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〔偉人〕

島崎藤村(しまざき とうそん)

 
〔し〕の偉人 ジョージナカシマ
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白洲次郎 白洲正子 白瀬矗

プロフィールバー 〔島崎藤村〕のプロフィール
俗称・筆名 島崎藤村
本名 島崎春樹
生誕 1872年(明治5年)2月17日
死没 1943年(昭和18年)71歳大磯の自宅で死去
出身地 筑摩県馬籠村(現・岐阜県中津川市)に生まれる
最終学齢 明治学院普通部本科
職業 詩人・作家
ジャンル 文学
活動
代表作 『若菜集』(1897年、詩集)
『破戒』(1906年)
『春』(1908年)
『家』(1911年)
『新生』(1919年)
『夜明け前』(1935年)
記念館
言葉・信条

人生履歴 〔島崎藤村〕の人生(履歴・活動)

 明治5年信州・馬籠に生まれる。9歳で東京に遊学・泰明小学校へ、英語を極めんと三田英学校から明治学院に進み卒業、18歳の時、父・正樹逝去、明治学院卒業後母校の教師となるも、教え子を愛し苦悶、辞職し、関西・東北へ漂泊の旅に出る。

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なにぬねの
はひふへほ
まみむめも
やゆよ
らりるれろ
わをん  
島崎藤村の写真
(出典:Wikipedia)

人生履歴 〔島崎藤村〕の人生(履歴・活動)(続き)
島崎藤村 略歴
1893年(明治26年)

文学界同人

1897年(明治30年)

若菜集発刊

1901年(明治34年)

落梅集発刊

1906年(明治39年)

破戒自費出版

1913年(大正2年)

フランスに住み大正4年 「戦争と巴里」発刊

1929年(昭和4年)

「夜明け前連載開始昭和10年夜明け前完成

1936年(昭和11年)

ペンクラブ代表として南米、米・欧州旅行へ

1943年(昭和18年)

東方の門執筆中に急逝


 24歳 仙台の東北学院へ教師で赴任、帰京、25歳若菜集を発刊、27歳小諸義塾の先生として赴任、秦冬子と結婚、6年間小諸に滞在、千曲川流域を歩き、破戒を構想、執筆、34歳《破戒》を自費出版。その後《春》《家》を新聞に連載、詩人から小説家に転身する。
 大正2年フランスの旅に出発、第一次世界大戦に遭遇、戦禍を避けフランスで疎開、3年間仏に滞在し帰国、《戦争と巴里》を刊行、50歳 藤村全集刊行、56歳加藤静子と再婚、昭和4年~10年《夜明け前》を中央公論に掲載、昭和11年64歳国際ペンクラブ大会に出席、南米、欧州を旅行、昭和18年71歳「東方の門」執筆中に急逝する。

島崎藤村像息子・島崎鶏二画
出典:ウィッキペディア


ゆかりの地 〔島崎藤村〕ゆかりの地など
◆馬籠の藤村記念館を訪ねる

 馬籠にある藤村記念館を訪ねた。以前、馬籠は長野県でしたが今は岐阜県中津川市に属する。江戸時代も尾張・徳川家の領地で、地理的にも中津川は近く、昔に戻ったのだ。馬籠の駐車場から坂道を登り始めると大きな水車が廻っている、解説版には最初の発電所と書かれている。馬籠宿の中程に藤村記念館と脇本陣跡・歴史資料館がある。街道の両側には昔ながらの古民家風の土産物屋が並んでいる。道は石畳、電柱などは地中に埋められ、古いものは残し、景観を壊す物は徹底し排除している 馬籠にある藤村記念館を訪ねた。以前、馬籠は長野県でしたが今は岐阜県中津川市に属する。江戸時代も尾張・徳川家の領地で、地理的にも中津川は近く、昔に戻ったのだ。馬籠の駐車場から坂道を登り始めると大きな水車が廻っている、解説版には最初の発電所と書かれている。馬籠宿の中程に藤村記念館と脇本陣跡・歴史資料館がある。街道の両側には昔ながらの古民家風の土産物屋が並んでいる。道は石畳、電柱などは地中に埋められ、古いものは残し、景観を壊す物は徹底し排除している。

