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杉原千畝

〔す〕の著名人 杉原千畝 鈴木貫太郎
鈴木大拙    
プロフィールバー ◆〔鈴杉原千畝〕のプロフィール。
俗称・筆名 杉原 千畝(すぎはらちうね)
本名 杉原 千畝(すぎはらちうね)
生誕 1900年(明治33年)1月1日
死没 1986年(昭和61年)7月31日、86歳没
出身地 岐阜県加茂郡八百津町
最終学歴 早稲田大学高等師範部英語科、ハルピン学院卒
職業 外交官、貿易業
ジャンル 外交、貿易
活動 ハルピン学院講師、満州国外交部に勤務、ロシアよりの北満鉄道譲渡交渉に貢献、その後、欧州各国大使館に勤務、リトアニアのカナウス領事代理の時、ユダヤ難民ビザ発行6000人の命を救う。
1985年イスラエル政府より「ヤド・パシェム賞」(諸国民の中の正義の人)を授与される。
記念館 杉原千畝記念館が故郷・岐阜県八百津町の人道の丘公園に2000年にオープンした。
所在地:岐阜県加茂郡八百津町八百津1071
TEL:0574-43-2460


 

 

 

杉原千畝のプロフィール

 シンドラーのリストが映画化され日本でヒットしたのは1994年、《日本にも6000人のユダヤ人を助けた素晴らしい人がいる》と話題になり、その功績に対し1985年日本人で初めてヤドパシェム賞(ノーベル賞に匹敵する賞)を受賞した。 杉原千畝は1900年岐阜県八百津町に生まれ, 地元の現・瑞陵高等学校を卒業、父は医学部を望んだが、外交官を夢見る千畝は早稲田大学英文科に入学した、しかし仕送りもなく、官費留学生としてハルピン学院に入学する。特にロシア語が堪能で卒業後母校のロシア語教師として迎えられる。途中1920年(大正9年)より約1年朝鮮に駐屯する軍隊に入隊する。1924年(大正13年)外務省書記官として採用される。

 

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杉原千畝の写真
(杉原千畝)

  1933年(昭和8年)満州外国部でソ連との《北満鉄道譲渡交渉》を担当、独自の情報収集力、周到な調査・交渉力でソ連の要求額の1/5強に抑える。このことにより杉原千畝は危険人物としてソ連からマークされる事になる。1935年(昭和10年)満州国外国部を退官し日本に帰国する、退官の原因は日本の軍国主義化の中で、自分が満州国職業軍人に利用されることを不本意としていた。
 日本に帰り幸子夫人と結婚、ソ連モスクワへの駐在を希望したが、ソ連より拒否され、フィンランドのヘルシンキ大使館勤務を経て1939年8月リトアニアのカナウス日本領事館領事代理として着任、その直後9月1日ナチスドイツ軍はポーランドに侵攻、第2次世界大戦がはじまる。

ナチスに追われたポーランド在住のユダヤ人は西方面をドイツ軍に抑えられリトアニアに逃れる。彼らはシベリア鉄道経由日本から他国に逃げる方法を模索し、日本へのビザ発券を求め日本領事館に押し寄せる。杉原千畝は本国へ再三ビザ発券許可を求めるがその都度拒否される。千畝は悩んだすえ人道的配慮からビザ発券を決意、ソ連政府、日本本国からリトアニア退去命令を受ける中、1か月間寝る間を惜しみビザを書き続けた。領事館閉鎖後も1週間滞在していたホテルで発券する。ビザ発券数は2139枚、ユダヤ人6000人の命を救った。

  杉原千畝はリトアニアを退去後ベルリン、プラハ、東プロイセンに勤務後、1941年12月ルーマニアのブカレスト大使館に赴任する。1945年終戦、ブカレスト郊外のソ連収容所に入所、1947年日本に帰国するも、外務省辞職をせまられ退官する。
戦後はいろいろの職業を転職、1960年より川上貿易のモスクワ事務所長。1964年蝶理勤務、 1965年より國際交易モスクワ支店代表など海外生活を送った。1985年イスラエル政府より《ヤド・バシェム賞》を授与され世界に杉原千畝の《命のビザ》が賞賛されるようになったが、翌年1986年7月鎌倉で死去86才であった。故郷八百津町に杉原千畝記念館が2000年7月に開館した。

