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〔偉人〕

古関裕而(こせき ゆうじ)

 
〔こ〕の偉人 小泉八雲 小池邦夫
孔子 後藤新平 古関裕而

プロフィールバー 〔古関裕而〕のプロフィール
俗称・筆名 古関裕而
本名 古関勇治
生誕 1909年(明治42年)8月11日
死没 1989年(平成元年)8月18日(80歳逝去)
出身地 福島市大町 生家は呉服問屋喜多三
最終学齢 1928年旧制福島商業卒業(現福島商業高等学校)
職業 作曲家
ジャンル 歌謡曲、応援歌、行進曲、戦時歌謡
活動
受賞歴 1952年(昭和27年)NHK放送文化賞受賞
1969年(昭和44年)紫綬褒章受賞
1979年(昭和54年)勲三等瑞宝章受章、レコード大賞特別賞受賞
代表作 〔作曲〕
 『船頭可愛や』
 『露営の歌』
 『暁に祈る』
 『長崎の鐘』
 『イヨマンテの夜』
 『君の名は』
 『東京オリンピックマーチ』
 『札幌オリンピックマーチテーマソング』
 『NHK昼のいこい』
 など応援歌・スポーツ歌多数あり
記念館 〔古関裕而記念館〕
 福島市入江町1-1
 TEL024-531-3012

〔記念碑〕
 「君の名は」を記念し数寄屋橋公園に「数寄屋橋此処にあり」碑あり

〔予科練平和記念館〕
 茨城県阿見町大字廻戸5番地1
言葉・信条 算盤の玉より楽譜の玉が好き。
私のメロディは故郷がつくってくれた。

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出展:古関裕而記念館

人生履歴 〔古関裕而〕の人生(履歴・活動)
古関裕而 略歴
1809年(明治42年)

福島市大町に生まれる

1919年(大正8年)

卓上ピアノで作曲を始める

1922年(大正11年)

福島商業学校入学、本格的作曲、編曲始める

1929年(昭和4年)

ロンドン音楽出版社の作曲コンクールに受賞

1930年(昭和5年)

内山金子と結婚、コロンビア専属作曲家として上京

1931年(昭和6年)

早大応援歌『紺碧の空』作曲

1935年(昭和10年)

『船頭可愛や』初のヒット曲を出す

1940年(昭和15年)

『暁に祈る』作曲

1947年(昭和22年)

鐘の鳴る丘放送開始

1949年(昭和24年)

『長崎の鐘』作曲

1950年(昭和25年)

『イヨマンテの夜』作曲

1952年(昭和27年)

NHKラジオドラマ「君の名は」放送開始

1964年(昭和39年)

東京オリンピック行進曲の作曲

1969年(昭和44年)

紫綬褒章受賞

1972年(昭和47年)

札幌冬季五輪『純白の大地』を作曲

1989年8月18日
(平成元年8月18日)

逝去


〔古関裕而〕

 日本の昭和を代表する作曲家、生涯で5000曲を作曲、クラシック音楽を基調にし、日本の民謡等の伝統音楽を取り入れ、数々の名曲を生み古関メロディーとして愛された。2020年NHK朝ドラ「エールの主人公」である。戦時歌謡からラジオドラマの主題歌、歌謡曲、スポーツ行進曲、校歌、市歌、舞台音楽などで幅広く活躍された。


〔福島市にある古関裕而記念館を訪ねる〕

 古関裕而は明治42年(1909年)福島市に生まれる。同市には古関裕而記念館がある。生家跡も駅前から近いレンガ通りに面した処にある。NHKの朝ドラ《エール》が放映中なので生家跡近くでイベントもやっていたが、まず記念館を訪ねる。
 
 駅からは車で10分程度地図で見ると信夫山の麓になる。コロナウイールスの影響で消毒をし住所も記入し入場制限もある。受付で沢山の人が来ますかと聞いたら、「お陰さんで」という返事が返ってきた。県外の車も多い。1階は待合室で「エール」の映像が流れている。笑顔の白い裕而像は真新しい、今回作られたのかも知れない。ハーモンドオルガンが並び裕而氏が使用した立派なものが展示されている。
 
 2階に上がる階段の途中には古関裕而氏直筆のサインが入った絵と楽譜入りの作品が並ぶ、氏は音楽だけでなく絵も上手で、省略された絵は味がある、裕而というサインは太くこれもまた良い。
 