 
馬籠の藤村記念館
 
馬籠の水車小屋
 
馬籠の宿 土産物店が並ぶ
 


◆ふるさとの詩額

 馬籠の駐車場から坂道を登り始めると大きな水車が廻っている、解説版には最初の発電所と書かれている。馬籠宿の中程に藤村記念館と脇本陣跡・歴史資料館がある。街道の両側には昔ながらの古民家風の土産物屋が並んでいる。道は石畳、電柱などは地中に埋められ、古いものは残し、景観を壊す物は徹底し排除している。

 馬籠にある藤村記念館を訪ねた。以前、馬籠は長野県でしたが今は岐阜県中津川市に属する。江戸時代も尾張・徳川家の領地で、地理的にも中津川は近く、昔に戻ったのだ。馬籠の藤村記念館を入ると、正面の白壁に赤地の額に、藤村の《ふるさと》の詩が掲示されている、白壁に赤地なので目につく。


  血につながるふるさと
  心につながるふるさと
  言葉につながるふるさと

 
ふるさとの詩
 
広重の版画 馬籠

 この詩は馬籠での講演会で話されたものと聞く、藤村はこよなく故郷・馬籠を愛していた。《ふるさと》という藤村の童話もあり、藤村の4人の子が出てくる。挿絵は竹下夢二が描いている。藤村は幼き子供を残しフランスに滞在したりし、子供には迷惑をかけている。藤村は明治14年9歳の時上京、東京銀座の泰明小学校に入学した。それ以来《夜明け前》を書く準備のため故郷に帰るまでほとんど帰っていないが、この赤字の額には藤村の幼き頃の故郷への思い入れと故郷の歴史をきわめた心境が表現されているように思える。
 馬籠の記念館で購入した藤村の紹介本を見ると、やさしく書かれ、島崎家の写真の多さに驚く、明治時代なのに家族、親族、友人の集合写真が沢山載っている。その写真も専門の写真屋が撮っているのが多い。

 
上京時の写真 前列左が藤村
 

◆馬籠に藤村の生家が残っている

 藤村の生家、馬籠本陣は明治28年の大火により焼失、唯一隠居所だけ残る、その後昭和22年に村の有志により藤村記念館は再建された。生家が馬籠・藤村記念館で庭も広い。館内は第一文庫、第二文庫、第三文庫と別れ、藤村の生涯にわたる作家活動の資料が年代順に展示されている。脇本陣跡は藤村記念館の隣にある。そこには馬籠の歴史資料が展示され、脇本陣の上段の間も復元されている。

馬籠・脇本陣
 
隠居所、藤村が漢学の指導を受けた部屋
 
馬籠・藤村記念館
 
〔島崎藤村の銅像〕


島崎藤村の菩提寺永昌寺
〔島崎藤村の菩提寺永昌寺〕

 昭和18年、島崎藤村は大磯の自宅で、『東方の門』執筆中に倒れ、8月22日71歳で逝去。大磯町地福寺に埋葬される。馬籠の菩提寺永昌寺には分骨として、遺髪・遺爪が埋葬される。

 毎年命日の8月22日には菩提寺である永昌寺にて、関係者らにより藤村忌が執り行われている。

◆馬籠には多くの文学碑がある
芭蕉の句碑
 芭蕉は姥捨て山の月見と善光寺参りをかね1688年馬籠を訪ねている。更級紀行には《送られつ送りつ果は木曽の あき と詠まれ、芭蕉の没後1842年にお弟子たちにより句碑が立てられた。当時この地には芭蕉の十哲・各務支考の弟子が大勢おられた由、《夜明け前》にもこの碑の除幕式の模様が記されている。

 

馬籠の芭蕉句碑

正岡子規の句碑は《桑の実の木曽路出づれば穂麦かな》
          《白雲や青葉若葉の三十里》

山口誓子の句碑 《荷道の坂に熟柿灯を灯す》
十辺舎一九     《渋皮のむけし女は見えねども、栗のこは                            めしここの名物》


