源頼朝が旗揚げした時に1万騎をひきいて、墨田川畔に到着したが、頼朝に遅いと咎められた。が、その頼朝の器量の大きさに打たれ帰順したとされる(東鑑)。 他の説では最初から参加は了解済で、平家方の掃討や、船の準備が整わず遅れる事、連絡済という説もある。
源頼朝の進路図を見ると、頼朝は短期間で鎌倉入りを果たしている。関東周辺の源平勢力図を見ると、まだまだ、平家方の武士が多い中、平家方の勢力を平定し、頼朝軍に参陣するには時間が必要であった。上総介広常や千葉常胤の協力援助があって、関東武士が流れを打って源氏方になびき、頼朝の鎌倉入りが可能になった。
富士川の戦いで平家軍を破った時、頼朝は一気に京都に攻めのぼりたかったが、上総介広常や千葉常胤は、常陸の佐竹氏を討伐し、関東を固めた上で上洛すべきと説いた。その結果佐竹氏の金砂城(茨城県)を落とし関東を平定した。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿13人」では上総介広常は13人の1人に名を連ねていた。上総介広常は誤解を受ける言動もあり、頼朝の命を受けた梶原の景時によって殺害された。故郷の「一之宮神社」から、後に無実の証拠も出てきたが、歴史は変わらず、上総の地は千葉常胤の一族に与えられ、上総介一族の復活はなかった。
|