗する陣屋,砲台を築き反乱を企てていると言い立て、無実の上野介はじめ部下3人を捉え、有無を言わせず烏川の畔で殺害した。また息子や部下3人もその翌日高崎城で殺害した。

 観音山は東善寺先の坂上にある。県道から急坂なので徒歩で上ってみた。10分程で頂上に着く、「小栗上野介の屋敷はこの下の平地です」という立札が立っている。また2m強の大きな石碑が建ち、謂われが書かれている。頂上には広い平地があり、遠くに山々が遠望できる。この地で息子・又一にフランス語の学校を運営させようと考えていたという。

     

 
 
現在の観音山の風景


   
           
住民のために小高用水を造る

倉渕村小高部落は国道からすぐに急な坂になる集落である。幕末の頃は水利に恵まれず水田耕作には難儀していた。

 1868年上野介は検分、測量をし村人の協力を得て、用水を造り、以後水が確保され、安定した実りを得る水田となった。現在でも小高用水と言われ、「小栗上野介が引いた小栗用水」と書かれた看板が立っている。

 

 

〔赤城山埋蔵金の真実〕

 赤城山に江戸幕府の御用金が埋められたと信じ、何代にも亘り掘っている人が話題になり民放TVで放映されたことがある。この件につき東善寺村上和尚に聞いて見た。当時の幕府にはそんな金はなかったと一笑に付された。

 確かに幕末の幕府は①長州への2度の出兵 ②軍艦の購入③横須賀造船所の建設、④生麦事件の後処理⑤薩摩長州砲撃事件の外国への賠償、⑥軍備等を抱え、商人からも借金をし 赤城山に隠す金などなかった。でも財政状況など知らない多くの人はこの流言を信じた。小栗上野介は金を隠し持っていると、地元の博打に狙われ、これを撃退したら、新政府軍は反乱を企てているとし、何の抗弁も聞かず上野介主従を烏川畔で殺害した。 

 

日本最初のホテル築地ホテル
富岡製糸、フランス語学校の設立

1865年日本初のフランス語学校を作る
校長はフランス人メルメ・カション校長   
この時の生徒がフランス辞書を作り、日本
のフランス語研究をしてリードした

   
フランス語学校の概要

フランス語学校第1回卒業生 上野介の息子も写っている 「小栗上野介」(みやま文庫)より
     

日本初のホテル創業・築地ホテル

慶応4年日本初の築地ホテルを創業、水洗トイレ付き、部屋数102室、大勢の見学人が押しかけた。銀座の大火で焼失した。

 
築地ホテル(三代広重画 東善寺蔵)
〔小栗日記、小栗家計簿、渋川の後藤家を訪ねる〕

 群馬県渋川市上ノ町に後藤家という旧家がある。
この家の脇に「小栗上野介古文書保存所」という高さ2m位の角柱が立ち、私は高校時代その角柱を見ながら渋川高校に通っていた。当時小栗上野介の名も知らず、どういう人物なのだろうと疑問を持っていた。後年小栗上野介という偉大な人物と知った。

 江戸末期小栗上野介はきちんと日記をつけ、家計簿も自分でつけていた。なぜ後藤家に小栗上野介の日記等の古文書があるのだろうと疑問に思った。

 坂本藤良著の小栗上野介や菩提寺の住職村上泰賢氏の著書などを読むと、烏川の畔で斬首された後、小栗家にあった家財や古文書、家等が処分され、整理に当たった人達が購入したと言われている。

 現在、渋川の後藤家は立派に家を建て替え、家の前には整備された石柱が立ち、小栗上野介日記及び家計簿と彫られている。その横に説明書きもある。お邪魔し後藤家の女主人にお会いし聞くことができた。現在文書はこの地になく群馬県の重要文化財として県の施設に保存されている。従って此処では見られない。

 ついでにお聞ききした事で小栗上野介が米国に渡ったとき持ち帰った鉄製のネジ釘が3本あるという。上野介はこの釘を近代工業の重要な証拠品として、日本人に見せ説明し、日本の未来にとって必要なものとして、熱く老中や関係者に語った。