山口誓子の句碑

◆若菜集の発刊
 島崎藤村は子供時代に詩経、左伝等の漢籍を学び、その後英語に興味を持ち、キリスト教の洗礼も受ける。しかし明治学院教師時代に教え子との恋愛に悩み、退職、関東・東北への漂泊の旅にでる。このような経験が生きたのだろうか、東北学院の教職から帰京した明治30年25歳で《若菜集》を発刊する。この若菜集には若者を引き付け、今でも口をついてでる詩がいっぱいある。

若菜集には多くの恋の詩がある
 若菜集の冒頭にこう書かれている。『明治29年の秋より30年の春へかけてこころみし根無し草の色も香もなきをとりあつめて若菜集といふなり、---中略--- 吾歌はまだ萌えいでしままの若菜なるをや』と。若菜集をひもとくと『七人の乙女』を詠い『高楼の惜別の歌』『初恋の詩』等はなつかしい藤村の青春の歌だ。この詩集は 日本の雅語が使われ、大部分が七五調、五七調からなっている。

 

藤村記念館のパンフレット

初恋の詩 -若菜集―

まだ上げ めし前髪の
林檎 りんご のもとに見えしとき
前にさしたる 花櫛 はなぐし
花ある君と思ひけり
-----------
やさしく白き手をのべて
林檎 りんご をわれにあたへしは
薄紅 うすくれない の秋の実に
人こひ めしはじめなり

初版の若菜集

藤村の初版本

高楼 惜別の歌
 学生の頃からよく口ずさんだ高楼も若菜集に掲載されている。
姉と妹が交互に別れを惜しむ形式をとっている。
妹 
とほきわかれにたえかねて
このたかどのにのぼるかな
かなしむなかれわがあねよ
たびのころもをととのへよ

わかれといえばむかしより
このひとのよのつねなるを
ながるるみづをながむれば
ゆめはづかしきなみだかな
中略

きみがさやけきめのいろも
きみくれないのくちびるも
きみがみどりのくろかみも
またいつかみんこのわかれ
 このように姉妹の美しい言葉が続く
冒頭には《わかれゆくひとをおしむこよひよりとほきゆめちにわれ
     やまとはん》とある。


 

惜別の歌 歌碑
 

懐古園から見る千曲川

◆小諸・藤村記念館
 小諸の藤村記念館は懐古園の古城址の中にあり平屋で思ったより小さい、入り口には若き藤村の銅像があり私たちを迎えてくれる。
藤村が使った日用品、時計、矢立て、ランプ、タバコ入れ、タバコ盆等が並ぶ、藤村記念館のある公園内には、大きな石碑がある。この碑文が小諸なる古城のほとりで始まる千曲川旅情の歌である。公園内は広く散策を楽しめる、中には藤村が国語を教えていた小諸義塾の跡も有る。


  小諸・藤村記念館と藤村像  

◆千曲川旅情の歌・詩碑
 小諸城址公園の中に大きな詩碑がある、近くにより詩文をみると、有名な
《小諸なる古城ほとり---》にはじまる詩である。
小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草もしくによしなし
しろがねの ふすま の岡部
日に溶けて淡雪流る


   

千曲川旅情の歌 歌碑

 
 そして、あたたかき光はあれど、野に満つる香も知らず-----
から 暮れ行けば浅間も見えず 歌かなし佐久の草笛-------と続く、この詩
を読み小諸や佐久、浅間、千曲川にあこがれた人は私だけだろうか!