 2階は撮影禁止、ウインドー内に昔懐かしいレコードが並ぶ、ヒットしたレコードの原盤と楽譜だ。例えば若鷲の歌、露営の歌、愛国の花等が並ぶ。その解説には『裕而作品の出発は新民謡調の叙情性に富んだ、船頭可愛やに始まり、日本人の心の琴線に触れる優れた作品が発表された』 と結んでいる。

   

古関裕而記念館

ピアノを弾く古関裕而像
 

愛用のハーモンドオルガン
 

展示品のスピーカー

 
当時は珍しかった蓄音機
 
NHK朝ドラ「エールのポスター

〔大恋愛の末に結婚〕

 古関裕而は昭和4年ロンドンのチェスター音楽出版社の作品コンクールに応募し舞踏組曲「竹取物語」で見事入選した。豊橋に住む内山金子はこの受賞に感激し手紙を送り、二人の文通が始まった。
この竹取物語の楽譜を見ると音符がびっしりと詰まり、弱冠・20歳の作品とは思えない作品だ。
 
 記念館に直筆の「別れて下さい、夢を選びます」という絶交の手紙が展示されている。見合い結婚の時代に、福島~豊橋と580kmも離れた交際、文通回数も驚くべき数字、しかし英国留学の話しもあり、《音楽か結婚か》の選択を迫られた。しかしこの苦難を乗り越え二人は結婚、その後奥さんは東京芸大で声楽を学び、プロ並みの活躍をしている。今の人々も学ぶべきことの多い夫妻の生き方だ。
 
 昭和5年古関裕而は有名な作曲家・山田耕作の推薦により、コロンビアレコードの専属作曲家となり、妻・金子を伴い上京し代田に新居をかまえた。
 そして、昭和6年早稲大学応援歌「紺碧の空」を作曲した。
 
北原白秋氏、山田耕作先生との出会い

 自伝によると昭和6年に「平右エ門」と言う歌が発売された。歌詞は「へへのへのへいねもさまは へへのへのへで いねこいた」と言うもの、飄逸な民謡調で裕而も好きな詩で「白秋民謡集」の中から選んで作曲したら、レコード会社のディレクターが面白い、レコードを発売したらと言い、北原白秋も面白い、作曲した青年に会いたいと言う。古関は白秋邸を訪問、白秋の子供が「へへのへのへ」と歌い駆け回っている」、これが縁で白秋会にも入った。

 また山田耕作先生も「平右エ門」は面白いといって励ましてくれた

 

   
受賞曲・竹取物語楽譜

新婚当時の古関夫妻
 

絶交を告げる裕而の手紙原文
 
〔早稲田大学応援歌「紺碧の空」を作曲〕

 昭和6年春の早慶戦を前に早稲田の応援団は応 援歌を全学生から公募し西條八十氏も絶賛する詩ができていた。作曲は当時の大家をという声もあったが、小関と同郷の伊藤久男の従兄弟(早大応援部幹部)から作曲の依頼が来た。
古関裕而はこれを引き受けた。矢の催促の中、苦闘し「慶応の若き血を」を超える「紺碧の空」を作曲した。

 負け続けていた早稲田はこの「紺碧の空の大合唱」でこの年、慶応を撃破した。以後今に至るまでこの「紺碧の空」は第一応援歌として歌い続けられている。この曲の45周年(1976年)の記念事業として大隈庭園内に記念碑が建立された。


〔早稲田大学・応援歌「紺碧の空」〕


 紺碧の空 仰ぐ日輪
 光輝あまねき伝統のもと
 すぐりし精鋭闘志を燃えて
 理想の王座を占むる者われ等
 早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田
   

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大隈庭園の「紺碧の空」・詩碑
 

〔古賀政男の応援があったからこそ芽が出た?〕

古関裕而は山田耕作の推薦でコロンビアレコードに入社したが(昭和5年)ヒット曲が出ない、裕而はクラシックが好きで、この方向でのヒット曲を出したいと思っていた。がクラシックでのヒットは難しい。ヒット曲のない古関は会社から契約解除の対象になっていた。会社側にいた古賀政男は会社の重役に対し、「古関のようなクラッシック音楽を基調とした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならない」と訴えてくれた。古賀自身もは明治大学のマンドリンクラブを指揮し、クラッシック作品を愛し研鑽する古関を理解していた。

昭和9年古賀政男はコロンビアを辞め、テイチクに移籍してしまった。古関はコロンビアの作曲家としてヒット曲を生み出さねば成らなかった。


〔初めてのヒット曲:《船頭かわいや》〕

昭和5年コロンビアに作曲家として入社以来、ヒット曲もなく今年こそは〉と—思っていた、そんな折、詩人の高橋くめ太郎さん(酒は涙かため息かの作詞者)と霞ヶ浦から潮来を旅した。そこで生まれたのが《船頭かわいや》である。芸妓出身のコロンビアレコードの新人歌手・音丸に教え、唄わせた。古関裕而の楽想に日本民謡の旋律を活かしたこの曲は初めてヒットした。