   
 
 
 

小栗上野介日記・家計簿保存の
後藤家&案内標識
〔小栗上野介の幻の居宅を訪ねる〕

 上野介の死後、屋敷の用材は競売にかけられ、群馬総社に今も存在すると聞き、総社の知人を介し都丸耕治氏の家を知り訪ねた。群馬総社には都丸家が沢山ある、その中で総本家が耕治氏だ。表札もかけられ、庭にいた背の高い、若い頃は好男子だったに違いない紳士に挨拶をした。上野介という名前を出すとすぐに要件は解ったようだ。

 耕治氏の家はこの辺りで一番大きな、上州の旧家である。話をしている内に、上野介の家は耕治氏の新宅であることが解った。よく間違われるのだと、笑って言う、大きな道よりチョット中に入った「本物の小栗上野介旧宅」に案内して下さった。

   

小栗上野介の移築された居宅
 

簿都丸家の総本家
 

  上野介旧宅も立派な2階建てでその上に立派な明り取り窓がある。説明によれば玄関が二つあり、大きな左の門付き玄関が殿様の玄関、使用人の出入りは右の玄関であるという、家の中も3尺ごとに柱があるなど、かなり凝った造りという。この家に郷土史家等がよく訪ねてきて、家の中まで見せて欲しいと言われるのが面倒で、この家の主人は見せることを断っていたという。今はこの家の主人も亡くなってしまい無人の家になっている。

 まだ倉渕村の頃、倉渕村に移転する話もあったが、高崎市に合併されてしまいそんな話も途絶えてしまったという。現状では朽ち果ててしまう、若し倉渕村・観音山に移転できれば、小栗上野介の記念物として良いのになあと思った。

 
NHK正月時代劇《またも辞めたか亭主殿》TVも面白い

2003年放映のNHK正月時代劇「幕末の名奉行小栗上野介」を最近TVで見た。小栗上野介は70回、職を辞めたり罷免されたりしているので、この切り口で脚本も書かれている。劇中の夫婦の会話が面白く岸谷五朗、稲森いずみが好演している。横須賀造船所も100年後を見据えて造るもの、勝海舟とは仲が悪いが最後は国のためお互い死をかけての友情シーン等胸を打つ時代劇だ。NHK大河ドラマにもなる内容だ
 
NHK正月ドラマ(2003年)
《またも辞めたか亭主殿》
の横須賀製鉄所建設のシーン
   
渋沢栄一と小栗上野介の出会い

2024年発行予定の1万円札の顔で2021年のNHK 大河ドラマの主人公・渋沢栄一氏は小栗上野介と横浜で会っている。1966年のパリ万博に徳川将軍代理として派遣された徳川昭武の従者(会計担当)として渋沢栄一はパリに随行した。上野介は勘定奉行としてパリ万博の経費を総括する立場であったので、渋沢栄一は挨拶に伺っている。どんな話をしたのか「東善寺HP」では面白いエピードを紹介している。是非ご覧ください。

新1万円札の渋沢栄一氏

 

〔東郷平八郎元帥より謝辞を言われた小栗上野介の子供〕

 明治38年5月27日日本海軍は対馬海峡で世界最大のロシア艦隊を撃破し日露戦争に勝利した。その年の10月半ば麹町の東郷平八郎邸を訪れた2人の父子が会った。
日本海海戦で勝利した猛将東郷元帥が小栗上野介の遺児国子の夫・貞雄、その息子の又一を招待しこう切り出した。《今日は亡き父上にお礼を申し上げたくてお越し願ったのですよ》と、そして日本海海戦で勝利したのは自分の力でなく横須賀海軍工廠を造られたお父様のお陰ですと謝意を述べられた。

 

 