 落梅集(明治34年)では「千曲川のほとりにて」のタイトル発表され、大
正2年の藤村詩集では千曲川旅情の歌2と改められ《1の小諸なる古城のほ
とり》と合体し発刊された。

 
詩文

昨日またかくてありけり
今日もかくてありなむ
この命なにを 齷齪 あくせく
明日をのみ思いわづらふ

いくたびか栄枯の夢の
消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻帰る

嗚呼 ああ 古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過し世を静かに思へ
百年もきのふのごとし

千曲 川柳霞 かわやなぎかす みて
春浅く水流れたり
ただひとり岩をめぐりて
この岸に愁いを繋ぐ

浅間をのぞむ千曲川    
小諸・藤村記念館の紹介本
 


◆島崎藤村の作文教育

 島崎藤村は小諸義塾で国語と英語を教えた。国語については教え子が指導を受
けた《日記の書き方》の記録がある。藤村は《日記は物を見る目を養うのに良い》
と生徒達に日記をかかせ指導した。今の私たちにも参考になるのでここに要点を紹
介しよう。

1.必要なことは らさず、不要なことは書かない、日記文の特色とせよ
1.文章は美麗ならんより趣味の深きを とうと ぶ、思想の精しきを尊ぶ、又気象の大なるを貴ぶ、又品の高尚なるを尊ぶ。
1.大なる文人の生涯は 又 大なる文章なり
1.文章に2要素あり 一は注意、二は熱心
1.日記文も 又 記事文の一体なり
1.文章は親の肩をもむごとく作るべし、大切に用意するを第一とす初歩のうちは多少の欠点あるにも関せずのびのびと作るを良しとす、たとえば筍の如し、枝葉は後日を期してよし
1.文章には小刀細工を要せず、正宗の銘刀にて竹を二つに割るごとく作らんと心得べし


 


小諸義塾の教え子と


小諸時代の藤村 出典:小諸藤村記念館の本


藤村が指導した教え子の作文帳

◆小諸城址は徳川と真田の戦場であった
  小諸城址の懐古園には大きな大手門があり、城址は石垣に囲まれ、紅葉の頃には楓の大木に日が当たり映える。城址公園の突端は千曲川岸の絶壁である。この城を川からは攻めるのは急峻で大変だ。関ヶ原の戦いで、徳川秀忠が真田昌幸の上田城攻めに10日を費やし、関ヶ原の戦に遅れ大失態を演じたのは有名な話、その上田攻めの本陣はこの小諸城にあった。藤村は千曲川周辺をよく散歩し《千曲川のスケッチ》という紀行随想を書いている。藤村の素顔が伺え面白い、敬愛する吉村さんへという手紙風なっているが、信州・小諸の6年の生活をこんな風に書いている。《私が都会の空気の中から抜け出し、あの山国へ行った時の心であった。私は信州の百姓の中へ行って種々のことを学んだ》とし、町の商人,小使い、生徒の父兄、旧士族等多くの庶民との交流をあげ、千曲川のスケッチでは学生の家、牧場、麦畑、山荘、温泉等を紹介している。

 
 
小諸城址の石垣
  千曲川遠望

  懐古園展望台  

◆抒情歌・椰子の実 歌碑がある
 島崎藤村と民俗学者の柳田國男は親友である。國男は静養先の愛知県・伊良湖岬に流れ着いた椰子の実を見つけた。 そのことを東京で近所に住んでいた藤村に、話したところ、藤村は『その話を僕にくれ給え、誰にも言わずくれ給え』という事になった。と後に柳田國男は書いている。椰子の実の歌詞は次の通り、

名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実ひとつ
故郷 ふるさと の岸を離れて なれ はそも波に幾月
もとの いや茂れる枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕  孤身 ひとりみ の浮き寝の旅ぞ
実をとりて胸にあつれば 新たなり 琉璃 るり のうれい
海の日の沈むを見れば  たぎ り落つ異教の涙
思ひやる八雲の 汐々 しほじほ  いづれの日にか帰らむ


  小諸城址大手門
椰子の実 歌碑、懐古園

◆《破戒》を自費出版
 島崎藤村は小諸に在住した6年の間に千曲川の周辺を歩き、飯山にも足を伸ばしている。そんな中で破戒のテーマである部落民の差別問題に直面し、初めてこの小説を書いたのではなかろうか。この作品の舞台は飯山の蓮華寺、この寺は詩人・高野辰之の奥さんの実家である。また《椰子の葉陰》の主人公は住職の娘婿である。
 破戒の主人公・瀬川丑松は飯山で教師をし、部落の出身であることは隠していたが、友人猪子蓮太郎の暗殺をきっかけに、それを公にしてゆく物語である。当時は今と違い部落民が差別されていた時代、このようなテーマを初めて小説に書いたこと、若菜集の初恋や、惜別の歌などと比較すると驚くべき飛躍だ。 
 藤村はこの当時、赤貧の中、娘を亡くし、奥さんの実父に借金し、自費出版をしている。まさに背水の陣であったかと思う。この本は夏目漱石から絶賛され、藤村は小説家としての地盤を築き、以後新生、家等を書き自然主義文学の牽引車として活躍してゆく。