 当時の作曲界の長老・佐々紅華氏が「船頭可愛や」は素晴らしい、「民謡調でありながら、君の独創的な旋律が良く出ていて立派だ」と褒めて下さった。

 「蝶々夫人」等で国際的に活躍していた三浦環女史も「船頭可愛や」を聞いて「これは素晴らしい、ぜひ私も歌ってレコードに入れたい」と言い出し発売された。これには古関裕而も感激し「月のバルカローラ」を作曲し献呈したら、これも吹き込みとなりレコードになった。

 《船頭可愛や》が大ヒットしたので、昭和11年の印税計算期には入社以来の赤字は全部棒引きされ、さらに多額の印税収入を頂き、一息した。

〔船頭かわいや 歌詞〕

 夢もぬれましょ
 汐風 夜風
 船頭可愛や
 エー船頭可愛や
 波まくら  (以下略)

   

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最初にヒットした「船頭可愛や」


古関裕而記念館入口
 
〔露営の歌とその反響〕

露営の歌は昭和12年9月に作曲した。この年の夏休み、古関裕而夫妻は満州に住む兄弟を訪ね、満洲旅行を挙行した。妻は学生時代兄の処で6ヶ月滞在しているが、裕而は初めてであった。満洲は王道楽土といわれ、建国精神に燃えていた。
 
 神戸から船旅で大連にゆき、満州鉄道に乗り奉天、新京、ハルピン、松花江、旅順等を周り、3週間ぶりに門司に帰る。帰る列車の中で、久々に新聞を見ると「進軍の歌の懸賞募集」の結果が乗っていた。第2席に北原白秋の次のコメントが掲載されていた。
《第2席は、兵士自身の歌として作られており優れている。もしこれに素晴らしい曲がつくならば、日露戦争の《戦友》に匹敵する歌が生まれるかも知れないと。

 帰りの列車は東京まで10時間もあり、暇に任せて五線紙を広げ、「勝ってくるぞと勇ましく ちかって故郷をでたからはーーーー」 汽車の揺れるリズムに合わせ、旅順などでみた光景に合わせ、ごく自然に曲ができ、妻に見せ、2人で歌ってみた。
 
 コロンビアレコードに出社したら、2席の歌を「露営の歌」としてレコードの裏面に載せたいので作曲を依頼したいと言われる。「アツ、それなら車中で作曲してます」「どうして解りました」「それはそれ、作曲家の感ですよ」 といい、採用された。発売後2ヶ月は鳴かず飛ばずであったが前線では表面より裏面の「露営の歌」が人気で、レコード界未曾有のヒット曲となった。

   

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露営の歌(記念館にて)

露営の歌は軍歌の代表曲

露営の歌 歌詞
  一 勝ってくるぞと勇ましく
    ちかって故郷を出たからは
    手柄たてずに死なれよか
    進軍ラッパ聞くたびに
    瞼に浮かぶ旗の波
  二 土も草木も火と燃える
    果てなき荒野踏みわけて
    進む日の丸鉄兜
    馬のたてがみ撫でながら
    明日の生命を誰が知る
   

露営の歌の歌詞額(記念館にて)
 

 

 故郷の母親からは「出征兵士の見送りに行くと。お前の作った歌ばかり歌います。お前が東京に出た時、親類中が「歌なんか作ってーーせいぜい演歌師が関の山だ」とか悪口を言ったけれど、この頃は手の平を返したようにチヤホヤしますと書いてきた。

 「私もようやく一つ親孝行ができた、と嬉しかった」と自伝「鐘よ鳴り響け」に記している。


〔中支従軍記〕

昭和13年秋、中国への従軍と実戦体験を要請され、断わりきれず行く。文壇、画壇、楽団の代表と、飛行機で上海へそして水郷の蘇州、揚子江を遡り九江へ 、ここの軍隊慰問の時いきなり司会者より、露営の歌の作曲家として紹介され、挨拶を乞われた。

 兵士を前に、故郷の父母家族を思うと胸がつまり、声が出ない、その時の状況を司会者の手記ではこう紹介している。
『ハンカチで眼を覆ったまま、言葉なく号泣する古関氏の声が、かすかに私の耳まで聞こえた。古関氏のこの感激は、たちまち全将兵の共感となって広がった。初めは体裁をつくろう咳払いも聞こえたが、それもやむと忙しく手の甲で涙拭くもの、うつむいたまま、じっと涙の落ちるままにいる者、ああ、何というシーンであるか。古関氏の感激をそのまま素直に受け入れて共感し、共に涙する将兵たちの姿は、誠に美しく尊いものであった』と。