 




杉原千畝


バルト海に接する不凍港リトアニアの地図

杉原千畝記念館を訪ねる
 
杉原千畝記念館は岐阜県の八百津町にある。東京から昔の中山道を辿り馬籠、中津川、恵那峡を経て八百津町を車でめざした。八百津町に入る反対側に素晴らしい坂折棚田がある。その景観は素晴らしく、石垣できれいに整備されている、ここから山を越える八百津まで棚田が続く、杉原千畝の名前の由来がこの棚田だと気がついた。千畝のお父さんは千の棚田をイメージして命名したのだ。でも千畝を正しく読む人は少ない、海外では《千畝をセンポ》と呼ばせていた。

  記念館は町を見下ろす《人道の丘公園》という高台にある。記念館を入ると入場券には《愛・勇気・心》 と書かれたパスポートになっている。最初に査証(八百津からあなたの住んでいる◯◯まで) とあり、あなたはどんな決断をしますか? と問いかけがある。
あなたは今、杉原千畝と同じ立場に立たされています。もしユダヤ人を助けたいとあなたが決断するなら『決断の部屋にてスタンプを押してください』となっている 。

記念館の導入部にはユダヤ人の説明、ユダヤ人がなぜ迫害を受けるのか、ナチスが600万人と言われるユダヤ人をなぜ殺したのか、その歴史的背景は、リトアニアになぜ逃げ場を求めたのかなど写真入りボードでわかりやすく説明されている。 そしてあなたならどうしますか と決断をせまる。
DVDで千畝を映像で紹介するコーナーで入場者は、熱心に映像を見つめる。2階には全世界から寄せられた《救われたユダヤ人からの感謝の手紙》が掲示されている。また、イスラエルのヤド・パシェム賞を始め多くの国、団体から贈られた勲章、が展示されている。ヤド・バシェム賞は「諸国民の中の正義の人」という意味で、ユダヤ人人たちは千畝の行為を『神の行為』と呼んでいる。




八百津町近くの坂折棚田


記念館より八百津町を望む


杉原千畝記念館全景


入場券兼パスポート

 
入場カタログ

内部レイアウト、出典カタログより
 
記念館に立つ千畝像

杉原千畝顕彰ポール                                                   杉原千畝 顕彰碑                                         木造の記念会内部、出典カタログより
 

映画・杉原千畝を見る
 
杉原千畝のテレビドラマは何度か制作、放映されている。主役の杉原千畝は加藤剛、反町隆史、吉川晃司などそうそうたる俳優が演じている。今回の映画・杉原千畝は終戦から70年目の2015年を目標とし制作された。
  主役は唐沢寿明、妻・幸子は小雪である。時代背景が複雑で、場所も日本、満州、ドイツ、リトアニア、ルーマニアなど広範囲にわたり、テンポも速いので理解するのが難しい。この映画は全てがポーランドで撮られている、1国ですべてのシーンを撮るのは初めての試みだと知る。小雪さんと公園での初デート場所には池があり桜も咲いている、冒頭の満州での関東軍の銃撃シーン、ゲシュタボに追われるシーンなど、疑問点解消のため2度みて納得できた。見終わった後、現代の平和な時代背景とはまったく違う中で、国家の命令に背きユダヤ人救済を決断した千畝の心の底にあるものは何か? 
  独ソ不可侵条約を破りソ連侵入するナチスの情報を命がけで掴み、大島ドイツ大使に報告するが、本国日本は無視、千畝は《日本は米国との戦争に突入し負ける》と推論し大島大使に言う。事実かどうか疑問だが、このシーンの杉原千畝は光っている。




映画杉原千畝のカタログより

 