破戒の原稿
破戒の文庫本

◆母校・明治学院校大学歌を作詞、明治39年作
 島崎藤村は9歳で上京、銀座・数寄屋橋からちょっと中に入っ
た泰明小学校に通い、三田英学校を経て、明治学院に通った。明
治学院(現在の明治学院大学)では第1期卒業生で、学歌の作詞
を明治39年学長より依頼され、名誉のことと張り切り作詞した。その学歌碑があると聞き見に行った。都営地下鉄高輪白金駅から近い1等地にある。守衛さんに訪ねると大学中央の緑の中、テニス、サッカー場の近くにある、と親切におしえてくれた。藤村作の学歌は

人の世の若き生命のあさぼらけ
学院の鐘は響きてわれひとの胸うつところ
白金の丘に根深く記念樹の立てるを見よや
------ と続く、ユーチューブで聴くと良い歌だ。

 島崎藤村はこの当時詩人として有名であったが、詩から脱却
し《小説家として立つ決意》をした時期であり、又英語をこの
学院で学び立とうとした青春の思いも重なり、《若き命の朝ぼ
らけ》と詠ったのではなかろうか。

 帰りがけに ヘボン博士の銅像はと聞くと、三角形の建物の
裏にあるという。「像の頭を撫でると英語が良くできるよう
になるという言い伝えがありますよ」と教えて下さったので、
私も撫でさせて頂いた、きっと英語も上達するだろう。ヘボン
博士はこの大学の創業者で初代学長、日米修好条約が調印さ
れると志願し来日し以来33年間も滞在、ヘボン式ローマ字を
考案、初めての和英辞典も編纂、日本の英語教育に尽力された
大恩人。大学の正門前から創業時の写真と、記念館が見渡せる。
記念館やチャペルは明治の面影が残る古風な建物で、藤村も
『桜の実の熟れる頃』という小説に図書館であったこの建物を
描いている。





藤村が通った泰明小学校
明治学院時代の友人と、左端藤村

明治学院学歌の碑と碑文

チャペル

ヘボン博士像

◆ドナルド・キーン氏の日本文学史を見る
 ドナルド・キーン氏は2008年に文化勲章を受賞している。ドナルド・キーン氏は古代から現代までの日本文学を翻訳し世界に紹介している。外国人(今は日本に帰化)でありながら日本人以上に日本文学を愛し理解していることに驚き圧倒される。《日本文学史八・近代現代編》を読んでみた。

 
この近代文学史八には近代詩人14人を紹介している。その中で藤村は《近代詩の父》と紹介している。《藤村は近代史の父といってしかるべき人物である。教科書などでは近代史は新体詩とともに始まったとされているが、近代的な内容と流麗な詩的表現を兼ね備えた、不朽の名作「若菜集」を書いたのは藤村が初めてだった》キーン氏の翻訳も素晴らしい、

例えば
まだあげ初めし前髪の  When I saw you under the apple tree
林檎のもとに見えしとき   You front hair swept back for the first time
前にさしたる花櫛の   I thought ,seeing the flower-comb in front,
花ある君と思いけり    That you were a flower too.
こんな風に魅力的に訳され、外国人が日本の詩を鑑賞していると思えば素晴らしいことだ

  島崎藤村は平田篤胤の流れをくむ漢学者の父より漢学の基礎を叩き込まれ、シェリーやワーズワースの欧州詩やキリスト教・聖書の影響受けながらも、漢詩や近松の浄瑠璃等の影響を受けているとドナルド・キーン氏はいう。明治30年代の読者には《初恋や千曲川旅情》の詩歌は新しさと驚きをもって迎えられた。





