中居屋重兵衛は1820年(文政3年)群馬県嬬恋村三原に生まれる。江戸時代の豪商、蘭学者、火薬の研究者と知られている。中居屋は屋号で本名は黒岩撰之助。父は幸右衛門は中居村の名主、絵、俳諧を良くする文雅人であったので、撰之助は読み書き、手習いの教えを受けた。
13歳頃から鉄砲撃ちに興味をもち野山を駆け巡る、その後上州に来た人(佐久間象山説もあり)から鉄砲撃ちの正技を習う。父は鉱山業に失敗、家郷を出で画業に専念する。
撰之介は名主代理を務めながら、父の残した蔵書を読破する。
20歳で江戸・日本橋に出て母の縁で和泉屋善兵衛のもとで商人道を修行、また火薬の研究に没頭、1855年には火薬の専門書「砲薬新書」を出版するなど日本の火薬研究をリードする。
この頃韮山代官江川太郎左衛門、砲術師範高島秋帆の知遇を得る。また練兵館の斎藤弥九郎につき神道無念流の剣術を学ぶ。
1849年(嘉永2年)頃には日本橋に店を構え、書籍の他和薬、唐薬などを扱い、砲薬研究にも没頭する。1853年(嘉永6年)ペリー浦賀来航、火薬製法の研究室を設け研究し、「集要、砲薬新書」を著わし、国防に熱心な水戸、紀伊、尾張の諸侯に献ずる。
1859年(安政6年)日米修好通商条約が締結され、外国人は江戸、神奈川などの開港を主張固執したが、重兵衛は外国奉行等と協力し、将来性のある横浜開港に尽力し横浜に店を開いた。重兵衛は屋号は中居屋とし、主として生糸を扱い、上州、信州、甲州、越後等に足を運び、仕入た生糸を外国に出荷する貿易業務を展開した。現在の横浜本町4丁目に開いた中居屋は、敷地面積1200坪、屋根を銅葺きにした華美な店であった。
中居屋重兵衛は水戸藩にも出入りし、桜田門外の変で倒れた井伊直弼を撃ったピストルは重兵衛が渡したものと嫌疑をかけられ、また幕府の生糸輸出制限令違反でも嫌疑をかけられた。
しかし、捕縛寸前に房総方面に脱出、後に江戸に身を隠すが隠れ家で死去した。重兵衛の生涯を描いた映画《動天》では米国で元気な姿で馬車に乗っていた。重兵衛の子孫が営む「割烹・中居屋」が長野原線万座鹿沢口から近い所にあり、重兵衛ゆかりの記念品が並び、そばを中心として山菜料理が楽しめる料理店です。
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