「罪なくして斬らる-小栗上野介」-の著者大島昌宏氏はその時の様子を次のように書いている

「日露両艦隊の船足が違ったのですと東郷は言った。バルト海フィンランド湾の基地を出発してから半年、途中でドック入りできなかったロシア艦隊は、艦底に
フジツボやカキ、海藻を付着させたまま日本海へ入ることになった。当然水の抵抗が増し,蒸気機関の力を上げても速力が伴なわないのである。それに較べて日本
艦隊は決戦に備えて全艦が横須賀でドック入りし、艦底をきれいに洗っていた。そのため高速航行が可能になり、迅速な行動をとることができた。それは5月27日
夜、夜襲をかけた際に証明された。駆逐艦や水雷艇が動きの鈍い敵艦に急速接近し、砲,雷撃を加えて再び高速で離脱する。この繰り返しで敵に致命的な打撃を
与えることができた」

   

上野介と東郷元帥(東善寺蔵)
 

東郷元帥より贈られた書(東善寺蔵)
     

「もし横須賀海軍工廠の存在がなければ、日本は全て外国製の軍艦に頼って戦わねばならなかったわけで、それではたとえ勝利を収めたとしても、真の勝利とは言い難い」と明言した。「戦のあと対馬沖を通りながら、どれほどお父上に感謝したことか」東郷は忠順(上野介)の先見の明を称え、世間では自分のことを救国の英雄などと言うが、真にその名を冠されるべきは小栗殿である。とさえ言った。ところがその昔、官軍は冤罪を言い立て、斬ってしまうという大罪を犯していた。

「今更私が詫びたとて、許してもらえまいが、一部の心ない者の仕業を心からお詫び申し上げる」東郷は深々と頭を垂れ、頬を涙が伝わった。

 東郷元帥は最後に「仁、義、礼、智、信」と自分が書いた書を受け取って欲しいと差し出した。この雄渾な書額は子孫より贈られ、現在菩提寺である東善寺の本堂に飾られている。

 

〔幕末以降の偉人の小栗上野介評価〕

 小栗上野介は歴史の教科書にも載らず、今でも知る人ぞ知る偉人です。小栗上野介は家計簿、日記等をこまめに記し残っておりますが、詳しく書いた文書は残していない。ここに幕末以降の偉人が小栗上野介を評価した文を紹介する。いずれも高く評価している。

   

福地桜痴 山田俊治著
福地源一郎(後に桜痴と称す)の小栗上野介の評価

  福地源一郎は明治を代表するジャーナリストで福沢諭吉と並び称される人。1841年長崎生まれで、上野介より14歳若い、上野介等とは米国には行けず悔しがったが、1861~65年に2度に亘りヨーロッパ、フランスに渡欧し、幕府きっての外国通となった。徳川慶喜が大政奉還した時は《小栗上野介以外日本の将来を描ける人物はいない》とし、共和政治に改め大統領制を導入することを上野介に提案した。上野介はこの案に賛成したが罷免され実現できなかった。

 幕府崩壊後、福地源一郎は 「江湖新聞」を自ら発刊し小栗上野介の死は皇国の損害と次のように報じた。


福地源一郎曰く - 小栗評の要約  明治のジャーナリスト-

 小栗が財政外交の要地に立ちし頃は、幕府はすでに衰亡に瀕して、大勢、まさに傾ける際なれば、十百の小栗ありといえどもまた如何ともなすべからざる時勢なりけり。

 しかれども、小栗は敢えてインポッシブルの言葉を吐きたる事なく、「病の癒ゆるべからざるを知りて、薬せざるは孝子のなすところにあらず、国亡び身倒るるまでは公事におうしょうするこそ真の武士なれ」といいて屈せず撓まず、身を艱難の間に置き、幕府の維持を以って進み、おのれの負担となせり。

 少なくも幕末数年間の命脈をつなぎえたるは、小栗があずかりて力ある所なり、余は親しく小栗に隷属したるを以って、其の辛苦に心力を費やせること、余が目撃せるところなり。福地源一郎は上記の様に新聞に記し、匿名の投書という形で薩長のやり方を批判した。