 「露営の歌」が大ヒットした昭和13年裕而の父が亡くなった。露営の歌が私の歌だと知って喜んでくれたのも束の間。この歌が全国を風靡し、上京の折、親戚から「演歌師の片棒かつぎが関の山だろう」と非難を受けたことは帳消しにしてもらえたのではないかと、せめてもの親孝行だと思い冥福を祈ったのである。と書いている。(鐘よ鳴り響け)より

 

揚子江   中国水郷地帯  

〔若鷲の歌 エピソード〕

予科練の歌も戦歌の代表として今でも歌われている。昭和18年5月予科練生を主題とした映画が東宝で製作することになり、古関氏に作曲依頼が来た。作詞者西条八十氏等と一緒に霞ヶ浦航空隊に1日入隊し、起床ラッパからハンモックで就寝するまでを体験した。
  
  若い少年たちの真剣で敏捷な動作、熱心な眼差し航空計器を扱う探究心に打たれるものがあった。西条八十氏は後に日本経済新聞の「私の履歴書」に次のように書いている。
『僕にとって、あの予科練の歌を書きに、霞ヶ浦航空隊へ行った時の印象が一番深い。「いくつ作っても士気を鼓舞する良い歌ができないのです。ひとついいのをぜひ書いてくださらんか」と事務所で言った隊長の真うしろの壁に予科練生募集のビラがはってあった。若い美少年が七つボタンの軍服を着、桜の花に彩られているのだ。『若い血潮の予科練のーーー最初の詩句は、その時即座に僕の胸に浮かんだのだった』


 作曲の古関氏もピッタリとしたした曲が生まれない。1日入団の体験を生かすメロディが出てこない。航空隊から矢の催促、映画の方からも早くと言われて、長調の曲ができた。


  一 若い血潮の予科練の
    七つボタンは桜に錨
    今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ          
    でかい希望の雲が湧く

  ニ 燃える元気な予科練の
    腕はくろがね心は火玉
    さっと巣立てば荒海越えて
    行くぞ敵陣なぐり込み   (以下略)

 
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  担当のディレクターに聞かせるとこれで十分とのことで、歌手、伴奏者、作詞者と霞ヶ浦に向かう。利根川を渡り茨城県に入り、ふとある短音階のメロディが浮かんだ。「これだ、長い間求めていたのは、これだ」と五線紙にメロディを書き、歌詞も入れ、歌手に「今できたばかりの曲だが、これも歌って」と渡した。小さな声で歌った、ディレクターは「これはいい、この曲の方が受けるかもしれない」と言ってくれた。

 航空隊について、教官に長調と短調の2曲を聞かせると教官は長調がいいと言う。「折角2曲作ってくれたのだから生徒に聞かせ決めよう」となった。歌手の波平君は2回ずつ歌った。生徒の大部分は後で歌った短調の曲に拳を上げ、短調に決まった。

 映画は昭和18年9月16日全国一斉に封切られレコードも同時発売された。戦局は山本五十六司令長官戦死、アッツ島部隊玉砕と悪化していた。封切の日、日劇で映画を見た子供たちが「若い血潮の予科練のーーーー」と歌って出てくる。単純で明快、短調でありながら暗さのない曲は少年達の胸に飛び込んでいったのだ。

 後年若鷲の歌に憧れて予科練に入った者が多く、「俺たちが行かないと、日本は負けてしまうのじゃないか」 と思わせるほどインパクトのある曲で、戦後もよく歌われていた。


〔予科練平和記念館を訪ねる〕

現在、霞ヶ浦航空隊の跡に「予科練平和記念館」があると知り訪ねた。 霞ヶ浦湖畔の稲敷郡阿見町にある。記念館は超近代的な建物だが中の撮影は禁止だ、ゼロ戦にのり、特攻隊員として両親に宛てた最後のハガキは胸を打つ、しかも私が育った村の出身だ。田舎の友人に聞けば、家も解るかもしれない。

 この霞ヶ浦の予科練で育った人は昭和5年~19年で36,717人いる。太平洋戦争末期の卒業生の多くは特攻隊員となり90%以上が亡くなっている。古関裕而氏も自分の作った歌で送られ、亡くなった若者のことを思うと、やるせなかったに違いない。