ここで千畝の生い立ちと経歴を見てみよう。
父親の意に反し外交官をめざす杉原千畝
 
父親は税務署職員だったが千畝が進学する頃は朝鮮に住み、京城医専を薦められた。千畝は受験するものの『白紙答案を提出』し帰る、そして外交官をめざし現・早稲田大学文学部英語学科に進学したというから、意志の強さは相当である。しかし、親は怒り仕送りは一切なく、牛乳配達などのアルバイトで苦学生活を送る、ある日偶然目にした地方紙の官報で《授業料も生活費も払ってくれる外務省留学試験》を知り、これに応募、図書館に籠り猛勉強し難関を突破、ハルピン学院に、最年少で入学した。
  語学の選沢は外務省役人の『これからはロシアと満州は国境を共有し、満州の利権を守るにはロシアとの交渉は不可欠で、ロシア語を習うと良い』というアドバイスを聞き、ロシア語を専攻する。ロシア語の成績は抜群で見込まれ、卒業後母校の先生となる。『ロシア語の力は、日本講師陣の中でずば抜けていた』と教え子が証言している。在学中20歳の時、1年3か月間軍隊生活を送るが、支配下におく朝鮮での軍の横暴な姿勢に馴染めなかった。1924年外務省書記生として採用された。




ハルピン学院正面
 出典:ハルピン学院と満州国

 
北満洲鉄道の払下げ交渉に貢献
 
1932年日本は満州国を建国、杉原千畝はハルピンの総領事館から満洲国外交部に出向、昇進し 1933年には北満洲鉄道の事務局長となり、北満州鉄道の買収担当となった。日本は日露戦争に勝利し1906年に南満洲鉄道を支配し、北満州鉄道獲得も、満州全域の権力維持に必要なことだった。千畝は北満州鉄道の資産価値の調査、市場価値を纏める。ソ連の要求6.25億円を、日本の希望額とは大きな隔たりがある、この差を埋めるべく千畝は白系ロシア人の人脈を生かし、正確な労働費用、原材料費、収入、損益勘定などを調査し価格を算出、2年間、昼夜を問わず、56回以上の会議を経て、独自の調査による理論を展開、適切な価格で交渉をまとめ上げ1935年3月1.4億で決着した。このことにより杉原千畝はソ連より要注意人物としてマークされ、後にモスクワ駐在申請に際し、「ペルソナ・ノン・グラータ」(歓迎されざる人物)として入国拒否された。大使でない一外交官が拒否されたことは前例のないことだった。

 
母校ハルピン学院の自治三訣
記念館を訪ねた際に自治三訣というA4の用紙を特別に頂いた。なかなか良い言葉だ。ハルピン大学創設した後藤新平が大正14年に示された言葉で、千畝の座右の銘になっていた。今回の映画でも要のシーンにはこの言葉が何度か使われている。ビザ発券のは背景にはこの信条があるように思われる。ビザを発券してもその報いを求めない。後に色々の賞を頂いても《当然のことをしたまで》といって多くを語らなかったという。


人のお世話にならぬよう

人のお世話をするよう

そして報いをもとめぬよう

 
ハルピン学院の自治三訣


大正14年4月7日 初代校長 後藤新平

 
白系ロシア女性との結婚・離婚
 
杉原千畝は24歳の時白系ロシア人で没落貴族の娘クラウディアと結婚している。周りの人は昇進できなくなる、2重スパイと疑われるなどで反対したが、千畝は自分の意思を通し結婚、バレーや音楽コンサートによく行き、ピアノも弾き、ロシア正教会の洗礼も受けた。しかし、彼女の家族の生活の面倒を見るという重荷を負うたのと、妻がロシアのスパイと中傷されたこと、妻が子供を求めなかったこと等により離婚することになった。

 
帰国後幸子さんと結婚
 
日本に帰国し親友の妹・幸子さんという素晴らしい人と出会う、デート場所は公園か公共施設なので、幸子さんも外務省で高給取りのはずがどうしてと、疑問を感じ尋ねたら、「実は前の奥さんとの離婚問題を抱え、相手の家族も含め面倒を見なければならずお金が必要なのだ」と正直に答えたという。昭和10年幸子さんと結婚、結婚してすぐにソ連行きが決まったが、ソ連からのビザが下りない、杉原はロシア通なのでソ連側が警戒してビザをださない、昭和12年にヘルシンキ大使館勤務が決まり夫婦で 赴任し幸子さんと子供も3人もうけ子煩悩の家族を作っている。

