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上総介広常(かずさのすけひろつね)

 
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プロフィールバー 〔上総介広常〕のプロフィール
俗称・筆名 上総介広常
本名 上総介広常
生誕 不詳
死没 1183年12月23日
平常澄
出身地
官位 上総権介
ジャンル
活動
代表作
墓所 横浜市金沢区朝比奈の五輪塔
言葉・信条

人生履歴 〔上総介広常〕の人生(履歴・活動)

 上総介広常(かずさのすけひろつね)は平安時代末期の武将、豪族である。現在の千葉県一宮市周辺一帯を治めていた。上総介広常は鎌倉を本拠とする源義朝の郎党であった。保元の乱(1156年)では源義朝に属し、平治の乱(1159年)では頼朝の兄・悪源太義平に従い活躍し《義平十七騎の一騎》に数えられていた。平治の乱で敗れた後は平家に従っていたが、平家方および同族内のもめごとに直面していた。


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上総介広常の写真
〔出典:Wikipedia〕


人生履歴 〔上総介広常〕の人生(履歴・活動)(続き)

上総介広常 略歴
1156年

保元の乱では源義朝(頼朝の父)に従い出陣

1159年

平治の乱では源義平(頼朝の兄)に従い活躍

1180年
(治承4年)

9月 源頼朝の旗揚げに協力し参戦する
10月 富士川の戦いに参戦
11月 平家方・佐竹氏の金砂城を攻め滅ぼす

1183年
(寿永2年)

12月謀反の疑いをかけられ、梶原景時に鎌倉御所内で暗殺された。

1184年
(寿永3年)

正月に広常の鎧から頼朝の武運を祈る文書が見つかり、謀反の疑いが晴れ、一族の罪は許された。
しかし、広常の領地は千葉常胤(ちばつねたね)に与えられたままであった。



 源頼朝が旗揚げした時に1万騎をひきいて、墨田川畔に到着したが、頼朝に遅いと咎められた。が、その頼朝の器量の大きさに打たれ帰順したとされる(東鑑)。 他の説では最初から参加は了解済で、平家方の掃討や、船の準備が整わず遅れる事、連絡済という説もある。

 源頼朝の進路図を見ると、頼朝は短期間で鎌倉入りを果たしている。関東周辺の源平勢力図を見ると、まだまだ、平家方の武士が多い中、平家方の勢力を平定し、頼朝軍に参陣するには時間が必要であった。上総介広常や千葉常胤の協力援助があって、関東武士が流れを打って源氏方になびき、頼朝の鎌倉入りが可能になった。

 富士川の戦いで平家軍を破った時、頼朝は一気に京都に攻めのぼりたかったが、上総介広常や千葉常胤は、常陸の佐竹氏を討伐し、関東を固めた上で上洛すべきと説いた。その結果佐竹氏の金砂城(茨城県)を落とし関東を平定した。

 2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿13人」では上総介広常は13人の1人に名を連ねていた。上総介広常は誤解を受ける言動もあり、頼朝の命を受けた梶原の景時によって殺害された。故郷の「一之宮神社」から、後に無実の証拠も出てきたが、歴史は変わらず、上総の地は千葉常胤の一族に与えられ、上総介一族の復活はなかった。


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青木青眠 記
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