 その反動として、戦後は原爆を悼む「長崎の鐘」のような鎮魂歌をつくり、「高原列車がゆく」 や「とんがり帽子」、「勇壮なスポーツ行進曲」、「東京オリンピックの入場行進曲」など、世の中を明るくする曲を多く作曲している。
 予科練の制服七つ星の意味も知った。《七つの大陸・大洋を飛ぶ航空隊と、月月火水木金金の訓練》を表しているのだ。

   

予科練平和記念館の正面)


予科練平和記念館のゼロ戦

〔インパール作戦従軍記〕


 
インパール作戦は「日本軍の失敗作戦」と言われているが、昭和19年1月7日に発表された。
太平洋諸島、北方諸島で敗戦が続く中、特別報道特派員として、文壇の火野葦平、画壇から向井潤吉、楽壇から古関裕而が選ばれた。裕而氏は母の病気もあり辞退した。しかし「万一の事があった場合は靖国神社にお祭りいたします」と言われて承諾せざるを得なかった。飛行機で台湾、バンコック、ラングーンと飛ぶ、この時代の新鋭重爆撃機に乗る、滑走の時、プロペラを全回転させ走り出す豪快さ、操縦の妙技にを満喫し、着陸時の慎重な操縦、眼下の展望は素晴らしく退屈しなかったと記している。

 ラングーンの派遣軍司令部にゆくと「インパールの陥落はまだまだだから、ラングーンで休養してください」と言われて滞在する。火野葦平、向井潤吉さんは現地を見にゆくと出発する。
その折火野さん作詞の「ビルマ派遣軍の歌」の作曲を頼まれすぐに作曲に取り掛かる。


          詔勅の下 勇躍し
   神兵ラングーンは忽ちに
   我手に陥ちで敵軍は
   算をみだして潰えたりーーーーー

 このような勝利を予測しての軍歌で三番まで、
すぐに作曲し本部に持参すると、軍楽隊は
歌う準備をする。隊ごとに訪問するとその隊の歌を
要請され、直ぐに作曲したもの、数多あれど
戦時中のこと故、散逸し今はほとんどないという。
火野葦平は「麦と兵隊、花と兵隊」などの作品を
戦後発表し大ヒットした。

 
インパール作戦:ウイッキペディア
 インパール作戦は「史上最大の失敗作戦」と言われ。大本営も失敗を認め作戦は中止された。しかし残された、多数の傷病兵を抱えた部隊は豪雨、密林の中、飢えと悪病で多くの犠牲者が出た。派遣された4人の中、古関裕而氏のみ、サイゴン行きを命令された。この頃実母は亡くなり
帰国を希望したが、許されず、19年8月サイゴンでの「古関裕而音楽と映画の夕べ」に参加した。招待客は各国の偉人を含めた700人であった。この当時軍の現場では有名人であったことが解る。

〔古関裕而氏も応召される〕

昭和20年になると3月硫黄島が全滅、本土空襲も地方都市までに及ぶようになった。海軍人事局からは「特幹練の歌」の作曲を依頼される中、「若鷲の歌」以上のものを期待する言われる。
 
 そういう中「3月15日、横須賀海兵団に入団せよ」という召集令状が届く。本名の勇治と作曲家名裕而が違うので、事情は分からない人事局から令状が来たのだ。召集解除にも時間がかかるので、2等水兵で入隊し初年兵の下っ端の仕事を経験し、1ヶ月後に解除されたと言う。

 筆者も昭和40年代、入社教育として1週間強、練馬自衛隊へ体験入隊した。朝6時の起床ラッパに始まり軍歌を歌いながらの早朝行進、朝礼、土俵かつぎ、ほぐい、銃剣道等で1日中鍛えられた。実際の軍隊はもっと厳しかったに違いない。古関氏はこの期間にヘルニアの手術も経験しているから大変であったろう。


〔暁に祈る 福島三羽烏がつくり、歌う〕

裕而氏の故郷・福島市郊外に信夫山が聳え、車で10分ほどで行ける第一展望台に「暁に祈る」の歌碑がある。福島市を一望できる山の中腹に五つの大石が織り成している。その一番大きな石に「暁に祈る」という戦時歌謡として人気のある詩が彫られている。昔は誰でも聞いた事のある曲ですが、ここに紹介しよう。



   あああの顔であの声で
   手柄頼むと妻や子が
   ちぎれる程に振った旗
   遠い雲間にまた浮かぶ
 
   ああ堂々の輸送船         
   さらば祖国よ 栄えあれ
   遥かに拝む 宮城の
   空に誓った この決意  (以下略)

       

信夫山に建つ「暁に祈る」の歌碑
 
     