ドナルド・キーンの日本文学史八
ドナルド・キーン氏
出典ウイッキペディア

◆詩から小説に向かう
 島崎藤村は明治37年には新体詩運動を回想し『ああ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無し草四つの巻となれり』の藤村詩集序文では始まり、大正2年(1913年)には「情人を愛するごとく私は詩を愛し、情人に別るるごとく私は詩に別れた」と山村暮鳥詩集の序文に書き、詩と別れ小説に没入してゆく。

 

 

◆《夜明け前》を読む
 
藤村を知るには《夜明け前》は読もうと思い青空文庫の電子書籍で読み始めた。電子書籍で長編を読むのは骨が折れる。どこまで読んだか解らない、栞を差しこめない。文字を拡大し読めるのは良いが わずら わしい。参考までに「ほるぷ出版の夜明け前4巻目」を借りてみた。4巻目だけで630ページと厚いが、字が大きくて読みやすい。

 島崎藤村の小説は破戒、春、家、新生、夜明け前と代表作5作がある。その中で夜明け前は最後の作品で藤村の代表作であるだけでなく、日本文学の代表作である。

 夜明け前は第一部と第二部よりなり、一部は中央公論の昭和4年から昭和7年まで年4回、計13回掲載され、第2部は昭和7年から昭和10年まで年4回掲載された。そして完結後まとめて藤村文庫として新潮社より昭和10年に出版された。




藤村作品集
夜明け前第一部

◆夜明け前の意味は
  夜明け前の小説名は知っていても、その意味を私は深く理解していなかった。
夜明け前とは《近代日本の夜明け前》を描いた壮大なドラマなのだと知った。265年続いた江戸幕府の大政奉還から明治維新、明治・日本の夜明けを島崎藤村の父青山半蔵の目を通して、時代の大転換を描いている。スケール、テーマの大きな歴史小説の面白さを秘めている。書き出しが名文で、国語の教科書にも掲載されている、若い時暗唱した人も多いだろう。                     
 《木曽路はすべて山の中である。あるところは そま づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である、一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた》口ずさむと心地よい気分になる。
実際に馬籠から妻籠を車で走ってみた、旧街道にちょっと入り歩くと、今でもこんな景色に出会う。外国の観光客がグループでこの木曽路を歩いているのに驚いた。そのくらい魅力的な道であり風景なのだと改めて知る。

 
 
夜明け前の資料、詳細な父友人の日記
  木曽・馬籠宿 現在

  藤村直筆の木曽路道路標識  

◆夜明け前のあらすじ
 《夜明け前》は藤村57歳の時、昭和 4年から10年まで年4回、中央公論に掲載された大作である。主人公青山半蔵は父親がモデル、江戸末期から明治に至る故郷馬籠の状況を克明に描き、明治政府の政策を痛切に批判している。

馬籠宿の状況
 木曽路はすべて山の中にある、 木曽十一宿は馬籠で始まる、美濃から最初が馬籠の宿・百軒+民家60軒、 青山の家は本陣、問屋、庄屋を兼ねたこの村の中心人物、半蔵はその跡取りなのだ、芭蕉の句碑『送られて送りつ果ては木曽の あき 』の除幕の模様も描く。黒船来航によって世の中が大きく変わる、日本の慌てぶりを木曽山中の馬籠から父親・吉左衛門を通し見る。参覲交代により大名が、皇女和宮が通り、浪人が通る。半蔵は平田篤胤の国学を学び、仲間は尊王攘夷に故郷を捨て天下国家を熱く語る、半蔵も飛び出したいが家に縛られ友人のように飛び出せない。

主人公青山半蔵は新しい村を作ろうと奔走する
 版籍奉還で本陣はなくなり、村役人もなくなる、今まで庄屋には玄米5石支給されていたが明治5年には打ち切られ、 父は死に半蔵は新しい村を作ろうとした。