福地源一郎は幕末の三傑は岩瀬肥後守、水野筑後守(何れも開国に努力した人)、小栗上野介を上げ、人となり「精悍敏捷、多智多弁」とほめ、その業績は
①米国の文明の事物を説き、導入を図ったこと,
②幕府財政のやりくりに身命を賭したこと、
③軍の近代化で「その身とその名を併せて幕府に殉じたこと」を上げ評価している。


大隈重信による名誉回復

  小栗氏の尽力によりて、仏国は日本政府の製鉄所創設の業を援助することを決したり
 と大正4年横須賀海軍工廠創立50周年の式典の祝詞の中でのべ、小栗の功績を認めた。また「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣にすぎない」と大隈重信に言わせた

 

〔半藤一利氏の小栗上野介評-戊辰戦争では主戦論を唱える-〕

 1868年(慶応4年)鳥羽伏見の戦いで、錦の御旗が翻ったとたんに徳川慶喜は錦旗には刃向かえぬと江戸に逃げ帰る。それから江戸城では毎日激論がくりひろげられ、1月15日勘定奉行兼陸軍奉行並みであった小栗上野介はあくまで主戦論を唱えたために慶喜将軍よりお役御免を言い渡される。

 半藤一利氏の「幕末史」ではその様子を次のように記している。慶喜が「戦わない,恭順とする」と言い張るのを、小栗さんが「戦えば勝てるのだから」と盛んに抗議をし、「もういい、聞く必要はない」と慶喜が立ち上がったところで袖をとらえ、「殿! なにとぞ私のいうことを」と食い下がった。とよく書かれますが、事実のようです。それを慶喜が振り払って奥へ去ったため、小栗さんははらはらと悔し涙を流したという。

 この後、西軍との交渉は勝海舟にまかせ、徳川家のおしまいを見るのですが、半藤氏は昭和20年8月の大日本帝国のおしまいとよく似ていると書いている。
 即ち、勝海舟が鈴木貫太郎総理大臣、大久保一翁が米内光政、小栗上野介が阿南惟幾(陸軍大臣)というふうに置き換えると、その行動はかなり類似していると私には思える。と興味深く書いている。

菩提寺東善寺の和尚・村上泰賢氏は次のように記している

 小栗上野介が唱えた有名な作戦計画は「薩長軍(新政府軍)は続々と東海道を東へと進撃して箱根峠から関東に入る。これを寸断することであった。幕府の優勢な海軍力を駿河湾に廻し、薩長軍の後続部隊を海から砲撃する。一方、海軍の一部を神戸方面に向けて薩長の援軍を絶つことであった。後に大村益次郎(薩長の参謀)は「幕府が若し上野介の献策を実行していたなら、我々の首はなかっただろう」と語ったいう。 
      (幕末開明の人小栗上野介・東善寺刊より)

   

幕末史・半藤一利著
 

 

〔小栗上野介の横須賀造船所と主戦論 -司馬遼太郎の街道をゆくより-〕

 人気作家・司馬遼太郎氏は小栗上野介を《明治の父》といい、
高く評価している。ここに街道をゆくより、その一節を紹介する

 小栗と勝が幕末の政治家と呼ばれるにふさわしいのは、二人とも日本の将来像という構想をもち、かつ実践したからである。

 小栗の場合、幕府の立ちゆく先を、フランスからの働きの中でとらえようとした。日本の幕末は、フランスのナポレオン三世の独裁時代と重なっている。この人民投票で選ばれた皇帝ナポレオンは、国民の人気を得るためにさまざまな外交的曲芸をやった。極東の日本についても、幕府をその掌中におさめて、できればなにごとか華やぎを打ち上げたいと考えていた。

 レオン・ロッシュという、ややいかがわしい遣り手の男を抜擢して駐日公使にしたのも、その積極策による。小栗は慎重な男ながら。ナポレオン三世が投げかけてくる球を、幕府中心主義者として巧みに受けた。

