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中山晋平

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プロフィールバー ◆〔中山晋平〕のプロフィール。
俗称・筆名 中山 晋平
本名 中山 晋平
生誕 1887年(明治20年) 3月22日 
死没 1952年12月30日(昭和27年) 65歳 熱海で死去
出身地 長野県下高井郡新野村(現中野市)に生まれる
職業 作曲家
ジャンル 音楽
活動 1893年(明治26年)下高井郡の尋常小学校入学
      父・實之助死亡
1904年(明治37年)中野尋常小学校の代用教員となる
1905年(明治38年)教員を辞し、島村抱月の書生となる
1908年(明治41年)東京音楽学校予科に入学、
1909年(明42年)本科ピアノ科へ、高野辰之歌謡史担当
1912年(明45年)東京音楽学校ピアノ科卒業、早稲田文
芸協会に通う、浅草千束小学校に勤務
1914年(大3年)カチューシャの唄、ゴンドラの唄を作曲、
松井須磨子が歌い大人気を博す。
1920年(大9年)野口雨情と組んで童謡を発表、新民謡も創作、全国で141曲にのぼる。
1921年(大10年)船頭小唄出版、東京中野に自宅新築
1923年(大12年)船頭小唄映画化される。関東大震災発生、東京府立第2中学教諭となる。
1929年(昭和4年)東京行進曲が大ヒット25万枚売る
   竹下夢二のデザインで中山晋平作曲全集を発売、
1942年(昭和17年)日本音楽協会理事長に就任
1944年(昭和19年)戦局悪化に伴い熱海に疎開
1952年(昭和27年)第2回NHK紅白歌合戦審査委員長を務める。12月熱海の病院にて死去

代表作

 

歌謡曲:カチューシャの唄、船頭小唄、ゴンドラの唄
     波浮の港、出船の唄、さすらいの唄
童 謡:シャボン玉、あの町この町、背くらべ、肩たたき、
     毬と殿様、證城寺の狸囃、砂山、黄金虫
新民謡:天竜下れば、東京音頭、中野小唄
記念館 ★中野市・中山晋平記念館
 所在地:〒383-長野県中野市76 TEL:0269-22-7050
★熱海市・中山晋平記念館
 所在地;〒413-0032 静岡県熱海市梅園町8-1
     TEL:0557-85-1933 0557-86-6232(文化施設室)

 

 

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中山晋平 
出典:ウイッキぺディア
 

中山晋平像
中野市・中山晋平記念館  
 


 

 

◆ 中山晋平の略歴
《日本のフォスター》と言われ、日本の歌謡史に偉大な足跡を残した作曲家・中山晋平は明治20年長野県下高井群新野村(現中野市大字新野)に生まれた。近くに千曲川が流れ、北信五岳と言われる山並みをバックに広々とした田園風景が続く。父は村長も務めたが晋平6才の時に他界、母は女手ひとつで4人の男の子を育てた。
中山晋平は高等小学校を主席で卒業した後、代用教員として近隣の小学校の教壇に立つ、当時16歳であったと言うから随分若い先生だ。

 
中山晋平記念館パンフ
  晋平の音楽授業は魅力溢れるものだった。岩波書店の『歌の旅人・中山晋平』を読むと音楽の先生が急病で、代わりに授業をした時、晋平は鉄道唱歌を教えるのに生徒に円陣を組ませ、グルグル回りながら、リズムに合わせな歌わせる。身振り手振り、行進などの身体表現を取り入れ、歌の選定も文語調のむずかしいのは避け「さるかに」などのやさしい歌を選んだ。その結果、児童には喜ばれ、教室の空気は一変したと言う。
 
中山晋平生誕地の碑

  晋平は親戚のつてで、早稲田大学教授・島村抱月の、書生として住み込みながら東京音楽学校へ通う道を選ぶ。島村抱月は英国へ留学した経験もあり、欧州の文学にも精通し、この当時女優松井須磨子等と共に芸術座を立ち上げ、トルストイの復活を上演することになり、その劇中歌「カチューシャの唄」の作曲を中山晋平に依頼した。「カチュウシャの唄」は大ヒットし、中山晋平は作曲家としての地歩を固めた。その後「ゴンドラの唄」「船頭小唄」「波浮の港」等の歌謡曲、「あの町この町」「背くらべ」「てるてる坊主」等の童謡、「東京音頭」「天龍下れば」等の新民謡等のヒット曲を出し、晩年には日本音楽文化協会理事長、日本音楽著作権協会理事長をつとめ日本の音楽界の発展に貢献した