 木曽山中の馬籠は木曽ヒノキで有名だが、江戸時代は尾張・徳川家できびしく管理され、1本も自由に切れない、切ればクビが飛ぶ、そんな中でも雑木は自由に処分できた。が、明治維新後は全ての木を県が支配し村人は手を出せない、半蔵はこの木の雑木を村人が管理出来るよう県に陳情するが、県役人は民の生活を全く考慮せず維新前より厳しい。半蔵は村を代表し県との交渉にあたるが逆に問屋の権利をも剥奪される。馬籠の共同体は瓦解する。


字が大きく読みやすい夜明け前

◆平田国学は時流に乗れない
 青山半蔵が打ち込んだ平田国学は明治元年全国に4000人の門人がいて全盛を極めた、が維新後その勢いは年と共に弱くなる。明治新政府の国作りに貢献できず、登用され活躍する人も少なかった。幕末の志士は王政復古と燃えた『復古とは建武の中興でなく、大化の改新までさかのぼる攘夷』なのが、明治維新後『脱亜入欧』となり、欧米文化に傾倒するようになったことに反発する。

◆娘の自殺騒ぎ、藤村の英学志向
 婚約もととのった娘粂が短刀でのどを突き自害をはかり破談となる。東京に遊学させた和助(藤村)は英学校を希望し、国学者の半蔵は落胆する。

◆主人公 青山半蔵の天皇への直訴
 明治維新後の不満がこうじた半蔵は明治天皇の馬車に自作和歌を書いた扇子を投進した。その歌は《 かに の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや》という世の前途を憂うる歌である。『訴人だ、訴人だ』と騒がれ巡査に腕を掴まれる。その後東京裁判所から裁断が下され、3円75銭の 贖罪 しょくざい 金で情状酌量された。
その後半蔵は飛騨高山の水無神社に宮司として赴任する。4年後馬籠に戻り、村の子弟教育に注ぐ、息子藤村も東京に遊学させる。しかし、半蔵は明治19年菩提寺に火をつける、ご一新の体たらくに我慢ができなかった半蔵は座敷牢に入れられ死ぬ。


◆歴史小説《夜明け前》に思う
 木曽山中の一私人が明治時代に明治天皇へ直訴したという行動の原点、明治維新への落胆からという見方がある。島崎藤村は国学者の父から漢学を習い、9歳で上京後も中国の古典を教えられている。でも英語を選択し三田英学校から明治学院で英学を学び、父を落胆させている。北村透谷により文学を志し、若菜集から小説家に転じた。大正初期にはフランスで4年過ごし、第一次大戦を見る。上京47年後の昭和初頭に故郷を訪ね父・正樹や父・友人の日記を読破・調査し、夜明け前の構想を練る。明治維新をはさむ約60年の歴史小説、そのテーマは日本の夜明け前を壮大に描いている。明治の文豪と言われる森鴎外や夏目漱石、尾崎紅葉、徳富蘆花等もこんな壮大なテーマを持つ歴史小説を書いているだろうかと考えてします。

◆《戦争と巴里》の原稿1000万円でネット販売
 藤村は大正2年から3年間フランスに滞在している。その間第一次世界大戦が勃発し仏の中部・リモージュに疎開している。《桜の実の熟する時》や《平和の巴里》《戦争と巴里》などを執筆、日本に送り掲載されている。藤村はフランスの戦争に大きな刺激を受けている。この時の生原稿《戦争と巴里》が神田の本屋から1000万で売りに出ているという記事をみつけた。生原稿はこんなに高いものなのかと驚かされた。

戦争と巴里 大正4年12月新潮社刊 藤村が送ったフランスからの絵葉書

◆島崎藤村の祖先は三浦半島の出身
 島崎家の菩提寺は生家からちょっと坂を下り右に入ると菩提寺永昌寺がある。この菩提寺に青山半蔵は火をつけ、座敷牢に入れられることになった。島崎藤村の先祖は、三浦半島の三浦氏の出身で鎌倉時代の木曽の義仲に繋がるという。
信州に移った三浦氏は関ヶ原の戦いで徳川に味方し、以来、馬籠の本陣、問屋、庄屋を兼ね、明治の世まで維持していた。この菩提寺を訪ねてみた。先祖代々の墓が並び、島崎正樹(藤村の父)には立札の案内がある。