 
この歌は昭和15年 愛馬思想普及のために松竹で映画化される主題歌として
要望されたもの。福島県出身の三羽カラスと言われた《作詞の幼馴染・野村俊夫、歌は伊藤久男で、作曲は古関裕而》が初めてのコンビでヒットした。

作詞の野村が創った詩がOKがでず、幾度も書き直しを軍部より迫られ、みんな嫌気がさしていた。
8回目の頃、作り直すのが嫌になり「ああ」とため息がでた。それを冒頭に持ってきたらと冗談がでて、これを織り込んだら、この詩が採用された。

   

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〔敗戦後の歌謡曲〕

昭和20年玉音放送が流れ、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。古関裕而は福島市の飯坂温泉に疎開していたが、終戦の日の様子を次ように記している。
「東北線の夜汽車に揺られ、昼近く、新橋駅の改札駅を出ると。駅長室付近に人だかりがしている。「なんですか」と訪ねると「正午に天皇陛下の玉音放送があるそうです。敗戦ですかね、それとも本土決戦かもーーー」という。すぐに放送があったが、人のざわめきで良く聞き取れなかったが降伏らしく、目頭を押さえる人や嗚咽が聞こえた」 (古関裕而:鐘よ鳴り響け)

 戦前は軍国歌謡の傑作を多く作曲しているが、音楽性のある歌曲の創作はできなかったが、平和の時代到来で水を得た魚のようにラジオ歌謡で多くの名曲を作曲した。「雨のオランダ坂」「夢淡き東京」「若山牧水の白鳥の歌」「鐘のなる丘」「フランチェスカの鐘」「長崎の鐘」「イヨマンテのよる」「ニコライの鐘」「あこがれの郵便馬車」「高原列車は行く」そして「君の名は」と古関メロディは花開いた。


〔鎮魂歌・長崎の鐘〕

長崎の鐘は長崎原爆投下の鎮魂歌である。牧師・永井博士の長崎の鐘からヒントを得てサトウハチロウが作詞し古関裕而が作曲、藤山一郎の歌で、戦後最初の大ヒット曲である。病床の博士からの直筆の礼状は読む人の心を打つ、博士はその後、被爆による白血病で亡くなられ会えなかった。礼状を下記に紹介しよう

 「本当に美しい曲を生んで下さいました。この曲は多くの戦争犠牲者の心にしみ入り慰め励まし、立ち上がる力を与えています。聖霊の御恵みがあなたの上に豊に注がれ、次々と名曲の生まれるよう祈りを捧げます」。 
  950年9月 長崎市上野町 永井隆

   

長崎の鐘の楽譜ピース


長崎の鐘の色紙 絵が上手であった裕而氏の直筆(記念館)
〔君の名は 銭湯を空にさせた〕

「君の名は」の歌をyou tibeで30代の若人に聴かせ、知っているかと問うてみた。知らないという。時代は変わっている。

 昭和27年4月10日から29年4月8日までの2か年に渡るロングラジオドラマ「君の名は」はNHKの超ヒット番組だった。放送の始まる木曜日夜8時になると街の銭湯の女湯がガラ空きになると言われた。この噂は当時松竹が宣伝のために言いふらしたとか、三越の本店の店内アナウンスで「氏家真知子様、後宮春樹様が屋上でお待ちでいらっしゃいます」と言わせたりした。これを聞いた女客は嘘としりつつも屋上に殺到したとか。こんなエピソードを自著「鐘よ鳴り響け」で紹介している。
 
 映画は1部~3部までラジオよりやや遅れ封切られ大当たり、その収益金で松竹の本社ビルが建った等と噂された。この映画の主演春樹役は佐田啓二(現中井喜一の父親)真知子は岸恵子で当時真智子巻きファッションが流行した、まだ白黒の時代だった。

 歌の歌詞は1番は佐渡、2番は東京、3番は志摩に設定され、ロケは全国に展開され、全国に観光地ができ,記念碑も佐渡、雲仙、摩周湖、美幌峠、数寄屋橋に建った。


〔ドラマの原点 数寄屋橋を訪ねた〕

その中で、誰でも知っている東京の数寄屋橋の碑を訪ねて見た。ソニービルの四つ角が数寄屋橋交差点、その近くに「数寄屋橋 此処にあり 菊田一夫」の石碑がある。

 この地に川が流れ数寄屋橋があり、橋のたもとで主人公「春樹と真知子」は東京大空襲の夜、焼夷弾降り注ぐ中、逃げまどい、命からがらこの数寄屋橋で初めてあい《君の名は》と聞き、お互い生きていたら半年後、それがだめならまた半年後にこの橋で会うことを誓うが、その後なかなか会えない“すれ違いのメロドラマ”を菊田一夫が展開する。