 


島村抱月
出典:ウイッキぺディア

松井須磨子
出典:ウイッキぺディア

◆ 中野市・中山晋平記念館を訪ねる
  長野県中野市に市営の中山晋平記念館がある、その一角に平屋の中山晋平生家もある。
中山晋平記念館の敷地は広く、入り口近くに狸の人形があり、口からシャボン玉を噴き出し屋根の上まで飛んで行く。 そして歌の文句そのままにシャボン玉の童謡 がバックに流れる。記念館の中は中山晋平の年表や音楽譜、ピアノが並ぶ、中山晋平の代表曲もボタンを押せば聞ける。


中山晋平記念館(中野市)
 
シャボンを吹き出す狸像
  中山晋平銅像  
中山晋平生家
 
中山晋平記念館の少女像
 
◆ 歌謡曲の原点《カチューシャの唄》が大ヒット
  島村抱月は英国留学から帰国後、早稲田大学教授のかたわら劇団芸術座を立ち上げ、大正3年トルストイの『復活』を上演、その劇中歌として2度《カチューシャの唄》が松井須磨子によって唄われ大ヒットし、我が国の最初の流行歌といわれる。




 
カチューシャの石像 
中野市の記念館にて


カチューシャの楽譜表紙
デザインは竹下夢二
カチューシャかわいや
わかれのつらさ
せめて淡雪 とけぬ間と
神に願いを(ララ)かけましょうか
  YouTubeにてカチューシャの唄を視聴できます左画面ををクリックして下さい
《カチューシャシャの唄》は島村抱月が1番を作詞したが、1番だけでは劇が持たないという声がでて、抱月は「早稲田文学」の同人である相馬御風に2番から5番までの作詞を依頼した。作曲は相馬御風が中山晋平を推薦した。中山晋平にとって相馬御風は大恩人である。作曲にあたり、島村抱月は中山晋平に3つの要求をした。①「学校の唱歌でもない」②「西洋の讃美歌でもない」③「日本の伝統的俗謡とドイツのリードの中間のようなもの」この3つの要望に応えるのに中山晋平は悩む、上演の日は迫ってくる。

◆ “ララ”の発見でヒット
  中山晋平は日本の俗徭とシューベルトの『冬の旅』のようなリードとの融合を模索していたが、抱月の詩は七五調で最後の『神に願いをかけましょか』で詰まってしまい曲想を狂わしてしまう。

  悩みに悩む中である時、囃子言葉のように《らら》を入れたらどうかと思いつき、《ララ》を入れ歌ってみたら「できた」となったという。後に新聞紙上で「ララは日本の『ジッ』とか『チョイト』というべきもので、在来の日本の囃言葉ではあまりに西洋離れがするから“ララ”を選んだのです」と述べている(歌の旅人中山晋平より)。この“ララの発見”が大ヒットに繫がったというから、言葉は難しい。またこの唄は「日本の伝統的「ヨナ抜き」音階と西洋風の洒落た味わいを融合させたのがヒットの秘密と言われる。この「ヨナ抜き」が解らないので調べたら「ドレミファソラシド」の4番目のファと7番目のシを抜いたものと解った。


  中山晋平はこの頃まで、文学にも興味を持ち、文学に進むか、音楽に進むか迷っていたが、このカチューシャの唄のヒットにより、音楽家として生きる覚悟をきめた。
《カチュウシャの唄》は松井須磨子が劇中で2回歌う、彼女が歌えるまでに指導したのは中山晋平である。須磨子は伝統的歌舞音曲に親しんだ家庭に育ち、西洋風の発声や、旋律が入った《カチューシャの唄》は難しかった。須磨子の歌をオリジナルで聴くと素人ぽい唄い方で上手いとは言えない。この当時(大正時代)はまだ歌謡曲というものが無い時代だから、松井須磨子の素朴の唄が良かったのだろうか? 現在、多くの歌手が上手に歌っている。例えば、美空ひばり、倍賞千恵子、由紀さおり、森昌子等の歌をユーチューブで聴き比べると歌の変遷が分かり面白い。