 

幸子夫人著の六千人の命のビザ
結婚後は幸子さんもヨーロッパ各地に同行し、外交官夫人としての役割をはたしている。1939年11月リトアニアの首都カウナスに赴任、その直後ドイツ・ナチス軍が西ポーランドに進出、ユダヤ人への迫害がはじまり、リトアニアへの民族移動始まる、1940年7月の末、リトアニア日本領事館に押し寄せる。  
杉原千畝の家族

 
日本へのビザ発券を決意する
 
1940年7月27日の朝、窓を見下ろすと建物の周りをビッシリ黒い人の群れで埋め尽くされている、「どうして」と夫に問う、ユダヤ人はナチス・ドイツ軍による逮捕、虐殺を逃れ唯一の逃れる道としてリトアニア・カウナスにたどり着き、ソ連、日本を経由して第3国へ移住するために日本通過ビザを求めて来たのだ。千畝は5人の代表に会いカウナスへの決死行の事情を聞く、この時の奥さんの歌がある、 
『ビザ交付の決断に迷い眠れざる夫のベッドの軋むを聞けり』 と。
杉原千畝は再三外務省へ、又、直接上司のラトビア公使、最後には松岡外務大臣に要望する。当時の日本は陸軍大臣東條英機で、日独伊三国同盟への直線コースが引かれ、ドイツに敵対する行為は認められず「否」であった。


  『6千人の命のビザ』では「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」 医者になれという父親の意に反し家出、アルバイトで食いつないできた信念の人、翌日、ソ連領事館を訪ねソ連領内通過のビザを取る、夫は若い頃ハルピンでロシア正教会の洗礼を受けていた、「神は愛であり、愛は神である」異邦人であろうと人間と人間の愛は世界の幸せにつながるという。夫はいう《私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない、でなければ私は神に背く》と

6000人の命を救う

 ビザ発券を決意してからは寝る間を惜しんで発券する。今のパソコンと違いタイプライターで署名は手書きで時間がかかる。職員も協力する。ソ連からは退去命令が下る、日本からも領事館閉鎖の催促ある中で、7月26日ビザ発券を開始8月末に発券終了8月30日カナウスのメトロポリスホテルに滞在した一週間もビザにかわる渡航証明書を発給し続ける。カナウスを離れる時、彼等は叫んだ『私たちはあなたを決して忘れれません、もう一度あなたにお会いします』と、この間に発券した枚数は2139枚、1枚のビザで同行できた家族を含めると6,000人のユダヤ人を救う結果となった。現在救われた人の子孫は世界に4万人いるという。

 


領事館前に押し寄せる避難民

領事館の職員と家族

当時のエストニア風景

杉原千畝発行のビザサンプル


早稲田大学構内に杉原千畝顕彰碑がある
 
早稲田の出身の友人から早稲田大学構内に杉原千畝の顕彰碑があると聞き訪ねてみた。
正門を入り大隈重信像の後ろを右折し100m先の左にある階段の下に顕彰碑がある。杉原千畝は早稲田大学で英語を学び、中退しハルピン学院でロシア語を学んでいる。早稲田大学OBで千畝を慕う人々が集い千畝顕彰会を作り、この顕彰碑を建てたのだ。




早稲田大学構内の杉原千畝 顕彰碑

碑文には下記のような素晴らしい言葉と胸像がある


 

外交官としてでなく
人間として当然の
正しい決断をした

 
 
命のビザ発給者 杉原千畝


リトアニアからルーマニアへ
 
1941年12月杉原千畝はルーマニアに赴任する。ルーマニアは当時ドイツが支配していたが、ソ連が侵入する直前であった、千畝は領事で入国したが前領事が退去できず、副領事の立場だった、戦雲厳しくブカレストは危険であり、家族は古都ブラショフに疎開する、奥さんの手記を読むと、ブカレストに荷物を取りに向かう途中、撤退するドイツ軍の中に巻き込まれ数日一緒に行動する、その際面倒を見てくれた若い親切なドイツ兵は弾丸に当たり死亡、まるで奥さんの身代わりになったような死に方をする。九死に一生をえて、家族と再会、その後ソ連軍がルーマニアを占有、杉原千畝一家は収容場に収容される。古都ブラショフは私も訪ね地理感覚もあるので、奥さんの手記は興味深く、理解できる。1946年シベリア鉄道を経て幾多の困難を乗り越え杉原千畝一家は日本に帰国する。






