〔高野長英 江戸後期の先覚者・医者、蘭学者〕
高野長英は1804年(文化元年)奥州市水沢に生まれる。実父後藤実慶は9歳の時に亡くなる。養父・高野玄斎は杉田玄白に蘭法医術を学んだことから、長英は新しい学問に興味をもつ。1820年(文政3年)父の反対を押し切り長崎のシーボルト鳴滝塾で医学・蘭学を学び頭角を現す。1828年シーボルト事件に遭遇、1830年江戸麹町にて町医者として蘭学塾を開業した。渡辺崋山、小関三英等と蘭学書の翻訳に当たる、また西洋哲学史を要約した。
1837年に外国船打ち払い令を批判した「夢物語」を著わし、多くの学者に読まれた。1839年蛮社の獄が起き、高野長英も幕政批判のかどで捕らえられる。牢内では親分肌ゆえに牢名主と祭り上げられ、獄中記「わすれがたみ」をあらわす。1844年牢屋敷の火災に乗じて脱獄、吉村昭氏の「長英逃亡」では長英が放火させた説を採用している。
その後牢に戻らず全国の弟子、仲間を頼り逃亡生活を続ける。その範囲は関東、東北から四国と広範囲で伊予宇和島藩では兵学書など蘭学書の翻訳をし、兵備の様式化に従事する。最後は硝酸で顔を焼き人相を変え、江戸・青山百人町で町医者を開業するも、1850年密告され奉行所に踏み込まれ格闘の末自任、死去、47歳であった。 高野長英記念館が生地・岩手県奥州市水沢にある。
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