  ロシア民謡に「カチューシャの歌」があり、ロシア語やカラマゾフ語などで歌われている。民族衣装をつけ大勢で踊るカチューシャの歌からは元気が貰え私は好きだ。中山晋平の「カチューシャの唄」はしみじみとした日本の歌謡曲である。

  この歌のヒット理由は全国公演をしていること、日露戦争の後でトルストイ熱が流行し、ロシア北欧の北方感覚に共鳴する日本人の血があったこと、最後に《ララ》と言う言葉が挿入された事だと言われている。

 
 

   

カチューシャの楽譜オリジナ


カチューシャの唄楽譜


◆ 中山晋平のCDを購入
  晋平の生涯で作曲した曲数は3000曲と言われている。その中の代表曲が入っている「思い出の歌、こころの歌中山晋平傑作集」を中野市の中山晋平記念館で購入した。童謡ではシャボン玉、あの町この町、てるてる坊主、雨降りお月さん、肩叩き、黄金虫など誰でも歌ったことのある童謡が15曲、叙情歌では波浮の港、出船の港、ゴンドラの唄、カチューシャの唄、さすらいの唄、船頭小唄、など若い頃唄った歌ばかり、そして天龍下れば、東京音頭、中野小唄などの新民謡調の唄も入っている



中山晋平傑作集CD

東京行進曲

◆ ゴンドラの唄
  ゴンドラの唄は芸術座公演の《その前夜》の劇中歌として松井須磨子が唄った。作詞は吉井勇、作曲の中山晋平は母を亡くした直後、悲しみにくれる帰りの列車の中で、「汽車の揺れと共に自然に旋律が湧いてきた」という。

いのち短かし恋せよ乙女、
あかき唇あせぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日のないものを

  昭和27年12月志村喬がブランコにのりながら唄うゴンドラの唄《命みじかし恋せよ乙女》のシーンは年配の映画ファンにとって忘れがたいシーンである。昭和27年12月中山晋平はこの映画《生きる》で自分の作曲したゴンドラの唄が唄われ、志村喬の迫真の演技にいたく感動したと書かれている。そして翌年28年1月末に熱海の自宅で亡くなっている。

  YouTubeにてゴンドラの唄を視聴できます画面ををクリックして下さい


◆ 私には3人の主人がいる 
  中山晋平は《私には3人の主人がいる》と述懐している、其の3人とは野口雨情、西条八十、北原白秋である。そして《詩があってこそ私はいかされる》と言っている。
3人の協力で生まれた歌を以下に紹介しよう。

野口雨情
 
野口雨情とのコンビのヒット曲は多い。船頭小唄、波浮の港は昭和の大ヒット曲である。船頭小唄がヒットする最中に関東大震災が発生した。 雨情の暗い歌詞、晋平の悲しい曲調から地震を予知していたのでは!という説も流布したという。


俺は河原枯れすすき           
同じお前も枯れすすき
どうせ二人はこの世では
花の咲かない枯れすすき   

  関東大震災に関係し唄われた替え歌が面白いので紹介する。「俺は東京の焼け出され、同じお前も焼け出され、どうせ二人はこの世では何も持たない焼け出され」。

童謡でも雨情と晋平との共同作品は沢山ある。シャボン玉、あの町この町、雨降りお月さん、兎のダンス、黄金虫、證城寺の貍囃など。

   

野口雨情:ウイッキペディア

YouTubeにて船頭小唄を視聴できます画面ををクリックして下さい

西条八十
   
西条八十との作品は東京音頭、鞠と殿様、肩たたき、等がある。東京音頭は昭和8年に発売され大ヒット、東京だけでなく全国に波及し、今でも盆踊りの定番ソングとなっている。

 
西条八十:ウイッキペディア
ハーハアー踊り踊るなら
チョイト東京音頭(ヨイヨイ)          
花の都の真中デ(サテ)        
(ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ、ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ)
 
