日本女子バレボールの黄金時代を築いた男〕
船山浩志氏は1936年(昭和11年)1月東京都目黒区祐天寺に生まれる。当時として、体は大きく、運動能力もあり、八雲中学、桜町高校とバレボール選手として活躍、早稲田大学のバレーボール部でも活躍し、後の早稲田大学の黄金時代を築く基礎固めに貢献した。
早稲田大学在学中から、当時若手経営者として活躍中の牛山善政社長から目を付けられ船山浩志はヤシカ㈱に入社した。昭和35年ヤシカ女子バレー部を創設し監督に就任した。1966年(昭和41年)8月6日ヤシカチームは二チボー貝塚の258連勝の記録を破り優勝、世界選手権の代表となり1967年には世界女子バレー選手権で優勝し世界のトップに立った。
世界選手権で優勝後、選手を引き連れロシア、欧州、南米、米国等、世界各地を行脚し、バレーの普及に努めた。今では当時指導した国が成長し日本を凌駕し、世界のトップに立っている。
船山浩志氏はバレー監督を辞任後1974年(昭和49年)ブラジルサンパウロにカメラ生産工場を創設し、ブラジル国内、南米を中心に輸出し日本産業の先兵として活躍した。当時のブラジル駐在企業の日本人親睦ゴルフ大会を開催し、日本産業界の絆つくりに貢献した。
現役引退後は《人と人をアート(写真、絵画、似顔絵等)で結ぼう》という理念で「NPO法人ゆい思い出工房」を創設し理事長にに就任、「絆100人展の開催」や「ゆい歴史散歩」「自分史の作成」等を企画実施、現役時代に築いた写真家、画家、イラストレイターとの絆(ゆい)を活かし、ボランティア活動に貢献した。
2016年(平成28年)惜しむらくは思いもよらない帯状疱疹で急逝された。
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