後藤新平は1857年(安政4年)岩手県奥州市水沢に後藤実崇、利永恵の長男として生まれる。江戸末期の医師・蘭学者高野長英とは遠縁にあたる。17歳の時、福島県の須賀川医学校に入学し衛生学も納め、優秀な成績で卒業する。卒業後は愛知県医学校(現名古屋大学医学部)の医者となる。この間岐阜で遊説中の板垣退助が暴漢に刺され負傷した、その折後藤新平が診察し「閣下、ご本懐でございましょう」と言ったという逸話がある。
1890年(明治23年)ドイツに留学、帰国後成果が認められ医学博士号を与えられ、内務省衛星局長に就任した。
1898年(明治31年)児玉源太郎が台湾総督になると、後藤新平は抜擢され児玉総督の右腕として調査事業を行い経済改革とインフラ建設を推し進めた。当時台湾でもアヘンの庶民への感染が波及していたが、斬時減らし根絶させ、台湾の統治に貢献した。
1906年(明治39年)南満州鉄道初代総裁に就任、若手人材の招聘、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市建設、満鉄調査部の発足などを実施。日清露三国強調して利益を売る方法を考えていた。
1919年(大正8年)拓殖大学の学長に就任、拓殖大学の礎を築いた。1908年(明治41年)桂内閣の逓信大臣をはじめ内務、外務大臣を歴任、関東大震災後、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案、大規模な区画整理、公園、幹線道路の整備を行う。当初の計画より規模縮小されたが、現在の昭和通り、靖国通リ、明治通リ等の幹線道路を策定した。
またNHK初代総裁としてラジオ放送を開始、ソ連を訪問しスターリンとも会い国賓待遇を受ける。修正貴族院勅選議員として在籍、政治の倫理化を唱え遊説した。
1929年(昭和4年)岡山に向かう途中車内で倒れ、脳溢血で死去した。
後藤新平記念館は岩手県奥州市水沢の生家近くにある、又福島県須賀川病院内に後藤新平記念館がある。
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