YouTubeにて東京音頭を視聴できます矢印をクリックして下さい

北原白秋
 
北原白秋とのコンビでは《さすらいの唄》がある、雄大なロシアの大地の夕焼け朝焼けを彷彿させる。カチューシャの後大正6年に「生ける屍」の劇中歌として松井須磨子が歌う、すると客も一緒に歌いだしステージと客席が一体となる光景を生み、レコードも大ヒットとなったという。森繁久弥のこの曲を聞くとロシアの荒野を馬車に乗り酒場から酒場へさすろうジプシー娘の悲しい情景が目に浮かぶ。          
           

 
北原白秋:ウイッキペディア

          
行こうか戻ろか 北極光(オーロラ)の下を
西は夕焼け 東は夜明け
鐘がなります 中空に
なくにゃ明るし、急げば暗し
遠い灯りもチラチラと
とまれ幌馬車、やすめよ黒馬よ
明日の旅路がないじゃなし。 《さすらいの唄歌詞》

 

YouTubeにて船頭小唄を視聴できます画面ををクリックして下さい

 

◆ 郷土の先輩・高野辰之(ゆい人物館参照)も中山晋平を評価

  中山晋平が東京芸術大学の学生であった頃、故郷の先輩高野辰之(童謡の先駆者)は東京芸大で日本歌謡史の講義をしている。高野辰之はよく学生を自宅に呼び酒を酌み交わす場を持った、晋平はある時期、高野辰之の住む代々幡村(現在の渋谷区代々木)に住み親しい関係にあった。高野辰之は大正14年頃の童謡運動にも理解を示し、中山晋平君の作曲した《カチューシャの唄》や《さすらいの唄》の如きは勿論童謡では無いが、あれが全国的に謡われたのはなぜだろう」と投げかけている。(歌の旅人より)

 

 
中山晋平作曲全集

◆ カム・カム・エブリバディ
 

  中山晋平は戦後、新憲法制定のPRのために《憲法音頭》を作曲しているが、ヒットに繋がっていない。そんな戦後占領下の昭和21年2月1日NHK英語会話開設にあたり、そのテーマソングとして《証城寺の狸囃子》をアレンジした「カム・カム・エブリボディ」が流れた。この歌は敗戦後の沈んだ世の中に、親しみやすく陽気に語りかける歌で、爆発的な人気を呼んだ。中山晋平もこの様な形で自分の作曲した歌が復活した事を喜んだという。後の昭和32年「Sho-Jo-Jl=お腹のすいたアライグマ」という名でアメリカの歌手・アーサー・キットが唄い発売された。

◆ 熱海市 中山晋平記念館
 

  中山晋平と言えば信州中野市出身のイメージが強く、熱海市の梅林公園を歩いてその中央に立派な中谷晋平記念館があるのに、《なぜ此処にあるの?》という疑問が湧いた。
東京が空襲に襲われはじめた昭和19年に東京から熱海に疎開し、その後亡くなるまで熱海に住んだのだ.門は和風で趣がある、中に入ると1階にはピアノや楽譜が並んでいる。
熱海で住んだ家を亡くなった、(株)ビクターが管理していたが、平成3年熱海市に寄贈されこの梅林公園に移築され記念館として親しまれている。

  2階に上ると眼下に梅園が広がり、赤、黄、白の色が目に入る。木造の家は相当凝っており、五線譜の欄間があると記されていたが、どれがそうなのか解らなかった。ガラス戸のガラスは平面性が出ていない、凹凸のある昔懐かしい代物だ。

  晋平は熱海の街を愛し、晩年は温泉に浸かり、作曲活動も続けていた。戦後ヒット曲こそ出ていないが、全国のご当地音頭や、校歌など多くの作曲をしている。
亡くなる直前には、野口雨情の記念碑除幕に尽力し昭和2年12月《あの町この町日が暮れる日が暮れる》をつぶやき声で歌いつつ亡くなったという。

 

 
熱海市中山晋平記念館


熱海中山晋平記念館2階

中山晋平記念館のある梅園


参考文献 
     歌の旅人中山晋平  和田登著 岩波書店刊

 

Y.青木 記
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