ルーマニアでの家族旅行 出杉原千畝物語より

 
本にたどり着くまでに多くの人の助けがあった
 
杉原千畝の命のビザが発券されても、シベリア鉄道を経由して、避難民が目的地のイスラエル、米国、オランダ領キュラソー等にたどり着くのは大変であった。当時ソ連はドイツと並びユダ人を迫害する国であり、ソ連のビザを取るのも大変で、お金が無いと許可も下りない、ナホトカから日本の敦賀、神戸、横浜を経由して目的地までたどり着くには如何にしたのだろうか?

  1940年9月ウラジオストックでは杉原千畝のハルピン学院後輩・根井三郎(同地総領事代理)はユダヤ人難民の対応に困惑する部下に対し、下記のように回電し外務省を説得、通過を認めさせ杉原千畝を助けた。
  《逃げてきた人たちがここにまでやって来たからには、もう引き返せないというやむを得ない事情があります。日本の領事が出した通過許可証を持って、やっとの思いでたどりついたというのに,行先国が中南米になっているというだけの理由で一律に船に乗る許可を与えないのは、日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになるのでまずいと思います》根井三郎の本省への抗議電信現代語訳 出典:ウイッキぺディア
  この時もハルピン学院自治三訣《人の世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いをもとめぬよう》を根井は映画中でつぶやいている。

  日本に着いてからも、ユダヤ人協会からの資金援助や、日本の交通公社、船会社の日本郵船、炊き出し等で暖かく迎えた敦賀や神戸の人々等多くの人の善意があって、この逃避行は成功したのだ。この辺の事情は『命のビザ遥かなる旅路』杉原千畝を陰で支えた日本人、北出明著に詳述されている。

 
日本に帰国し退職勧告を受ける
 
何年ものソ連での収容生活を送り、命からがら日本に辿り着いたのに、外務省は「君のポストはない」と退職勧告をしてきた。そんなある日家の近くの海から帰ってきてこんなことを話した、「海には沢山の無人島があるから、日本に近い島に優秀な人間だけ集めて教育し、優れた子孫を残すようにする、世界で最小の王国を造り、そこで王様になるのだ」「それでは私は王妃様ということですね」と笑い話すそんな夢を語り合った、と幸子夫人の著書に書かれている。

 
帰国後、いろいろの職業を経験
 
帰国後10年は食べるため職を転々としつつも得意の語学を生かす仕事をしている。ロシア語、英語、フランス語、ルーマニア語、仕事としては進駐軍の通訳、ロシア語での社長秘書、NHK国際情報局での翻訳、ロシア語教師、帰国10年後モスクワへ、川上貿易の駐在員として赴任。戦後最初にソ連との貿易を手がけた会社で、ソ連では外国人に対する監視が厳しくKGBに見張られていた。杉原千畝は駐在員の中では古株で、モスクワにくる駐在員や日本大使もハルピン学院の教え子で、杉原さんでなく先生と言われていた。ハルピン学院時代、面倒見が良かったので、多くの教え子に囲まれモスクワ生活は楽しかったと書いている。昭和39年蝶理に合併された。1965年からは国際交易モスクワ支店代表などで海外生活を送る。