◆島崎藤村の言葉
●人の世に三智がある、学んで得る智、人と交わって得る智、みずからの体験によって得る智がそれである。

●簡素、藤村が人生の基本とした言葉

●書きたくないものをまったく書かないで過ごせたことは幸せだった、藤村の述懐

●《物を見る稽古》と称し文章によるスケッチを試みていた

◆島崎藤村の年表
1972年3月25日(明治5年)筑摩県馬籠村(現岐阜県中津川市馬籠)に生まれ春樹と命名される。父正樹、母縫の末子として、島崎家は馬籠宿の本陣、問屋、庄屋を兼ねた名家。父は平田篤胤に心酔する国学者。

1874年(明治7年) 父正樹、上京し教部省雇員となる11月明治天皇の行列に直訴、西洋化の弊害を憂う和歌を献ずる、罰金刑を受ける、1878年父 職を辞しふるさとで近隣子弟の教育に従事。藤村も勧学、千字文、論語など父より学ぶ。

1881年(明治14年) 9月修学のため上京、泰明小学校に入学。

1884年(明治17年) 英語を学び、バーレーの万国史、ナショナル読本読む、4月父正樹、 藤村の西洋かぶれを心配し上京、これが最期の別れとなる。父は明治19年菩提寺に放火、発狂したとみなされ座敷牢に幽閉され、病没する。

1887年(明治20年) ミッション・スクール明治学院に編入学、キリスト教的新しい世界に触れる。17歳で洗礼を受ける。

1891年(明治24年) 明治学院普通科卒業、横浜で伯父の雑貨店を手伝うも文学に傾く。

1893年 (明治26年) 文学界同人となる。英語教師をしていた明治女学校を退く、佐藤輔子との愛に苦しむ、教会も離脱、関西・東北の漂白の旅に出る、北村透谷等 と「文学界」を発刊。

1894年(明治27年)  4月再度明治女学校の教師となる。北村透谷自殺し衝撃を受ける。

1895年(明治28年) 故郷馬籠の大火で旧宅消失、 明治女学校を辞任、生活のため地方赴任を決意し東北学院の作文教師で赴任、若菜集の詩篇を文学界に発表、母コレラで死去、遺骨を持って帰郷埋葬。この年多くの文士と知り合う。

1897年(明治30年)第一詩集「若菜集」を発刊、98年詩の韻律研究のため東京音楽学校に入学、ピアノも習う。

1899年(明治32年) 27歳、生活を一新すべく小諸義塾の教師となり小諸に赴任、英語・国語を教える。明治女学校の教え子秦冬子と結婚。翌年長女みどり誕生、『千曲川のスケッチ』の素稿を書く。

1904年(明治37年) 破戒 執筆準備のため飯山に赴く、日露戦争勃発。

1906年(明治39年) 前年小諸義塾を退職、破戒執筆に取り組み、3月自費出版する。

1913年(大正2年)3月渡仏する 新生事件処理で巴里の旅窓にて 東京朝日新聞に連載 1914年第一次世界大戦勃発

1916年(大正5年)7月 ロンドン経由で帰京、フランス紀行(海へ)を書き始める。

1921年(大正10年) 藤村生誕50周年祝賀会開催、現代詩人選集発刊。

1929年( 昭和4年) 夜明け前 中央公論に連載開始 32年一部完成。

1935年(昭和10年)夜明け前二部完成、日本ペンクラブ会長に就任。

1936年(昭和11年)日本ペンクラブ代表としてアルゼンチン大会に出席、ブラジル、米、仏、を旅する。

1943年(昭和18年)東方の門 最期の作品執筆中永眠、絶筆となる。


◆藤村の参考にした文献
★図録島崎藤村、 藤村記念館発行
★文学探訪 小諸・藤村記念館、 (株)蒼丘書林発行
★日本文学史八 近代現代編 ドナルド・キーン著 中公文庫
★島崎藤村集 筑摩書房発行
★夜明け前 (株)ほるぶ出版
★破戒  新潮文庫

青木青眠 記

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