 三浦半島の一漁村に過ぎなかった横須賀に、フランスのツーロン軍港を模とする一大艦船製造所を興したのも、フランスの異常な対日接近をうまく利用した成果といっていい。この造船所が、日本の近代工学のいっさいの源泉になった。問題は金だった。幕府財政は、疲弊しきっていた。小栗は、いわば無から有を出した。
 
 のち幕府が互解し、将軍慶喜が大阪から海路江戸にもどったあと、小栗は苛烈なほどの主戦論者だった。その主戦論は、十分な作戦計画を伴なっていた。箱根の嶮を陸兵でもって要塞化し、同時に駿河湾に旧幕府軍の全力をあつめ、陸路長蛇の列をつくって東へむかう新政府軍を艦砲射撃でうちくだくというもので、後日、これを知った新政府軍の作戦家・大村益次郎は、肝を冷やしたという。

 ただ徳川慶喜が、小栗案を採用しなかった。小栗は立ち上がる慶喜の袴のすそをにぎってなおも説いたが、慶喜はそれを払って奥へ入ったという。慶喜は大方針として恭順をきめていた。慶喜はその旨、勝に明かし、勝に全権をゆだね、江戸を無血開城するにいたるのは、周知のとおりである。

司馬遼太郎の街道をゆく・三浦半島記「小栗の話」では造船所建設費を
フランスからの借款と記し一般的にはそう思われている。東善寺HPでは
「横須賀製鉄所の借款説は誤り」では幕府の約定書まで紹介し、借款説
を否定し詳細にその根拠を説明している。東善寺HPを是非ご覧ください。

   

浦半島記
 

 

〔小栗上野介の研究家・村上泰賢氏の評価〕

 小栗上野介の菩提寺住職であり小栗上野介の研究家でも知られる
村上泰賢氏の著書小栗上野介ー忘れられた悲劇の幕臣ーの冒頭で解り
やすく小栗上野介の業績と評価を纏めているのでここに紹介します。

 小栗上野介が34歳で世界を一周帰国し、その後8年間で渡米の見聞、経験をいかし日本の構造改革に奔走した。その内容は

 1. 横須賀造船所の建設
 2. 洋式陸軍制度の導入による軍制改革と訓練
 3. 仏語伝習所開設
 4. 日本初の株式会社・兵庫商社の設立を指導
 5. 鉄鉱山開発、滝野川大砲製造所建設

筆頭に上がる業績は横須賀造船所建設、その特徴は

 ①船だけを造るのでなく、あらゆる工業製品を造る総合工場であった。
 ②初めから本格的蒸気機関を原動力に用いた工場であった。
 ③日本を「木の国から鉄の国に変える」基盤工場の役割をした。
 ④横須賀の工場を設計したフランス人技師たちは、明治になり富岡
  製糸場の設計・建設にあたった。その結果、日本生糸産業は輸出品
  の中心となり、日本の近代化に貢献した。

〔勝海舟の代表作「氷川清話」では小栗上野介を次のように書いている。〕

  小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は,精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の大勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似ていたよ。一口にいうと、あれは三河武士の長所と短所とを両方備えておったのよ。しかし度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった。

また「海軍歴史」では次のように記している。
「小栗上野介、勘定奉行より軍艦所の事を兼勤し、大いに時勢を察し、海軍の拡張すべきを悟り、首として船廠設立の事を主張し----幕府財政が窮乏している時にやりくりに努め、この2工場を起すに到るは、また深く嘉尚すべし」と功績を讃えている。
            (勝海舟全集10、海軍歴史Ⅲより)

〔三野村利左衛門〕

  三野村利左エ門は若い時小栗家の中間奉公をしていた、小栗は利左衛門の商才を認め、三井家に推薦した。三野村は江戸の三井で商才を発揮し三井の大番頭を務めるようになった。

 江戸幕府崩壊の折は上野介に千両箱を差し出しアメリカへの亡命を勧めたが断わられた。その際「万一婦女子が困窮することがあったらよろしく頼む」といった。後に上野介が斬られ、妻子は会津へ逃げたが、その後遺児達が上京した折は、利左エ門は報恩の思いを忘れずに世話をし援助をし続けている。
 