  「数寄屋橋此処にありき」   昭和20年代の数寄屋橋  

途中から番組の冒頭に「忘却とは忘れさることなり、忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」のナレーションを流し、大衆を引き付けた。数寄屋橋公園の反対側道路の壁に昔の数寄屋橋や川、日劇劇場などの懐かしいタイル写真が掲げられていることに初めて気がついた。

「君の名は」の映画、テレビドラマはその後4回制作されている。1991~92年のNHKテレビドラマは鈴木京香主演、主題歌は石川さゆりが唄い、織井茂子とは違った彼女の歌も好きだ。「君の名はのアニメ」もあるが、この内容は全く違う。

 この「君の名は」の観客動員数は3000万人、入場料100円の時代に1部で2億5047万円、2部が3億円で日本映画興行史上ベスト1位、2位というデータを最近知った。

 


「君の名は」映画3部のポスター
写真春樹と真知子
写真をクリックするとYouTubeにリンクします
 

一 君の名はと訪ねし人あり
  その人の名も知らず
  今日砂山にただひとり来て
  浜昼顔にきいてみる
二 夜霧の街思い出の橋よ
  過ぎた日のあの夜が
  ただなんとなく胸にしみじみ
  東京恋しや忘れられぬ
三 海の涯に満月が出たよ
  浜木綿の花の香に
  海女は真珠の涙ほろほろ
  夜の汽笛がかなしいか

1番は佐渡2番は東京3番は鳥羽が舞台でした


〔妻・金子に捧げた創作オペラ〕

作曲家は多くおられるが、妻のためにオペラを創作し、奥さんがこれを唄ったケースは少ないのではないか。NHKドラマ・エールの中でも金子夫人は結婚後、帝国音楽学校に学び、プロ歌手に師事し声量、音域拡大に励んだ。子育てをしながら自分の専門分野を極めようとする姿勢は、現代の女性にも参考になる生き方だ。

 古関裕而は《朱金昭》・《トウランドット》・《チガ二の星》の三篇を創作した。トウランドットはプッチーニの有名な歌劇、数十名規模のオーケストラ、出演者は妻の金子を中心に藤山一郎、山口淑子(戦前李香蘭)、栗本正等のそうそうたる一流演者だ。このオペラは昭和24年~25年にかけNHKで放送されたというからプロのオペラだ。古関夫妻にとって至上の喜びであったろうと想像がつく。

 


古関裕而と妻・金子
 


古関裕而の家族


〔藤山一郎とのコンビ〕

藤山一郎は終戦をジャワ島スラバヤで迎えた。イギリス軍の捕虜となり抑留生活を送っていた。収容所では日本兵、イギリス将兵の前で、スコットランド民謡、アイルランド民謡を歌い兵隊の心を癒した。戦地慰問とこの体験が戦後、《歌が生きる希望と励ましを与える》ことを悟り、大衆歌手として生きる決意をした。

 戦前「影を慕いて」などで古賀政男とのコンビが多かったが、戦後は古関とのコンビが多く「夢淡き東京」「長崎の鐘」「白鳥の歌」「ニコライの鐘」「鐘の鳴る丘」「美しき高原」「長崎の雨」等のヒット曲を輩出し、戦後の大衆音楽の普及に貢献した。

   

藤山一郎氏 ウイッキペディアより


〔菊田一夫との名コンビ〕

昭和12年以来コンビを組んでいた菊田一夫が昭和29年東宝の演劇担当重役に就任した。菊田一夫は明治41年生まれ萩原朔太郎らの叙情詩人にあこがれ,上京サトウハチロウの奨めで劇作、舞台演劇の道に入った。ヒューマニズム溢れるドラマを展開した。

 東宝ミュージカルが始まると古関裕而も音楽監督として舞台音楽からミュージカルまで(昭和38年のマイフェアレディ、昭和40年サウンドオブミュージックなど)、音楽芸術や日本文化を豊かにした。

 「自伝・鐘よ鳴り響け」の最終ページに菊田一と氏の対談「告白も楽し」で28年間の思い出を語っている。卓上ピアノで作曲した事、長い付き合いの中で、《一番作りにくいのは菊田さんのもの、作って一番面白いのも菊田さんのものだった》と語る、また二人とも子供の頃から《どもり》もちであったことなども語っている。
古関裕而記念館にNHK連続ラジオドラマ三部作が大きく紹介されている。
三部作とは「君の名は」「サクランボ大将」「鐘の鳴る丘」である。