 
救ったユダヤ人・ニシュリと28年ぶりに再会
 
ビザを発券した28年後の1968年、ニシュリというイスラエル大使館員から電話がある。5人の代表者の1人である。ニシュリは日本に赴任してから外務省を訪ね杉原千畝の消息を尋ねたが《そういう人はいない》といわれる。千畝(ちうね)は海外で読めないので《せんぽ》と呼ばれていたので解らなかったという。
 28年ぶりにあったニシュリは《これを覚えていますか》とボロボロになったビザを差し出した、「良く持っていましたね」「私の一生の宝物です、どうして手放すことができましょう」。 再会の輪はその後大きく広がり、四男の伸生はイスラエルのヘブライ大学へ、公費留学生として招かれた。杉原ビザで生き残り世界で活躍した人は大勢いる。1969年当時イスラエルの宗教大臣だったゾラフ・バルハフティクもその一人、千畝とは29年ぶりに再会し、千畝の失職覚悟の独断発給を知り驚愕したと語る。

 
ヤド・パシェム賞を受賞
 
1985年日本人で初めてヤド・パシェム賞(諸国民の中の正義の人)を受賞した。この賞はノーベル賞に匹敵する賞で、この賞を与えるに際しイスラエル政府は、千畝の行為が日本政府の意思によって行われたどうか調べ、『杉原の単独行為のよるもの』と断定し授与した、もし政府の指示であれば与えなかったという。千畝は高齢でこの賞の授賞式に参列しなかった、代わりに妻幸子さんと息子弘樹が参列している。

 
ヤド・パシェム賞メダル

 
日本政府の対応
 
日本政府による公式の名誉回復は2000年10月10日の河野洋平外務大臣の演説でなされた。
『これまでに外務省故と杉原氏のご家族の皆様との間で、いろいろご無礼があったこと、ご名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申し上げたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から60年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされたことで、人道的考慮の大切さを示されました。私はこのような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です』と、このことに先立つ1991年に、外務政務次官をしていた鈴木宗雄氏が杉原幸子さんにお会いし、外務省として名誉回復をしている。この当時でも外務省内は名誉回復に否定的であったのを、宗雄氏が押し切って回復したと述べている。

 
広田弘毅を尊敬していた杉原千畝
 
広田弘毅は民間人としA級戦犯として、一切の弁明をせず逍遥として絞首刑で亡くなっている。この広田弘毅とは北満州鉄道譲渡交渉の際に会っている可能性があるという。杉原千畝はこの交渉の通訳として前面に立ち、広田弘毅はこの当時の外務大臣であったからである。杉原千畝はその後の 広田弘毅の生き方を見て深く尊敬し、長男が生まれたとき弘樹と命名した。全く同じでは怖れ多いと一字違え弘樹としたという。

 
広田弘毅 出典:ウイキぺディア

 
一人芝居で杉原千畝を演ずる水沢心吾
 
水沢心吾さんは役者として泣かず飛ばずで悩んでいる時、杉原千畝の生き方に感動した。千日回峰行を2度も達成した酒井雄哉大阿闍梨を知ったこともあり、一人芝居杉原千畝「決断・命のビザ」を1000回演じようと挑戦している。現在も年数回興行し150回以上は開催している。機会を見つけ私もこの一人芝居を見たいと思っている。水澤心吾の「杉原千畝物語」という本も発刊されている。

 

 
世界記憶遺産・登録に期待
 
最近の新聞記事によると国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)記憶装置の新規国内候補として文部科学省は杉原千畝関係の記録「杉原リスト」を決めた。申請者は出身地の岐阜県八百津町。
杉原リストにはビザ発給表を含む、外務省交信・公電、パスポート、手記、報告書等で構成されている。八百津町長は《杉原千畝が体験した命の大切さと世界平和を発信できるよう、登録をめざしたい》と語った。

 
杉原千畝語録
●私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神にそむく
●私のしたことは外交官として間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはでき    なかった。
●世界は大きな車輪のようなものですからね。対立したり、争ったりせずに、みんなで手をつなぎあって、廻っていかなければ  なりません--------では、お元気で、幸運をいのります。難民にかけた千畝の励ましの言葉
●新聞やテレビでさわがれることではない。
●たいしたことをしたわけではない。当然のことをしただけです。

 
参考文献
●六千人の命のビザ 杉原幸子著 
●杉原千畝の真実 宮崎満著
●命のビザ、遥かなる旅路 北出 明
●杉原千畝物語 杉原幸子・弘樹著(株)金の星社

 

 

 



Y.青木記

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