 

   

村上泰賢氏の著書
 

氷川清話「海舟自伝」
 
〔知られざる日仏関係史〕

 よくテレビにも出演する国際評論家・多摩大学学長の寺島実郎氏の著作「若き日本肖の肖像」の《知られざる日仏関係史》という記事に興味を持った。その中で日本の近代化に貢献したフランスとして次の
4点を挙げている。

1.フランス公使レオン・ロッシュと親交を深めた小栗上野介は横須賀造船所を建設した。1865年日仏間で結ばれた約定書では横須賀にフランスのツーロン工廠にならって製鉄所、造船所、修船所、武器庫等の設備を240万ドル、4年間の延払いで建設という内容で1866年着工、ヴェルニー等技術顧問の献身的努力によって1871年に完成した。興味深いのは大政奉還の動乱期も粛々と建設工事は継続されたこと。

 
     
スチームハンマー(ヴェルニー記念館)
 
フランスツーロンの遠景、
海は深く地形も横須賀に似ていた
 

2. 1876年(明治9年)この事業は日本人だけの管理下におかれ、日本近代化の柱となり、国産第一号軍艦「清輝」(890トン)が竣工した。1903年横須賀海軍工廠となり、太平洋戦争終了後は米軍基地として接収されたが、1865年製のスチームハンマー(1997年まで稼働)は残り、稼働しているのは感動ものだ。

3. フランスの軍事顧問団のジュール・ブリュネ他10人が幕府崩壊後、箱館まで付き合い榎本武揚と共に五稜郭に立て籠り抗戦したことは驚きであり、フランス人気質の一面を物語るものと紹介している

4 フランスが大きく貢献したのが生糸(絹)の製糸工場・富岡製糸場である。仏人ポール・ブリュナの指導の下4人のフランス女性の製糸工と3人の技師が技術を教え、1873年のウイーン万博では富岡の製品が進歩賞を受賞している。この工場は日本近代産業の出発点と言われ、現在世界遺産となっている。

太平洋戦争後、日本と米国は親しい関係にあるが、幕末から明治の初めの頃はフランスと親しい関係にあった事を知る。

〔小栗上野介のファンクラブ《たつなみ会》へどうぞ!〕

東善寺訪問時に小栗上野介のファンクラブ《たつなみ会》がある事を知った。小栗家の家紋が「たつなみ」なのでこの名前がついている。訪問時、頂いた小栗上野介情報は上野介に関する詳しい,最新情報が載っている。年会費1800円、小栗上野介に関心のある方は東善寺へメールまたは電話、ハガキでお申し込み下さい。

 
ブリュネ前列左から2人目
出典:ウイキペディア
 

当時の富岡製糸場 
出典:ウイキペディア
 
上野介情報のイラスト  
記念碑の上にたなびく「たつなみの旗」

〔参考にした文献・資料〕

         
 
         

           
 

★罪なくして斬られる –小栗上野介- 大島昌宏著  学陽書房
★小栗上野介 –忘れられた悲劇の幕臣- 村上泰賢  平凡社新書
★小栗上野介の生涯-兵庫商社を創った最後の幕臣 坂本藤良著 講談社
★小栗上野介 –物語と史跡を訪ねて- 星 亮一 成美文庫
★小栗上野介 幕末開明の人 市川光一・村上泰賢著 東善寺刊
★幕末維新の経済人ー先見力・決断力・経済人ー 坂本藤良著 中公新書
★幕末史  半藤一利著 新潮社刊
★三浦半島記 街道をゆく 司馬遼太郎 朝日新聞社
★小栗上野介 市川光一、村上泰賢、小板橋良平共著 みやま文庫
★上州 権田村の驟雨  星 亮一著 教育書籍刊
★明治という国家   司馬遼太郎著 日本放送出版協会
★氷川清話 勝海舟自伝 勝部真長編 広池学園編集部
★横須賀・別冊歴史読本 

   
青木青眠 記
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