 
NHK三部作の紹介額
 
菊田一夫



菊田一夫のロングラン劇
「森光子の放浪記」

〔スポーツの応援歌・行進曲等多く作る〕

若い頃に作曲した早稲田大学応援歌「紺碧の空」を初め慶応大、中央大、明治大等多数。NHKのスポーツショー行進曲は今でもスポーツ番組の冒頭にかかり、心が軽くなる。有名な昭和39年の東京オリンピックのマーチも、札幌オリンピックマーチも古関裕而の曲である。
また、NHK番組の最終24時に流れる「別れのワルツ」も古関裕而です。別れのワルツは3拍子、蛍の光は4拍子と違いのあることも今回初めて知りました。

   

1964年東京オリンピックポスター


〔全国の校歌、市歌、民謡〕

福島の記念館で古関裕而が作曲した校歌・応援歌・市町民歌がA2版裏表に全国地図と共に掲載されている。数えてみると福島県だけで113曲、全国だと339曲となる。これだけの多くの学校、団体、市町村で古関裕而の曲が今でも歌われて
いることになる。

   

全国の校歌、市歌の一覧図


〔古関メロディベスト30〕

古関裕而生誕110周年を記念して氏の人気曲ベスト30曲のCDが発売され、記念館等で販売されている。記念に購入してみた。人気曲の一番「高原列車は行く」である。2番が長崎の鐘、3番がイヨマンテの夜。4番モスラの歌。5番君の名はである。一般的の人気と違うのでアンケートの出所を見ると福島人のアンケートに多かった。
「高原列車は行く」は福島が舞台で作詞も福島出身の丘灯至夫である。この歌も戦後、世の中を明るくした歌なのでうなずける。4位モスラはザ・ピーナッツの歌で怪獣映画モスラの主題歌はインドネシア語とかで、意味はわからないが楽しくなる言葉だ。

   

指揮をする古関裕而氏


古関メロディベスト30のCD
〔略歴〕

1909年(明治42年)0歳  8/11 福島市大町に生まれる。生家は呉服屋
1914年(大正3年)5歳    父親が蓄音機を購入し、レコードを聞き始める
1918年(大正5年)9歳    小学3~6年 担任の先生より唱歌とつづり方を習う
1919年(大正8年)10歳  卓上ピアノで作曲を始める
1922年(大正11年)13歳   福島商業学校入学、本格的作曲、編曲始める、             
            呉服屋廃業
1927年(昭和2年) 18歳  ペンネームに「裕而」を使用
1928年(昭和3年)19歳   川俣銀行現東邦銀行に勤務
1929年(昭和4年)20歳   ロンドンの音楽出版社募集の作曲コンクールに受賞
1930年(昭和5年)21歳   内山金子と結婚、コロンビア専属作曲家として上京
1931年(昭和6年)22歳   早大応援歌「紺碧の空」を作曲
1935年(昭和10年)26歳  「船頭可愛や」 初のヒット曲を出す
1934年(昭和9年)28歳   妻金子と満洲へ旅行 露営の歌作曲、菊田一夫と出会う
1938年(昭和13年)29歳  中支に従軍する
1940年(昭和15年)31歳  「暁に祈る」作曲
1942年(昭和17年)33歳  南方慰問団派遣員となる
1944年(昭和19年)35歳  インパール作戦特別報道班員となる
1945年(昭和20年)36歳    約1ヶ月軍隊生活を送る 菊田一夫氏と初のコンビ組む
1947年(昭和22年)38歳  鐘の鳴る丘放送開始、
1949年(昭和24年)40歳  長崎の鐘 作曲
1950年(昭和25年)41歳  イヨマンテの夜 作曲
1952年(昭和27年)43歳  NHKラジオドラマ「君の名は」放送開始、29年4月まで
1957年(昭和32年)48歳  芸術座で暖簾 初公演、以後劇場用音楽、映画音楽の
            作曲を多く手掛ける
1964年(昭和39年)55歳  東京オリンピックの行進曲の作曲
1969年(昭和44年)60歳  紫綬褒章受賞昭和
1972年(昭和47年)63歳  札幌冬季五輪・純白の大地 作曲
1973年(昭和48年)64歳  菊田一夫氏死去
1989年(平成元年)80歳  8月18日 逝去 

 


古関裕而作品が展示されている記念館ホール



〔参考文献〕
 
評伝 古関裕而   古関裕而自伝・鐘よ鳴り響け   古関裕而自伝・
日本図書センター刊
  古関裕而の言葉
青木青眠 記
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